「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 楸
ひさぎ 楸
【和名比佐木】
楸【音秋】
ツユウ
本綱楸卽梓之木赤者也有行列莖幹直聳可愛至上埀
條如線謂之楸線其木濕時脆燥則堅良材也宜作棋枰
其葉大而早脫故謂之楸唐時立秋日京師賣楸葉婦女
兒童剪花戴之取秋意也擣楸葉傅瘡腫煮湯洗膿血冬
取乾葉用之
農政全書云楸山谷中多有之甚髙大其木可作琴瑟葉
類梧桐葉而薄小葉稍作三角尖叉開白花味甘
新六ひさき生ふる庭の木蔭の秋風に一聲そそく村時雨かな爲家
刺楸
本綱刺楸卽楸之屬其樹髙大皮蒼白上有黃白斑㸃
枝梗間多大刺葉似楸而薄味甘嫩時𤉬熟水淘過拌食
[やぶちゃん注:「𤉬」は「煠」(「焼く・炒める・茹でる」の意)の異体字で、原本では、「グリフウィキ」のこれ((つくり)が「棄」の字体)であるが、表字出来ないので、最も近いと判断した「𤉬」とした。]
榎 【檟同】
本綱榎卽楸之類葉大而早脫者謂之楸葉小早秀故
謂之榎二木共皵【皵音鵲皮粗也】
△按榎字今俗以爲惠乃木者無拠
*
ひさぎ 楸《しう》
【和名「比佐木」。】
楸【音「秋」。】
ツユウ
「本綱」に曰はく、『楸、卽ち、梓《し》の木の赤き者なり。行列、有り。莖・幹、直(す)ぐに聳(そび)へ[やぶちゃん注:ママ。]て、愛すべし。上に至りて、條(ゑだ[やぶちゃん注:ママ。])を埀《た》れ、線(いと)のごとし。之れを「楸線《しうせん》」と謂ふ。其の木、濕(うるほ)ふ時、脆(もろ)く、燥(かは)く時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、堅し。良材なり。宜しく、棋(ごばん)・枰(すごろくばん)に作るべし。其の葉、大にして、早く脫(お)つる。故《ゆゑ》、之れを「楸」と謂ふ。唐《たう》≪の≫時、立秋の日、京師、楸の葉を賣る。婦女・兒童、花を剪(き)りて、之れを戴《いた》だく。「秋」≪てふ≫意を取るなり。楸の葉を擣(つ)きて、瘡腫《さうしゆ/できもの》に傅(つ)け、湯に煮て、膿血(うみち)を洗ふ。冬、乾ける葉を取りて、之れを用ふ。』≪と≫。
「農政全書」に云はく、『楸、山谷の中に、多く、之れ、有り。甚だ、髙大なり。其の木、琴《きん》・瑟《しつ》を作るべし。葉、梧桐の葉に類す。《→して、》薄く、小《ち》さく、葉の稍(すゑ)、三角の尖-叉(とがり)を作《な》し、白花を開き、《→く。》味、甘。
「新六」
ひさぎ生ふる
庭の木蔭の
秋風に
一聲そそぐ
村時雨《むらしぐれ》かな
爲家
刺楸(はりひさぎ)
「本綱」に曰はく、『刺楸、卽ち、「楸」の屬。其の樹、髙大にして、皮、蒼白《あをじろ》く、上に、黃白の斑㸃、有り。枝-梗(えだ)の間に、大なる刺《とげ》、多く、葉、楸に似て、薄く、味、甘く、嫩(やはら)かなる時、𤉬熟(えふじゆく)し、水-淘-過-拌《すいたうくわはん》[やぶちゃん注:「水で以って十分に淘(よな)げる(水に入れて攪拌し、細かい物などを揺らして選り分ける)こと」の意。原本では「過-拌」の間には熟語を示すバーがないが、それでは、屋上屋になってしまうので、かく、した。]≪して≫食ふ。』≪と≫。
[やぶちゃん注:「𤉬」は「煠」(現代仮名遣の音は「ヨウ」で、「焼く・炒める・茹でる」の意)の異体字で、原本では、「グリフウィキ」のこれ((つくり)が「棄」の字体)であるが、表字出来ないので、最も近いと判断した「𤉬」とした。]
榎(こひさぎ) 【「檟」、同じ。】
「本綱」に曰はく、『榎は、卽ち、「楸」の類。葉、大にして、早く脫(を[やぶちゃん注:ママ。])つる者を[やぶちゃん注:「を」は不要。]、之れを、「楸」と謂ふ。葉、小にして、早く秀(ひいで)る。故、之れを、榎《こひさぎ》と謂ふ。二木、共《とも》に、「皵(かはあら)」なり。【「皵」、音、「鵲《シヤク》」。「皮、粗《あらし》。」≪の意≫なり。】』≪と≫。
△按ずるに、「榎」の字、今、俗、以つて、「惠乃木(ゑのき)」と爲《す》るは、拠(よりどころ)、無し。
[やぶちゃん注:これは、事実上、前項の「梓」の続きと言えるものであるから、直にここに来られた方は、まず、そちらを読まれた上で、こちらに、再度、来られたい。そうしなければならない理由は、これらの記載中の樹種漢字は、日中で、種が全く異なるからであり、しかも、それを良安は認識していないで書いているというトンデモ記載だからである。而して、この「楸」は、そちらの注で迂遠に比定同定した通り、
双子葉植物綱シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属(唐楸)トウキササゲ Catalpa bungei 、或いは、広義に、民間で、キササゲ属 Catalpa の複数の種を総称する語
であったと、私は推定している。それらの種及び種群に就いても、「梓」の私の注の冒頭で詳細に考証したので繰り返さない。但し、時珍が「梓」の次に、この「楸」を、わざわざ独立項として据えたからには、「キササゲ属 Catalpa の複数の種の総称」とは、ここでは、相応しくないから、前者の、
トウキササゲに限定比定するのが正しい
と言える。但し、その場合、
トウキササゲの近縁種・亜種・雑種・品種が含まれる可能性は、ある
とすべきではあろう。トウキササゲに亜種があるかどうかは、判らないが、
中文の当該ウィキには、「分布」の項の最後に、『目前尚未由人工引種栽培』(「未だ人工的に導入され、栽培されては、いない」の意であろう)とある
から、少なくとも
――トウキササゲには品種はない――
と思われる。
良安の「本草綱目」のパッチワーク引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「楸」(ガイド・ナンバー[085-23a]以下)から。
「行列、有り」東洋文庫の後注には、『上原敬二著『樹木大図説』Ⅲ(有明書房)のノウゼンカズラ科トウキササゲの項に「多く並木状に列植するので列楸、列梓の名がある」とある。このことをいうのであろうか。』とある。
「枰(すごろくばん)」雙六盤。本邦のものは、中国から渡来したものだが、中国のそれは、日本の双六盤に比べると、遙かに大きい。「大阪電気通信大学学術リポジトリ」の木子香氏の「中国における盤双六研究の現状について」(『研究論集(人間科学研究)』第二十号・二〇一八年九月発行所収・PDF)をダウンロードされたい。複数の写真図像を見ることが出来る。
「農政全書」明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。以下は、同書の「卷五十六 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)にある。「漢籍リポジトリ」のここの、ガイド・ナンバー[056-14b] に、
*
楸樹 所在有之今宻縣梁家衝山谷中多有樹甚髙大其木可作琴瑟葉類梧桐葉而薄小葉稍作三角尖乂開白花味甘
救飢 採花煠熟油鹽調食及將花晒乾或煠或炒皆可食
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とあった。
「琴《きん》」中国の古い琴(こと)の一種である「古琴(クーチン)」。当該ウィキによれば、『中国の古い伝統楽器』で、『七弦琴(しちげんきん)、瑶琴(ようきん)とも呼ぶ』三千『年の歴史がある撥弦楽器で、八音の「糸」に属し』七『本の弦を持つ。箏』(そう)『などと違い、琴柱(ことじ)はなく徽(き)と呼ばれる印が』十三『あり、これに従い、左指で弦を押さえて右指で弾く』とある。
「瑟《しつ》」中国の古い弦楽器「瑟(スゥーァ)」。当該ウィキによれば、『古代中国のツィター属』(ドイツ語:Zither)『の撥弦楽器。古筝に似て、木製の長方形の胴に弦を張り、弦と胴の間に置かれた駒(柱)によって音高を調節するが、弦の数が』二十五『本ほどと』、『多い。八音の糸にあたる楽器のひとつで、後世には祭祀の音楽である雅楽専用の楽器になった』。『瑟の歴史はきわめて古』く、『文献では』、『古琴とともに「琴瑟」と併称され、最も古くから見える弦楽器で』、「詩經」・「書經」を始め、『先秦の文献にしばしば見える』。「禮記」の「明堂位篇」には『大瑟と小瑟の』二『種類の瑟について記述しており、複数の種類の瑟があったことがわかる』とある。また、「伝説」の項に、『瑟の起源について、さまざまな伝説があ』り、「呂氏春秋」には、『炎帝のときに』五『弦の瑟が作られ、堯のときに』十五『弦に増し、舜のときに』二十三『弦に増したという』「史記」は、『もと』五十『弦あったが、音が悲しすぎたので』、『黄帝が半分に割いて』、二十五『弦にしたという話が見える』。また、『伏羲が瑟を作ったとも』伝える、とあった。
「梧桐」(ごとう)は、現行ではアオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex を指すが、これは現在のシソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa であった可能性も排除出来ない。事実、サイト「跡見群芳譜」の「あおぎり(青桐)」を見ると、『日本では、『万葉集』に梧桐で作った日本琴の記事が出る』。『しかし、これはキリの漢名を梧桐と誤解したものであって、実際にはキリであったであろう』とあり、当該ウィキにも、『中国の伝説ではアオギリの枝には』十二『枚の葉がつくが、閏月のある年には』十三『枚つくといわれた』。『また』、『中国では鳳凰が住む樹とされた』。『伏羲がはじめて桐の木を削って古琴を作ったという伝説がある(ただしアオギリかキリか不明)』とある。
「白花を開き、《→く。》味、甘」と読みを変えたのは、葉やの味とは思われないからである。東洋文庫も句点で切っている。アオギリだった場合は、サイト「跡見群芳譜」の「あおぎり(青桐)」を見ると、『種子は蛋白質・脂肪に富み、梧桐子と呼んで薬用・食用にする』。『第二次世界大戦中の日本では、コーヒー豆の代用にした』とあり、『「四月花をひらき、六月に実を結び、秋熟して、生(なま)ながらも食し、炒りても食すべし。めづらしき菓子なり』。『又梧桐月を知ると云ふ事あり。閏月まで知る物なり。下よりかぞへて十二葉あり。一方に六葉づゝ也。閏月ある年は十三葉なり。小き所則ち閏としるべし。又立秋の日をも知る。其日に至りて一葉先づ落つ。花もきれいに見事なる物にて、庭にうへ置きても愛すべき木なり。無類なる霊木なり」(宮崎安貞』「農業全書」(元禄一〇(一六九七)年刊)とあるからである。
「新六」既出既注。以下の一首は、日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認したが、そこでは、
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ひさきおへる-にはのこかけの-あきかせに-ひとこゑそそく-むらしくれかな
*
となっている。「第六 木」のガイド・ナンバー「02502」である。
「刺楸(はりひさぎ)」これは、
バラ亜綱セリ目ウコギ科ハリギリ(針桐)属ハリギリ Kalopanax septemlobus
であるから、目タクソンで異なるので、時珍の『「楸」の屬』は大ハズれである。当該ウィキによれば(注記号は省略した)、『別名、センノキ(栓の木)、ミヤコダラ、テングウチワ、ヤマギリなどがある。肥沃な土地に自生することから、開拓時代は農地開墾の適地の目印とした。材はケヤキに似た年輪模様が美しく、建築材や家具材としても貴重である。若芽は山菜としての利用もある』。『和名「ハリギリ」は、若い枝に大型の鋭いトゲがあることに由来し、葉がキリに似るため「針のある桐」の意味である。「キリ」については、材質がキリに似ているというところから来たものだという説もある』。『ハリギリにはいくつか別名があり、センノキ、ミヤコダラでもよばれる。ニセゲヤキという別名があり、ハリギリとケヤキは板にしたときに年輪模様が似ているため』、『名付けられたとされる』。『また』、『芽が山菜として有名なタラノキに似ていることから、ハリギリの別名には「タラ」がついたものが多く、アクダラ、オオダラ、アホダラなどの異名もある』。『山菜としての地方名にオオバラ(中部地方)などがある。大きなサイズのカエデと見まごうほどの大きな葉は天狗の羽団扇にも例えられ、地域によってはテングノハウチワやテングッパという呼び名もある。宮城県の地方名でセノキという呼び名がある』。『アイヌ語では「アユㇱニ(ayusni)」と呼ばれる。これは「アイウㇱニ(ay-us-ni)」(とげ・多くある・木)という意でついた名である』。『日本、朝鮮半島、中国の原産。日本全土(特には北海道)、千島列島、朝鮮半島・中国に分布する。平地から山地(深山、高山)まで分布し、雑木林や、肥沃な土地に自生する』。『落葉広葉樹の高木で、幹は直立し、高さ』十~二十『メートル』、『大きいものは』三十メートルに『なる。幹は直径』一『メートル』『にも達する。成木は大きな枝が比較的まばらに張り出し、枝先は棒状になる。若木は、枝や樹幹に太くて鋭いとげがあるが、老木になるに従い鋭さを失いトゲはなくなる。幹の樹皮は褐色から黒褐色で、粗くて深く縦に裂け目が入りコルク質で厚く、この樹木を特徴づける。枝は灰色を帯びる。一年枝は、太くて皮目がありトゲがまばらに生えるが、トゲがないものもある』。『葉は互生し、枝先に集まってつく。葉柄は長さ』七~三十『センチメートル』、『葉身は円形で掌状で』五~九『裂し、カエデのような姿で』、『径』十~三十センチメートルと『と大きく、天狗の団扇のような形をしている。そこから「テングウチワ」と呼ばれることもある。葉の切れ込みは浅いものからヤツデのように深いものまで変化がある。葉縁には細かい鋸歯がある。秋には黄褐色に紅葉する。薄い黄色に黄葉するが、緑色が抜けきらない場合や、すぐ褐色になることが多く地味である。条件によっては紅葉の仕方は変化し、一枚の葉の中に紫褐色や褐色が混じったり、緑色や他の色が葉脈に沿って残ったりと、様々な柄が見られる』。『花期は』七~八月で、『枝の先に花柄が傘状に伸びて散状花序をつくり、淡黄色から黄緑色の小花が多数つく。花はかなり細かい印象で、径』五『ミリメートル』『ほどで、たくさん咲いている様は目立って見える。果期は』十『月で、直径』五ミリメートル『ほどの丸い果実がたくさん集まってつき、黄葉するころに藍黒色に熟す。果実は冬でも残り、のちに果序の柄だけが散形状に枝に残る』。『冬芽は卵形から円錐形で長さ』五~十ミリメートル、『暗紫褐色、無毛でつやがあり、芽鱗』二、三『枚に包まれる。枝の頂につく冬芽(頂芽)は大きく、側芽は枝に互生してあまり大きくない。葉痕はV字形で、維管束痕が多数つく。春になると太い幹からも葉が芽吹いてくる』。『若芽は食用、根や樹皮は漢方薬になる。食用について古くは、中国・明の時代に書かれた飢饉の際に救荒食物として利用できる植物を解説した本草書』「救荒本草」(一四〇六年)に『記載がみられる。材は木目が美しく、建築材や家具材、器具、彫刻など幅広く利用される』。『春に芽吹いたばかりの新芽は、同じウコギ科のタラノキやコシアブラ、ウドなどと同様に山菜として食用にされる』。『採取時期は』普通は五~六月頃で、『暖地』では四月頃、『平地では』三月頃から、『高地では』五『月、高山では』七『月』頃までが『適期とされ、若芽をつけ根からもぎ取って採取し、食べるときは』、「はかま」を『取り去る』。『林内のものは樹高が高く、採取がむずかしい』。『見た目は「たらの芽」としてよく知られる近縁のタラノキの芽やコシアブラに良く似るが、苦味やえぐみとして感じられる』「アク」が『やや強く、灰汁抜きを必要とする』。『そのため』、『タラの芽と区別して食用にしない地方もあり、たとえば長崎方言では「イヌダラ」と呼んでタラノキと区別される。アクが強い山菜であるが、揚げると気にならなくなる。かつてはタラの芽の代用のように扱われていたが、脚光を浴びてタラの芽とは別の風合いがあるとして好まれているという。また、採取する時期によってアクの強弱はかなり異なる』。『灰汁抜きは、熱湯に塩を入れて茹であげてから水にさらす。灰汁抜き後は調理するが、強いクセのため、ごま・クルミ・酢味噌の和え物など味の濃いものに合い、汁の実などにして食べられる。生のまま、天ぷらや煮付けにしても食べられる。天ぷらにすると、タラノキほどではないが』、『タラの芽に似た』、『ほどよい香りとアクがあり、遜色がない味があるとも評されている』(以下、中略)。『木材としては「センノキ」、あるいは「栓(せん)」と呼ばれるが』、『名前の由来についてはよくわかっていない。木肌が深く裂け、黒ずんだ褐色の木から取れる「オニセン」(鬼栓)と、木肌がなめらかな木から取れる「ヌカセン」(糠栓)、白っぽい材が多い中でも特に赤みを帯びているのを「アカセン」(赤セン)とよぶ。鬼栓は加工には向かず、沈木に用いられる。一方、糠栓の材は軽く軟らかく加工がしやすいため、建築、家具、楽器(エレキギター材や和太鼓材)、仏壇、下駄、賽銭箱に広く使われる。耐朽性はやや低い。環孔材で肌目は粗いが』、『板目面の光沢と年輪が美しく海外でも人気がある。材の色は白く、ホワイトアッシュ』(White Ash:落葉広葉樹のシソ目モクセイ科トネリコ属アメリカトネリコ Fraxinus americana の英名)『に似ていることから』、『ジャパニーズ・アッシュという名称で呼ばれることもある。材の白さを活かして、薄く削って合板の表面材としても使われる』。『材は柾』(まさめ)『が通っていて美しく、漆を塗ると』、『ケヤキに似た木目を持つことから』、『欅』(けやき)『の代用品としても使用される』。『この場合は』、『着色した上で』「新欅」「欅調」と『表記されることもある。年輪に沿って大きな道管が円形に並ぶ典型的な環孔材であり、ハリギリは道管の直径が』百七十~三百五十『マイクロメートル (μm)と』、『ケヤキやヤマザクラのそれよりも直径が一際大きく』、一『列に並んで年輪がはっきりと出るのが特徴である。材の美しさから、木彫りの伝統工芸品に利用されることも多い』。『北海道には大きな木が多く、明治末には下駄材として本州に出荷された。現在でも国内産の栓』(これは、ただの木製の「栓」ではなく、「木材の継手や仕口の箇所で部材間の貫通穴に差し込む細木」としての「栓」のことであろう)の九『割は北海道産である』。『アイヌの文化においても、カツラなどとともに丸木舟の主要な材のひとつとして北海道全域で用いられ、このほか』、『木鉢や臼、杵、箕が作られた』。以下、「アイヌの口頭伝承」の項。『北海道日高地方沙流川流域のアイヌの口頭伝承で、ハリギリの丸木舟(アユㇱニチㇷ゚)に関する禁忌を扱ったものがある。話の内容は採録された時代などにより差異があるが、以下に概要を示すものは』、一九九六年三月二十五日に『平取町のアイヌ、上田トシから聞き取り採録された「カツラの舟とハリギリの舟のけんか」と題された昔話である。概要は以下の通り』。
*
『ある男がランコチㇷ゚(カツラの丸木舟)とアユㇱニチㇷ゚を作ったものの、いつしか軽く扱いやすいランコチㇷ゚ばかりを使っていた』。『いつしか夜に川の方で物音がするようになった。ある晩、男はランコチㇷ゚とアユㇱニチㇷ゚が人間のように立ち上がり跳ね上がる様子を目撃する。その後、夢にランコチㇷ゚の女のカムイ(神)が現れ、ランコチㇷ゚のカムイに嫉妬したアユㇱニチㇷ゚の男のカムイが、夜になるとランコチㇷ゚のカムイを虐める旨、アユㇱニチㇷ゚のカムイが悪い心を持っている旨を話し、故にアユㇱニは舟から倒木、木片に至るまで燃やさなければ村に危害を与える、と伝えた』。『男はそれを父親に伝えたところ』、『父親は「チㇷ゚を燃やせ」と言ったため、男はアユㇱニのチㇷ゚や木片を残らず燃やした。その後父親は「その煙がどこへ向かったかを見ておくように」と言った。煙は海へ向かったことから、父親は「決して海で漁をしないように」と忠告した』。『しかししばらく経ち、男は禁忌を破り別の男と漁に出た。すると、舟のようなものにたくさん棘が出た姿の化け物が現れた。男らはタコのカムイ(神)と海波のカムイに助けを求め、村まで帰ることこそできたが、髪や髭が抜け落ち、全身が腫れ上がり肉も腐り、化け物のような姿となってしまった。その後、村を通りかかった男が化け物のような姿になった男に訪ねたところ、ことの顛末とアユㇱニで舟をつくらないほうがよいことを話した』。
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『しかし』、『本田』優子氏は、『実際には道内各地でハリギリ製の丸木舟が出土、あるいは現存していることを踏まえ、かつては丸木舟の用材を特定の樹種に限定するようなことは行われておらず、むしろスギなどが自生しない北海道内における丸木舟制作においては主要な材としての地位を占めていたと考察している』。『加えて、本田』『は』、『物語自体の変容についても考察している。上田のほか』二つの昭和時代の『記録を確認したところ』、一九三六『年の記録では女神は「作った以上、わたしと同じ程度に、そちらも使ってやったらよかったのに」と述べたうえで「センノキほど憑き神(カシ・カムイ)の悪い木はない」としていたが、その後の記録では、悪いのはハリギリの憑き神ではなく』、『ハリギリそれ自体』『とされ』、『強調されていった。また』、一九三六『年の記録ではハリギリの舟を作ることを禁忌する内容はない』『以上より』、『本田』『は、本来』、『この物語は「人間が道具としてなにかを作った以上は、その道具が役割を全うできるようにきちんと使わねばならない」ということが主題であり、カツラと対立させる樹木は』、『ハリギリ以外でも良かったのであるが、ハリギリの鋭利な刺、それで傷を作ってしまうと時として体中がはれ上がってしまうことが強く意識されるようになった結果、ハリギリの舟を禁忌とする物語に置き換り、沙流川流域のアイヌの生活、ひいては』、『近年の情報の流れの中で他地域のアイヌの生活にも影響を与えるようになったと推察している。また、本田の私見として、本来各地で用途や河川の様相によって見合った樹種が決められていた丸木舟についての伝承が変容し、ハリギリの舟のタブー視、他の樹種の神聖視が進んでいることを指摘している』。『なお、現在では再びハリギリを用いた丸木舟の復元も行われている。例えば』二〇二〇『年』四『月に白老町にオープン』した『国立アイヌ民族博物館・国立民族共生公園(ウポポイ)での丸木舟と板綴舟(イタオマチㇷ゚)制作・展示にあたっては、東京大学附属北海道演習林から、ハリギリが提供されている』とあった。
「𤉬熟(えふじゆく)し」割注した通り、「𤉬」は「煠」(現代仮名遣の音は「ヨウ」で、「焼く・炒める・茹でる」の意)の異体字であるが、東洋文庫訳では、『蒸熟して』と訳してある。私は採れない。
「榎(こひさぎ)」『【「檟」、同じ。】』先行する「𣾰」で注したが、「檟」は「トウキササゲ」=「楸树」の古名である(別にチャノキの意もある)。東洋文庫でも、一切、種名を示す割注などはない。漢字の熟語や「こひさぎ」「こいさぎ」(後者はあり得ないだろう。「小楸」だろうから)で調べても、ネットでは掛かってこない。日中辞書で「小榆花楸」というのがあったが、これは、バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科アズキナシ属アズキナシ Aria alnifolia のことを指す。「維基百科」の当該種を見ると、このアズキナシ属が「花楸屬」とあった。これかも(あくまで「かも」のレベル)知れん。日本語のウィキは記載が詳しい。どうぞ、ご覧になられて、貴方の御判断にお任せする。
『「榎」の字、今、俗、以つて、「惠乃木(ゑのき)」と爲《す》るは、拠(よりどころ)、無し』当然、ここで良安が指示する「榎」はバラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis であるから、この良安に附記全体が、全く無効である。因みに、ウィキの「エノキ」によれば、『和名「エノキ」の由来については諸説あり』、・『縁起の良い木を意味する「嘉樹(ヨノキ)」が転じてエノキとなった』説(良安が一蹴するが、この説は記者が頭に載せるからには、有力な説の一つなんだろう)・『秋にできる朱色の実は野鳥などが好んで食べることから、「餌の木」からエノキとなった』説、・『枝が多いことから枝の木(エノキ)と呼ばれるようになった』説『など』『がある』。他にも、『鍬などの農機具の柄に使われたからという説があるが』、これは、『奈良時代から平安時代初期には、エノキの「エ」はア行のエ』で、『柄(え)や』、『それと同源の語とされる「エ」はヤ行のエ』(イェ)『で表記されており、両者はもともと発音が異なっていたことが明らかなので、同源説は成り立たない』とある(但し、最後の否定解説には「要出典」要請が掛っている)。なお、この後に、『漢字の「榎(エノキまたはカ)」は夏に日陰を作る樹を意味する和製漢字であ』り、『音読みは「カ」。「榎」は、中国渡来の漢字ではなく、日本の国字の一つである』というのは、既に「𣾰」の注で述べた通り、大嘘であるので注意されたい。中国に「榎」の漢字は古くに存在しており、「檟」と同義である。]
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