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2024/06/28

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 㐧八 あくぎやくの人うみへしづめらるゝ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧八 あくぎやくの人、うみへしづめらるゝ事

○寬文元年、秋の中ばに、「かゝの浦」より、北國へ、くだるふね、あり。

[やぶちゃん注:「寬文元年」は閏八月があるので、秋の半ばとなると、グレゴリオ暦では、一六六一年の七月二十六日から十月二十二日までが「秋」となるので、中秋は、八月四日から九月十四日辺りに相当する。

「かゞの浦」岩波文庫の高田氏の脚注に、『不詳。若狭湾の加尾の浦か。』とある。確かに、私も「加賀」では、既に「北國」であるから、漠然と、ずっと南の地域を感じていた。高田氏の指示されるのは、現在の福井県小浜市加尾(かお)浦で、宇久(うぐ)浦の東にあり、北は西小川(にしおがわ)浦で、西は若狭湾に面する漁村である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 舟中に、をよそ[やぶちゃん注:ママ。]、三、四十人ばかり、のりけり。

 二、三里もいづべきとおもふ折ふし、此ふね、俄に、すはりて、跡へも、先へも、ゆきやらず。

 かこ[やぶちゃん注:「水手(かこ)」。船頭。]をはじめ、舟中の人〻、

「こは、いかなる事やらん。」

と、あはて、ふためく所に、しばらくありて、かしこを見れば、其長(たけ)、五ひろ[やぶちゃん注:「五尋」。ここは海上であり、通常の「一尋」(両手を広げた人体尺で一・八メートル)よりも、短い漁業で使う一・五メートルで換算すると、七・五メートル。]ばかりもあるらんとおぼしき、鰐(わに)[やぶちゃん注:サメ。]と云《いふ》物、五、六十ばかり、ふねの前後(ぜんご)を、うちかこみてぞ、みへ[やぶちゃん注:ママ。]にける。

 人〻、大きにおどろき、手に手に、ろ・かい[やぶちゃん注:ママ。「櫓・櫂」。]を、ひつさげ、

「うちちらさん。[やぶちゃん注:「打ち散らさん」。]」

と、ひしめく所に、かこ、一人、すゝみ出《いで》て、申《まうす》やう、

「いやいや、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、ちからわざには、叶《かなふ》まじ。是は、別(べち)の「ぎ」[やぶちゃん注:「義」。]にては、あるまじ。むかしも、此のうらにて、鰐、人を見入《みいり》、其《その》舟、何としても、うごかず、七日七夜《なにぬかななよ》、すはりけるに、舟中に、五、六十人も、ありつる中《うち》、物に、よく心得たる人、ありて、云《いふ》やうは、

『是は、定而《さだめて》、此舟中の人々の中に、鰐の見入ある人、あるべし。たれといひては、名(な)ざゝれず。とかく、めんめんのはながみを、うみへ、おとして見給へ。其かみを、わにの取りたるを、しるべにして、其の人を、うみへ、おろし、「わに」に、とらせん。』

『尤《もつとも》。』

とて、一人づゝ、かみを、おとしけるに、十四番目にあたりて、津国(つのくに)[やぶちゃん注:摂津の国。]の「なにがし」といひし人のかみを、取《とり》けり。

『扨は。』

とて、いたはしながら、うみへ入《いれ》ければ、舟は、つゝがなく、はしりける、と、ふるき人のはなしを聞をけば、定而(さだめて)、是も、さやうの「ぎ」なるべし。めんめんの、はながみを、入《いれ》てみ給へ。」

といふ。

「さらば。」

とて、めんめんに、おとしける中にも、一人は、かみをも、おとさず、只、よそごとのやうにして、うそぶいて、い[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 人〻、申《まうす》やう、

「何《いづ》れも、かく、なんぎに、あひ、身命(しんみやう)あやうき時節なるに、其方《そのはう》は、何と、おもひ入れ給ふぞ。何れも、のこらず、かみをおとしけるに、其方ばかり也《なり》。はやはや、おとし給へ。」

と、せめける時、せんかたなく、おとしけるに、おつるよりも、はやく、引《ひき》こみける。

 

Wani_20240628094001

[やぶちゃん注:岩波文庫の挿絵は、同書の挿絵の中では、状態が良い方である。三尾の「鰐」が描かれているが、この担当した絵師、実際のサメを見たことがなかったと思われ、想像で描いた結果、ナマズみたような奇怪な触手が口の左右に生えており、サメには認められないビラビラの胸鰭も附いていて、これ、怪奇感を、いやさかに煽って、甚だ面白い。いやいや、こんなのが、六十匹もおったら、こりゃ、「おとろしけない! でぇ! 第一参考底本はここ第二参考底本はここ。でも、やっぱり、後者がいいね。

 

「扨は。いたはしく候へども、其方を、うみへ、おろし申さん。一人に大勢は、かへがたし。かくご、あれ。」

と、口〻(くち《ぐち》)に申せば、此男、大きに、いかり、

「中〻《なかなか》。我に、『うみへ入れ。』とや。何のしさいに、入《いる》べき。おもひもよらず候。『ぜひに、いれん。』と思ふ人あらば、すゝみて、是へ、出《いで》給へ。」

とて、「わきざし」に、手を、かくる。

[やぶちゃん注:「中〻《なかなか》」同じく高田氏の脚注に、『他人の言葉を反発的に受ける語。何だと。何を。』とある。古語辞典では、「なかなか」、ここまで明快な解説は、ないぞ! こね野郎!]

 人〻、大ぜい、おりかさなつて、

「何といふとも、いはせまじ。」

と、手取《てとり》、あしとり、なんなく、うみへ、しづめけるが、其のまゝ、舟は、ゆるぎ出《いで》、じゆんぷうに、「ほ」を、さしあげ、ゆくほどに、舟中の人〻、死のなんを、のがれつゝ、皆、一同に、喜び、うたをぞ、うたひける。

 中にも、かのうみへ、しづみしものゝゆくゑ[やぶちゃん注:ここは「過去の素性」の意。]を、よく、しりたる人、ありていはく、

「かれは、あくぎやくのものにて、おほくの人を、ころし、或は、女・わらんべを、たばかりては、他国へ、うりなどせしむくひ、今日《こんにち》、來(きたつ)て、うみにしづみしなり。」

と、かたれば、きく人、にくまざるは、なし。

「『このはなし、いつはりなき。』よし、『大せいもん』[やぶちゃん注:「大誓文」。神仏に誓って間違いないという証文。]を入《いれ》、同じ舟に、のり合《あひ》て、見申《まうす》。」

よし、越後の人の、かたられける。

 

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