柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(27)
陣貝の聲のつよさや雲の峯 十 丈
「陣貝[やぶちゃん注:「ぢんがひ」。]」といふのは陣中で吹く貝のことである。貝の音にも種々の區別があるのは、今の喇叭と同じであらう。實際の戰陣で貝を鳴らす場合を、空想的に描いたとしても惡くはないが、元祿の句のことだから、やはり實感と見るべく、從つて演習的の陣貝と思はれる。
雲の峯は山の如く夏日の天に聳そびえ立つものだけあつて、時に或音響が配合される。明治の句にも、「突き當る鐘の響や雲の峯」「雲の峯に響きてかへる午砲かな」などといふのがあつた。この陣貝の音は必ずしも雲の峯に當つて反響する、といふ風に解さなくてもいゝ、雲の峯の强い感じと、陣貝の音の强い感じとが、配合の上に或調和を得てゐるまでである。
[やぶちゃん注:「陣貝」は言うまでもなく、腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis である。私のものは、いろいろあるが、ここは、ヴィジュアルから、『毛利梅園「梅園介譜」 梭尾螺(ホラガイ)』をリンクさせておく。
「突き當る鐘の響や雲の峯」作者不詳。「當る」は「あてる」であろう。
「雲の峯に響きてかへる午砲かな」高濱虛子の句。大正元(一九一三)年八月の森鷗外宛書簡に載る。この「午砲」は明治天皇崩御のそれである。]
すゞしさや月ひるがへすぬり團扇 祐 甫
月下に涼んでゐる場合であらう。灯火などは傍に無いので、月光を受けた塗團扇が涼しく光る。團扇をひるがへす度に、一面に受けた月の光もひるがへるやうに感ずる。「月ひるがへす」といふ言葉は際どくもあり、多少誇張を免れぬが、或感じは慥に捉へてゐるよやうである。
昔の通人は屋根船を綾瀨川まで漕ぎ上せて、月下の水に向つて開いた銀扇を投げる。地紙の銀泥が月光を受けて、きらきら光りながら水に落ちるのを興じたものだといふ。たゞ月に對するのみで滿足せず、月光のうつるのを賞翫するすさびらしい。月光を受けた塗團扇は銀扇ほど美しくはないが、月を受けて光る點だけは普通の團扇と違ふ。作者はそこに興味を持つたのであらう。
尤も團扇は古來月のまどかなるに譬へとえられてゐる。團扇をひるがへすのを月に見立てたのだ、といふ解釋も成立たぬことはない。併しそれでは肝腎の塗團扇といふことが格別利かぬやうに思ふ。やはり前解に從つて置きたい。
李盛る見世のほこりの暑かな 万 乎
果物といふものは何れかと云へば涼しい感じを伴ふやうである。併し果物にもより、又場所の關係もあるから、いつでも必ず涼しさを連想させるとは限らない。店先に李が堆く盛上げてあつて、それに埃がかゝつてゐるなどといふのは、どうしても涼を呼ぶ趣ではない。暑い方の感じであらう。作者はそれを率直に描いたのである。
芥川龍之介氏の句に「漢口」といふ前書で「一籃の暑さてりけり巴旦杏」といふのがある。この暑さは巴旦杏の色を主にしたのかも知れない。併しこの一籃の巴旦杏を前にして、漢口の市街を想像すると、むつとするやうな暑さと、大陸の埃とが無限にひろがつて來るやうな氣がする。卽ち感じの上において、どこかこの句と相通ずるものがある。
[やぶちゃん注:芥川龍之介の句は、私の『芥川龍之介 手帳7 (24) 中国旅行最後の記録 / 中国関連「手帳6・7」全注釈~完遂』を見られたい。]
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