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2024/05/01

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(19)

 

   鮓喰て先おちつくや祭顏  蒙 野

 

 祭の家に招かれた場合であらう。もてなしの鮓の御馳走になつて、一先づ落著いたら、何となく祭らしい氣分になつた、といふ場合を敍したのである。この鮓は今の握鮓のやうなものではない。祭の爲に特に自分の家でつけたものと思はれる。尤も句の眼目は、鮓を食つて一先づ落著いたといふ段落にあるので、鮓そのものの吟味はいづれでも差支無い。恐らく鮓を前奏曲として、本格的な御馳走があとに控へてゐるのであらうが、それはどうでもいゝ。鮓を食つて先づ祭氣分になつた、といふところにこの句の山はある。「先」の一語が重要な働きをつとめてゐるわけである。

 何々顏といふ言葉は平安朝以來のもので、天明時代になつてから、蕪村や太祇が頻にこれを句に用ゐた。子規居士もこの語に就て何か書いたことがあつたと記憶する。「祭顏」といふやうな言葉でも、たつた一語で祭の氣分を最も端的に現してゐる。之に代ふる言葉の見當らぬのは勿論、說明しようとすれば多くの言葉を補はなければならぬ。日本語の長所のよく發揮された一例と見るべきであらう。

[やぶちゃん注:子規のそれは、知られたものでは、「墨汁一滴」の以下である。明治三四(一九〇一)年三月二十四日附『日本』初出である。以下に示す。私は、この書、新字体のものしか所持しないので、国立国会図書館デジタルコレクションの『子規全集』第七巻(大正一三(一九二四)年アルス刊)の当該部を視認した。一部、推定で、歴史的仮名遣で読みを補った。

   *

 加賀大聖寺(だいしやうじ)の雜誌蟲籠第三卷第二號出づ。裏畫「初午」は道三の筆なる由實にうまい者なり。唯〻(ただ)蕪村の句の書き樣は稍〻(やや)位置の不調子を免れざるか。

 右雜誌の中重箱楊枝と題する文の中に

  俳諧に何々顏といふ語は、盛に蕪村や太祇に用ゐられ

  た、そこで子規君も多分此二人の新造語であらうとま

  で言はれたが、是は少し言ひすごしである。元祿二年

  板の其角十七條に、附句の例として

     宿札に假名づけしたるとはれ顏

  とある、恐らくこの邊からの思ひつきであらう。

と書けり。余はさる事をいひしや否や今は忘れたれど若し言ひたらばそは誤なり。何々顏といふ語は俳諧に始まりたるに非ずして古く源氏物語などにもあり、空そらも見知り顏にといへる文句を擧げて前年ホトトギス隨問隨答欄に辨じたる事あり。されば連歌時代の發句にも

   又や鳴かん聞かず顏せば時鳥ほととぎす 宗 長

などあり。猶俳諧時代に入りても元祿より以前に

   ふぐ干や枯なん葱の恨み顏 子 英

といふあり。こは天和三年刊行の虛栗に出でたる句なり。其外元祿にも何々顏の句少からず。

   寺に寐て誠顏なる月見かな 芭 蕉

   苗代やうれし顏にも鳴く蛙 許 六

   蓮蹈みて物知り顏の蛙かな 卜 柳

   雛立て今日ぞ娘の亭主顏  硯 角

など其一例なり。因にいふ。太祇にも蕪村にも几董にも訪はれ顏といふ句あるは其角の附句より思ひつきたるならん[やぶちゃん注:句点なしはママ。]

   *

ここで言う「ホトトギス隨問隨答欄に辨じたる事あり」というのは、国立国会図書館デジタルコレクションの同じく『子規全集』の第十三巻(大正一五(一九二六)年アルス刊)で、当該部を視認出来る。短いので、電子化しておく。底本の傍点「○」は太字に代えた。

   *

○第八問 蕪村には往々何々顏なる句あり。是芭蕉の

   菜畑に花見顏なる雀かな

の句調によりたるものにや。芭蕉以前にも此種ありや。

 答 何々顏といふこと古き詞なり。其一例を擧ぐれば源氏物語紅葉賀にも、

  かざしの紅葉いたうちりすきてかほのにほひに

  けおされたるこゝちすればおまへなるいくをを

  りて左大將さしかへ給ふ日くれかゝるほどに氣

  色ばかりうちしぐれて空のけしきさへみしりが

  なるに

とある類なり。

   *]

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