柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(30)
白南風や風吹もどす紗の羽織 沙 明
沙明といふのは筑前黑崎の人である。助然がこれを訪ねて別るゝに當り、沙明は船まで送つて來て別を惜んだ。その時示したのがこの句で、「下のかたより靑鷺のこゑ」といふ脇を助然がつけてゐる。
白南風[やぶちゃん注:「しらはえ」。]といふのは近年白秋氏が歌集に名づけたりしたので、比較的人の耳目に熟してゐるかと思ふが、黑南風と竝んで梅雨中の天象の一となつている。古來いろいろな解釋があるらしいけれども、梅雨に入つて吹くのをクロハエ、梅雨半に吹くのをアラハエ、梅雨晴るゝ頃より吹く南風をシラハエといふ「物類稱呼」の說に從つて置く。いづれにしても空の明るさを伴ふ梅雨時の現象であることは間違ない。
船まで送つて來て別を惜む。漸く晴に向わんとする梅雨の空から來る風が、頻に紗の羽織を吹く。「吹もどす」の一語に惜別の情が含まれてゐることは勿論である。海の空は薄明るくなつて、自おのずから季節の移るべきを示してゐるのであらう。比較的大きな光景を前にして、小さな紗の羽織を描き、陰鬱の雲を散ずべき白南風に惜別の情を寓してゐる。「下のかたより靑鷺のこゑ」といふ助然の脇も、折からの景物と思はれる。普通に景中情ありなどといふ平凡なものではない。實景實感の直に讀者の胸に迫る句である。
[やぶちゃん注:「沙明」筑前蕉門の筆答格であった関屋沙明は、現在の福岡県北九州市八幡西区九州市黒崎(グーグル・マップ・データ)の町茶屋であった「脇本陣」を経営していた。「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 五」の私の「沙明」の注を見られたい。
「助然」福岡の嘉穂郡内野(現在の福岡県飯塚市内野)の蕉門俳人荒巻助然(じょねん ?~元文二(一七三七)年)。筑前生まれ。名は重賢。通称、市郎左衛門・佐平次。父の西竹を始め、子の助嶺・苔路・仙之らも、皆、俳人である。没後、志太野坡・苔路により、追善集「冬紅葉」が刊行されている。編著に「蝶すがた」・「山ひこ」・「蝶姿」等がある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。
「白南風といふのは近年白秋氏が歌集に名づけたりした」北原白秋の歌集「白南風」(昭和九(一九三四)年アルス刊)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本が視認出来る。「序」の「2」の冒頭で書名の由来を述べている。「白南風」を詠んだ短歌は、「蝶影」の第二首、
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眼はあげて吾が附く道のけどほさよ
白南風(しらはえ)の空をひとつ飛ぶ蝶
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の、これを始めとして、六首ある。但し、本書自体の刊行は昭和一八(一九三三)年だが、初出は昭和十年に宵曲が同志とともに始めた俳諧中心の雑誌『谺』の創刊号から始めたものであるから、「近年」は腑に落ちる。
「物類稱呼」「諸國方言物類稱呼」。江戸後期の全国的規模で採集された方言辞書。越谷吾山(こしがやござん) 著。五巻。安永四(一七七五)年刊。天地・人倫・動物・生植・器用・衣食・言語の七類に分類して約五百五十語を選んで、それに対する全国各地の方言約四千語を示し、さらに古書の用例を引くなどして詳しい解説を付す。国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫「物類稱呼」(東条操校訂・昭和一六(一九四一)年刊)の当該部(「卷一」の「風」の条の一節)の前後を以下に電子化しておく。「風」の条目名のみ行頭にあって、以下、本文は三字下げであるが、以下のように示した。【 】は二行割注。
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風
かぜ〇畿內及中國の船人のことばに 西北の風を○あなぜと稱す 二月の風を○をに北(ぎた)といふ 三月の風を○へばりごちと云 四月未(ひつじ)の方より吹風を○あぶらまぜと云 五月の南風を○あらはへといふ 六月未の風を○しらはへといふ土用中の北風を○土用あいといふ 七月未の風を○おくりまぜと云 八月の風を○あをぎたといふ 九月の風を○はま西といふ 十月の風を○ほしの入りごちといふ 十一月十二月の頃吹風を○大西(をゝにし)と云〇西國にても南風を○はへと云 東南の風を○をしやばへと云〇北國にては東風を○あゆの風といふ 西北の風を○よりけと云 北風を○ひとつあゆと云 東北の風を○ぢあゆと云 丑の方より吹風を○まあゆと云 南風を○ぢくだりと云〇江戶にては東南の風を○いなさといふ 東北の風を○ならいと云【つくばならいといふあり】 西北の風を○はがちと云 東風を○下總ごちといふ 未申の方より吹風を○富士(ふじ)南と云〇伊勢ノ 國鳥羽 或は伊豆國の船詞に 二月十五日前後に一七日ほど いかにもやはらかに吹く風を○ねはん西風といふ【但し年每に吹にもあらす】三月土用少し前より南風吹○あぶらまじといふ 四月よき日和にて南風吹○おぼせといふ 五月梅雨に入て吹南風を○くろはへといふ 梅雨半(なかば)に吹風を○あらはへと云 梅雨晴る頃より吹南風を○しらはへと云 六月土用半過より北東の風一七日程吹年有○ごさいと云【六月十六七日伊勢の御祭禮有 出家も參事也 故に御祭(ごさい)といふ也】 六月中旬東風吹年あり○ぼんごちと云 それ過てより南風吹を○くれまじといふ 八月の風を○あをぎたと云【はじめは雨にそひて吹 後はよくはれて北風吹なり】又 ○雁わたしとも云 十月中旬に吹く北東の風を○星の出入といふ【夜明にすばる星西に入時吹也】又大風には二月吹を○貝よせと云【正月の節より四十八夜前後の西風也】三四月東南の風吹を○なたねづゆと云 四五月吹東南の風を○たけのこづゆといふ 八月に吹風を○野分キといふ【正月の節より二百十日め前後にふくなり】十月西風吹○神わたしと云【霜月の荒といふは廿三日より晦日まての間に荒るとしあり】○近江國湖水にて風の定らぬ事を○論義といふ 日和風を○といてと云 湖上(こしやう)の風を○根わたしと云 秋冬の風を○日あらしといふ 春夏の風を○やませ風 又○ながせ風 又○せた嵐など云〇播磨邊 又四國にて春南風にて雨を催す風を○やうずと云〇越後にて東風を○だしといふ 西北の風を○しもにしといふ西南の風を○ひかたといふ[やぶちゃん注:以下略。]
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うたゝねのかほのゆがみや五月雨 釣 壺
五月雨[やぶちゃん注:「さつきあめ」。]に降りこめられたつれづれにうたゝねをしてゐる人がある。ふとその顏を見ると、どういふものか歪んで見える。そこに或寂しさを感じた、といふのである。
病人などでなしに、うたゝねの人であるところがこの句の面白味である。少し老いた人のやうな氣がするが、必ずしもそう限定せねばならぬといふわけではない。
蜀魂啼や琴引御簾の奧 吾 仲
作者はこの場合、御簾[やぶちゃん注:「みす」。]の外にいるものと思はれる。ほとゝぎすが啼き渡る、御簾の奧では今琴を彈きつゝある、といふ情景である。
必ずしも平安朝の物語を連想する必要は無いが、奧深い、大きな屋形であることは疑を容れぬ。琴を彈ずる人は恐らくほとゝぎすの聲が耳に入らぬのであらう。「虞美人草」の文句にある通り、「ころりんと搔き鳴らし、又ころりんと搔き亂」しつゝある。
音に音を配合するのは、一句の效果を弱めるといふ人があるかも知れない。併しそれは御互に卽き[やぶちゃん注:「つき」。]過ぎて、相殺作用を起す場合の話であらう。この場合のほとゝぎすは琴を妨げず、琴もまたほとゝぎすを妨げない。作者は御簾の外に在つて、兩の耳に二つの聲を收めるとすれば、その邊の心配は無いわけである。
[やぶちゃん注:「蜀魂」通常は「シヨクコン」であるが、ここは無論、「ほととぎす」と訓じている。これは、蜀の望帝の魂が、化して、この鳥になったという伝説から、ホトトギスの別名となったもの。「蜀魄」「蜀鳥」とも書く。
『「虞美人草」の文句』は「三」の一節で(読みは一部に留めた)、
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宗近君は籐(と)の椅子に橫平(わうへい)な腰を据ゑて先(さ)つきから隣りの琴を聽いてゐる。御室(おむろ)の御所の春寒(はるさむ)に、銘めいを給はる琵琶の風流は知る筈がない。十三絃を南部の菖蒲形(しやうぶがた)に張つて、象牙に置いた蒔繪の舌を氣高しと思ふ數奇(すき)も有(も)たぬ。宗近君は只漫然と聽きいてゐる許りである。
滴々と垣を蔽ふ連𧄍(れんげう)の黃な向うは業平竹(なりひらだけ)の一叢(ひとむら)に、苔の多い御影の突(つ)く這(ば)ひを添へて、三坪に足らぬ小庭には、一面に叡山苔を這はしてゐる。琴の音(ね)は此庭から出る。
雨は一つである。冬は合羽が凍(こほ)る。秋は燈心が細る。夏は褌(ふどし)を洗ふ。春は――平打(ひらうち)の銀簪(ぎんかん)を疊の上に落した儘、貝合せの貝の裏が朱と金と藍に光る傍(かたはら)に、ころりんと搔き鳴らし、又ころりんと搔き亂す。宗近君の聽いてるのは正に此ころりんである。
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である。]
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