ブログ2,160,000アクセス突破記念 故藪野豊昭所蔵 川路柳虹詩集「波」(初版・限定五百部・並製)始動 / 表紙・背・扉標題・「内容」(目次)・深沢幸雄画「波」・川路柳虹の詩「波」
[やぶちゃん注:毎日、亡き父の遺品整理に追われている。父は、あまり本を持っていなかった(これは異常な愛書家である私から見てという意味であって、まあ、通常家庭の父親の書籍量としては多い方ではある)。半分はシュールレアリスム関連の芸術書(父は、よく、旅で宿帳を書く際、「職業欄」に『シュールレアリスト』と書くのを常としていた)、後は、戦後直ぐにのめり込んだ反戦運動(父は戦中は愛国少年で、鎌倉最年少の陸軍航空通信特攻隊として、竹竿の先に模擬地雷をつけて、模擬戦車(木製)の下に飛び込む練習に明け暮れた。敗戦後、百八十度、思想転換をし、日本共産党に入党、「うたごえ運動」の一員となっていた)関連の書籍が大半を占める(特異点としては、鮎の「ドブ釣り」(=毛鉤釣り)の事務局長をやっていた関係上、鮎絡みの本が多い)。画家として認めてくれて、終生、私淑した瀧口修造の単行本の半分、みすず書房の『コレクション 瀧口修造』(全十四冊)、青土社の『アンリ・ミショー全集』(全四冊)等も私が買って贈ったものである。恐らく、蔵書の三分の一ほどは、私経由である。そんな中に、父が昭和三十年代に買った本の中に、川路柳虹詩集「波」(昭和三二(一九五七)年二月五日発行・西東社刊・並製・五百部限定版)があるのを、一昨日、見つけた。
この詩集の発行日は、私が生まれる十日前に当たる。当時、父母は荏柄天神の敷地にあった貸家の二階におり、画家を目指しつつ、有名な鎌倉駅前の知られた鎌倉彫の主人の弟子となっていた。母は、頼朝の墓の横にあった「頼朝茶屋」で女中をしていた。大学一年の時、訪ねてみたところ、まだ、当時の女店主が現役でやっておられ、私が名乗ると、非常に喜ばれて、お茶と団子を出して呉れた。その時、「私が最初に、『あんた、妊娠してるんじゃないの?』と声を掛けたのよ!」とおっしゃったのを、今もよく覚えている。
詩人で美術評論家でもあった川路柳虹(明治二一(一八八八)年~昭和三四(一九五九)年)については、サイト「ネットミュージアム兵庫文学館」のこちらのページを見られたい。私は、彼の詩集は所持しておらず、二十代の頃、数冊のアンソロジーで読んだに過ぎない。ブログを始めた翌年の二〇〇七年十一月三日に、『僕の非在の玄室の碑銘に。』という前置きを添えて、詩「秋」を電子化しているだけである。この詩集の詩篇も初めて読んだ。
この詩集「波」刊行時、川路柳虹は満六十八歳で、この出版の翌年、この詩集『波』及び過去の業績により、彼は芸術院賞を受賞している。
されば、父の供養代わりとして、この詩集を電子化することとする。それ以外に、私の誕生と強い共時性を持っていることも、何か、偶然でないような気がしたからでもある。現行、この詩集(長詩二篇)を電子化したものは、ネット上には見当たらない。
なお、本書は目次に当たる『内容』の最後に『装幀及び裝置』として、版画家・銅版画家深沢幸雄(大正一三(一九二四)年~平成二九(二〇一七)年)の名が掲げられてある。父の古い書簡や記録の中に、実は、深沢幸雄氏からの手紙や彼の名があるのを確認した。父は私が生まれてしばらくして、鎌倉彫の修行を終え、エッチングを始めている。されば、この前後に深沢氏と知り合って、この詩集も、或いは、川路氏の詩よりも、深沢氏絡みで、購入したものであったのかも知れない。しかし、今回、この詩篇「波」を電子化して玩味してみたところ、その内容が、父の生きざまや、常日頃、語っていた彼の「人生のポリシー」と異様に似ていることを、強く感じたのも事実である。この詩篇には、確かに――父が――いる――のである。
さて、問題は――この表紙、及び、「内容」の次の次のページの挿絵「波」、詩「波」の次の詩「火の頌歌」の標題ページの下に配された挿絵の三点をどうするか?――であった。無論、深沢氏の著作権は継続している。しかし、当該原本を販売やオークションに出しているものを調べると、例えば、古書店「書肆田髙」のこちらには、本書の特製本(十部限定)版の販売ページ(既に売切)には、表紙の深沢幸雄氏の版画と推定される表紙絵や、「内容」(目次相当)を開いた次の見開き左ページにある、やはり深沢氏の名を印刷明記した版画の画像がある。「メルカリ」のここには、限定私家版(と「帯」にあるが、これは私が所持するものと同じ五百部版)の表紙の写真があり、その六枚目には、上記深沢氏氏名は印刷明記された版画の画像がある。これらが、深沢氏への著作権を払って画像を載せているとは、まず、思われない。使用許諾の断りも一切ない。謂わば、著作権の存続している人物の挿絵等が含まれていても、その書籍を販売する目的で商品画像として、著作権存続物を対象著作権満了書籍の画像の一部込みで示すことには、許容されていると判断される(但し、これには、若干の著作権に於いての疑問が感じられは。する。例えば、萩原朔太郎の「猫町」(リンク先は私の古い横書サイト版)には、素敵な川上澄生(著作権存続)の挿絵があるが、それを一部たりとも画像として出しているネット上の「猫町」は、古書販売の原本表紙の画像しか存在しないからである)。ともかくも、以上の現状から、深沢氏の版画を配した表紙・背・裏表紙(白紙)、「内容」の後に配されている深沢氏明記の挿絵、詩「火の頌歌」の標題ページの下に配された挿絵(Y.Kと読めるサインが右下方にある)を画像で挿入することとした。それは、以下の「内容」の最後に『装幀及び裝置』とあるのが、深沢氏の版画等も総て『裝置』として川路が認識していることが、私が深沢氏の作品を挿入してよいという判断の強い味方になると考えている。則ち、深沢氏の絵は、詩篇を総合芸術的に豊かにするためのものであり、それらの絵も、川路柳虹の本詩集「波」の芸術的「装置」として存在し、川路名義の詩集としてソリッドなモンタージュの一部であると、川路自身が全体を認識しているからである。これは、深沢氏の絵を「不可分な自己の詩集の身体の一部」と捉えていることに他ならないのであって、絵をカットすること自体、川路は敢然として拒否するもの、と私は思うのである。但し、万一、深沢氏の著作権者から指摘があれば、それらの画を、総てブラックで、マスキングして、処理するつもりでは、ある。
本詩集は、本文は長詩である詩篇「波」と「火の頌歌」の二篇のみで、最後に「あとがき」が載る。戦後の出版であるが、概ね漢字は新字であるが、時に正字が混交している(例えば、「靑」と「青」が混在している。これは川路の原稿は恐らく「靑」のつもりで書いていたが、植字工が、二種あるそれを、区別せずに用いていて、組んでしまった可能性が高いと私は思う)。それらは忠実にUnicodeで可能な範囲で電子化した。歴史的仮名遣と現代仮名遣も混交しており、拗音・促音もなっていたり、なってなかったりする。特に注意して、そのままで載せてある。基本、五月蠅くなるので、特にママ注記は附さない(誤植と考えられるものは別)。また、二字分ダッシュ「――」は、明らかにざっくりと太く黒い「━━」となっているので、罫線文字で、その通りに見えるように処理した。注は、長詩なので、ストイックに選び、連の切れたところに挿入した。
因みに、このブログ版を奥附まで、総て終わった後(本回と次回で完結させる積りである)には、縦書一括PDF版(ルビ附)を作成する予定でいる。
なお、この始動は、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体は、その前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが、昨日、夕刻、2,160,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二四年五月十六日 藪野直史】]
波
川 路 柳 虹 詩 集
東 京 西 東 社
[やぶちゃん注:画像(カラー)は表紙。]
波 川 路 柳 虹 詩 集
[やぶちゃん注:画像(カラー)は背。]
[やぶちゃん注:画像(カラー)は扉。]
詩 集
波
川
路
柳
虹
内 容
波
火の頌歌
あとがき
裝幀及び裝置 深沢 幸雄
[やぶちゃん注:画像(モノクローム。これは補正を加えた)は左ページ。目次相当。但し、リーダと漢字ノンブルは略した。]
波
深 沢 幸 雄 画
[やぶちゃん注:画像(カラー)は左ページ。ケント紙に印刷挿入綴じ込みされてある。左上方の画題「波」、右下方の画家の姓名と「画」は印刷。
以下、詩篇「波」全篇。]
波
一
ひろびろとした天の星座、
わたしはおまへの何であるかを知らない。
漆黑(しつこく)の塗板(ぬりいた)にちりばめた数かずの宝石、
瞬きながら速くここの海に
光りを曳く星たちよ。
音も立てない波は従順に
星たちの姿を揺さぶりながら
すこしづつ 彼方(かなた)へ、彼方(かなた)へと動いて行く。
夜(よる)の海は靜かに睡る
愛(いと)しい嬰児(あかご)のやうだ。
この世界に棲むあらゆるものの寝息が
いま二すぢの香煙となって
遠いあの天(てん)へと昇る。
[やぶちゃん注:パート標題「一」であるが、実は次のパートは「Ⅱ」となっている。しかし、この「一」は「Ⅰ」の横組みではなく、漢数字のゴシックの「一」である。無論、川路は原稿には「Ⅰ」と書いたであろうから、これは植字工の誤植で、校正係も気がつかなかったことになるか。川路は最終校正を行っていないはずはないだろうが、余りにあり得ないだけに、うっかり見落とした可能性もあろう。ともかくも、結果して、イタい誤りではある。]
しづかに、だが、はっきりと
何か囁いてゐる波よ、
声をひそめて
おまへの語る言葉を 私は聞かう、
波よ、語つておくれ、
吾らの「在る」意味を━━
生きてゐる、動いてゐる
ひと時も休まず、そして
何ごともないやうな
「時」の、「実在」のこころを。
天のどこかが裂けて
征矢のやうに流星が堕ちる。
━━(見知らぬ遠い世界の破片が)
だが、この広い海では ただ、
一すぢの光りにすぎない。
蒼ざめて消え去る星よ、
おまへの隕石がどこかで
大きな穴を地球に穿たうと、
この世界はただ安らかに鼾(いびき)を立ててゐる。
夜、ひそかな祭壇、
星座は宛(さなが)ら高い薔薇窻(ローズ)の色硝子、
その光の下で
誰もゐないこの海の大伽藍の
ひつそりとしに内陣に
ただ「声」だけが訪れる。
波よ、おまへの囁いてゐるその響が、
おなじやうなその旋律が、誦経(ずきよう)のやうに、
え知らぬ一つづきの声に聴かれる。
[やぶちゃん注:「薔薇窻(ローズ)」これは、ゴシック教会建築などのファサードにバラの花のような形で作られた円窓。教会の精緻な大きいステンド。グラス(Stained glass)は、英語で別に“Rose window”とも呼ばれる。英文ウィキの「Rose window」を見られたい。]
わたしは懺悔をしようと思はぬ、
わたしには罪とか、贖(あがなひ)とかは解(わか)らない。
この広大な海の上では
さういふ小さな名詞などは
どこかに消えてしまふだらう。
人間世界に犯した一人の
罪も、或ひはおのれ孤りの心の
反逆や、過失や、無智も、
どこかに消えて終ふ。
吾らの観念といふ不熟な果実(くだもの)は
この波に浮く小さな泡沫(あわ)にすぎない。
波は秘(ひそ)かなひびきを
すこしづつ高める、
波は星を戴いたまんまで
遠い陸地を目ざしてうごく。
永い「夜」はただ黙つてゐる、
苦しいばかりの吐息を
その胸に匿しながら。
[やぶちゃん注:「孤り」「ひとり」。
「終ふ」「しまふ」。]
わたしは眼を閉ぢる、
声にとつて、見えることは迷はしだ。
波よ、夜(よる)のなかで光る波よ、
さながら生きてゐる獣(けもの)のやうに、
おまへの姿はうねりながら
すこしづつ背丈(せたけ)を伸ばし
一(いち)やうな足どりで飜る。
死から不死へ、
不死から死へ、
転生しつづける存在よ、
わたしの閉ぢた眼(まなこ)は
ただ幻影としておまへを記憶する。
もしか不意にわたしが
このままここの海に落ち込んだとしても、
おまへの姿はやつぱり
消えない一つの波だ、実在だ。そして
おまへの歌ふ声だけが
永続をさながらに。
しかし、わたしは不幸にも
ただ「知らう」としてゐるのだ、
おまへのうねりが杜絕えずつづく、その
永達と変化の意味を 在ることの心を、その確かさを。
[やぶちゃん注:「杜絕えず」「とだえず」。]
Ⅱ
かずかずの追憶が影絵のやうに
閉ぢたわたしの瞳にうつる━━
晴やかな海、
瑠璃紺の浜辺、
軽装の少年水夫が
猿(ましら)のやうに帆桁にのぼつて、
帆綱を結び、また切る。
傾いた帆は風を胎(はら)んで
船は水沫(しぶき)をあげ、海へ踊り込む。
帆を掲(あ)げた船よ、勇ましい青春よ、
おまへは何の不信ももたずに
晴れやかな風に微笑(ほほえ)んで
ただ動く海を突つ切る。
空がいつか曇つて、
海は鈍(にば)み、波は吼える。
ぴしぴしと鞭打つ風のしはぶき、
三角の紙片(かみきれ)を千切(ちぎ)つた
白いたくさんの帽子が光る。
暗い雲の渦卷━━
垂れさがる大きな魔の翼、盛り上る龍巻(たつまき)、
波は激しく身慄ひしながら
憑(つ)かれたもののやうにただ突き進む。
その激しい懐(ふところ)のなかで
揺さぶられてゐる可憐な船よ。
五月から真冬(まふゆ)のどん底に落ちたやうな
悲しさと驚きに漂泊してゐた
わたしの遠い青春!
ぼろぼろになつた船が港へ入(はい)る、
港は安らかな老後のやうに
鈍い秋の陽を浴びて平和だ。
波よ、おまへは嵐などまるで忘れて
無口(むくち)な女のやうにしづかに
意味のない調べで岸を吻(な)める。
昨日(きのう)あつたことを、
あのすさまじい現象を
けろりと忘れてゐる不遜な自然よ、
おまへの残虐に傷いた魂と肉体は
玩ばれた怨みを復讐する術(すべ)もなく
ただ疲労にうつけてゐる。
ちぎれた帆綱に光る秋の陽(ひ)、
一切の破滅のあとに残るこの無為。
だが、忘れてゐた意識が蘇る。
生きてゐたといふ意識が、
少しでもある生命(いのち)の温みが
わたしの眼を正しい位置に還す。
破れた船を繕ひ、
新しい出発へと、
新しい航海へと、
希望が薄闇のなかで花をひらく。
*
いのちとは何だ!
生きてゐるものの不可思議よ!
それは与へられたもので
また絕えず作りいだすものだ!
目的も定めず、終焉(をはり)もなく、
自然が休まない時間に在るやうに、
死と欲望のせめぎを乘り越えて
絕えず前へ前へとすすむ
波よ、おまへこそ生命(いのち)だ、
いのち宛らだ!
[やぶちゃん注:「宛ら」「さながら」。前に出た。]
激しい突進で岩に砕け、
散つた水沫(みなわ)はまたもとの海へ還る、
不変の精子、永遠の精液、
そして絕えざる情慾に燃えながら、
淸潔な童貞に生きる、
おまへは処女の羞(はじら)ひとと靑年の夢との
組み交はす不所の組識、朽ちざる細胞、
翼のない不死鳥、力の内在する磁極。
波よ、おまへの動きのただ中にあつて、
おまへの解らなさを解かうと
風は絕えず鞭ち羽搏く。
おお、限りない侮蔑よ、限りない残虐!
しかし、その侮蔑は飛沫となつて空(そら)に還る。
おまへはただ怒り、吼え、応(こた)へ、叫喚し、
いつかまた巧みに不明へと逃れる。
[やぶちゃん注:「羞(はじら)ひとと」はママ。後の「と」は衍字。
「組識」ママ。以下の「細胞」から、明らかに「組織」とあるべきところで、イタい誤植である。]
ああ、知の聡明も摧ける、だが
撓(た)はんではならない努力よ。
わたしたちの知るこの世界は
ただ現象と経験との場(ば)にすぎない。
そして不断の時間にかかはる
律動と秩序の世界だ。
宇宙をつくるものの内部を
その意味を、価へを、
吾らに知らすものは何もないのか!
在るものの凡てに從順に、
眼かくしされた世界に生きてゐる吾ら!
波よ、私たちはおまへと同じ息のなかで、
高い しとどかない天をのぞみながら
生き、また死ぬのか!
自然も営み、産み、働く。
なにものへの奉仕でもない自(みづか)らの為めに!
波よ、あまりに解り切つてゐて
すこしも解らないこの生きてゐることの謎よ!
どんな手探りで摑まうと解けない意味!
「夜」は深まり、苦悩は重(かさ)なる。
おお、星よ、仁愕光る彼方の実往!
ひとり吾らの知りうる境を乗り超えて、
対数表の煩さい数字を乗りこえて、
あの不可知がなんときれいに光る!
Ⅲ
摑まう! みづからの腕を。
捉へよう! みづからの脈膊を。
いのちは「知る」ものではなかつた!
生命(いのち)はただ捉へればよいのだ!
おまへの内にあるすべてが
彼処(かしこ)にあるものと同じだと、
捉へたところに万物が生きるのだ!
波よ、だがあの向うの島から
もう夜明けが訪れはしないか。
おまへの一向(ひたむき)な步みが
あの岸ヘ、碧の浜辺へと近づくとき!
なにものか、大きな鳥がすぎる、
爽眛の空を斜めに
羽搏く翼に朝の嵐を呼んで、
高く、高く、翼は廻旋する━━
さながら一切を征服する身構えに。
ああ荒鷲よ、陸地を離れて、
おまへは大望を果すといふ風(ふう)に、
波を目がけて突進し、下向し、
また高く、雲のなかへと姿消す。
[やぶちゃん注:「爽眛」(さうまい(そうまい))は「夜明け・暁(あかつき)」。「爽」は「明るい」(その場合は「曙」)、「昧」は「暗い」(その場合は「暁」)の意。]
自由が勝利を歌ふその翼よ!
おまへの意慾は周囲を顧みず、
意志の悲劇をすこしも知らない。
ただひた向きに行動する征服の力よ!
しかし、波は永遠に低いこの海にあつて、
絕えず步む一つの生きもの。
荒鷲の死屍(しかばね)が山の岩角に曝されても
波は死なない、波はまだ動いている。
波は動いたまま朝を呼ぶ━━
勝利を知らない捷利に醉つて、
おのづからに来る光明を、
おのづからに生む朝(あした)を、
その不断の滑らかな背(そびら)にうけて……
もう星々(ほしぼし)の光りがうすれて、
力ない光芒が空から消える、
ああ日々(ひび)の繰返(くりかへ)し━━
だが、夜明(よあけ)はいつ見でも何といふ希望、
そして、なんといふ新しさだ。
私たちの眼の曇りが晴れて
潔(いさぎよ)い砂浜が光りだす。
漂ふ霧の薄い面紗(ブヱル)を透して
おまへは薔薇いろに燃えてくる!
おお、波よ、不死の継続よ、
輝やかなアドニスの瞳に
うつる下界の青空。
或はよみがへる病後の爽やかさ、
また少年の淨らかな情慾よ、勃起よ、
ふたたび味はふ青春の快味よ。
見よ、太陽の矢が無数に
おまへの飜る裸身の背中を突き刺す。
鱶と鰐鮫が ふかい海底から
小気味よく躍り出す。
美に慄ふ眼(まなこ)が、危さを愛するやうに、
輝きのなかに凡てを把握しようとする力よ。
陰影や、罪悪、卑少や、消え失せる無力よ!
みづからの欲求の激しさに身慄ひする
吾れと吾が身に驚く美への志向に、
その瑞(みづ)みづしさに、若さに、
吾ら雄々しく、いつも、裸形(らぎやう)であれ!
[やぶちゃん注:「面紗(ブヱル)」「めんさ・めんしや(めんしゃ)」と読み、女性が顔をおおう薄絹のこと。「ベール」。“veil”は音写すると、「ヴェール」。
「アドニス」(ラテン文字転写:Adonis)はギリシア神話で、女神アフロディテに愛された美青年。狩りでイノシシに突き殺された時、その血からアネモネが、女神の涙からバラが生じたとされる。]
朝だ、新しい出発だ、
わたしたちは凡てを新鮮に見るのだ。
わたしの胸にある不可知は子供のやうに、
いま、この光りのなかに眼をあける。
おなじ世界だ、しかし異(ちが)つた朝だ。
永達を造型してゆく、酸素のやうな
いつも新鮮な「時間」よ。
波よ、おまへの言葉は
あの暗闇のなかから拔け出て
ふたたび行動の世界に歌ひ出す!
わたしたちはただ観ることで生きよう!
「観ること」はやがて「創り出す」ことだ!
おまへといつしよに思考をいつも
新しく原始から始めよう!
それは激しい「継続」なのだ、常に、
生きまた死につつ始るのだ!
波よ、おまへのしとやかな步調に、
高まりどよもすりズムに、
わたしも裸身となって
この爽やかな朝の嵐に立たう!
波よ 不断の浪よ 永続の波よ、
破壞の波よ 力の波よ。
石のやうな建設を企てず、
流動のうちに創りいだす波よ、
轟きわたる勝利を 霊(たましひ)の電波を
潮(うしほ)となっておなじ響に、また言葉に、
世界のあらゆる果まで呼びかける波よ、
永劫回帰の波よ 波よ 波よ 波よ 波よ!
(一九四七年)
[やぶちゃん注:「りズム」はママ。誤植。]
« 柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(27) | トップページ | 柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(28) »