柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(8)
田へかゝる風のにほひや天の川 河 菱
「田へかゝる」といふのは、多分田にさしかゝる意味であらう。道が田圃にさしかゝつて、爽な稻の匂を鼻に感ずる。空には月が無く、天の川が斜に白々と流れてゐる、といふ趣らしい。
漱石氏の「夢十夜」の中に、盲目の子供を負つて闇夜を步く話がある。背中の子が「田圃へ掛かつたね」といふので、「どうして解る」と聞くと、「だつて鷺が鳴くじぢないか」と答へる、果して鷺が二聲ほど鳴いた、と書いてある。この場合の鷺の聲は一脈の妖氣を漂はす點に於て頗る妙であるが、「田へかゝる」の句を讀んだら、直にあの話を思ひ出した。但この句には妖氣などは無い。爽な闇と、稻の匂とがあるだけである。「田のにほひ」と云つて稻の香が連想されるのは、季節の詩たる俳句の特長であらう。
[やぶちゃん注:「夢十夜」のそれ「第三夜」は、私のライフ・ワーク「こゝろ」(リンク先は私のブログ・カテゴリ『夏目漱石「こゝろ」』。サイト版の初出本文開始は(単行本「上 先生と私」相当パート)は、ここから。サイト版には「こゝろ」マニアックス・やぶちゃん贋作「こゝろ佚文」・やぶちゃんの教え子のマニアック「こゝろ」小論文もある)に次いで、私の偏愛する作品である。短いので、全文を示す。底本は岩波旧全集である。読みは一部に留めた。
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第 三 夜
こんな夢を見た。
六つになる子供を負(おぶ)つてる。慥に自分の子である。只不思議な事にはいつの間にか眼が潰れて、靑坊主になつてゐる。自分が御前の眼は何時(いつ)潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答へた。聲は子供の聲に相違ないが、言葉つきは丸で大人である。しかも對等だ。
左右は靑田(あをた)である。路は細い。鷺の影が時々闇に差す。
「田圃へ掛つたね」と脊中で云つた。
「どうして解る」と顏を後ろへ振り向ける樣にして聞いたら、
「だつて鷺が鳴くぢやないか」と答へた。
すると鷺が果して二聲ほど鳴いた。
自分は我子ながら少し怖(こは)くなつた。こんなものを脊負(しよ)つてゐては、此の先どうなるか分らない。どこか打遣(うつち)やる所はなからうかと向ふを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考へ出す途端に、脊中で、
「ふゝん」と云ふ聲がした。
「何を笑ふんだ」
子供は返事をしなかつた。只
「御父(おとつ)さん、重いかい」と聞いた。
「重かあない」と答へると
「今に重くなるよ」と云つた。
自分は默つて森を目標(めじるし)にあるいて行つた。田の中の路が不規則にうねつて中々思ふ樣に出られない。しばらくすると二股になつた。自分は股の根に立つて、一寸休んだ。
「石が立つてる筈だがな」と小僧が云つた。
成程八寸角の石が腰程の高さに立つてゐる。表には左り日(ひ)ケ窪(くぼ)、右堀田原(ほつたはら)とある。闇だのに赤い字が明(あきら)かに見えた。赤い字は井守の腹の樣な色であつた。
「左が好いだらう」と小僧が命令した。左を見ると最先(さつき)の森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ抛(な)げかけてゐた。自分は一寸躊躇した。
「遠慮しないでもいゝ」と小僧が又云つた。自分は仕方なしに森の方へ步き出した。腹の中では、よく盲目(めくら)の癖に何でも知つてるなと考へながら一筋道を森へ近づいてくると、脊中で、「どうも盲目(めくら)は不自由で不可(いけな)いね」と云つた。
「だから負(おぶ)つてやるから可(い)いぢやないか」
「負(お)ぶつて貰つて濟まないが、どうも人に馬鹿にされて不可(いけな)い。親に迄馬鹿にされるから不可い」
何だか厭になつた。早く森へ行つて捨てゝ仕舞はふと思つて急いだ。
「もう少し行くと解る。――丁度こんな晚だつたな」と背中で獨言(ひとりごと)のやうに云つてゐる。
「何が」と際(きは)どい聲を出して聞いた。
「何がつて、知つてるぢやないか」と子供は嘲(あざ)ける樣に答へた。すると何だか知つてる樣な氣がし出した。けれども判然(はつきり)とは分らない。只こんな晚であつた樣に思へる。さうしてもう少し行けば分る樣に思へる。分つては大變だから、分らないうちに早く捨てゝ仕舞つて、安心しなくつてはならない樣に思へる。自分は益(ますます)足を早めた。
雨は最先(さつき)から降つてゐる。路はだんだん暗くなる。殆んど夢中である。只背中に小さい小僧が食付(くつつ)いてゐて、其の小僧が自分の過去、現在、未來を悉く照して、寸分の事實も洩らさない鏡の樣に光つてゐる。しかもそれが自分の子である。さうして盲目(めくら)である。自分は堪(たま)らなくなつた。
「此處だ、此處だ。丁度其の杉の根の處だ」
雨の中で小僧の聲は判然(はつきり)聞えた。自分は覺えず留つた。何時しか森の中へ這入つてゐた。一間ばかり先にある黑いものは慥に小僧の云ふ通り杉の木と見えた。
「御父(おとつ)さん、その杉の根の處だつたね」
「うん、さうだ」と思はず答へて仕舞つた。
「文化五年辰年だらう」
なるほど文化五年辰年らしく思はれた。
「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」
自分は此の言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晚に、此の杉の根で、一人の盲目を殺したと云ふ自覺が、忽然として頭の中に起つた。おれは人殺(ひとごろし)であつたんだなと始めて氣が附いた途端に、背中の子が急に石地藏の樣に重くなつた。
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「仕舞はふ」はママ。漱石の書き癖。「日(ひ)ケ窪(くぼ)」は巻末の古河久氏の編になる「注解」に『麻布区(今の港区)にある地名。当時は「日下窪」とも書き』、『南北に分れていた』とする。調べてみると、この中央の東西の附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)と思われる。「堀田原(ほつたはら)」同前で『『東京案内』(東京市役所市史編纂係著明治四十』(一九〇七))『年刊)の北日下窪町の説明に「南日下窪町の北にあり、明治五』(一八七二)『年正信寺教善寺門前を合し、五年又華族堀田氏址及寺地を合す」とあるので、堀田邸附近をこう呼んだのかも知れない』とある。この内、「正信寺」は近年、小石川へ移転しているが、教善寺の方は寛永六(一六二九)年以降は港区六本木五丁目から動いていないので、この附近である。さすれば、両地区の位置から、子を背負った主人公は東の芝公園南付近から西に歩いてきたと考えられ、その分岐は現在の「麻布十番」附近と私は推定する。「文化五年辰年」戊辰(つちのえたつ)でグレゴリオ暦一八〇八年。因みに、「夢十夜」の初出連載は、『大阪朝日新聞』で明治四一(一九〇八)年七月末から八月にかけてである。私は、かねてより、この――背負った杉の根の下で主人公父に殺された主人公の盲目の男子――とは、第一高等学校講師(東京帝国大学講師兼任)で英語教師をしていた漱石が強く叱責し、その数日後、明治三六(一九〇三)年五月二十二日、華厳瀧で入水自殺してしまった藤村操の「影」であろうと踏んでいる。「杉」(裸子植物門マツ綱ヒノキ科スギ亜科スギ属スギ Cryptomeria japonica )「の根の處」で「殺した」というのは、藤村が自死に臨んで、大きな水楢(双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属ミズナラ 変種ミズナラ Quercus crispula var. crispula )の木の皮を剝いで刻んだ遺書「巖頭之感」を意識した殺害場所であると考えている(スギとミズナラの樹皮だけを見た場合、似ていると言える。当時の報道では「大樹」と記すものが多い)。私は、イギリス留学中の漱石の病態は、強い関係妄想を持った強迫神経症、或いは、統合失調症であると思われ、その後遺症もあると考えているので、藤村の一件が、漱石の終生のトラウマになっていたことは間違いないと感じている。「『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回」の私の注の『■「Kの遺書」を考えるに当たって――藤村操の影』も参照されたい。]
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