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2024/06/29

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷二 㐧九 じひある人とくを得る事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。挿絵はない。]

 

 㐧九 じひある人、とくを得る事

○正保元年六月中旬の事成《なる》に、東寺(とうじ)に、さる、「うりつくり」あり。

[やぶちゃん注:「正保元年六月中旬」グレゴリオ暦一六四四年七月十三日から二十二日までに相当する。

「東寺」寺はここ(グーグル・マップ・データ)。]

 其日、うりばたけへ見𢌞けるに、三十ばかりの男、かね袋(ふぐろ[やぶちゃん注:ママ。])を、一つ、持(もち)て來り、うりを、一つ、二つ、所望し、くふて、たちざまに、かのふくろを、わすれ、ゆきぬ。

 うりつくり、其ふくろを取《とり》て、

「是は、最前(さい《ぜん》)の人の、おとしてや、ゆきつらん。我、是を取てかへりなば、おとしたる人、さぞ、うらめしかるべし。人のなげきの、こもれるかねをとりて、何かせん。かへしあたへんには、しかじ。」

と、おもひて、かしこを見れば、此おとこ、いきをきつて、かけ來り、うりぬしに、むかつて、

「しかじかの事あるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、道より、おもひ付《つき》、參り候。それにあらば、給はれ。」

といふ。

 「うり」ぬし、

「さればこそ、其方のかね成《なる》か。『さだめて、とりに來られん。』と、最前より、是《ここ》に、ひかへ候。」

とて、くだんの袋(ふくろ)を、わたしける。

 此男(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])、申やう、

「あまり、御心ざしの過分、云《いふ》ばかりなく覺え申候。則《すなはち》、此ふくろの内を、すこしにても、御禮のために、しんじ參らすべけれども、是は、これ、人にわたすかね也。御宿(《おん》やど)を見置《みおき》て、追付(をつつけ[やぶちゃん注:ママ。])、御禮申さん。」

と、よろこびてこそ、かへりけれ。

 扨《さて》、四、五日もありて、うりぬしが宿(やど)を、たづね、たいめんし、

「此比《このごろ》の御れいに參りて候。すこしにて、はづかしく候へども、心ざしばかりに參らする。」

とて、錢(ぜに)五百文、さし出す。

 亭主、申《まうす》やう、

「さればこそ。此れいを申うくるほどならば、何《なん》とて、みぎのかねを、かへすべきや。おもひもよらず候。とくとく、取《とり》て、かへられよ。」

とて、

「ずん」

と、立《たつ》て、のきけるが、此男も、をんどく[やぶちゃん注:ママ。「恩德(おんどく)」。]のためを思ひ、二百文、「むしろ」[やぶちゃん注:「莚」。]のしたへ、さし入て、かへるに、ほどへて、女房、見付《みつけ》、取出《とりいだ》す。

 夫、もとより、ひよく[やぶちゃん注:「非欲」。]のものなるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、かやうのぜにを、一せんにても、身に付(つく)る事を、めいわくにおもひ、其錢を、のこらず、持《もち》て、寺〻へ、まいり、佛前へ、まき、或は、非人(ひんん)に、くれ、漸〻(やうやう)、あまりたる錢廿文、ありけるが、あるふるかねみせ[やぶちゃん注:「古鐵店」。金物屋。]に、「ふるわきざし」[やぶちゃん注:「古脇差」。]のありしを、まきあまれる廿文にて、かいとり、是は、孫(まご)のかたへ、とらせ、

「木(き)わりにも、させん。」

と、おもひ、取《とり》てかへりしを、かれが一子、「ほんあみ」に奉公しける。

[やぶちゃん注:「ほんあみ」数寄者光悦が一般には知られるが、元来、本阿弥家は刀剣の鑑定と研磨を業とした。その初祖は妙本。生没年から、正保ならば、本阿弥光甫である。]

 さる時、來り、此「木わりわきざし」を取《とり》てかへり、こしらへて、金廿枚にうり、其かね、親がもとへ、もち來り、

「此ほどの木わり、是ほどのかねになり候。」

とて、おやに、わたす。

 おやども、きもをけし、さらに誠《まこと》とは、おもはざりしかども、まぎれなければ、其ぶんにて、うちすぎぬ[やぶちゃん注:その徳分を是(ぜ)として受け取って、暮らした。]。

 さればこそ、「しんあれば、とくあり。」[やぶちゃん注:「『信』あれば、『德』あり。」。信仰の心を持つ者は行いに徳がある。また、信仰する人には神仏の加護により御利益があるの意。]とは、かやう事をや、いふらん。其身は田夫野人(でんぶやじん)なれども、正直(しやうじき)の一念あるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、天道(てんだう)より、ふくぶんを、あたへ給ふ。うら山しき心ならん。

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