柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(35)
はつ蚊屋に網うつ眞似や小盃 呂 風
秋の蚊帳、蚊帳名殘、蚊帳の別といふやうな句は、今でも屢〻逢著するが、初蚊帳といふ句はあまり見たことが無い。併し蚊帳の別を惜む俳人が、蚊帳を釣りはじめるに當つて、年々新な感興を覺えるのは當然であらう。袷の中に初袷といふものを認めるならば、蚊帳の中に初蚊帳があつてもいゝわけである。
古人が蚊帳の釣りはじめを詠んだ句に就ては、前にも記したことがあつた。たゞ「はつ蚊屋」といふ言葉はなかつたやうに思ふ。この句は蚊帳を釣りはじめた時の、浮れたやうな氣持を現したので、その點は前に述べた句と大差無いが、小盃といふ道具が加つてゐる爲、つい浮れ方の度も强くなつて、網を打つ眞似などもするに至るのであらう。蚊帳の布目の影や、自らその中に身を置くことなどから、自然連想が投網にも及ぶのであるかどうか。
[やぶちゃん注:「古人が蚊帳の釣りはじめを詠んだ句に就ては、前にも記したことがあつた」不詳。]
つり初に寢て見る晝の蚊帳かな 惟 斗
この句は前の句ほど浮れたところは無いやうに見える。しかし試に釣つた蚊帳の中に、わざわざ入つて寢て見る。晝間のことで晝寐をする目的でもなささうなのに、わざわざ中へ入つて寐て見るといふのは、やはり氣分の動きが認められる。逸興といふ言葉はぴつたり當嵌らぬかも知れぬが、何か興の字のついた氣持であることは云ふまでもない。
年々歲々釣る蚊帳、厭ふべき蚊を防ぐ道具の蚊帳であつても、釣りはじめの際にさういふ氣持が起るといふのは、人間の生活に何等かの變化を必要とする所以であらう。蚊帳に興ずる子供の氣持と同じやうなものが、大人の脈管にも流れているのである。俳諧の面白味は、さうしたものを端的に捉へてゐる點にも在る。蚊帳の釣りはじめも、蚊帳の別も、夏中每日釣る場合と同じく、何の感興も惹かぬといふ人があるならば、それは假令十七字の詩は作つても、眞に俳諧の趣を解する人ではない。
白雨の瀧にうたすやそく飯(ひ)板 孟 遠
今のヤマト糊が一般に普及する前は、子供が何か貼はる場合も、ひめ糊がなければ續飯[やぶちゃん注:「そくひ」。]を用いたものである。吾々は自ら續飯を作る技に習熟するより早く、ヤマト糊の類が手に入るやうになつたから、箆を執つて飯粒を練つた經驗をあまり持合せてゐないけれども、昔の家には必要に應じて糊を作る爲、續飯用の板と箆とが備へてあつたものであらう。
續飯を練つたあとの板は、忽にこびりついてかちかちにこはばつてしまふ。だからなるべく早く洗ひ落す必要がある。この句は「瀧」といふ字を用ゐてはあるが、勿論本物の瀧ではない。夕立によつて軒から瀧のやうに水が流れ落ちる。その水の落ちるところに續飯板を置いて、洗ひ落さうといふのである。
夕立の句としては慥に一風變つた趣であり、俳人の觀察の意外な邊に及んでゐる一證にもなる。「白雨の瀧」といふ言葉は少々無理だと云ふ人があるかも知れぬが、率直に讀めばそのまゝ受取り得るやうに思ふ。
[やぶちゃん注:「白雨」「ゆふだち」。
「ヤマト糊」固有の商品名を用いるのは、宵曲センセ、如何かと存じます。
「ひめ糊」「姬糊」。以下の目的のために初めから飯を柔らかく煮て作った糊。洗い張りや障子張りなどに使つた。私が高校生になるまで、母は自分でそれを前日のご飯の余りで作って障子張りをしていた。
「そく飯(ひ)」「續飯」「そくいひ」の音変化した語。飯粒を箆(へら)状のもので押し潰し、練って作った糊。]
うちくらみ夕立すなり鄰村 江 橋
一天俄にかき曇つて、今にも夕立が來さうになつた。鄰村の空は眞黑な雲が垂れて、もう降つてゐるらしい。それを「夕立すなり」と云つたのである。
自分は此方にいて鄰村の空を望んでゐるのだから、「夕立すらし」といふ風な言葉を用ゐるべきところかも知れぬが、それでは調子が弱くなつて、鄰村まで迫つた夕立の勢は現れない。ここはどうしても、「夕立すなり」と現在の景にしなければならぬ。
「おほひえやをひえの雲のめぐり來て夕立すなり粟津野の原」といふ眞淵の歌は題詠であらうが、「おほひえやをひえの雲のめぐり來て」といふ調子がなだらかな爲、夕立らしい勢が浮んで來ない。江橋の句は「うちくらみ」の一語によつて、直ぐ近くまで迫つた夕立の空氣を描き得てゐる。「夕立すなり」の語に效果があるのもその爲である。
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