柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(36) / 「夏」の部~了
旅 泊
魚煮たる鍋あらためよ茄子汁 使 帆
或人が寺で造る精進料理がうまいといつて感心したら、野菜を煮る鍋と腥物を煮る鍋とを別にして御覽、と云はれたさうである。肉食に慣れて腥臭を意とせぬ吾々は、平生はさほどに感じないけれども、時に純粹なる精進料理――未だ曾て腥物を知らぬ鍋で煮た精進料理を味つたら、やはり讚歎の聲を吝まぬ[やぶちゃん注:「をしまぬ」。]かも知れない。
この句は旅宿で出された茄子汁に、何となく腥臭のまつはつてゐるのを感じて、これは何か魚を煮た鍋で作つたに相違無い、茄子汁の場合はやはり別の鍋を用いた方がいゝ、と云つたのであらう。尤も「あらためよ」といふ言葉は、旅宿の主人に注意したとまで見なくても差支無い。作者の獨語でもいゝわけである。「あらためよ」と云つたところで、必ずしも別の鍋を使ふといふことには限らぬ。魚を煮たあとはよく吟味しろ、といふ意味でもよかろうと思ふ。
作者は熊本の助成寺の住僧ださうである。平素純粹な精進料理に慣れてゐる爲、鍋の移り香が氣になつたものらしい。旅宿の茄子汁を一口啜つて、眉を顰めてゐるやうな樣子まで連想される。
[やぶちゃん注:「使帆」『「夏」(10)』で既出既注。]
蝙蝠や日は今入て雲の紅 一 彳
赫々たる太陽が漸く西に沈んで、雲は一面紅になつてゐる。日はもう落ちたが、全く暮れるにはまだ間がある。さういふ空を蝙蝠が翩々として飛びつつある、といふ句である。[やぶちゃん注:「蝙蝠」句にも本文にもルビがないので、「かはほり」ではなく、普通に「かうもり」と読んでいるようである。但し、句の方は、その読みに断定出来る資料を見出せなかった。]
近頃では夕燒といふものを夏の季題にしてゐるが、炎威が烈しいだけあつて、夏の夕燒が最もめざましいやうに思はれる。佐藤春夫氏も「田園の憂鬱」の中に、夏から秋への夕燒の推移を述べて、「空の夕燒が每日つづいた。けれどもそれはつい二三週間前までのやうな灼け爛れた眞赤な空ではなかつた。底には深く快活な黃色を匿してうはべだけが紅であつた。明日の暑さで威嚇する夕燒ではなく、明日の快晴を約束する夕榮であつた」とあるのが、その間の消息をよく傳えている。炎暑に喘ぐ人は秋の到ることをよろこぶにしても、夕燒本位に見れば、明日の暑さで威嚇する時期が全盛の名に値するのであらう。
蝙蝠は晝と夜との境目を自分の舞臺として頻に飛廻るが、吾々の受ける感じは、いづれかと云ふと幽暗な方に傾いてゐる。この句はさういふ感じに捉はれず、夕燒雲だけを配したところが面白い。古人は別に季題として取上げはしなかつたけれども、夏の夕燒の美しさは十分に認めてゐたのである。
[やぶちゃん注:「一彳」江戸後期の俳人で、上野国八幡八幡宮神主にして、高井東水・田川鳳朗門下であった矢口一彡(やぐちいっさん 天明七(一七八七)年~明治六(一八七三)年)の別表記俳号。本名は藤原以真。詳しくは当該ウィキを見られたい。
『佐藤春夫氏も「田園の憂鬱」の中に、夏から秋への夕燒の推移を述べて、「空の夕燒が每日つづいた。……」私のサイト版「佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)」を見られたい。ブログ版では「佐藤春夫 改作 田園の憂鬱 或は病める薔薇 正規表現版 (その7)」である。]
やね葺が我屋ね葺や夏の月 夕 兆
屋根葺は自分の職業上、晝間は他人の屋根で仕事をしなければならぬ。若し自分の家の屋根を葺かうとすれば、仕事の無い時か、夜にでもやるより仕方が無い。この句は夏の夜の涼み仕事に、屋根葺が自分の屋根を葺いてゐる體である。
夏は井戶掘より涼しきはなく、屋根葺より暑きはない。併し夜になつて涼しい月の照す下に、風に吹かれながら屋根の上で仕事をするとなれば、さう暑いことはないかも知れぬ。雨の降る心配が無いのだから、今夜中に葺いてしまはなければならぬといふほど、必要に迫られてゐるわけでなしに、涼み旁〻急がぬ仕事をやつてゐるやうに見える。そこがこの句の眼目であらう。
職業はどうしても暑さを伴う。又職業である限りは、暑さの故を以て囘避するわけには行くまい。たゞ我家の事である間、そこに自由な涼しさを領することが出來る。さういふ風に考へて來ると、いさゝか分別臭くなる虞があるが、俳諧は固より爾く[やぶちゃん注:「しかく」。]觀念に終始するを要せぬ。現在夏の月夜に屋根で働く人を見、屋根葺が涼みながら自分の屋根を葺いてゐるな、といふ點に興味を感じただけでいゝのである。眼前の光景とすれば、多少の滑稽をも含んでゐるやうな氣がする。
敷つめてすゞし疊の藺の匂 野 徑
新しい疊の句はすがすがしいものである。替へたばかりの疊の上に寐ころんでゐると、如何なる熱鬧[やぶちゃん注:「ねつたう」。人が込み合って騒がしいこと。]の巷にあつても、生々たる自然の呼吸に觸れるやうに感ずる。自然に親しい日本建築の一條件に算ふべきものであらう。
この句は洒堂の『市の庵』といふ集にあるので、洒堂が膳所から難波へ居を移した記念のものである。從つてこの集の中には「鋸屑は移徙[やぶちゃん注:「わたまし」。]の夜の蚊遣かな 正秀」とか、「踏む人もなきや階子の夏の月 臥高」とか、「上塗も乾や床の夏羽織 探芝」とか、新築氣分の橫溢したものがいろいろある。野徑の句もその一で、新居の洒堂に寄せたものだから、自分が現在さういふ靑疊の上に寐ころんだりしてゐるわけではない。涼しい藺の匂に滿ちた洒堂の新居を想いやり、淡い祝賀の意を寓したものと見れば足るのである。野徑は洒堂のそれまでゐた膳所の人で、膳所と難波は遠距離でもない以上、親しく新居を訪れた際のものとしても差支無いが、强ひて限定してかゝるにも及ばぬかと思ふ。
[やぶちゃん注:「野徑」(生没年未詳)近江蕉門で膳所の人。『ひさご』同人。別号に緑督堂。]
晝の蚊に線香さびし草の庵 汶 村
今だと直に蚊取線香を連想する。併し元祿の昔に、今のやうな蚊取線香があつたとも思はれぬ。さうかといつて線香は佛前に供へたもの、蚊は蚊で別に飛んでゐるもの、といふ風に切離してしまふのは少々惜しいやうである。
蚊遣といふものの起原は知らぬが、蚊蚋の類が煙を厭ふところから用ゐはじめたとすれば、蚊遣專用のものが發明される以前にも、あらゆる煙が試みられたに相違ない。吾々がおぼえてからでも、楠や榧の木片が蚊遣用として荒物屋に竝んでゐた外に、普通の木屑なども盛に用いられた。蚊火の煙などといつて歌の材料になるのは、進化した專門的蚊遣でなしに、寧ろ原始的な濛々たる煙の方ではないかと思ふ。
この句の線香は坐禪觀法の人の座邊に立てたものかも知れぬが、縷々たる香煙は猶多少蚊を卻ける[やぶちゃん注:「しりぞける」。「却」の異体字。]力を持つてゐる。庵主は香煙の搖ぎにも心を亂さじとして端坐しつゝある、晝の蚊のほのかな唸りが時に耳邊を掠めて去る、といふやうな寂然たる光景も、連想を逞しうすれば浮んで來る。畢竟「さびし」の語が蛇足にならず、或效果を齎してゐるのは、この句が蚊取線香でなしに普通の線香だからである。
[やぶちゃん注:小学館「日本大百科全書」の「蚊遣(かやり)」によれば、『夏季、カやブヨなどの害虫を追い払うために煙をいぶらせること。カヤリビ、カクスベ、カイブシなどともいう』。平安中期の源順の「和名類聚鈔」に、『「蚊遣火、加夜利比、一云、蚊火」とみえ、古くから蚊遣のために火をたいていたことが知られる』。『屋内の蚊遣には、いろり、火桶』『などで香料、木片』・『おがくずなどをたいたが、主として蚊遣木にはカヤノキの木片が利用され、東京のような大都市でも大正初期のころまで行われていた。しかし、江戸時代には、すでに木材の大鋸屑に硫黄』『の粉末を混ぜたものも用いられており、明治時代には、ジョチュウギク(除虫菊)を粉末にした蚊遣粉(蚊遣香)がつくられるようになり、やがてこれを主剤とした渦巻形の蚊取り線香(蚊遣線香)が広く利用されるようになった。また、これらを入れる蚊遣の用具にも、「蚊遣豚(かやりぶた)」とよばれる豚の形をした素焼の容器などがつくられ、幕末から現代に至るまで愛用されている』。『屋外での蚊遣は蚊火(かび)といい、山野で働く人たちは、藁』、『ぼろ布、ヨモギ、毛髪などを苞(つと)形に束ね』、『腰に提げ、また稗』『ぬかなどを小籠』『に入れて』、『山畑の(あぜ)に立て、煙をいぶらせ、ブヨなどの害虫の来襲を防いだ。これを地方ではカビ、カベ、カガシ、ヒボテ、セセボテ、イヤシなどとよび、これを魔除(まよ)けのために用いる所もあった。近年、新しい殺虫剤や強力な電子蚊取器などが販売されるようになって、在来の蚊遣、蚊火はようやく廃れつつある』とある。]
夕顏に筆耕書の机かな 牧 童
「連翹に一閑張[やぶちゃん注:「いつかんばり」。紙漆細工のこと。]の机かな」といふ子規居士の句ほど客觀的ではないが、元祿の句としては最も客觀的な部類に屬するであらう。
夕顏の花の咲いてゐる窓先か、緣先かに机を据ゑて、筆耕書(ひつかうかき)が何か寫し物をしてゐる、といふだけのことである。今のやうに早く電燈がつかないから、夕暮の色が漸く濃くなるまで、晷[やぶちゃん注:「ひかげ」。]を惜しんで明るいところへ机を持出してゐるのではあるまいかと思ふ。
[やぶちゃん注:「筆耕書」単に「筆耕」とも。本来は、「写字や清書で報酬を得ること。また、その人」を指すが、ここは第二義の「文筆によって生計を立てる人物」の意であろう。
「「連翹に一閑張の机かな」「寒山落木」の「卷五」に所収する。明治二九(一八九六)年の春の作。]
繪簾を分けて覗くやあやめ賣 い ん
この「あやめ」は端午の「あやめふく」料[やぶちゃん注:「れう」。]のことであらう。手許の歲時記をしらべて見たが、「あやめ賣」といふものを擧げてゐないから、特別な行裝をしてゐたわけでもなささうである。苗賣のやうに聲を張上げて呼んで步くのか、一軒一軒寄つて行くのか、その邊もよくわからない。この句は或家の簾を分けて、「あやめはよろしう」といふやうなことを云つて覗いたところらしい。
たゞの簾、普通の賣物であつたら、さほどのことも無いが、あやめ賣が繪簾を分けて覗くといふので、一種の情趣を生ずる。作者が女性であることも、この場合情趣を助けてゐるやうに思ふ。宛然一幅の風俗畫である、などといふものの、あやめ賣の風俗がよくわからないのではいさゝかたよりない話である。
[やぶちゃん注:『「あやめふく」料』岩波文庫「古句を観る」(一九八四年刊)では、編集部が、何故か誤記とでも勘違いしたらしく、「料」の字が、ない。『この、編集者、本邦の民俗風習をまるで知らねえんだろうな。』と呆れる。これは、「あやめ葺く」で、「徒然草」に既に載っている。端午の節句の前日の夜に、健康を願って、家の軒に菖蒲を挿す古くからの風習である。そのために、「あやめ」を売って歩く行商人から買って「料」(材料)とすることである。
『手許の歲時記をしらべて見たが、「あやめ賣」といふものを擧げてゐない』宵曲にして、ディグが浅い。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和二二(一九四七)年改造社刊の高浜虚子等編の「俳諧歲時記 夏」のここの「菖蒲引(あやめひ)く」の項の下方に類季語として「菖蒲賣(あやめうり) 菖蒲刈(あやめか)る」が挙がっており、『端午眞となれば、菖蒲を引きて市中に賣りに出するものあり、之を「菖蒲賣」といふ』と、たyんとあって、「中興五傑」及び「天明の六俳客」の一人として知られる加舎白雄(元文三(一七三八)年~寛政三(一七九一)年)の句「長々と肱にかけたりあやめ賣」(原本では「々」は踊り字「〱」)とある。]
編笠の頤見ゆる祭かな 朱 拙
祭の列にゐる人でもあらう、編笠を深く被つてゐるので、その顏は見えぬ。僅に頤[やぶちゃん注:「おとがひ」。]だけが見える、といふスケツチである。祭といふ背景については何も描かず、祭の中にある人の、その又一部を捉へて描く。昔の句にもかういふ傾向が無いでもない。
笠を被つてゐる人の顏は、帽子などと違つて何となく趣がある。「山車引くと花笠つけし玉垂の細し少女の丹の頰忘らえね」といふ香取秀眞氏の歌は、山車を引く花笠であり、くはし少女の丹の頰であるから、更に美しいけれども、朱拙の句も祭の句だけに、尋常の編笠とは同一に見がたい。但この編笠の主は、男性か女性か不明である。
[やぶちゃん注:「香取秀眞」既出既注。
「山車」(だし)「引くと花笠つけし玉垂」(たまた(だ)れ)「の細」(くは)「し少女」(二字で「め」)『の丹』(に)『の頰忘らえね」以上で読みを附しておいた。]
外向に咲かたがるや卯木垣 四睡
垣根の卯木[やぶちゃん注:「うつぎ」。]が外向に白い花をつけて、その花のついた方に傾いてゐる、といふだけの句である。「かたがる」は傾くの意であらう。作者は內側から卯木垣を見てゐる場合ではないかと思はれる。
卯木垣のことは知らぬが、山茶花や薔薇の垣根なども、花は外向についてゐることが多いやうである。垣根の山吹なども外へ咲き垂れる。それが行人の目を惹ひく所以であり、子供が折つて行く動機にもなる。この句は垣根の卯の花が外向に花をつけるといふ一事を捉へた外に、「咲かたがる」の語によつて、卯の花の趣を活かしている。類型や槪念を離れて、直に眼前の卯の花を描いてゐる點に、その特色を認めなければならぬ。
[やぶちゃん注:「卯木」ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata 。初夏に咲く「卯の花」は本種である。和名は「空木」で、幹(茎)が中空であることに由来するとされる。私が中・高を過ごしたのは、富山県高岡市伏木矢田新町の二上山麓で、しばしば、山中を跋渉したが、この花を見つけると、人気のない山中でも、心落ち着いたことを思い出す。]
靑梅や桑とる哥の息やすめ 萬 子
桑摘にいそしむ女たちが頻に唄をうたひつゝある。さすがに咽喉のどがかわいたか、うたひ草臥れた[やぶちゃん注:「くたびれた」。]かして、しばらく唄をやめた。その間に靑梅を取つて口に入れた、といふ意味らしい。この梅は桑圃[やぶちゃん注:「くはばたけ」。]のほとりに在るか、はじめから袂にでも忍ばせてあつたか、その邊の消息はわからぬが、靑梅は元來話だけでも渴に惱む兵士の咽喉を霑す效能を持つてゐるのだから、實際口にすれば架空の梅に百倍するものがあるに相違ない。
野趣野情に富んだ句である。花が屢〻高士隱者に配せらるゝに引きかへ、靑梅は所詮仙家の食物にはならぬ。村孃[やぶちゃん注:「むらむすめ」。]が桑摘唄の間に用ゐるのは、適材適所と云ふべきであらう。「息やすめ」の語もこの野趣野情に適してゐるやうな氣がする。
[やぶちゃん注:「桑摘」バラ目クワ科クワ属 Morus の葉を蚕の餌とするため、摘んでいるのである。脱線だが、私は、昔、よく裏山でヤマグワ Morus bombycis の実を食べた。いつも、食った後に舌がいらいらしたのを、私は今日の今日まで桑の実のアクとか、実に生えている細い毛のせいだ、と思い込んでいたのだが、ウィキの「クワ」の「果実」の項を見たら、『蛾の幼虫が好み、その体毛が抜け落ちて付着するので』、『食する際には十分な水洗いを行う必要がある』とあった。うぐぇえええ!!!]
家々の門や田植の仕舞歌 卯 七
その邊の田を植え了つて、各〻自分の家へ歸つて來る。その門口へ來たところで、もう一度田植唄をうたふといふ意味らしい。「仕舞歌」といふのは、特にさういふ唄がきまつてゐるのか、たゞ最後にうたふといふだけでこういつたのか、吾々にはよくわからない。
柳田國男氏の「民謠覺書」によると、「田植唄は、最近の約三、四十年が衰亡期であつた。もはや復活する見込も無く、又年寄の歌の文句や節を記憶する者も、次第に無くならうとして居る」といふことである。田植は年々歲々繰返されても、田園を賑はす田植唄なるものは、拂拭したやうに消え去る時が來るのかも知れない。さういふ時代から過去を顧ることになつたら、この句などは注目すべき一材料たるを失はぬであらう。
この句の眼目は「家々」と複數になつてゐるところに在る。夕暮近くなつた田の面[やぶちゃん注:「も」。]に響いて、方々から田植の仕舞唄が聞えて來る。どこも無事に田植を了つたらしいといふ、一安堵したやうな氣持も窺はれる。この場合、默々として家に歸るのでは、一日の疲が身に殘るに過ぎまい。一くさりの唄が如何に心身を和らげ、慰安を與へるか。――この句の連想の中にはそんなことも浮んで來る。
「民謠覺書」には、田植唄は朝と晝と夕で、それぞれうたう文句を異にする、愈〻日が暮れてその日の田植が終る前になると、「田の神あげ」卽ち田神を送る唄が歌はれたやうだ、と書いてある。「仕舞歌」といふ言葉は用ゐられてないが、この場合も或はさういふ種類の唄をうたふのかも知れない。とにかく机上の句案では容易に探り得ぬ趣である。
[やぶちゃん注:私は生の田植え歌を実際に聴いたことはない。私が初めて聴いたのは、黒澤明の「七人の侍」のエンディングでであった。
『柳田國男氏の「民謠覺書」』第一回は昭和一〇(一九三五)年四月『文学』初出で、その後、複数の雑誌に連載され、昭和十五年五月に創元叢書四十七として単行本刊行された。私はこの論考には、あまり惹かれないので、電子化する予定は、ない。漢字は新字であるが、正仮名のものを、「私設万葉文庫」のこちらの「定本柳田國男集 第十七卷(新装版)」(一九六九年筑摩書房刊)の電子化物で読める(冒頭から開始。宵曲の最初の引用はページ・ナンバー・ガイドの「(192)」の「田植唄の話」の冒頭で、後者は「(195)」以下に当たる)。原本は国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認出来る。]
靑柹や壁土こねて休み居る 旦 藁
この靑柹は木になつてゐるのか、地上に落ちてゐるのかわからぬが、そのほとりに壁土がこねかけたまゝになつてゐる、といふ卽景を詠んだのである。靑柹といふと、自然樹頭に在るよりも、ぽたぽた地上に落ちてゐる樣が想像される。こねかけた壁土の中などにも落ちてゐさうであるが、それは想像に上るまでで、文字に現れてゐるわけではない。
たゞ靑柹とこねかけた壁土との間には、一種の調和がある。この調和は言葉で說明するのは困難だけれども、俳諧を解する者なら直に感じ得る筈である。上を「靑柹や」と云放したまゝ「壁土こねて休み居る」と承けてゐるあたり、むしろ近頃の句と相通ずる點があるかと思ふ。
[やぶちゃん注:「旦藁」「たんかう」。生没年未詳の蕉門。名古屋の菓子商で、尾張俳壇の古参の一人。作品は「春の日」・「阿羅野」・「猿蓑」等に残る。享保一八(一七三三)年刊の「古渡集」に辞世の句が載る。別号に意水庵。]
蜘のいや蓮の卷葉のひらき時 長 虹
「今昔物語」に蜂と蜘蛛と戰ふ話があつた。一たび蜘蛛の擒[やぶちゃん注:「とりこ」。]になつたのを人に助けられた蜂が、仲間を催して蜘蛛を螫しに來る。蜘蛛は軒から池の蓮の上に絲を垂れ、更にそれから水際まで下つてゐたので、蓮の葉は隙間が無いまで螫されても、遂に身を全うしたといふのである。
この句にはそんな因緣は無い。たゞ蜘蛛の絲が蓮の卷葉にかゝつてゐる。その卷葉が恰も今開かうとしてゐる、といふので、「蜘のい」[やぶちゃん注:この「い」は「蜘蛛の網(巣・糸)」を指す語である。]なるものに時間が含まれてゐないため、下の「ひらき時」といふ言葉と格別照應するものが無いやうに思はれるが、開かうとする蓮の卷葉に蜘蛛の絲がかゝつてゐる、といふだけの意と解すべきであらう。この邊の表現はやはり元祿流に、大まかに出來上つてゐるのかも知れない。
[やぶちゃん注:『「今昔物語」に蜂と蜘蛛と戰ふ話があつた』これは、「今昔物語集」の「卷第二十九」の「蜂擬報蜘蛛怨語第三十七」(蜂、蜘蛛に怨(あた)を報ぜんと擬(す)る語(こと)第三十七)である。以下に電子化しておく。□は欠字。
*
今は昔、法成寺(ほふじやうじ)の阿彌陀堂の檐(のき)に、蜘蛛の網(い)を造りたりけり。其の□□[やぶちゃん注:「蜘蛛の糸」。漢字表記を期した意識的欠字。以下も同じ。]長く引きて、東(ひむがし)の池に有る蓮(はちす)の葉に通じたりけり。
此れを見る人、
「遙かに引きたる蜘蛛の□□かな。」
など云ひて有ける程に、大きなる蜂、一つ、飛び來(き)て、其の網の邊(ほとり)を渡りけるに、其の網に懸りにけり。
其の時に、何(いづ)こよりか出來(いでき)けむ、蜘蛛、□□に傳ひて急ぎ出來て、此の蜂を、只(ただ)、卷きに卷きければ、蜂、卷かれて、逃(に)ぐべき樣(やう)も無くて有りけるを、其の御堂の預りなりける法師、此れを見て、蜂の死なむずるを哀れむで、木を以つて搔き落しければ、蜂、土(つち)に落ちたりけれども、翼を、つふと[やぶちゃん注:擬態語。「すっかりぴったりと」の意。]、卷き籠められて、え飛ばざりければ、法師、木を以つて、蜂を抑へて、□□を搔き去(の)けたりける時に、蜂、飛びて去りにけり。
其の後(のち)、一兩日(いちりやうにち)を經て、大(おほ)きなる蜂、一つ、飛び來て、御堂の檐に、ぶめき[やぶちゃん注:擬声語。「ブンブン」。]行く。
其れに次(つづ)きて、何(いど)こより來たるとも見えで、同じ程なる蜂、二、三百許(ばかり)飛び來たりぬ。
其の蜘蛛の、網(い)、造りたる邊(あたり)に、皆、飛び付きて、檐・埀木(たるき)の迫(はさま)などを求めけるに、其の時に、蜘蛛、見えざりけり。
蜂、暫く有りて、其の引きたる□□を尋ねて、東の池に行きて、其の□□を引きたる蓮(はちす)の葉の上に付きて、ぶめき喤(ののし)りけるに、蜘蛛、其れにも見えざりければ、時(とき)半(なかば)許り有りて、蜂、皆、飛び去りて、失せにけり。
其の時に、御堂の預りの法師、此れを見て、怪しび思ふに、
『此れは。早う、一日(ひとひ)、蜘蛛の網に懸りて、卷かれたりし蜂の、多くの蜂を倡(いざな)ひて、「敵(かたき)、罸(う)たむ。」とて、其の蜘蛛を求むるなりけり。然(さ)れば、蜘蛛は、其れを知りて、隱れにけるなめり。』
と心得て、蜂共、飛び去りて後に、法師、其の網の邊に行きて檐を見るに、蜘蛛、更に見えざりければ、池に行きて、其の[やぶちゃん注:「絲を」。]引きたる蓮の葉を見ければ、其の蓮の葉をこそ、針を以つて差したる樣に、𨻶(ひま)も無く差したりければ、然(さ)て、蜘蛛は、其の蓮の葉の下に、蓮の葉の裏にも付かで、□□に[やぶちゃん注:「その下に糸を伸ばして、そこに」。]付いて、螫(さ)さるまじき程に、水際に下りてこそ有りけれ。蓮の葉、裏返(うらがへ)りて、垂れ敷き、異草共(ことくさども)など、池に滋(しげ)りたれば、蜘蛛、其の中(なか)に隱れて、蜂は見付けざりけるにこそは。
預りの法師、此(かく)と見て、語り傳へたるなりけり。
此れを思ふに、智(さと)り有らむ人すら、然(さ)はえ思ひ寄らじかし。蜂の、多くの蜂を、倡(いざな)ひ集めて、怨(あた)を報ぜむと爲(す)るは、然(さ)も、有りなむ。獸(けもの)は、互ひに、敵(かたき)を罸(う)つ、常の事なり。
其れに、蜘蛛の、
『蜂、我れを罸(うち)に來らむずらむ。』
と心得て、
『然(さ)て許(ばかり)こそ、命は、助からめ。』
と思ひ得て、破無(わりな)くして[やぶちゃん注:尋常では通用しない事態に対して、普通の論理では考えられない手段を駆使し。]、此(か)く、隱れて、命を存(そん)する事は、有り難し。然(しか)れば、蜂には、蜘蛛、遙かに增(まさ)りたり。
預りの法師の、正(まさ)しく語り傳へたるとや。
*
このロケーションの「法成寺」は、藤原道長が造営した現在の上京区の東端にあった寺。現存しない。ここ(グーグル・マップ・データ)。
これを以って「夏」の部は終っている。]
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