柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(3)
根太から先へ名乘や草すまひ 范 孚
相撲を秋の季と定めるのは、大內[やぶちゃん注:「おほうち」。]の相撲節會[やぶちゃん注:「すまひのせちゑ」。]に基くものとすれば、實感寫生を重んずる今の俳人が、依然これに倣つてゐるのは不思議なやうである。專門家の相撲は一月、五月と相場がきまつて、他の季のものは問題にされてゐない。今猶秋に屬するものがあるとすれば、寧ろ草相撲の類であらう。國技館の鐵傘[やぶちゃん注:「てつさん」。]の下から、ラヂオによつて勝負の經過が放送される大相撲よりは、素人の草相撲の方が俳句の材料に適してゐることは云ふまでもない。
この句は草相撲の中の漫畫的小景を捉へたので、何といふ名かわからぬが、根太(腫物)の出來た男があつて、その方から先へ名乘つた、といふ意味である。如何に草相撲でも、根太を以て名としたわけではあるまい。根太が印象に殘つたから、「根太のある男」の略で、かう云つたものと思はれる。
[やぶちゃん注:「根太」は「ねぶと」と読み、ここは所謂、「おでき」の一種。大腿部や臀部などに発し、赤く腫れて硬く、中心が化膿して時に激痛がある。「疔」(ちょう)や「癰」(よう)等とも呼ぶ。但し、鼠径リンパ節に痛みのある腫脹が発生する症状の中には、性病の軟性下疳や硬性下疳の場合もある。]
山領は法師ばかりの相撲かな 遲 望
變つたところを見つけたものである。一山の荒法師どもが集つて相撲を取つてゐる。どれを見ても坊主頭ばかりだといふことが、頗る奇異な感を與へたものらしい。
斷髮令以後の民は往々にしてかういふ消息を見遁す虞がある。「投げられて坊主なりけり辻相撲」といふ其角の句にしても、その坊主頭が異樣に眼に映ることを考慮に入れなければならない。伊勢濱が脫走した後、坊主頭で土俵に登つたのが異彩を放つてゐたことは、吾々の記憶にもあるが、昔としてはなかなかそんな程度ではなかつたらうと思ふ。坊主ばかりの相撲に至つては、慥に鳥羽繪中のものである。
[やぶちゃん注:「山領」は「さんりやう」と読んでおく。修験道系の山岳寺院の並み建つ山域であろう。
『「投げられて坊主なりけり辻相撲」といふ其角の句』元禄三年七月十九日興行の歌仙の発句。「辻相撲」(つじずもう)は夜間に街の辻などでやった素人相撲を指す。「花摘」所収のものでは、
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投げられて坊主也けり辻相撲
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である。
「伊勢濱」伊勢ノ濱慶太郎(明治一六(一八八三)年~昭和三(一九二八)年)は東京府本所区(現在の東京都墨田区)出身で友綱部屋(入門時は根岸部屋)に所属した大相撲力士。本名は中立(なかだち)慶太郎。最高位は大関。当該ウィキによれば、出世が早く、明治三九(一九〇六)年五月場所で入幕したが、『この頃から素行が悪化、新入幕の場所は』一『勝しか挙げられず』(三敗一預五休)、翌年の『一月場所には脱走をしてしまった。戻ったときには頭を丸めて周囲を驚かせたという。改心したか』、『その後は稽古に励み、関脇に昇った』明治四三(一九一〇)『年頃からは』、『酒や煙草も断って』、一層『精進に努めた。横綱常陸山を破るなど』、『上位で活躍を続け』、大正二(一九一三)年五『月場所』で、『関脇で』九『勝』一『敗の好成績を収めて』、『場所後に大関に昇進した』。五『年余りにわたり』、『大関の地位にいたが』、『横綱昇進は果たせず、晩年は神経痛やリウマチを患い』、大正八(一九一九)年一『月場所限りで引退、年寄中立を襲名した』。『引退後は相撲協会の理事・検査役も務め、頭脳明晰にして温厚な人柄から人望も厚かったが』、昭和三年五月十七日、『宿泊先の静岡県沼津市の旅館で服毒自殺した』。享年四十四であった、とある。]
七夕や庭に水打日のあまり り ん
まだ日の暮れぬうちである。梅雨の明けきらぬ新曆の七夕では、古來の情趣は殆ど失はれたに近いが、「文月や六日も常の夜には似ず」といつた古人の感情から云へば、七夕の日の暮れるのは、今より遙に待遠しかつたであらう。新涼の氣が動いてゐるとはいふものの、晝の間はなかなか暑い。その日影がまだ殘つてゐる庭に水を打つて、二星の相見るべき夜を待つのである。
七夕の句は二星に重きを置き過ぎる爲、動も[やぶちゃん注:「ややも」。]すれば擬人的の弊に陷り易い。七夕に關する行事も、人間扱にしてある點が面白いのであるが、あまり度々繰返されては、句として成功しにくい憾がある。この句は「七夕や」と云つただけで、格別七夕らしい何者も點ぜぬところが面白い。
[やぶちゃん注:「文月や六日も常の夜には似ず」芭蕉の「奥の細道」での越後今町(現在の直江津)での一句である。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 58 越後路 文月や六日も常の夜には似ず』を見られたい。]
蠅ひとつねられぬ秋の晝寐かな 松 醒
この句を讀むと直に「蚊ひとつにねられぬ夜半ぞ春のくれ 重五」といふ句を思ひ出す。表から見た兩句は殆ど相似てゐるといつて差支ない。併し句の心持には多少の相違がある。
ぶんぶん唸つて來る蚊一つの爲に眠ることが出來ぬといふのは、來るべき夏の前奏曲であるが、顏に來る蠅一つをうるさがつて、容易に晝寐が出來ぬといふのは、去りやらぬ殘暑の一情景である。兩句は夏を中心にして、各〻前後に於ける人及蟲を描いてゐる。必ずしも類句としてのみ見るべきでない。
芭蕉の「ひやひやと壁をふまへて晝寐かな」は、無名庵殘暑の句であるといふ。かういふ風な句を見ると、古人が季題に拘束されず、樂々と句を作つていることがわかる。「秋の晝寐」などは言葉も雅馴であるし、さう無理に取つてつけたやうな感じでもない。
[やぶちゃん注:「蚊ひとつにねられぬ夜半ぞ春のくれ 重五」加藤重五(承応三(一六五四)年~享保二(一七一七)年)は尾張名古屋の材木商。松尾芭蕉の門人。貞享元(一六八四)年、山本荷兮が名古屋に芭蕉を迎え、「冬の日」の歌仙を興行した際、連衆の一人となった。「阿羅野」等にも句が載る。通称は善右衛門・弥兵衛。本句は「春の日」の「春」の掉尾に載っている。そこでは、
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蚊ひとつに寐られぬ夜半ぞ春のくれ
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の表記である。
『芭蕉の「ひやひやと壁をふまへて晝寐かな」は、無名庵殘暑の句であるといふ』「笈日記」所収。元禄七(一六九四)年七月、大津の木節庵(望月木節の屋敷。是好の医号を持つ大津の医師。芭蕉の最期を大坂で看取った一人である)での作。そこでは、
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その後、大津の木節亭にあそぶとて
ひやひやと壁をふまへて晝寢哉
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である。「昼寝」は現在では夏の季語であるが、この当時は季語とされていない。而して「ひやひやと」する足の裏の感触に――未だ残暑の名残の中の「秋」――が示されてあるのである。]
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