故藪野豊昭所蔵 川路柳虹詩集「波」(初版・限定五百部・並製) / 川路柳虹の詩「火の頌歌」・深沢幸雄画・「あとがき」・奥附 / 川路柳虹詩集「波」電子化注~了
[やぶちゃん注:必ず、第一回の電子化の冒頭の私の注を読まれたい。
本詩篇は━━この詩集の発行された十日後に生まれた私には━━恰も━━私に対して語れた詩篇のような━━気がした…………]
火 の 頌 歌
[やぶちゃん注:「火の頌歌」の標題独立ページ(左ページ。ケント紙印刷挿入綴じ込み)の画像(経年劣化でヤケているため、補正を加えた)。深沢幸雄画には、右下方に『Y.K』の手書きサインがある。この原本のページは、劣化汚損(シミ)が少し見えるので、トリミングの後、清拭補正をした。やや「頌歌」は一般には「じゆか(じゅか)」で、所謂、「オード」(ode)。崇高な主題を、多く人や事物などに呼びかける形式で歌う、自由形式の叙情詩。「しようか(しょうか)」とも読み、「頌賦」(しょうふ)とも言う(個人的には「頌」の別音で「コウ」で読みたくなるのだが)。但し、川路は本文で「頌歌」に「ほめうた」とルビをしているので、ここも「ひのほめうた」と読むべきであろう。さて、この像は、一見、複数の臂を持っているように見えたことから、私はヒンドゥー教の女神ドゥルガー(ラテン文字転写:Durgā)ではないかと思ったのだが、第一連に「破壊と創造の神湿婆(シバ)」と出るので、インドの神シヴァ(Śiva)と知れた。「リグ・ヴェーダ」等のヴェーダ文献では「ルドラ」の名で知られる。ルドラは暴風神の一面のほか、理由なく家畜などに害をなす恐ろしい神であった。それ故、「パシュパティ」(家畜の主)・「シヴァ」(優和なもの)・「マハーデーヴァ」(偉大な神)などの名で宥められた。ブラフマー・ヴィシュヌと並び、ヒンドゥー教の三大神の一神で、「世界を破壊する神」として、恐ろしい一面を残す。インド各地で崇拝されていたさまざまな女神が、パールヴァティー・ウマー・ドゥルガー・カーリーなどの名で、シヴァの配偶神となった。身体に灰を塗り、蛇を首に巻き、髪の毛を乱した苦行者の姿で現れるが、インド各地の数多くの寺院では、女陰の上に立つ男根の形の像(リンガ)の姿で礼拝されている。以上は、主文を山川出版社「山川 世界史小辞典」に拠ったが、そこにあるイラストが、よく一致する。また、当該ウィキの『ナタラージャ(英語版)として踊っているシヴァ。チョーラ朝時代の物。ロサンゼルス・カウンティ美術館。』とキャプションがあるカラー画像もよく符合する。]
火 の 頌 歌
一
わたしは想ふ、あの巨きな祭壇を、
廻(めぐ)る焰の渦にとり捲かれた
破壊と創造の神湿婆(シバ)を。
[やぶちゃん注:この一行目には「を、」の後に「]」のようなものが見えるが、これは植字の際の枠が出っ張ったものと断じて、無視した。]
生命の火を、
力の火を、
無数の手の仕業(しわざ)を。
その源(みなもと)を、
そのたゆまぬ動きを、
その跳躍を、
その怒(いかり)を、
その歓喜(よろこび)を。
おまへは火の肉身、
おまへは火の所業、
おまへは火の頌歌(ほめうた)。
おお、内在の焰よ、
わたしの生れぬ以前から
わたしの墓場で朽ち果てる未来(ゆくすえ)まで、
泉のやうに湧きいでる
不可思臓の持続よ。
暴虐の㮙伽(リンガ)よ。
逞しい不屈の
死を征服する力よ。
混沌の中に交って
生命の種子を求める
淸純な血液の種族よ。
想像の力で羽搏きながら、
いつも眼に見える世界を創(つく)ってゆく、
あの雲のやうな自由と、
あの汗のやうな必然とで、
生みいだし、生みいだし、
また砕(こわ)し、うち砕し、
停ることを知らない神湿婆(シバ)よ。
おまへの智慧はどこから来(く)る!
この世界の巧みな構造を、
寸分も違(たが)はぬ秩序と変化を
おまへ自身の肉体に包蔵して
おまへは人間に君臨する。
原子の秘密を解(さと)った人間が
その猾(さか)しらな手で地球を砕さうとも、
おまへの破壊はまだ止むまい、
おまへの創造はまだ止むまい。
[やぶちゃん注:「おまへの智慧はどこから来(く)る!」の「来」は底本では「米」であるが、「来」の異体字には「米」はないから、誤植と断じ、特異的に訂した。]
二
この世にひとりの嬰児(あかご)が生れた、
神に祝福された生命(いのち)で
声をかぎりに泣きながら。
世界に一つの霊(たましひ)が增えた、
加へられた一つの霊(たましひ)よ。
だが、その生命(いのち)は
この人間の世界では
ただ一つの数(かず)にすぎない。
羊水のなかから投げ出された
その「一つ」よ、孤独な生命よ。
血と粘液に染まった花の莟よ。
兩親(ふたおや)は貧しくて、
ふたりの作った分身に対して
ただ悲み惱んでゐる。
おまへの運命の始りが
歓びと涙で充されながら
おまへの吸う乳房の
そのゆたかな含らみのなかに
この世界を呪ふ種子(たね)が播かれてゐる。
呪はれた生命よ、━━地上の。だが、
おまへは生きてゆく、
おまへの眼とおまへの手が
いつか自(みづか)らを作ってゆくまで。
その「自ら」を知る理性と本能が
ふたたび妖はしい愛の華を開かす。
それこそ内に潜んだ永遠の
湿婆(シバ)の焰の戯れだ、因果だ。
悲劇がそこから生れる━━
幾代(いくだい)も同じ人間の悲劇が。
[やぶちゃん注:「妖はしい」以下の「三」の第二連に出るルビに従い、「まよはしい」と訓じておく。]
だが、その戯れは正しい、
それは火の所業だ、
われら心つつましく
その火を讃(たた)へよう。
湿婆(シバ)よ、
おまへの所業に繫(つなが)る宇宙こそ
みんな戯れだ、(大きな)鱒の戯れだ!
三
燦爛とした星々(ほしぼし)の光りに
人問の愛のとどかぬところで
宇宙はその構図を展(ひろ)げている。
その下で燃えつづける
焰よ、湿婆(シバ)の祭壇よ。
吾ら与へるものも、
また亨(う)くるものも、
この世界ではひとしき所有だ。
劃り立つ岩々の黑い影、
夜の階黑をいや深くする森、
その森の重(かさな)る中の銀灰色の祠堂(しどう)よ、
この存在のおぼろかな中にも
ひとしい「影」として立つ吾ら。
[やぶちゃん注:「劃り立つ」「くぎりたつ」と訓じておく。]
まことに所有は影でしかない、
わたしたちは何を有(も)つのか!
わたしたちのこの世にもってきたものは
火葬場で焼かれる肉体、蛆蟲の餌(えさ)となる骨、
わづかな一握の友と埃(ほこり)だけ。
ああ無にひとしい存在よ、
現象は妖(まよ)はしか虛偽(いつわり)か、
今日(きよう)在って明日(あす)は消え去るもの、
輝かしい色と光りに充されながら、
ただ「時」のなかにうごめく陽炎(かげらう)━━
だが、その「影」にのみ頼る吾ら、
その影をまこと美しとおもひ、
まことの所有と信じあひつつ
それと抱きそれと苦しむ吾ら。
そのなかに湿婆よ、
おまへだけが「時」から「時」へと
無際限の力で生きつづける。
焼け爛(ただ)れた朱色(しゆいろ)に輝く
㮙伽よ、生々の立体よ。
尽くるなき神の戯れの激しさに
湧き立つ溶邇(ヨーニ)の泉は水沫(しぶき)をあげ、
おまへの多手はそこから
死滅しても、死滅しても、
あとから、後から生みいだす
創造の秘密を摑む。
ああ、湿婆よ、おまへだけが有(も)つのだ。
[やぶちゃん注:底本では、この「35」ページは「死滅しても、死滅しても、」から、以下の「あらゆる「影」を、湿婆よ!」までであるが、印刷時にこのページだけが、通常より、三字分下って印刷されてしまっている。版組みの誤りであるから、無視した。
「溶邇(ヨーニ)」「ヨニ」とも。サンスクリット語(ラテン文字転写:yoni)。女性生殖器、また、子宮を指す。]
四
さらば破壊せよ。
この誤ったに世界を。
湿婆よ、その多手をあげて
破壊せよ、錯誤の一切を。
在るものを、死を、悪を、偽りを、
偏(かたよ)った無益な富を、機構を、
あらゆる「影」を、湿婆よ!
おお、円満の智慧、梵(ブラフマ)よ、
おまへの光りはいまどこにある!
手を携えて躍る毘湿奴(バイシユヌ)よ、
おまへの清明はいまどこにあるか!
雲に蔽はれた月夜(つきよ)、
遠くへわたる空の浮蛾(かげろう)、
その微かな羽搏きの生(いのち)よ、
そのほの明るみよ。
哀れな人間の哀訴と屈從と夢よ、
いたづらな虛(むな)しいものへの憧れよ。
[やぶちゃん注:「梵(ブラフマ)」ブラフマン(ラテン文字転写:Brahman)は、本来は、インドのバラモン教思想で説かれる宇宙の根本原理。もとは『聖典「ベーダ」の言葉』、及び、『それが持つ呪力』を意味した。自己の主体的原理である「アートマン」と対比的にも用いられ、この場合、「ブラフマン」と「アートマン」は合一する(「梵我一如」)とされる。そこから転じて、シバやビシュヌとともに、ヒンドゥー教の最高神。後に、前二者にとって代わられ、仏教に取り入れられて、「梵天」となった(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「毘湿奴(バイシユヌ)」ビシュヌ神(同前:Viṣṇu)。漢訳では「毘瑟笯」「毘紐」などとも表記する。ヒンドゥー教に於いて、破壊の神シバと並ぶ最も有力な神格で、持続の役を負う。元来は太陽神で、「天界を三歩で歩く」と言われ、「愛の神」として、信者に平等に恩恵を与え、クリシュナ・ブッダなど十種の化身を現じて、人類を救済するとされる。ブラフマン(梵天)・シバとともに三神一体をなし、神像では正面にブラフマン、右にビシュヌ、左にシバを配す(同前)。]
巧みな蜂の巣の技術よ、文明よ、
空そそる巨石の層楼、
地下這ひめぐる黃金蟲の鉄道、
一瞬に地球を廻る蟋蟀(ばつた)のジエツト機よ、
だが吾らの幸福はそこにはないのだ。
彩織りなす光りと影よ。
去れ、去れ、忌はしい諸々(もろもろ)の影よ、
ただ意味を加へよ、この世界に。
建て直せ一切を!
すべての消え去る映像のあとに!
この世界を、不動の実在にまで!
[やぶちゃん注:「蟋蟀(ばつた)」一般には、この漢字は、広義には、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科 Grylloideaに属するコオロギ類を指示し、「しつしゆ(しっしゅ)/こほろぎ」と読む。時に「きりぎりす」(直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis で、青森県から岡山県に棲息するとするヒガシキリギリス Gampsocleis mikado 及び、近畿地方から九州地方を棲息域とするニシキリギリス Gampsocleis buergeri の二種に分ける考え方が一般的である)と読む場合もあるが、私は支持出来ない。通常、コオロギを「バッタ」と読むことは、極めて異例であるが、川路はそのようにルビを振っている。古典文学研究では、「蟋蟀」はコオロギであると私は信ずるものである。より詳しくは、私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」、及び、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」の私の注を参照されたい。]
われらの所有は誰のものか、
われらの所有を神に還せよ。
すべての人間の生きる
まことに生きる力の源に!
火よ、淸淨にして虛無なる、
虛無にしでまことの実在なる
火よ、面(おもて)を輝かして跳る湿婆(しば)よ、
内在の㮙伽(リンガ)よ、破壊の手に、
創造の恍惚に、燃え上(あが)れ、焰よ、焰よ!
(一九四七年)
[やぶちゃん注:「湿婆(シバ)」は底本では、ルビが「しげ」となっている。誤植と断じ、特異的に訂した。
以下、川路による「あとがき」。]
あ と が き
前集「無為の設計」を出してから早くも十年近い月日がたつた。この詩集は終戦後にかかれた作品のなかから選まれた二篇である。このあとにかかれたものと、この二篇とは詩の性格が異るので一冊にまとめ難いため、まづ、先きにこの二篇を離して出すことにした。私の今の詩境はむしろこののちの作品にあるのだが、それはなほ推敲中なので他日に発表を待つことにする。
この二篇は概して言へば私の作品としては浪漫的なものに属する。「波」はかつて戦後に出た或る小雑誌に発表したものだが数年かかつて推敲し、いくたの行を改删した。「火の頌歌」は全く未発表の作であるが創作後これも推敵改删を経て一年前に完成したものである。「波」に現はれた内容の一部はすでに「勝利」「歩む人」等に現はれてゐる生命の神秘観であり、「火の頌歌」はそれを印度教の思想の中に見出した生命根元の礼讃である。「波」と「火の頌歌」は前集に収めた「雲のうた」を加へて私の三部作の形になつた。
昭和三十一年十二月 著 者
[やぶちゃん注:「無為の設計」昭和二二(一九四七)年三月冨岳本社刊の詩集「無爲の設計」。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、全篇が視認出来る。
『「波」はかつて戦後に出た或る小雑誌に発表したもの』調べたところ、竹井出版発行の雑誌『文藝大學』(二巻二号・昭和二三(一九四八)年二月発行)に掲載されている。
「改删」(かいさく)は「改削」に同じ。語句などを改めたり、除いたりして、文章を直すこと。
「勝利」詩集書名。大正七(一九一八)年曙光詩社刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、原本詩集が視認出来る。
「歩む人」詩集書名。大正一一(一九二二)年大鐙閣刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、原本詩集が視認出来る。
「雲のうた」詩集「無為の設計」巻頭に配された詩。同前で、ここから。]
[やぶちゃん注:以下、奥附(カラー)。一行字数を現物と一致させた。]
詩集 「波」 五百部 限定版 • 著者 川路柳虹 •
昭和參拾貳年貳月伍日 • 印刷發行 • 發行所 •
東京都中野區大和町貳七四番他 • 西 東 社
發賣東京都千代田區神田神保町壹之七十字屋書店
特製本 • 深澤幸雄・腐蝕鋼駈原画入・頒價壹
千貳百圓 • 拾部限定 • 不許複製
並製頒價壹百貳拾圓
« 柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(28) | トップページ | 父が描いた16歳の時の陸軍通信特攻隊の模擬戦車への特攻練習図 »