柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(21)
ほとゝぎす鳴や山田の日和虹 捨 石
晝のほとゝぎすらしい。日和虹といふのは、雨も降らぬのにかゝる虹をいふのであらう。後の俳書に「日和虹」といふ名のがあつたかと記憶する。山田の空には鮮に日和虹がかゝり、ほとゝぎすの啼き渡る聲がする。爽な感じの光景である。
俳人によつて開拓されたほとゝぎすの世界はいろいろあるが、最も多いのは配合の句で、それだけ又相似たものになり易い。その點から云ふと、この句の如きは配合物の上で明に傳統を破つてゐる。實感にあらずんば得難い趣であることは言を俟たぬ。
[やぶちゃん注:「日和虹」国立国会図書館デジタルコレクションの検索で調べたところ、一件だけ、明らかに俳諧選集である「日和虹」を見出せたが、通常閲覧が出来ない書籍であったので、書誌は判らない。江戸後末期の女流俳人市原多代女の句が入集している俳諧選集である。]
笠はみな哥にかたぶく田植かな 松 葉
笠を著連れた早乙女が一齊に歌をうたふ。その時笠が皆傾いて見える。同じやうな姿勢の下に田植歌がうたはれるといふのであらう。
「早乙女の笠かたぶけてうたひけり」とか、「うたふ時かたぶく笠や早苗取」とかいふ風に云つた方が、意味はよくわかるかも知れぬ。たゞ「笠はみな哥にかたぶく」と云ふと、表現が力强いのみならず、一齊に笠の傾く樣子が眼に浮んで來るやうに思ふ。
[やぶちゃん注:宵曲の言う通りで、これは、かなり離れた場所から、ワイドで撮り、早乙女の姿ではなく、笠だけが映像の主体であって、それが一斉に歌で傾くという極めて鮮やかな動的な景色をズーム・アップして素晴らしい。]
振たてゝ柳に散や鵜の篝 林 陰
鵜飼といふものは實際を見たことが無いから、はつきりしたことはわからぬが、舟が稍〻岸に近いやうな場合であらうか。鵜匠の振立てる松明の火の粉が岸の柳に散りかゝる、といふ意味らしく思はれる。何となく爽な趣である。
鵜飼を詠んだ句の多くは、鵜若しくは鵜匠に集注する。この句は鵜匠の働きを描いて、多少變つた方角から見たところに特色がある。柳に散る篝火は美しいのみならず、涼しい感じをさへ伴つてゐる。
[やぶちゃん注:大胆なフレーム・アップで宵曲に激しく同感!]
川狩や樽あづけたる宿はあれ 朋 水
川狩といふと必ずしも晝夜を限定せず、夜振[やぶちゃん注:「よぶり」。]といふと夜の場合に限られる。この句は川狩を終えたら一杯やるつもりで、樽を預けて置いた、その宿は彼處だと云つて指すやうな意味だから、晝の場合のやうに思はれる。併し遙に燈火か何か見えて、あれがあの家だといふものとすれば、夜の場合でも差支無い。現在この句が描いてゐるところは、それだけの動作に過ぎぬが、その裏には出がけに樽を預けたといふことや、川狩をしてゐる間に自ら移動して、その家から遠くなつたといふことや、川狩が濟んだら一盃やろうといふことや、いろいろなものが含まれてゐる。寫生文を壓縮したやうな句である。
[やぶちゃん注:私は「一杯やるつもり」で昼でも夜でもなく、遅い夕景と採る。「夜振」だと、光りが少なく、画像として貧しい。]
かたばみの花の盛や蟻の道 如 此
かたばみの花は大して見どころのあるものではない。恐らく俳句以外、在來の詩歌の類には顧みられぬ種類のものであつたらう。本當の道ばた、市井の家の垣下などにも咲いてゐるものだけに、町中に育つた吾々にもこの草は親しい記憶がある。小さい胡瓜のやうな形の實に手を觸れて、そのはじけるのを喜んだ幼い日のことを思ひ出す。
旱にめげぬかたばみの黃色い花のほとりに、ほそぼそと蟻の道が續いてゐる。花も小さければ、それに配した蟻も小さい。炎天の下にぢつと跼んで[やぶちゃん注:「かがんで」。]見入つたやうな小さな世界が、この句に收められてゐるのである。
[やぶちゃん注: 「かたばみ」カタバミ目カタバミ科カタバミ属 Oxalis亜属 Corniculatae 節カタバミ品種カタバミ Oxalis corniculata f. villosa 。花は黄色で、私の偏愛するものである。]
短夜の碁を打分の名殘かな 喜 重
人が來て碁を打つほどに、夏の夜はずんずん更ふけて行く。更けて行くばかりではない、もうしらしらと明けるのではないかといふ氣がする。先刻から何番打つたかわからぬが、未だ勝敗が決しない。名殘惜しいけれども、このまま打分[やぶちゃん注:「うちわけ」。]にするといふ句意である。
「名殘」といふ言葉は無論碁の上にかゝつてゐる。同時に心持の上に於て、明易き夜に通ふところがある。そこにこの句の巧があるのであらう。
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