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2024/05/14

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(26)

 

   五月雨や夕日しばらく雲のやれ 魯 九

 

 長い五月雨の間の或狀態を句にしたのである。來る日も來る日も五月雨[やぶちゃん注:「さみだれ」。]で、鬱陶しい限りではあるが、朝から晚まで全く降り通すわけではない。時明[やぶちゃん注:「ときあかり」。]といふやつで、今にも晴れさうな氣配を見せることがある。夕方などは殊に天末[やぶちゃん注:「てんばつ」。]が明るくなつて、雲の間から夕日の光がほのめいたりする。併しそのまゝ日が暮れると、相變らずの五月雨になるのである。

 沼波瓊音氏の句であつたか、「入日雲見えしもしばし皐月雨[やぶちゃん注:「さつきあめ」。]」といふのがあつたと記憶する。晴れさうになつて晴れぬ狀態は、この「しばし」といひ「しばらく」といふ語に盡きるやうに思ふ。眞の梅雨晴でないことも亦この語がよく現してゐる。かういふ自然の現象には、古今の相違があるべくもない。

[やぶちゃん注:「入日雲見えしもしばし皐月雨」正しく沼波瓊音の句である。国立国会図書館デジタルコレクションの『瓊音全集』第四巻 (和歌俳句篇)(出版者不明・出版年不明)のここで確認出来た。大正四(一九一五)年六月の作句である。但し、そこでは、

   *

 入日雲見えしも暫し皐月雨

   *

の表記となっている。]

 

   卯の花やむかひから來る火のあかり 林 紅

 

 この卯の花は路傍にでも咲いてゐるのであらう。卯の花の白々と目立つ闇の道を、向うから誰か來る灯が見える、といふだけのことらしい。

 若しこの「むかひ」が向ひ家の略で、今云ふ「おむかう」などといふのに當るとなると、前の解釋は全然違つて來る。庭の垣根か何かに卯の花があつて、それに向ひ家の灯がさすものとすれば、それも亦一の趣たるを失はぬけれども、この場合の「來る」といふ語には、どうしても或動きがある。たゞ灯がさすものとは受取れない。

 尤も前の解釋にしても、單に灯が向うから來るだけでなしに、その灯の明りが卯の花にさすことを認むべきであらう。夜目にもしるき卯の花だけでは、「あかり」といふのがあまり利かぬ虞がある。

[やぶちゃん注:宵曲の後者の解釈は、私の埒外であり、不要である。]

 

   手拭も動く小風やしゆろの花 呂 風

 

 手拭懸の手拭が動く程度であるから、大した風ではない。作者はそれを「小風」といふ語で現した。漢語を用ゐれば微風といふところであらう。さういふ纖細な景色に對して、一方にはどつしりした椶櫚の花を點じてゐる。この句の妙味は慥にさういふコントラストに在るが、同時にあまり風もない、よく晴れた初夏の庭前の樣子が描かれてゐることも、固より見遁すことは出來ぬ。

 

   わか竹に麥のほこりや日の盛 吏 全

 

 季題本位の人たちにこんな句を見せたら、何に分類していゝかわからぬと云ふであらう。若竹、麥埃、日盛と三つも季題が含まれているからである。併し自然は季題の爲に存在するものでない。時として他の季節の風物と交錯することさへあるのだから、同じ季節のものが重なる位は怪しむに足らぬ。自然の上に立つて見れば、立派に存在する光景なのである。

 初々しい[やぶちゃん注:「うひうひしい」。]若竹の綠に、どこからか麥を打つ埃が飛んで來る。明るい日のかんかん照りつける日中の趣である。若竹も麥打も初夏の風物であるが、「日の盛」といふ言葉は普通には盛夏の場合に用ゐられてゐるかと思ふ。その點或は季題論者から文句が出るかも知れぬ。併し「日の盛」を日中若しくは眞晝間の意とすれば、この光景は一幅の畫として通用する。已に二つまで季語がある以上、さう「日の盛」に拘泥する必要はあるまいと思ふ。

[やぶちゃん注:私は俳句では無季語を支持する人間である。何故か? 簡単だ。かの松尾芭蕉は「季の詞(ことば)ならざるものはなし。」と考えていたと私は信ずるからである。季語に汲々と拘る中で、名句は遂に自然を離れた人工の捩じれたものになると、心底思っている人種だからである。]

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