柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(24)
蚊屋つるに又ふまへけり鋏筥 流 志
「旅行獨吟」といふ前書がある。金屬の鋏といふ字が書いてあるが、普通の挾箱、卽ち箱に棒を添へ、衣服などを納れて僕に擔はせて行くものの意であらう。金扁に拘泥して鋏を入れる筥ではないかなどと考へるのは、少々思ひ過[やぶちゃん注:「すごし」。]である。
蚊帳を釣るに當つて釣手が高い爲、何か踏臺になるものはないかと思つて物色した結果、挾箱を利用することにした。或旅宿でかういふ經驗を得たら、暫くして又同樣のことを繰返す機會に逢著した。「又」の一語によつて、その旅行の何日か續いたこともわかれば、同じ旅中に何度か挾箱を蹈臺にしたことも窺はれる。
一種の簡易生活であるが、その簡易も旅中より生れたものであることに注意しなければならぬ。「旅行獨吟」の前書が無いと、その點を看過する虞がある。
夏立たつや明障子の朝みどり 左 次
「明り障子」といふのは、或特別な障子を指す場合もあるらしいが、普通は今いふ障子のことである。ガラス障子といふやうな、更に明るいものの出現した今日から見れば、紙障子を「明り障子」と號するのは、いさゝか僣越の沙汰であらう。しかしこれが明り障子として通用する爲には、一方に明るくない障子のあつた時代を顧みなければならぬ。障子と云へば子供が指で破るものときめてかゝる時代になつては、却つて「明り」の語が何か特別のものの如く考へられる虞もあるからである。
晴れ渡つた朝空の色か、新綠の庭木の色か、或は兩者合體した色でも差支無い。紙の障子に外面からさういふ色がさすといふ、如何にも初夏の朝らしい爽快な感じである。「朝みどり」の語はこのまゝ朝と解すべく、淺綠の意味もあるなどといふ穿鑿はしない方がいゝ。
ほとゝぎす啼や子共こどものかけて來る 紫 道
この二つの事柄には元來關連はないのである。ほとゝぎすが啼く、向うから子供が駈けて來る、といふことを取合せたので、今ほとゝぎすが啼いたからと云つて、誰かに知らせに來たわけではない。たゞ關連のない二つの事柄をかうやつて一句に收めて見ると、必ずしも離れ離れのものとも思はれぬ。ほとゝぎすの倏忽な感じと、子供が駈けて來る動作との間に、自ら相通ずるものがあるのである。
この駈けて來る子供の姿は、やはり見えていた方がいゝ。その點から云つて、この句は眞晝間でないにしても、とにかく夜でない、明るい間のほとゝぎすであらうと思ふ。
[やぶちゃん注:これは聴視覚とモンタージュの勝利だ! 私は好き!
「紫道」坂本朱拙(承応二(一六五三)年~享保一八(一七三三)年:豊後生まれ。医を業とした。当初、中村西国に談林風を学んだが、元禄八()年に来遊した広瀬惟然の影響で蕉風に転じた。九州蕉門の先駆者。号に守拙・四方郎(よもろ)などがる)の門人。]
葉のふとる一夜々々や煙艸苗 釣 壺
畠に作つた煙草でもいゝが、昔のことだから、庭の隅か何かに生えた苗と見ても差支無い。ぐんぐん伸びる煙草苗が、一晚每に目に見えて大きくなる。葉の大きい、丈の高くなる植物だけに、その育ち方も著しく感ぜられるのである。平凡なやうであるが、煙草苗といふことは動かし難い。
見世掃て一人居るや更衣 助 然
「居る」は「オル」ではない、「スワル」とよむのである。鷗外博士の小說には坐すといふ場合に、「据わる」と書いてあつたやうに思ふ。「スワル」といふ言葉から考へると、さう書く方が正しいのかも知れぬ。今の人には手扁があつた方がわかりいゝが、感じから云へば「居る」の方が適切なやうでもある。
あまり大きな店ではなささうである。自分で掃除をして、綺麗になつた店の中に一人で坐つて見る。丁度冬の衣を脫いで、輕い袷に著更へた爽快な時節である。自ら滿足したやうな氣分が窺はれる。この場合「一人居る」者はどこまでも作者自身――卽ちこの句に於ける主人公で、他人が坐つてゐるのを傍觀したのでは面白くない。
[やぶちゃん注:「青空文庫全文検索」で「据わる 鴎外」(この「鴎」は気持ち悪い。鷗外自身も苦虫を潰す)のフレーズ検索で、純粋な小説では「鷄」・「蛇」・「雁」・「半日」・「獨身」等が出る。冒頭に本書が出るのは、御愛嬌。]
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