柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(17)
初秋や居所かゆるかたつぶり 史 興
蝸牛の存在は梅雨頃を全盛期として、赫々たる炎天下には閑却され勝になる。盛夏と雖も雨が降續けば、自ら時を得るわけであるが、百蟲活動の夏は蝸牛に取つては寧ろ影の薄い季節でなければならぬ。
「居所かゆる」といふのは、今まで此處にいたものが何處へ行つたといふほど、はつきりした動作ではあるまい。天地に充つる新秋の氣が、蝸牛のやうな微物の上にも或衝動を與へて、居所を替へしむるに至つたといふのであらう。卽ち「日盛や所替へたる晝寐犬」といふやうな、現金なふるまひではない。もう少し天地自然の大きな步みに觸れた動きである。
「秋來ぬと目にはさやかに見えねども」といふ。見えざる秋の現れは、ひとり風の音のみには限らない。殼を負うた漂泊者蝸牛先生も、何者かをその身に感じて居を移す。そこに目をとめたのがこの句の眼目であり、俳諧らしい興味でもある。
[やぶちゃん注:「秋來ぬと目にはさやかに見えねども」「古今和歌集」の「卷四 秋歌上」の巻頭に配された、藤原敏行朝臣によって立秋の日(旧暦七月上旬。現代の八月六、七日頃)に詠まれた一首(一六九番)。
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秋立つ日詠める
秋來ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる
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きりぎりす扇をあけてたゝむ音 和 丈
このきりぎりすは蟋蟀[やぶちゃん注:「こほろぎ」。]ではない。螽斯[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]の方である。きりぎりすの鳴いてゐる場合に、扇をあけてたゝむ音がする、といふ風に解せられぬこともないが、句の意味から云ふと、扇をひろげてたゝむ、あのギイといふやうな音を、きりぎりすの聲に擬したものと思はれる。「山がらの我棚つるか釘の音」の格であるが、あれほど技巧を弄したところは無い。今の人が見たら、ルナアル的興味だと云ふかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「このきりぎりすは蟋蟀ではない。螽斯の方である」『「秋」(4)』の「きりぎりす秋の夜腹をさすりけり 靑 亞」の私の注を読まれたい。]
草刈のまだ夜はふかき月夜かな 長 之
草刈といふ季題は、近頃は夏に定められたかと思ふが、必ずしもさう限定する必要は無い。この句は秋の草刈である。
まだ夜の明けぬうちに草刈に出る。天地は闃寂[やぶちゃん注:「げきせき」。「げきじやく」とも読む。「せき」は漢音(一般に使用する「ジャク」は呉音)。「ひっそりとしてさびしいさま」。]としていて、東の空も白むに至らぬ。たゞ明るい月が照つてゐる。全く夜のまゝである。普通に夜深きといふ場合は、もう少し前の時間を指すやうであるが、この句は明方に近づきながら、全く夜深き有樣だといふことを現したのが面白い。白み易い夏の夜では、この趣は窺はれぬ。秋になつて天明が遲くなりつゝあることも、自らこの裡[やぶちゃん注:「うち」。]に含まれてゐる。
「まだ夜は明けぬ」といふのと「まだ夜はふかき」といふのと、實際の時間から云へば大差無いかも知れぬが、受取る感じには非常な相違がある。「まだ夜はふかき」の一語によつて、はじめて闃寂たる空氣に觸れ得るやうな氣がする。
名月や壁に酒のむ影法師 半 綾
讀んで字の如し。月を愛めでて酒を飮む。その影が壁にうつるのは、卽ち月の光によつてである。「明月や圓きは僧の影法師」といふ漱石氏の句は、奇に於て勝つてゐるが、この句は自然の裡に變化を藏してゐる。そこに元祿らしい好所がある。
[やぶちゃん注:漱石の句は、岩波旧全集では、明治二九(一八九六)年の「正岡子規へ送りたる句稿 その十七 九月二十五日」として収め、句稿末には「愚陀拜」とある。因みに、私は、漱石の俳句で、心惹かれたものは、一句も、ない。]
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