柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(5)
木犀のしづかに匂ふ夜寒かな 賈 路
木犀の題を課して作つたとしたら、恐らくかういふ句は出來まい。夜寒の題を課したとしても同斷であらう。しづかに匂ふ木犀の花と夜寒とがぴたりと一緖になつて、些の隙も見せないのは、實感によるより仕方が無い。
もう何年前の秋になるか、一週間ほど廣嶋に滯在した時、雨戶を引かぬ障子の外の中庭に、木犀の木が何本かあつて、朝夕その花の匂に親しんで過したことがある。この句を讀んで直にそれを思ひ出したのは、筆者だけの勝手な連想に過ぎない。實を云へばその時の廣嶋は、夜寒を感ずるには少し暖かつたからである。この木犀は庭にある場合と限らず、路傍にあるものとしてもいゝが、一句の趣を味ふ上から云ふと、通りすがりなどでなしに、靜止した稍〻長い時間が必要のやうに思はれる。
伐透す藪より來たる夜寒かな 釣 眠
藪にあつた木を何本か伐つた爲に、今までより大分あらはになつた。その藪が家の周圍にある場合、今までよりも夜寒を强く感ずるといふのは、さもあるべき事實である。髮を短く刈つた時の感じに喩へたら、中らずと雖も遠からずといふことになりはしないだらうか。
この句の主眼は「伐透す」の五字にある。「藪より來たる」の語は少し强過ぎて――如何に藪があらはになつたにしろ、何だか工合が惡い。「伐透す藪」の夜寒をしみじみと感ずるが故に、「より來たる」の語によつて、この句を棄てたくないまでである。
澄切て鳶舞ふ空や秋うらゝ 正 己
秋晴の天を詠じたのである。春の空は「うらゝか」秋の空を「さやか」といふ風に限るのは歲時記に捉はれ過ぎた見解で、芭蕉にも「我ために日はうらゝなり冬の空」といふ句があつたと思ふ。自然を重んじた元祿の俳人は、晴れ渡つた秋晴の天にも、しづかに凪いだ冬の日光の中にも、うらゝかな趣の存在することを看過しなかつたのである。
秋天の鳶はいづれかと云へば平凡な景物であらう。鳶を主としないで、澄みきつた秋天のうらゝかな趣を捉へたところに、この句の特色はある。
[やぶちゃん注:芭蕉の句は、岩波文庫中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年刊)では、「存疑の部」にある。「百歌仙」に、
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我ために日はうらゝなり千〻の冬
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の句形で載り、「一葉集」の「考証の部」で、
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我爲に日はうらゝなり冬の空
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とある。講談社学術文庫の山本健吉「芭蕉全発句」(二〇一二年刊)では、この句を載せない。]
燒米や鹿聞菓子に夜もすがら 半 殘
秋になつて鹿の音を聞くなどといふことは、現代の吾々にはあまり緣の無い話になつてしまつた。芭蕉が「ぴいとなく尻聲かなし」と詠んだ「奈良の鹿」は、今日でも聞くことが出來るが、古人は更に山野に棲息する鹿の聲を聞かうとしたものらしい。蕪村も「ある山寺へ鹿聞きにまかりけるに茶を汲む沙彌の夜すがらねぶらで有りければ晉子が狂句をおもひ出て」といふ前書で、「鹿の聲小坊主に角なかりけり」といふ句を作つてゐるから、山中の寺までわざわざ鹿を聞きに行つたものと見える。
半殘のこの句は蕪村のやうな前書がないので、さういふ點は十分にわからぬけれども、やはり「鹿聞き」の句であることは疑ふべくもない。燒米を菓子として食ひながら鹿の聲を聞いた――若しくは一晚中鳴くのを待つてゐた、といふのである。燒米を菓子にするといふことが、自ら鹿の聲の聞けるやうな場所を現してゐるやうに思はれる。
[やぶちゃん注:『芭蕉が「ぴいとなく尻聲かなし」と詠んだ「奈良の鹿」』は芭蕉の元禄七(一六九四)年九月十日附杉山杉風宛書簡に、
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びいと啼(なく)尻聲(しりごゑ)悲し夜ルの鹿
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の句形で載る。「びい」は原書簡のママ。「中村氏の「芭蕉俳句集」の脚注に、「笈日記」から前文を引いて、『その夜(九月八日)はすぐれて月もあきらかに、鹿も声々』(「々」は底本では踊り字「〲」)『にみだれてあはれなれば、月の三更』(午後十一時から午前一時までの間)『なる比、かの池のほとりに吟行す』とあり、補注の別の本の前書と合わせて、このロケーションは奈良の「猿沢の池」であることが判る。この句形の後に、「芭蕉句集」から、
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ぴいと啼尻聲寒し夜の鹿
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が載るが、「奈良の鹿」は、ない。宵曲の誤認と思われる。「奈良の鹿」は芭蕉にしてあり得ないと私は思うがね。因みに、元禄七年九月八日は、グレゴリオ暦で十月二十六日で、月は半月である。]
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