柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(33)
行馬の水にいなゝく夏野かな 游 刀
炎天下を馬に乘つて行く場合と思はれる。鞍上の人も固より咽喉が渴いてゐるであらうが、馬も烈日の威に堪へず、喘ぎ喘ぎ步みつゝある。廣漠たる夏野にさしかゝつて、どこで水に逢著するかわからぬ。そのうちに馬は前途に水あることに勘づいたと見えて、急に元氣よく嘶いた。鞍上の人もホツとして馬を急がせる、といふ風にも解することが出來る。
併し再案するに、この馬は鞍上の人となつた場合に限る必要はない。馬を曳いて共に夏野を步みつゝあるのでもよささうである。「水にいなゝく」といふ言葉も、前途に水あることを馬が直覺したといふほど、特別な場合と見ないで、現在水に逢著して嬉しげに嘶いたとしても差支無い。たゞこの句に必要なのは、炎天に渴し夏野に喘ぐ人と馬との間の親しい心持である。路傍の人として馬を見送る態度でさへなければ、他は爾く[やぶちゃん注:「しかく」。]限定するに當らぬであらう。
夕がほにあぶせて捨る釣瓶かな 臥 高
ちよつと見ると釣瓶を捨てたやうであるが、如何に物資不足の世の中でないにしろ、さうやたらに釣甁を捨てる筈が無い。釣瓶の中の水を捨てたのである。
釣瓶から水を飮むやうな場合であらう。汲上げた水がまだ大分釣瓶に殘つてゐる。その水を井戶のほとりの夕顏に、ざぶりと浴せて捨てたといふのである。一杯の水もむだに捨てず、植木の根にやるといふ峨山和尙の話は、結構であるに相違無いが、下手に俳句の中へ持込んだりすると、却つてその妙を發揮しなくなる。井戶流しへぶちまけてしまはずに夕顏に浴せれば、一味の涼はそこに生れる。俳人はこの程度の效果を以て足れりとすべきであるかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「峨山和尙」峨山韶碩(がさんじょうせき 建治元(一二七五)年~正平二一/貞治五(一三六六)年)は鎌倉後期から南北朝時代にかけての曹洞僧。能登国生まれ。總持寺第二世。詳しくは当該ウィキを見られたい。この「一杯の水もむだに捨てず、植木の根にやる」という話は、国立国会図書館デジタルコレクションで「峨山 水」のフレーズで検索したところ、どうもこれらしいと思うものに逢着した。雑誌『禪宗』(明治三三(一九〇〇)年十一月二十二日発行)の「史林」の欄の「峨山禪師の逸事」(二)]の『△殺生の眞義』の一節(口語訳)が、それらしく思われた。私が、目を止めたのは、左ページ七行目の『何でも水一杯遣うて捨るまで活して捨るやうに心がけるが活佛法の殺生戒を持つといふもの、』である。原文に出逢うことがあったら、追記する。]
ほとゝぎすなくや夜鰹はつ鰹 孟 遠
ほととぎすに鰹の配合といふと、必ず素堂の「目には靑葉山時鳥初松魚」が持出される。あまり判で捺したやうだから、一つかういふのを持出して見た。
素堂の句は視覺、聽覺、味覺を併せて、首夏の爽な感じを盡してゐるので、解釋するのに便宜であるが、この孟遠の句はそれほどはつきりしてはゐない。ほとゝぎすが啼く頃夜鰹が來る、その夜鰹卽初鰹だといふ風にも解せられる。それほど狹く限定しないで、「夜鰹はつ鰹」は「富士の霧笠時雨笠」といふやうな、一種の調子を取つた言葉と見ても差支無い。いづれにしても「夜」がほとゝぎすの啼く夜であるだけは慥である。
この二句を對照して見ると、素堂の方は三つの官覺を併せてゐるだけに、首夏の趣は十分であるが、一句から受ける印象は、感じの上にぴたりと灼きつくといふよりも、事實の上でなるほどと合點するところがある。ほとゝぎす啼く夜の鰹は、その場所とか、背景とかいふものが一切塗潰されてゐるに拘らず、やはり實感に訴へて來るものを持つてゐる。
併しこの句から直すぐに新場の夜鰹などを持出して、むやみに江戶ツ子仕立にすることは、恐らく見當違に了るであらう。孟遠は肩書に僧とあるからである。但初鰹の作者は必ずしも鰹の賞味者ばかりに限らぬ。この一句によつて直に孟遠を腥坊主[やぶちゃん注:「なまぐさばうず」。]にする必要も無さそうに思ふ。
[やぶちゃん注:山口素堂の知られた句は、御存知とは思うが、鎌倉での句である。
「富士の霧笠時雨笠」は其角の句で、
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笠取よ富士の霧笠時雨笠
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である。]
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