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2024/05/26

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(1)

 

 

              

 

 

   深爪に風のさはるや今朝の秋 木 因

 

 子供の時分爪を剪るに當つて、よく深爪を取るな、と注意された。堅い爪に掩はれた肉は、外のところのやうに皮が厚くないから、ちよつとしたことでも直ぐこたへる。これは爪を深く剪り過ぎたあとに風がさわる、といふ微妙な觸感を捉へたのである。

「さはる」といふ言葉は、あまり巧な表現でもないが、この場合他に適當な言葉もなさそうに思ふ。さういふこまかい觸感も、夏から秋への替り目だけに、特に感じ易いところがある。這間の消息はこれだけの事實から直に感得すべく、文字を以て說くことは却つてむづかしい。

 

   はつ秋や靑葉に見ゆる風の色 巨 扇

 

 句としては寧ろ平凡な部に屬するであらう。たゞ秋の到るといふことを著しく感じ、著しく現す習慣のついてゐる人は、この種の平凡な趣を見遁す虞があるのである。

 秋になつたといふものの、赫々たる驕陽[やぶちゃん注:「けうやう」。「夏の厳しい陽光」の意。]は依然として天地に充ちてゐる。木々の梢も夏のままに靑葉が茂つてゐる。その靑葉を渡る風に、自らなる秋を感ずる。「風の色」といふ言葉は、ちよつと說明しにくい。靑葉を吹く風に秋を感じ得る者だけが、この「風の色」の如何を解し得るに過ぎない。

 

   寢酒のむ心や餘所のをどり歌 春 艸

 

 老情といふものの窺はれる句である。浮れて盆踊の列に加はる者は、必ずしも老若を問はぬかも知れぬが、夜の更くることを構はずに踊るのは、やはり若人の世界であらう。さういふ羣に入らぬ老人が、しづかに酒を飮んで、これから寢ようとしてゐる。踊の歌はいつやむべしとも見えぬ、といふ趣である。

 この句には二個の異つた世界が含まれてゐる。寢酒を飮む老人と、その人の耳に聞えて來る踊の歌とは、明に對立の姿でなければならぬ。歡樂から取殘されたといふよりも、歡樂を通り越したと云つた方が、寧ろ適切であらう。この趣は書きやうによれば或は小說になるかも知れない。

「老にけり獅子の番して酒を飮む 瓊音」といふ句の世界が、ちよつとこの句に似てゐる。老の字を句中に點じないで、自ら老情を感ぜしむるのは、春艸の句の巧なる所以であらう。

[やぶちゃん注:「瓊音」沼波瓊音(ぬなみけいおん 明治一〇(一八七七)年~昭和二(一九二七)年)は国文学者で俳人にして強力な日本主義者。名古屋生まれ。本名、武夫。東京帝国大学国文科卒。『俳味』主宰。]

 

   馬牛もしなびてかなし盆の果 如 蛙

 

 馬も牛も實際の動物でなく、生靈棚に供へられた瓜の馬、茄子の牛であることは、註するに及ばぬであらう。苧殼の足で突立つたその馬も牛も、いさゝか萎びて見える。盂蘭盆はもう濟んだのである。

 香取秀眞氏の歌に「魂祭すぎにけるかも里川に瓜の馬流る蓮の葉流る」といふのがあつたかと記憶する。生靈のために役目を果した瓜の馬を詠んだものは、必ずしも少くない。この句はその「しなび」に目をとめたのが特色である。「かなし」といふ言葉も平凡なやうで、やはり利いてゐるやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「生靈」不審。「しやうりやう」と読ませて(この読みはある)、「精靈」の意で使用しているらしいが、実は、「生靈」にそうした転用用法はなく、あくまで、「生き霊」の意である。これ、宵曲の誤記と思いたくない。誤植かと思う。岩波文庫もそのままであるが、「這間」を『この間』と無粋にやらかす暇があったら、これをこそ、宵曲のために「精靈」と書き変えてやるべきである。ホントに、岩波文庫版の編者は、レベル、低いわ。]

 

   聖靈も露けき蓮の葉笠かな 吾 仲

 

 魂棚[やぶちゃん注:「たまだな」。]に供へた蓮の葉を聖靈[やぶちゃん注:「しやうりやう」。「精靈」に同じ。]の笠に見立てたのであらう。かういふ句は敎室の講義式に說いて行くと、大分面倒なことになるが、聖靈の笠にかぶるものの方から考へれば、露けき蓮の葉笠以上に恰好なものはなささうである。

 西鶴は「一代女」の終近いところで、「一生の間さまさまのたはふれせし」主人公が、無氣味な幻影を見ることを描いてゐる。卽ち「蓮の葉笠を著るやうなる子供の面影、腰より下は血に染て、九十五六程も立ならび、聲のあやぎれもなくおはりよおはいりよと泣ぬ」とあるので、「一代女」の插畫は後世の草雙紙のやうに、物凄さを强調するものではないが、この蓮の葉笠の姿は何となく凄涼の氣を帶びてゐる。吾仲の句はそれほど恐しい幻を見てゐるわけではない。魂棚の燈に眞靑な蓮の葉を見て、これを笠に戴く聖靈の姿を漠然と感じてゐるのである。

[やぶちゃん注:『「一代女」の終近いところ』挿絵入りのものを探して、見つけた。「西鶴輪講 好色一代女 卷の六」(三田村鳶魚編・昭和四(一九二九)年春陽堂刊)のここで当該本文が視認でき(右ページ二行目から四行目にかけて)、

   *

……一生(しやう)の間(あひだ)さまさまのたはふれせしを、おもひ出して觀念(くわんねん)の窓(まど)より覗(のぞけ)ば、蓮(はす)の葉笠(はがさ)を著(きた)るやうなる子共の面影(おもかげ)、腰(こし)より下(した)は血(ち)に染(そみ)て、九十五六程も立ならび、聲(こゑ)のあやぎれもなくおはりよおはいりよと泣(なき)ぬ……

   *

で、宵曲の言う挿絵は次のコマの見開きで視認出来る。う~ん……多過ぎて、凄絶を逆に減衰する感じでは、あるな。]

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