「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 黃櫨
はじのき 和名波𨒛之
俗云波時乃木
黃櫨
ハアン ロウ
[やぶちゃん字注:「𨒛」は「邇」の異体字。]
本綱黃櫨生山谷葉圓木黃可染黃色
木【苦寒】 治黃疸目黃水煮服之洗赤眼及湯火𣾰瘡
[やぶちゃん字注:「𣾰」は「漆」の異体字。]
△按黃櫨以染黃色天子御袍稱黃櫨染是也染帛上用
砥水畧染則爲黑茶色其葉小淺青色莖微赤三四月
開小白花結細子至秋紅葉
新古今鶉なくかた埜にたてるはじ紅葉ちらぬばかりに秋風そふく親隆
[やぶちゃん注:最後の和歌の「ちらぬばかりに」は「ちりぬばかりに」の誤りであるので、訓読では訂した。]
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はじのき 和名、「波𨒛之《はにし》」。
俗、云ふ、「波時乃木」。
黃櫨
ハアン ロウ
[やぶちゃん字注:「𨒛」は「邇」の異体字。]
「本綱」に曰はく、『黃櫨《くわうろ》、山谷に生《しやうず》。葉、圓《まろ》く、木、黃にして、黃色に染むべし。』≪と≫。
『木【苦、寒。】 黃疸≪がため≫、目、黃なるを治す。水≪にて≫煮て、之れを服す。赤眼《あかめ》、及び、湯火(やけど)・𣾰瘡(うるしまけ)を洗ふ。』≪と≫。
△按ずるに、黃櫨は、以つて、黃色を染む。天子の御袍(《ご》はう)、「黃櫨染(くわうろせん)」と稱す、是れなり。帛《きぬ》を染めて、上《うへ》に砥水《とみづ》を用ふ。畧《やや》染まれば、則ち、黑茶色を爲《なす》。其の葉、小さく、淺青色。莖、微《やや》、赤≪し≫。三、四月、小≪さき≫白≪き≫花を開く。細≪かなる≫子《み》を結ぶ。秋に至《いたり》、紅葉す。
「新古今」 親隆
鶉なくかた埜にたてるはじ紅葉
ちりぬばかりに秋風ぞふく
[やぶちゃん注:「黃櫨」(くわうろ(こうろ))「はじのき」は、日中ともに、
双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum
を指す。但し、現代の中文名は「野漆」で、同中文ウィキでは、異名を「野漆樹「大木漆」「山漆樹」「癢漆樹」「漆木」「檫仔漆」「山賊子」と挙げるのみで、「黃櫨」は記されていない。同種は中国・インドシナ原産で、琉球から最初に渡来したので、「リュウキュウハゼ」の名もある。本邦の当該ウィキによれば(注記記号は省略した)、『ハゼノキ(櫨の木・櫨・黄櫨の木・黄櫨)『はウルシ科ウルシ属の落葉小高木。単にハゼとも言う。東南アジアから東アジアの温暖な地域に自生する。秋に美しく紅葉することで知られ、ウルシほどではないがかぶれることもある。日本には、果実から木蝋(Japan wax)を採取する資源作物として、江戸時代頃に琉球王国から持ち込まれ、それまで木蝋の主原料であったウルシの果実を駆逐した』。『「ハゼ」は古くはヤマウルシ』(ウルシ属ヤマウルシ Toxicodendron trichocarpum )『のことを指し、紅葉が埴輪の色に似ていることから、和名を埴輪をつくる工人の土師(はにし)とし、それが転訛したといわれている』。『別名にリュウキュウハゼ(紅包樹)、ロウノキ、トウハゼなど。果実は』「薩摩の実」(薩摩藩が不当に琉球を実行していたことによる)『とも呼ばれる。中国名は、野漆 (別名:木蠟樹)』。『日本では本州の関東地方南部以西、四国、九州・沖縄、小笠原諸島のほか、朝鮮半島南西沖の済州島、台湾、中国、東南アジアに分布する。低地で、暖地の海に近い地方に多く分布し、山野に生え、植栽もされている。日本の山野に自生しているものは、かつて果実から蝋を採るために栽培していたものが、それが野生化したものが多いともいわれる。明るい場所を好む性質があり、街中の道端に生えてくることもある』。『ときに、庭の植栽としても見られる』。『雌雄異株の落葉広葉樹の小高木から高木で、樹高は』五~十『メートル』『ほどになる。樹皮は灰褐色から暗赤色で、縦に裂けてやや網目状の模様になる。一年枝は無毛で太く、縦に裂ける皮目がある』。『葉は奇数羽状複葉で』、九~十五『枚の小葉からなる。小葉は少し厚くて細長く、長さ』五~十二『センチメートル』『の披針形で先端が尖る。小葉のふちは鋸歯はついていない。表面は濃い緑色で光沢があるが、裏面は白っぽい。葉軸は少し赤味をおびることがある。秋には常緑樹に混じって、ウルシ科特有の美しい真っ赤な色に紅葉するのが見られる。秋にならないうちに、小葉の』一~二『枚だけが真っ赤に紅葉することもある』。花期は』五~六『月』で、『花は葉の付け根から伸びた円錐花序で、枝先に黄緑色の小さな花を咲かせる。雄花、雌花ともに花弁は』五『枚。雄花には』五『本の雄しべがある。雌しべは』三『つに分かれている』。『秋に直径』五~十五『ミリメートル』『ほどの扁平な球形の果実が熟す。果実の表面は光沢があり無毛。未熟果実は緑色であり、熟すと黄白色から淡褐色になる。中果皮は粗い繊維質で、その間に高融点の脂肪を含んだ顆粒が充満している。冬になると、カラスやキツツキなどの鳥類が高カロリーの餌として好んで摂取し、種子散布に寄与する。核は飴色で強い光沢があり、俗に「きつねの小判」、若しくは「ねずみの小判」と呼ばれる』。『冬芽は互生し、頂芽は円錐状で肉厚な』三~五『枚の芽鱗に包まれており、側芽のほうは』、『小さな球形である。落葉後の葉痕は心形や半円形で、維管束痕が多数見える』。『個人差はあるものの、樹皮や葉に触れても普通はかぶれを起こさないが、葉や枝を傷つけると出てくる白い樹液が肌に触れると、ひどくかぶれをおこす。また、枝や葉を燃やしたときに出る煙でも、かぶれることがある』。『よく似ている樹種に』同属の『ヤマハゼ( Toxicodendron sylvestre )があり、ヤマハゼは葉の両面に細かい毛が生えていて、紅葉が赤色から橙色で、鮮やかさはハゼノキよりも劣る印象がある。ハゼノキは葉の表裏ともに毛がない点で、日本に古来自生するヤマハゼと区別できる』。『果実を蒸して圧搾して採取される高融点の脂肪、つまり木蝋は、和蝋燭(Japanese candle)、坐薬や軟膏の基剤、ポマード、石鹸、クレヨン、化粧品などの原料として利用される。日本では、江戸時代に西日本の諸藩で木蝋をとる目的で盛んに栽培された。また、江戸時代中期以前は時としてアク抜き後焼いて食すほか、すり潰してこね、ハゼ餅(東北地方のゆべしに近いものと考えられる)として加工されるなど、救荒食物としての利用もあった。現在も、食品の表面に光沢をつけるために利用される例がある』。二十『世紀に入り安価で大量生産可能な合成ワックスにより、生産が低下したが、近年』、『合成ワックスにはない粘りや自然品の見直し気運などから需要が増えてきている』。『木材は、ウルシと同様心材が鮮やかな黄色で、工芸品、細工物、和弓、櫨染(はじぞめ)などに使われる。櫨染は、ハゼノキの黄色い芯材の煎じた汁と灰汁で染めた深い温かみのある黄色である。なお、日本の天皇が儀式に着用する櫨染の黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)』(☜同ウィキがあり、画像もあるので見られたい)『の色素原料は同じウルシ属のヤマハゼになる』。『美しい黄緑色の木蝋が採取でき、融点が高いため、和蝋燭の上掛け蝋(手がけ和蝋燭の一番外側にかける蝋)として利用される』。『通常、櫨に含まれる蝋分は』二十『%程度であるが、この櫨の実に占める蝋分は』三十~三十五『%と圧倒的に高いため、採取効率が最も良いとされる。以下、「主な種類」として、長崎県島原市原産の「マツヤマハゼ(松山櫨)」、松山櫨から品種改良された福岡県小郡市が原育成地で主産地を熊本県水俣市とする「イキチハゼ(伊吉櫨)」、愛媛県の優良品種「オウハゼ(王櫨)」が挙げられているが、品種と言いながら、学名は他で調べても見当たらない。『日本への渡来は安土桃山時代末の』天正一九(一五九一)年に『筑前の貿易商人 神屋宗湛や島井宗室らによって中国南部から種子が輸入され、当時需要が高まりつつあった蝋燭の蝋を採取する目的で栽培されたのが始まりとされる。他方、大隅国の』武将『禰寝重長』(天文五(一五三六)年~天正八(一五八〇)年)『が輸入して初めて栽培させたという説もある』。『江戸時代は藩政の財政を支える木蝋の資源植物として、西日本の各藩で盛んに栽培された』。『その後、江戸時代中期に入って中国から琉球王国を経由して、薩摩藩でも栽培が本格的に広まった。薩摩藩は幕末開国後の』慶応三(一八六七)年には、『パリ万国博覧会に』、『このハゼノキから採った木蝋(もくろう)を出品している』。『広島藩では』、一七〇〇『年代後半から藩有林を請山として貸出し、商人らがハゼノキをウルシノキとともに大規模に植林、製蝋を行っていた記録が残る』。『今日の本州の山地に見られるハゼノキは、この蝋の採取の目的で栽培されたものの一部が野生化したものとみられている』とあった。私の家の無駄にある斜面にも、かなりの大きさのそ奴が生えている。私は、四十代後半にウルシにかぶれになった(大好きだったマンゴーも、はたまた、キウィも食べられなくなった)ので、なるべく、その木の傍には行かないことにしている。
「本草綱目」の引用は、「卷三十五上」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「黄櫨」で、ガイド・ナンバー[085-7b]以下である。短いので、全原文を手を加えて転写しておく。
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黃櫨【宋、嘉祐。】
集解【藏器曰、「黃櫨、生商洛山谷四川界。甚有之葉、圓。木、黃可染黃色。】
木 氣味、苦寒無毒。主治除煩熱解酒疸目黄水煮服之【藏器。】。洗赤眼及湯火漆瘡【時珍。】
附方【「新一」。】大風癩疾【黃櫨木、五兩、剉用新汲水一斗浸、二七日、焙硏、蘇枋木五兩、烏麻子一斗、九蒸九暴、天麻二兩、丁香乳香一兩、爲末、以赤黍米一升、淘淨用浸黃櫨木煮、米粥搗、和丸梧子、大每服、二、三十丸、食後漿水下日二夜、一聖【「濟總錄」。】】。
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「赤眼」疲れや病気などのために目が赤く充血した状態を指す。
「砥水《とみづ》」刃物を砥石で研ぐ時に使う水。ここは、その研いだ後の混濁した水。なお、別に、濁っている色がそれに似ているところから「味噌汁」を指す大工仲間の隠語があるが、ここは本来の用法であろう。ウィキの「天然砥石」によれば、『原料は主に堆積岩や凝灰岩などであり、荒砥は砂岩、仕上げ砥は粒子の細かい泥岩(粘板岩)から作られ、中でも放散虫の石英質骨格が堆積した堆積岩が良質であるとされる』とあり、その成分が恐らく絹に染み込んだハゼノキの色素成分を固定させる性質があるのであろう。
「新古今」「親隆」「鶉なくかた埜にたてるはじ紅葉ちりぬばかりに秋風ぞふく」は、「新古今和歌集」の「卷第五 秋歌下」の平安後期の公卿藤原親隆(康和元(一〇九九)年~永万元(一一六五)年)の一首(六三九番)、
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法性寺入道前關白太政大臣家歌合に 前參議親隆
うづらなく
交野(かたの)に立てる
櫨(はじ)もみぢ
散りぬばかりに
秋風ぞふく
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「うづら」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica 。博物誌は「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を見られたい。私の歌語としては、「憂づ」を匂わせるものである。「交野」交野ヶ原(かたのがはら)。河内国の歌枕。皇室の狩場があり、花の名所であった。現在の大阪府枚方市から交野市にかけて広がる丘陵地の慣習的な古地名。この南北の広域で、当該ウィキによれば、『広大な原野で大きな川が流れていたこともあり、多くの野鳥が集っており、貴族の遊猟地として栄えたとされている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)の中央の南北の広域に相当する。]
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