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2024/05/21

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(32)

 

   蚊遣火や道より低き軒の妻 百 里

 

 路傍に道より低い家があつて、蚊遣を焚いてゐる。單に「道より低き」と云つただけでは、槪念的であることを免れぬが、軒の端が道より低いといふによつて、その印象が明瞭になると共に、相當低い地盤に建つた家であることがわかる。例へば土手の下に在る家の如く、道を行く人は到底その內を窺ひ得ぬ程度のものであらう。

 さういふ低い家から濛々たる蚊遣の煙が立騰る。庇ひさしの深い、薄暗い地盤の低い家が、この趣を大に助けてゐるから面白い。

 

   箒木の倒れふみ立すゞめかな 配 力

 

 この箒木[やぶちゃん注:「ははきぎ」。]は歌人が屢〻傳統的に用ゐ、其角あたりも句中に取入れて讀者を煙に卷いた「その原やふせやに生ふる箒木」の類ではない。草箒[やぶちゃん注:「くさばうき」。]の材料になる、ありふれた箒草のことである。

 風に吹折られたか、人に踏折られたかして倒れてゐる箒木がある。それを雀が蹈むまではわかつてゐるが、「立つ」といふ言葉は二樣に解せられる。雀がその倒れた箒木を蹈へて立つたといふのか、踏んで飛立つたといふのか、二つのうちであらう。蹈へて立つといふことにすると、雀の身體も小さいし、足も細過ぎて少々工合が惡いが、飛立つ場合なら特に「ふみ立」といふのが念入のやうである。こゝは雀も小さい代りに、箒木も大きなものではないから、倒れた箒木に雀がとまつてゐるのを、「ふみ立」といつたものと解して置く。勿論雀の性質として、そう長くぢつとしてゐる筈は無い。一度蹈へて立つたにしろ、やがてパツと飛立つことは明であるが、それはこの句としては餘意と見るのである。

 眼前の寫生で、而も相當こまかいところを捉へてゐる。雀も箒草も平凡な材料であるに拘らず、この觀察は必ずしも平凡ではない。

[やぶちゃん注:「帚木」ナデシコ目ヒユ科バッシア属ホウキギ Bassia scoparia 当該ウィキによれば、『ヨーロッパ、南アジア、中国などのユーラシア原産といわれ』、『日本へは古くに渡来し、栽培されている』とあるが、私は、若い頃には見た覚えがなく、如何にも外国から近代に渡来したものと思っていた。]

 

   川風や橋に先置螢籠 陽 和

 

 現代の風景とすると、螢賣が荷をおろしたやうな感じがするけれども、元祿の句だから、そんなこともあるまい。螢狩に行つた者が川端へ出て、夜風の涼しい中に佇みながら、手に持つた螢籠をちよつと橋の上に置いた、といふのであらう。

 方々螢を捕つて步いた擧句、橋のところへ來かゝつたものとすると、この籠の中には螢の光が點々として明滅してゐなければならぬ。これから出かける途中ならば、まだ獲物は入つてゐないわけである。その邊は作者が明示してゐないのだから、讀者の連想に任せて差支無いが、籠は螢用のものであるにしても、全然入つていなくては寂し過ぎる。少しは螢が入つてゐる籠を點ずることにしたい。但橋に出たのは螢狩の目的でないので、偶然そこへ來たら川風が涼しい爲、螢籠を橋の上に置いて暫く佇んでゐるものとすればいゝのである。

[やぶちゃん注:「先置」「まづおく」。]

 

   くらがりに目明てさびしなく水雞 萬 乎

 

 ふつと目がさめた。あたりは眞暗である。何時頃かわからぬが、どうも夜半らしい。今と違つて時計の刻む音も何も聞えず、天地は眞暗であるのみならず、極めて闃寂としてしづまり返つてゐる。

 その暗い、ひつそりした中に水雞[やぶちゃん注:「くひな」。]の聲が聞えた。戶をたゝくといふ形容を持込んで、誰かゞたずねて來たかといふやうな連想を働かす必要は無い。たゞ眞暗な夜の中に目をさました人が、闃寂たる天地の間に水雞の聲を耳にしたまでである。「さびし」といふ言葉は、四鄰闃寂たるだけでなしに、これを聞く人の心の問題でもなければならぬ。

[やぶちゃん注:「水雞」既出既注だが、再掲しておく。鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus ではなく、クイナ科ヒメクイナ属ヒクイナ Porzana fusca であろうと思われる。その理由と博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)」を参照されたい。

「闃寂」これも既出既注だが、再掲しておく。「げきせき/げきじやく」。ひっそりと静まり、さびしいさま。]

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