「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 松
[やぶちゃん注:図の右上に、左から延び上がる個体を指して「和松」、中央下方のやや右手に右から延びている個体を指して「唐松」とキャプションがある。]
まつ 枀【同。】 ※1【同。】
和名萬豆
松【祥容切】 松黃
【俗云美止利】
蕤【音繠】 甤【同】
【𠌶繠生之處】
[やぶちゃん字注:「※1」=(上)「容」+(下)「木」。「蕤」は原本では(くさかんむり)が(へん)の上方にのみ附された字体(「グリフウィキ」のこれ)であるが、表示出来ないので、最も近いこれにした。(東洋文庫版もこれを使用している)。「𠌶」(「華」「花」の異体字)も「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、最も近いこれにした。なお、後二者は本文でもこれらを採用した。]
本綱松樹磥砢修聳多節其皮粗厚有鱗形二三月抽蕤
生花長四五寸采其花蕋爲松黃結實狀如猪心疊成鱗
砌秋老則子長鱗裂其子大如柏子惟遼海【朝鮮】雲南者
子大如巴豆可食謂海松子【詳見果部】
葉有二𩮓三𩮓五𩮓之別【三針者名栝子松五針者名松子松】
老松餘氣結爲伏苓千年松脂化爲琥珀【茯令琥珀見于寓木類】
松脂【松膏 松肪 松膠 瀝靑 松香 蠻語曰○倍伊木 ○倍豆木 古留保尒也】
松樹津液精𬜻也在土不朽氣味【苦甘温】冶《✕→治》癰疽惡瘡
安五臟除熱揩齒固牙去齲
赤龍皮 松木皮也治癰疽生肌止血
松葉【苦温】 細切研毎日食前以酒調下【二錢】初服稍難
則自便矣令人不老輕身益氣久服絕穀不饑不渇
△按今人採松嫩葉漬水二三宿去惡汁以酒蒸七次晒
乾盛袋擣之柔靱時代煙草又用松脂煑湯去塵渣冷
水又煑七次晒乾研末【加氷糖等分】服之治痰痃癖心痛
松經霜雪不變色比之貞心稱貞木
史記云秦始皇上泰山風雨暴至休于松下枝垂禦雨因
封爲太夫 古今常盤なる松のみとりも春くれは今一しほの色增さりけり宗于
字說云松柏爲羣木之長故松從公猶公柏從白猶伯也
五雜組云此說雖近有理然實穿鑿松柏之字直諧聲耳
五等之封始於三代而松柏之字製於倉頡寧預知後
世有公伯之爵耶且松字古作※2从公者後世省文也
[やぶちゃん字注:「※2」=(上)「容」+(下)「木」。]
卽且至微而从公猿狙至劣而从侯豈亦以蟲之長乎
又云松欲不長以石抵其眞下或髠其項《✕→頂》則不復長旁榦
[やぶちゃん注:「項《✕→頂》」は実は良安の書き癖で水族の部の電子化注でもさんざん悩まされた。二行後にも出現するので、この注はせず、勝手に本文原文内で修正する。「榦」底本では「グリフウィキ」のこの字体だが、表示出来ないので、最も近いこれにした。この字は「幹」の異体字である。後にも頻繁に出る。]
四出久卽偃地矣京師報國寺有松七八株髙不過𠀋
許其頂甚平而枝榦旁出至十餘𠀋者數百莖夭矯如
游龍恐其折毎一榦以一木支之
事類全書云栽松春社日前帶土栽培百林百活舍此時
决無生理也
種樹書云春分後勿種松秋分後方宜種松凡栽松須去
尖大根惟留四邊鬚根則無不盛
本朝播州印南郡曾禰松大周一𠀋八尺髙一𠀋𬄡髙一
丈三尺枝榦旁出從艮向坤之長十一丈從乾延巽長
七丈許毎枝以木支之數百五十八本也相傳菅神左
遷時於是自手所植松也丹州成相片葉松亦奇也
松節 耐久不朽燃火以代油凡松性惡濕其材亦不
堪作水噐如屋柱須用煙行處如近濕地經久則生螱
伹日向之產爲良材其肥赤色者能耐水作船槽亦佳
松有雌雄稱雌者木不甚大皮無鱗帶赤色葉細刺糅色
亦淡凡松茸生於雌松山松脂松節用雄松
*
まつ 枀《しよう》【同。】 ※1【同。】
和名「萬豆《まつ》」。
松【「祥」「容」の切。】 松黃
【俗、云ふ。「美止利《みどり》」。】
蕤【音「繠《ズイ》」。】
甤【同。】
【𠌶繠《はなのずい》の生《はゆ》
る處。】
[やぶちゃん字注:「※1」=(上)「容」+(下)「木」。「蕤」は原本では(くさかんむり)が(へん)の上方にのみ附された字体(「グリフウィキ」のこれ)であるが、表示出来ないので、最も近いこれにした。(東洋文庫版もこれを使用している)。「𠌶」(「華」「花」の異体字)も「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので、最も近いこれにした。なお、後二者は本文でもこれらを採用した。]
「本綱」に曰く、『松は、樹、磥砢《るいら》、修聳《しゆうしよう》≪して≫、節《ふし》、多く、其の皮、粗《あらく》、厚く、鱗形《うろこがた》、有り。二、三月、蕤(はなくき)、抽《ぬきん》で、花を生《しやう》ず。長さ、四、五寸。其の花蕋(はなしべ)を采《と》りて、「松黃《しようわう》」と爲《な》す。實を結ぶ狀《かたち》、猪《ゐのしし》の心《しん》[やぶちゃん注:心臓。]のごとし。《其の表は》疊《たたみて》、鱗の砌《いしだたみ》を成《な》す。秋、老《らう》するときは、則ち、子《み》、長(たけ)て、鱗、裂く。其の子、大いさ、柏《はく》の子《み》のごとし。惟(ただ)、遼海【朝鮮。】・雲南の者、子、大にして、巴豆《はず》のごとく、食ふべし。「海松子」【詳か≪には≫「果部」を見よ。】と謂ふ。』
『葉、二𩮓《ひげ》・三𩮓・五𩮓の別、有り【三針《ひげ》の者、「栝子松《かつししよう》」と名づけ、五針の者、「松子松」と名づく。】。』
『老松《おひまつ》の餘氣、結《けつ》して「伏苓《ぶくりやう》」と爲《な》り、千年の松脂《まつやに》、化《くわ》して、「琥珀《こはく》」と爲る【「茯令」・「琥珀」は「寓木類」を見よ。】。』
『松脂(まつやに)【松膏《しようかう》・松肪《しようばう》・松膠《しようこう》・瀝靑《れきせい》・松香《しようかう》。蠻語に、○「倍伊木《ベインぼく》」・○「倍豆木」・「古留保尒也《コルホウニヤ》」と曰《いふ》。】。』
『松の樹の津液《しんえき》、精𬜻《せいくわ》[やぶちゃん注:「𬜻」は「華」の異体字。]なり。土《つちのなか》に在りて、朽ちず。氣味【苦甘、温。】癰疽《ようそ》・惡瘡を治す。』。
『五臟を安《やすん》≪じ≫、熱を除き、齒に揩(ぬ)りて、牙《は》を固め、齲(むしば)を去る。』
『赤龍皮(せきりうひ) 松の木の皮なり。癰疽を治し、肌を生《いきいき》し、血を止《と》む。』。
『松葉【苦、温。】 細かに切≪り≫研(をろ[やぶちゃん注:ママ。])し、毎日、食前に酒を以つて調へ下《くだ》す【二錢。】。初め、服≪するに≫、稍《やや》、難《むつか》≪しきなるも≫、則ち、自《おのづ》から、便《びん》なり。人をして老いざらしめ、身、を輕くし、氣を益し、久≪しく≫服すれば、穀を絕ち≪ても≫、饑ゑず、渇《かつゑ》ず。』≪と≫。
△按ずるに、今の人、松の嫩葉(わか《ば》)を採り、水に漬けること、二、三宿して、惡汁を去り、酒を以つて、蒸≪すこと≫、七次、晒乾《さらしほし》、袋に盛り、之れを擣(う)ち、柔(やはら)かに靱(しな)へたる時、煙草(たばこ)に代《か》ふ。又、松脂を用ひて、湯に煑《に》て、塵渣《ちりくづ》を去り、水に冷し、又、煑ること、七次、晒乾《さらしほし》研末《けんまつ》し【氷糖、等分≪を≫加ふ。】、之れを服して、痰・痃-癖《げんひ》・心痛を治す。
松は霜雪を經(へ)て、色を變ぜず。之れを貞心に比《なぞら》へて「貞木」と稱す。
「史記」に云はく、『秦の始皇、泰山に上《のぼ》る。風雨、暴《には》かに至る。松の下《もと》に休む。枝、垂れて雨を禦(ふせ)ぐ。因つて、封して「太夫」と爲《な》す。』≪と≫。
「古今」
常盤《ときは》なる松のみどりも春くれば
今一しほの色增さりけり 宗于
「字說」に云はく、『松柏は「羣木《ぐんぼく》の長《ちやう》」たり。故に、松、「公」に從ふは、猶を《→ほ》、公のごとし。柏は、「白」に從ふ。猶ほ、「伯」のごときなり。』≪と≫。
「五雜組」に云はく、『此の說、理《ことわり》、有るに近しと雖も、然《しかれ》ども、實《じつ》は、穿鑿《せんさく》なり。「松柏」の字は、直《ただ》、諧聲《かいせい》のみ。「五等」の封(ふう)は、三代に始むる。而るに、「松柏」の字は、倉頡(さうけつ)に《→の》製す≪するなり≫。寧(むし)ろ、預《あらか》じめ、後世、有ることを知らんや。公・伯の爵(くらい[やぶちゃん注:ママ。])や、且つ、「松」の字、古《いにし》へ、「※2」に作る。「公」に从《したが》ふは、後世の省文《しやうぶん》なり[やぶちゃん字注:「※2」=(上)「容」+(下)「木」。]。卽-且(むかで)は、至《いたつて》微《び》にして《→なるも》、「公」に从ふ。猿-狙(さる)は至《いたつて》劣《れつ》にして《→なるも》、「侯」に从ふ。豈に亦、「蟲の長」たるを以つてなるをや。』≪と≫。
又、云はく、『松、長《ちやう》ぜざらんことを欲せば、石を以つて、其の眞下に抵《あつ》。或いは、其の頂《いただき》を髠(かぶろ)にするときは、則ち、復《また》、長せず。旁《かたはら》の榦(えだ)、四(《よ》も)け出づ《→でて》久しきときは、卽ち、地に偃(ふ)す。京師の報國寺に、松、七、八株、有り、髙さ𠀋許《ばかり》に過ぐず。其の頂《いただき》、甚だ平《たひら》にして、枝榦《えだみき》、旁に出づ。十餘𠀋に至る者、數百《すひやく》莖《けい》≪あり≫。夭矯《えうきやう》にして游《あそぶ》龍のごとし。其れ、折れんことを恐れて、一榦《ひとみき》毎(《ご》と)に、一木を以つて之れを支(さゝ)ふ。』≪と≫。
「事類全書」に云はく、『松を栽うるに、春の社日《しやじつ》の前に、土を帶《たいし》て、栽培≪せば≫、百林、百活なり。此の時を舍《すて》て≪は≫、决して、生《うゑる》理《ことわり》、無し。』≪と≫。
「種樹書」に云はく、『春分の後、松を種《うう》ること勿《なか》れ。秋分の後、方《まさ》に松を種《うう》≪るが≫、宜《よろ》し。凡そ、松を栽るに、須らく尖りたる大根《おほね》を去るべし。惟だ、四邊の鬚根《ひげね》を≪のみ≫留むれば、則ち、盛へざるいふこと、無し。』≪と≫。
本朝、播州印南郡(いなみのこほり)曾禰(そね)の松、大いさ、周《めぐ》り、一𠀋八尺、髙さ一𠀋、𬄡(しん)の髙さ一丈三尺、枝榦、旁《かたはら》に出づ。艮《うしとら》より、坤《ひつじさる》に向ふ。之れ、長さ十一𠀋、乾《いぬゐ》より巽《たつみ》に延び、長さ七𠀋許《ばかり》。枝毎《ごと》に、木を以つて、之れに支≪へとす≫。數《かず》、百五十八本なり。相傳《あひつかふ》、「菅神《かんじん》、左遷の時、是に於いて、自-手(てづか)植へ[やぶちゃん注:ママ。]たまふ所の松なり。」≪と≫。丹州、「成相(なりあひ)の片葉の松」も亦、奇なり。
松の節《ふし》 久《ひさしき》に耐《た》ふて、朽《くち》ず。火に燃(もや)して、以つて、油に代《か》ふ。凡そ、松の性《せい》、濕を惡む。其の材≪も≫亦、水噐《みづうつは》と作るに堪へず。屋の柱のごとき≪は≫、須らく、煙の行く處に用ふべし。如《も》し、濕地に近く、久≪しく≫經《ふ》るときは、則ち、螱(はあり)を生ず。伹し、日向の產を良材と爲《な》し、其の肥《えたる》赤色の者は、能≪く≫水に耐≪へ≫、船・槽(みづぶね)に作りて、亦、佳なり。
松に、雌雄、有り。雌と稱する者は、木、甚≪には≫、大(ふと)からず。皮に、鱗、無くして、赤色を帶ぶ。葉、細かく、刺《はり》、糅《やはら》かにして、色≪も≫亦、淡(うす)し。凡そ、松茸(《まつ》たけ)は、雌松≪の≫山に生ず。松脂・松の節は、雄松を用ふ。
[やぶちゃん注:異体字の蔓延で、本文活字化だけで、一昨日、実に二時間半以上かかった。特にUnicode-8でも表示出来ない字形もあり、甚だ疲弊した。五月一日は北鎌倉のイタリアン・レストランで妻と食事をしたため、夜は一切の作業をせずに就寝し(この二ヶ月、私は概ね午後八時過ぎには臥し、翌朝は三時過ぎには起床し、作業に入る生活をしており、実際には夜の作業は一切行っていない)、一昨日は、早朝より訓読・注を始めた。ところが、連れ合いが、本日が特定日である燃えないごみの内の、多量の大型プラスティック類を出せる日であったため、「整理をしよう」と言ったため(これも別な意味で、エンドレスの父の死後の後始末のドデカい一つで、未だ五分の一にも至っていない。再利用が可能なものは、ごく僅かしかなく、誰も引き取らない不用物のイタい堆積である)、一時間もやっていなかった訓読作業を中止し、昼の十二時過ぎまで、黙々とやってしまった(最近は彼女も私も、その作業に入ると、異常にスイッチが入ってしまい、なかなか止められなくなってしまうのである)。結局、一昨日の電子化作業も、結果して午後に訓読と並行で、凡そ四分の一のみを終わったに留まった。而して、昨日も午前中はルーティン片付けに有意に時間消費をし、おまけに、本篇の注が、これまた、異様に時間がかかり、結局、完成に延べ三日半も掛かってしまったものである。
さて、本項は、基本、
裸子植物門マツ綱マツ目マツ科 Pinaceaeの総論
である。但し、安易にマツ科マツ属 Pinus の限定するのは誤りである。それは、まず、例によって冒頭の「本草綱目」の引用があることによる。同書の言う「松」には、
・日本に分布するものの、中国にしか自生しない種群があること。
・現在の日本に植生するが、現在の北海道にしか分布しない種の場合、良安の時代に、それが、「日本産」として認識されていたかどうかが、甚だ、怪しいものがあること(私は、当時の蝦夷を日本領土であるという認識が大多数の江戸時代の国民に認識されていたとは全く思わないからである。個人的には「蝦夷地」は「アイヌの国」であったと規定するからである。蝦夷地は、日本人が巧みに領土として懐柔し、不当に占拠したものと断ずるからである。これは、薩摩藩が幕府を騙し、不当に苛烈に実行支配していた「琉球国」も全く同様であり、琉球国に属した琉球(沖縄)諸島以南にしか分布しない動植物を総絡げにして、恰も昔から日本産であるような記載を無意識に行い、平然と「日本固有種」だなどとのたもうている記載に対して、ことに強い生理的嫌悪感を持つからである)。
・日本には分布しない中国産のマツ科の種群が大いに含まれていること。
・現在の日本「~松」と日本標準和名に記すものの、現行の分類では実際にはマツ科でない種が存在すること。
等、非常に怪しい事態が、時代的に、存在して「いた」から、或いは、今の分類から見て、非科学的な認識が存在して「いる」からである。
「唐松」(図キャプション)裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ Larix kaempferi 。間違っちゃいけないよ、本種は日本固有種だ。標準和名の漢字表記は、当該ウィキによれば、『唐絵(中国の絵画)のマツに似ていることが名前の由来である』とあり、『別名、フジマツ』とある。いや~ぁ、「富士松」の方がいいなぁ……。
『「祥」「容」の切』「切」は「反切」(はんせつ)。中国で漢字の字音を表わすのに、他の漢字二字の音を以ってする方法。すなわち、「γ、α・β切」の形式で、「γ」の音は「α」の声母(頭子音)とβの韻母と声調(全体から頭子音を除いた部分)との組み合わせたものであることを示す。この場合は「松」の音は「祥」・「容」の「切」であることを示す。現代中国語で示すと、「祥」(ウェード式:hsiang)の声母は「s」で、それと、「容」(同:jung)の韻母「ung」とに合わせることより、「松」(同:sung)とする音を伝える方法である。古くは「反音」(はんおん・はんのん)と呼ばれ、平安・鎌倉時代の音韻学書で用いられた。「反切」は中国では「韻鏡」(九〇〇頃)で用いられ、日本でも鎌倉時代以後は、この語を使うようになった。
「蕤」音「ズイ」。原義は「草木の花が垂れ下がる」の意であるが、マツ類の場合、花は立ち上がる。されば、良安の後のルビ「はなくき」から、「鱗片・胚珠(雌花)・花粉囊(かふんのう:雄花を含む花の全体」を指す意で採る。
「本草綱目」の引用は「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「松」である。「漢籍リポジトリ」のこちらの、ガイド・ナンバー[083-6a]以降。引用の冒頭は、[083-6b]の三行目の「集解」の「時珍曰」後の箇所から始まっている。まず、殆んどが時珍の解説部を繋げてあり、若干の漢字表記に異同があるが、版本の違いもあろうから、まずまず、問題はない。
「磥砢」ゴツゴツ或いはゴロゴロとしているさま。東洋文庫訳では『ごつごつと屈曲し』とする。
「修聳」高く屹立し、真っ直ぐに聳えるさま。東洋文庫訳では『形よく聳(そび)え』とする。
「柏《はく》」ここは「本草綱目」中の「柏」であるから、「かしは」と訓じてはならない。それは本巻の冒頭の「柏」で述べた通り、
――中国の「柏」≠日本の「柏」――
であるからである。
「柏」何度も言っているが、本邦の柏とは全くの別種である。良安はそれを認識していない。向後は、この注は繰り返さない。
「遼海【朝鮮。】・雲南の者」「遼海」は一般名詞では「遙かに遠い海」の意であるが、長く中国の朝鮮半島寄りの西の渤海、東の黄海に突き出る遼東半島を狭義には指す。朝鮮半島は歴史的に中国と密接な関係にあり、一時期は遼東と朝鮮を統率する監察御史が置かれたりした。ここは朝鮮の王朝が自国を示す場合に「遼海」と自称したことに由来する。但し、東洋文庫訳の割注では、『遼寧省開原県』(現在は遼寧省鉄嶺市開原市。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)と同定している。「雲南」は現在の雲南省附近。疑問なのは、ここで南北に遙かに離れた朝鮮半島と雲南に植生する「松」の種を同一としている点である。朝鮮に分布する真正のマツは、
裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora
マツ属 Strobus 亜属 Strobi 節ハイマツ Pinus pumila
マツ属Strobus 亜属 Cembra 節チョウセンゴヨウ Pinus koraiensis(所謂「五葉松」の一種。本邦では比較的稀な種である。樹高三十メートル以上。後注参照。なお、次の項は「五葉松」である)
であるが、孰れも北方種である。一方、雲南は、南部低地には亜熱帯性気候もあり、北部高山地方では亜寒帯性気候もあるが、代表的なものは、
マツ属バビショウ Pinus massoniana(中国の南部を中心に広く分布し、中国のマツ類の中では大型になる種で、中国で最も知られる「松」類の一つである)
マツ属 Strobus 亜属 Strobi 節Pinus densata(中国南西部の雲南省・青海省の山岳地帯に分布)
同属同節Pinus yunnanensis(中国西部に分布。種小名はまさに「雲南」由来。樹高三十メートルに達するとされる)
同属同節 Pinus wangii(雲南省を中心に、一部は隣接するベトナム北部にも分布し、石灰岩土壌を好むとされる)
で、一致する種を見ない。
「巴豆」常緑小高木である双子葉植物綱キントラノオ目トウダイグサ科ハズ亜科ハズ連ハズ属ハズ Croton tiglium 。台湾・中国南部・東南アジア原産。高さ約三メートル。葉は柄を持ち、長さ六~十センチメートルの長卵形で縁に鋸歯があり、色は通常は黄緑色だが、青銅色・橙色になるものがある。雌雄同株で、雄花は緑色の五弁花で枝先の総状花序の上部につき、雌花はその下部にあり、花弁はない。果実は倒卵形で高さ約三センチメートル。種子は楕円形。「巴豆油」の原料にされ、また下剤に用いられるが、猛毒を有する。
「海松子」前掲のマツ属Strobus 亜属 Cembra 節チョウセンゴヨウ Pinus koraiensis の種子。所謂、「松の実」のことである。
『詳か≪には≫「果部」を見よ』とあるのは、「本草綱目」での謂い。「漢籍リポジトリ」の「卷三十一」の「果之三」の「夷果類」のガイド・ナンバー[077-14a]にある「海松子」である。なお、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂の「和漢三才圖會」の「卷第八十八 夷果類」の「からまつのみ 海松子」もリンクさせておく。
「松子松」「五葉松」に同じ。葉が針状で、短い枝に五個ずつ、束になって生える種群の称。当該ウィキ他によれば、下記のタイプ種・変種・品種がある。
マツ属ゴヨウマツPinus parviflora(広義。日本固有種。本州東北地方東南部・四国・九州に分布し、山地に生える)
ヒメコマツ Pinus parviflora var. parviflora(「姫小松」。基変種。ゴヨウマツの高山に生じている種で、丈が低く、低地にかけて生じているゴヨウマツよりも姿形が小さい)
キタゴヨウ Pinus parviflora var. pentaphylla(「北五葉」。ヒメコマツの変種。北海道(渡島半島・日高地方)に分布し、岩の多い急斜面や尾根に自生する。高さは二十五メートル、幹の直径は八十センチメートルに達する)
トドハダゴヨウ Pinus parviflora var. pentaphylla f. laevis(「椴膚五葉」。キタゴヨウの品種)
が掲げられてある。
「栝子松」これは「三針の者」とあるので、異名を「サンコノマツ」(三鈷の松)と称する、樹皮が白い、
マツ属 Ducampopinus 亜属シロマツ Pinus bungeana
のことである。これは当該ウィキによれば、『二・三葉マツ類( Pinus 亜属)と五葉マツ類( Strobus 亜属)の中間の性質を示』す種で、この亜属を『変わり種のグループ』とある。
『老松の餘氣、結して「伏苓」と爲り、千年の松脂、化して、「琥珀」と爲る』この、一見、古い民俗社会の迷信のように見え、問題にする価値はないように感ずる向きが多かろうが、既に「諸國里人談卷之五 松喰虫」で私は注でフラットに考証している。何とも言えないが、必ずしも、トンデモ学説とは言い難い部分があるように私には思われる。是非、見られたい。
『「茯令」・「琥珀」は「寓木類」を見よ』同前で、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の「木之四」の冒頭に「茯令」が、同ページのガイド・ナンバー[090-8a]に「琥珀」がある。例によって、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の本書の「第八十五」冒頭の「寓木類」冒頭の「茯令」と、「琥珀」をリンクさせておく。
「松香」以上は松脂の異名であるが(直前の「瀝靑」は松脂に油を加えた塗料の名でもあり、また、所謂、「チャン」(同じ「瀝靑」と書く。泥炭・褐炭などから作った防水剤と同じ効果を持つもの)と同様の松脂をも、かく言ったものであろう)、この「松香」は漢方生薬の名でもある。基原はチョウセンゴヨウの種子とされ、良安が以下に記すような効能を「神農本草経」などで記している。
「倍伊木《ベインぼく》」東洋文庫の訳に「倍伊」にのみ『ペイン』とあるのを、そこに採用した。但し、信頼出来る論文を管見したところ、オランダ語で最上品である「生松脂」のことを「レピンチナ(Lepinchina)」と呼ぶことを見出した。この「ペイン」は、その綴りの音と親和性があるように思われた。オランダ語では「木」は「ハウイ」(hout)或いは「ボーム」(boom)であるから、これは当時の日本人には「松脂の木」を「ペインハウイ」、「ペインボウム」と呼んだ可能性があるやもしれない。特に「ボウム」は現代中国語の「木」が「mù」(ムゥー)と発音するから、「ボウム」を「ムウ」と通詞が聴き取った可能性もあるやもしれぬ。因みに、「松脂」の中国語は「sōng zhī」(ソォンヂィー)である。
「倍豆木」言語不詳。
「古留保尒也《コルホウニヤ》」「Colophonia」で、オランダ語で「松脂」を指す語。
「五臟」漢方で体内にある五つの内臓をいう。心臓・肝臓・肺臓・腎臓・脾臓の称。但し、それぞれ現代医学の内臓器官とは一致しない。
「二錢」明代の重量単位「錢」(せん)は、「一錢」が三・七三グラムであったから、七・四五グラム。
「自《おのづ》から、便《びん》なり」徐々に自ずから飲み易くなる。
「人をして老いざらしめ、身、を輕くし、氣を益し、久≪しく≫服すれば、穀を絕ち≪ても≫、饑ゑず、渇《かつゑ》ず」仙人じゃあるまいし、誰も信じません!
「痰・痃-癖《げんひ》」東洋文庫版の訳では、これを本文傍注で「痰癖」の脱字とし、後注で、『痰癖は暴飮・暴食により内臟が傷つけられ、寒痰が結聚しておこる。疸癖は脇や臍の両側にできる筋塊や積塊』とある。
『「史記」に云はく、『秦の始皇、泰山に上《のぼ》る。風雨、暴《には》かに至る。松の下《もと》に休む。枝、垂れて雨を禦(ふせ)ぐ。因つて、封して「太夫」と爲《な》す。』≪と≫。』知られた秦の始皇帝が、記録としては初めて実際に泰山で行った帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝するという伝説の秘儀「封禅(ほうぜん)の儀」の折りのエピソードである。「史記」の「卷二十八 封禪書第六」に載る。「維基文庫」のここで電子化されたものが視認出来る。但し、そこでは、「樹」とあるだけで、「松」或いはそれを暗示させる表現は、ない。そもそも秘儀を行うため、始皇帝は一人で泰山に登ったのであり、そこでどのような儀式を彼が行ったかは、全くのブラック・ボックスであるのだから、そこで「松の木の下で雨宿りした」等という、妙にリアルなディテーイルが残ること自体、(トンデモ)10なナンセンスなわけである。しかし、彼の泰山封禅伝説の中で、松と規定され、複数の漢文学者の訳でも「松」と断定している。泰山の登山口の二天門の先には、「五代松」があるのである。この「五代松」の種を調べてみたが、判らなかった。但し、ウィキの「泰山」によれば、泰山の植生を語る一節に『「望人松」「五大夫松」などのマンシュウアカマツ』という記載があった。この「マンシュウアカマツ」は、マツ属 Pinus 亜属 Pinus 節アブラマツ Pinus tabuliformis で、ウィキの「マツ」によれば、『中国原産で中国語では「油松」と呼ぶことから、和名でもこの名前で呼ぶことがある。他にマンシュウクロマツ、マンシュウアカマツなどの表記もあるがはっきりとしない』とあった。他に泰山の山中には『漢のコノテガシワとイブキ、唐のエンジュ』(「泰山」のウィキの部分)ともあったことを附記しておく。
「古今」以下の和歌は「古今和歌集」の「卷第一 春歌上」の光孝天皇の孫で式部卿是忠親王の子の「三十六歌仙」の一人、正四位下・右京大夫源宗于朝臣(?~天慶二(九四〇)年)の歌(二四番)、
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寬平の御時、后宮(きさいのみや)
歌合(うたあはせ)によめる
ときはなる松のみどりも春くれば
今ひとしほの色まささりけり
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である。「ひとしほ」は、ここは、「一入」の原義の用法で、「染料に、今一度、入れること」を指すが、本歌は全体が女との邂逅を裏とした、かなりセクシャルな一首であって、まず、「松」が女を「待つ」に掛けられてあり、されば、後の「ひとしほ」にも、女の「一肢を」を嗅がせ、「みどり」(綠)にさえ、「身取り・見取り」で「目合(まぐは)ひ」を掛けてある。而して「色」は作者の「色欲」の吐露を意味しているのである。
「字說」に云はく、『松柏は「羣木《ぐんぼく》の長《ちやう》」たり。故に、松、「公」に從ふは、猶を《→ほ》、公のごとし。柏は、「白」に從ふ。猶ほ、「伯」のごときなり。』≪と≫。
『「五雜組」に云はく、『此の說、理《ことわり》、有るに近しと雖も、然《しかれ》ども、實《じつ》は、穿鑿《せんさく》なり。「松柏」の字は、直《ただ》、諧聲《かいせい》のみ。「五等」の封(ふう)は、三代に始むる。而るに、「松柏」の字は、倉頡(さうけつ)に《→の》製す≪するなり≫。寧(むし)ろ、預《あらか》じめ、後世、有ることを知らんや。公・伯の爵(くらい[やぶちゃん注:ママ。])や、且つ、「松」の字、古《いにし》へ、「※2」に作る。「公」に从《したが》ふは、後世の省文《しやうぶん》なり[やぶちゃん字注:「※2」=(上)「容」+(下)「木」。]。卽-且(むかで)は、至《いたつて》微《び》にして《→なるも》、「公」に从ふ。猿-狙(さる)は至《いたつて》劣《れつ》にして《→なるも》、「侯」に从ふ。豈に亦、「蟲の長」たるを以つてなるをや。』≪と≫』「五雜組」は既出既注。以下は「卷十」の「物部二」の一節。「維基文庫」の電子化されたここにあるものを参考に示しておく。冒頭である。
『又、云はく、『松、長《ちやう》ぜざらんことを欲せば、石を以つて、其の眞下に抵《あつ》。或いは、其の頂《いただき》を髠(かぶろ)にするときは、則ち、復《また》、長せず。旁《かたはら》の榦(えだ)、四(《よ》も)け出づ《→でて》久しきときは、卽ち、地に偃(ふ)す。京師の報國寺に、松、七、八株、有り、髙さ丈許《ばかり》に過ぐず。其の頂《いただき》、甚だ平《たひら》にして、枝榦《えだみき》、旁に出づ。十餘丈に至る者、數百《すひやく》莖《けい》≪あり≫。夭矯《えうきやう》にして游《あそぶ》龍のごとし。其れ、折れんことを恐れて、一榦《ひとみき》毎(《ご》と)に、一木を以つて之れを支(さゝ)ふ。』≪と≫』同前と同じ「五雜組」の「卷十」の「物部二」の一節にある。改行された頭が、『俗言松三粒五粒。段成式云:「粒當作鬣。」然亦不知五鬣何義。又云:「五鬣松皮不鱗。」今山中松,未見有不鱗者。段又云:「欲松不長,……』とある以下が当該部である。
「事類全書」東洋文庫の「書名注」に、『『古今事類全書』か。前集六十巻、後集五十巻、. 続集二十八巻、別集三十二巻、新集三十六巻、外集十五巻、遺集十五巻。宋の祝穆(ぼく)編。百科全書』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここに巻数に違いがあるが、「新編古今事類全書」がある。この中にあるかも知れないが、膨大過ぎて、調べるのは諦めた。悪しからず。
「社日」「社」は、中国に於ける土地神(本邦の産土神(うぶすながみ))で、春分と秋分に最も近い、その前後の戊日。春の場合を「春社」、秋の場合を「秋社」といい、土地神を祀って、春には豊作を祈り、秋には収穫を感謝する。本邦にもそのまま取り入れられた。
「播州印南郡(いなみのこほり)曾禰(そね)」現在の兵庫県高砂市曽根町(そねちょう)の曽根天満宮(グーグル・マップ・データ)境内にあった「曾根の松」。門(随神門)を入ったすぐ右側にある「霊松殿」に初代の枯れたそれが現存する(同天満宮公式サイト内のこちらを参照)。より詳しい記事は、「銘木総研株式会社」公式サイト内の「曽根の松(兵庫県高砂市)〜菅原道真が太宰府左遷の途中で植えた霊松」を見られたい。資料館に保存されている、初代の枝を使用して作られた十分の一サイズの模型の画像も見られる。
「𬄡(しん)」中文サイトで調べても台湾に多い姓という以外に、意味を見出せなかった。「廣漢和辭典」にも載らない(私は「大漢和辭典」を所持しない)。「しん」という読みは、東洋文庫のルビに従ったものだが、この部分の文章から考えると、「枝榦」(えだみき)に対する「主たる幹(みき)」の意であろうかとは思われる。
「艮」北東。
「坤」南西。
「乾」北西。
「巽」南東。
『丹州、「成相(なりあひ)の片葉の松」』これは現在の京都府宮津市成相寺にある橋立真言宗成相山(なりあいさん)成相寺(なりあいじ:グーグル・マップ・データ)であるが、現存しない。延享三(一七四六)年から寛延三(一七五〇)年の間に書かれた京都の人が記したものらしい「道中記」には、
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都ノ方へ斗(ばかり)、枝あり、外ヘハ、枝、なし。
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とある(読みと句読点は私が振った)。これは二〇一八年三月発行の『丹後郷土資料館調査だより』第七号(PDF)の『資料紹介 「丹後廻り道中記」』(資料課吉野健一氏筆)に拠った。
「螱(はあり)」この場合の「羽蟻」はシロアリであり、湿気を必要とする点で、昆虫綱網翅上目ゴキブリ目等翅(シロアリ)下目ミゾガシラシロアリ科 Heterotermitinae 亜科イエシロアリ属イエシロアリ Coptotermes formosanaus を挙げておく。
「日向の產を良材と爲《な》し、其の肥《えたる》赤色の者は、能≪く≫水に耐≪へ≫、船・槽(みづぶね)に作りて、亦、佳なり」裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora である。宮崎県日向地方に産する脂気の強い個体群を異名として「日向松」(ヒュウガマツ)・「霧島松」(キリシママツ)・「霧島赤松」(キリシマアカマツ)と地方名で呼び、学術論文にもカタカナ書き表記で出ているのを確認した。
「松茸(《まつ》たけ)は、雌松≪の≫山に生ず」これはちょっと考えにくい。共感呪術的(♀の松に♂を象徴する松茸!)な俗説ではあるまいか? 但し、アカマツの木に有意にマツタケ(菌界担子菌門真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科キシメジ属キシメジ亜属マツタケ節マツタケ Tricholoma matsutake )に生えることは、よく知られている。ウィキの「アカマツ」に、『高級食材のマツタケは、アカマツ林でとれることが知られる』と明記し、ウィキの「マツタケ」にも、『アカマツの樹齢が』二十『年から』三十『年になると』、『マツタケの発生が始まり』、三十『年から』四十『年が最も活発で』、七十『年から』八十『年で衰退する』とあった。
「松脂・松の節は、雄松を用ふ」但し、種個体の♀♂とは別に、古くから、クロマツを雄松と呼ぶのに対し、樹皮が赤いことや、枝が細く華奢であることから、アカマツを総称して雌松(又は女松)と呼ぶ習慣がある。但し、松脂の良し悪し(使用する場面と対象(楽器等)によっても異なることは想像出来る)と、種の違い・雌雄の違いがあるのかないのか、流石に、ちょっと疲れたので、ちょっと調べて、やめた。御存知の方からの御教授を乞うものである。]
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