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2024/06/21

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 檍

 

Motinoki

 

あはき   萬年樹

      【和名「阿波木《あはき》」。】

【音益】

 

 

說文云檍梓之屬二月花白子似杏葉亦似杏而尖白色

皮正赤其理多曲少直材可爲弓弩幹

 西の海あはきか原波間よりあらはれ出し住吉の神

[やぶちゃん注:最後の和歌は「續古今和歌集」に収録されている卜部兼直の一首なのであるが、表記に複数の問題があるため、後注はするが、先に訓読では正しい表記に修正を加えておいた。]

 

   *

 

あはき   萬年樹

      【和名、「阿波木」。】

【音「益」。】

 

 

「說文」に云はく、『檍は梓《し》の屬。』≪と≫。二月、花《、開き》、白く、子《み》、杏《あんず》に似て、葉も杏に似て、尖りて、白色。皮、正赤《せいせき》。其の理(きめ)、多≪く≫、曲り、少《すくなく》、直《すぐ》に≪して≫、材、弓弩の幹(しん)に爲《す》るべし。

 西の海や

    あはきの浦の

   しほぢより

       あらはれ出でし

           住吉の神

 

[やぶちゃん注:和訓本邦の日本原産で、本邦で普通に見かけるものに、

双子葉植物綱ガリア目 Garryalesガリア科 Garryaceaeアオキ(青木)属アオキ変種アオキ Aucuba japonica var. japonica

がある。さても、私は、その「靑木」だろうと愚劣にも安易に思い込み、『良安は、中国で現存する最古の字書である後漢の許慎著になる永元一二(一〇〇)年成立の「說文」を引いているのだから、そこでは、

――アオキ属 Aucuba の中国産種の孰れかの種、或いは、種群――

ということになるだろう。』と思ったのだが、どうも「あはき」の訓に引っ掛かったから、調べてみたら――あらまっちゃんデベソの宙返り!――で、大修館書店の「廣漢和辭典」を引いたところが、そこには――「アオキ」の意味は一字も載らず、「もち」「もちのき」のみの意味があるだけで、「ビックリ仰天、怒髪天、どうなってんじゃ!」と独りごちたのである。しかも、『𣚍は古字』とあって、その直下に、使用例として、まさに「說文」が引かれてあるのだが、

   *

𣚍、梓屬。大ナルㇾ爲棺椁、小ナル者ハ可ㇾ爲弓材。從ㇾ木𠶷聲。

   *

となっているのである(「棺椁(くわんかく)」は「柩」(ひつぎ)の意)。さらに言っておくと、同辞典では、音として『オク・ヨク』と『イ』しかなく、「益」(音「エキ・ヤク」)と音通しないのである。最早、生きながら御棺の中に閉じ込められた棺、基! 感に落ちたのであった――

 さても、この「もち」「もちのき」というのは、

双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra

を指すのであった。ウィキの「モチノキ」を引く(注記号は省略した)。『モチノキ(餅の木・黐の木・細葉冬青』『)とは、モチノキ科モチノキ属の植物の一種。別名ホンモチ、単にモチともよばれる。 和名は樹皮から鳥黐(トリモチ)が採れることに由来する。中国名は、全緣冬青 (別名:全緣葉冬青)』(同種の中文ウィキを参照されたい。記載は貧しい)。『日本では東北地方中部以南(宮城県・山形県以西)の本州、四国、九州、南西諸島に分布し、日本国外では朝鮮半島南部、台湾、中国中南部に分布する。沿岸の山地や、暖地の山地に自生する。葉がクチクラ層と呼ばれるワックス層に覆われていることから』、『塩害に強く、寒気の強い内陸では育ちにくいため、暖かい地方の海辺に自生する。人の手によって、庭などに植栽もされる』。『常緑広葉樹の中高木』にして『雌雄異株で、株単位で性転換する特性がある。樹皮は灰色で、皮目以外は滑らか。一年枝は緑色で無毛である』。『葉は互生するが、枝先はやや輪生状に見える』。『葉身は長さ』四~七『センチメートル』、『幅』二~三センチメートルの『楕円形・倒卵状楕円形で、革質で濃緑色をしている。葉は水分を多く含んでいる』。『開花期は春』四月頃で、『雄花・雌花ともに直径約』八『ミリメートル』『の黄緑色の小花が、葉の付け根に雄花は数個ずつ、雌花は』一、二『個ずつつける。花弁はうすい黄色でごく短い枝に束になって咲く。雄花には』四『本の雄蕊、雌花には緑色の大きな円柱形の子房と退化した雄蕊がある』。『果実は直径』十~十五ミリメートルの『球形の核果で、内部に種子が』一『個ある。はじめは淡緑色だが、晩秋』十一月頃、『熟すと』、『赤色になり、鳥が好んで食べる。果実の先端には浅く裂けた花柱が黒く残る。実は冬まで残り、長く枝に残るものは黒くなる』。『冬芽のうち、花芽は雄株・雌株ともに葉の付け根につき、雄株のほうが花芽は多い。頂芽は円錐形で小さい。葉痕は半円形で、維管束痕は』一『個つく』(以下の「天敵」「栽培」の項は略す)。『樹皮から鳥黐(トリモチ)を作ることができ、これが名前の由来ともなった。まず春から夏にかけて樹皮を採取し、目の粗い袋に入れて秋まで流水につけておく。この間に不必要な木質は徐々に腐敗して除去され、水に不溶性の鳥黐成分だけが残る。水から取り出したら』、『繊維質がなくなるまで臼で細かく砕き、軟らかい塊になったものを』、『流水で洗って細かい残渣を取り除くと鳥黐が得られる。モチノキから得られる鳥黐は色が白いため、ヤマグルマ(ヤマグルマ科)を原料とするもの(アカモチ)と区別するために「シロモチ」または「ホンモチ」と呼ぶことがある』。『材は堅く緻密であるので、細工物に使われる』。『刈り込みに強いことから公園、庭などに植栽される。また、防火の機能を有する樹種(防火樹)としても知られる』。『日本では古くから庭に欠かせない定番の庭木として親しまれ、さまざまな形に仕立てることができるため』、『玉仕立て』(人工的に刈り込んで半円形の樹形にすることを言う)『にするほか、列植して目隠しにも利用してきた。潮風や大気汚染にも耐えるため、公園樹としてもよく用いられる』。『御神木として熊野系の神社の中にはナギ』(裸子植物植物門マツ綱ナンヨウスギ目マキ科ナギ属ナギ Nageia nagi 。私の好きな樹で、葉は縁結びのお守りとされる)『の代用木として植えている場合がある』とあった。東洋文庫訳には、一切の現在の種同定が出来る割注も後注も、全く、ない。植物に人並みに冥い私ではあるが、この記載を見る限り、出版当時(一九九〇年)の一般的日本人は、その殆んどは、この記載がモチノキを指すと判って読んでいた読者は、二割にも満たなかったのではないかとさえ考える。そうして、それは、当該部の訳者竹島淳夫氏と、総監修をした島田勇雄氏に極めて重い責任があると言わざるを得ないと感じている。百科事典の翻訳は、相応の現存在的解釈なしには、絶対に、あり得ない、と私は信ずるものだからである。

「西の海やあはきの原(はら)しほぢよりあらはれ出でし住吉の神」鎌倉時代の勅撰集「續(しよく)古今和歌集」所収。当該ウィキによれば、『藤原為家が、正元元』(一二五九)年三月に『後嵯峨院から勅撰集撰進の命を受けた』『が、弘長二』(一二六二)年九月、『後嵯峨院の勅宣により、九条内大臣基家・衣笠内大臣家良・六条行家』『・葉室光俊(真観)の』四『名が新しく撰者として加わ』り、『鎌倉将軍宗尊親王と懇意だった光俊が為家に対抗するため』、或いは『後嵯峨院が』「新古今和歌集」に『倣って複数撰者の形式にするためと考えられる』が、「井蛙抄」に『よれば、憤懣やるかたない為家は』、四『人が加わって以降、撰歌を嫡男為氏に任せたと』され、文永二年十二月二十六日(ユリウス暦一二六六年二月二日)に『奏覧』、『同三年三月十二日竟宴』したが、『撰者』五『人のうち、家良は完成を待たず、文永元』(一二六四)年に『没した』とある。本歌は「卷七 神祇」にある一首。「日文研」の「和歌データベース」のこちらで確認した。ガイド・ナンバー「00727」が、それ。]

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