柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(8)
いなづまにはつと消たる行燈かな 窓 竹
理窟を云へば稻妻と行燈の燈が消えるのと、別に關係があるわけではない。たゞ稻妻がぴかりとさす、行燈の灯がぱつと消える、といふ倏忽[やぶちゃん注:「しゆくこつ」。時間が極めて短いさま。]の感じを捉へたところに、この句の面白味があるのである。
行燈の消えたのは油が盡きた爲か、風でも吹いて來た爲か、それはいづれでも差支無い。窓を射る稻妻と、ぱつと消える行燈とが同時でありさへすればいゝのである。寸隙を容れぬ瞬間の印象がよく現れてゐる。
[やぶちゃん注:句の「行燈」は「あんど」(「あんどん」の音変化で、よく使われる)と読んでおき、本文は「あんどん」で読んでおく。]
接待や欠がちなる晝さがり 畏 計
攝待といふのは「佛寺或は街衢がいくにて往來の人に茶湯を施すこと」と歲時記にある。日は別に定つて居らぬらしい。
この句は攝待する側の人を描いたものである。佛寺であるか、街衢であるか、それはわからぬ。通行の人は次から次へと來て、茶に咽喉を潤して去る。いづれ酌むに任せ、飮むに任せてあるに相違無いから、攝待する側の人はたゞそこに詰めてゐるものと思はれる。晝下りは由來最も眠くなり易い時刻である。秋の日と雖もその點に變りは無い。若し殘暑の去りやらぬ時分でもあれば尙更であらう。攝待する側の人が閑殺されたやうな形で欠(あくび)ばかりしてゐるといふのも、慥に同情に値する事實である。攝待の句としては變つた種類のものと云はねばならぬ。
いわし寄る波の赤さや海の月 桃 首
魚の大羣の寄せて來る時は海の色が變るといふ。それは晝間のことであらうが、月下にも同樣であるかどうか、不幸にしてまだ見たことが無いから、何とも斷言は出來ない。月明の夜であつたら、潮の色が變つて見えるのかも知れぬ。この句はどうしても空想に成つたものではなささうである。
「鰊羣來」といふ言葉が頻に俳句に用ゐられたことがあつた。幸田露伴博士の說によると「クキル」といふのは古い言葉らしい。「北海道では今、羣來の二字を充てるが、古は漏の字を充ててゐる。鯡のくきる時は漕いでゐる舟の櫂でも艫でも皆かずの子を以てかずの子鍍金[やぶちゃん注:「めつき」。]をされてしまふ位である」と書いてある。この句は羣來の語を用ゐずに羣來を描いたので、それだけ景色が大きくもなり、ゆとりがあるやうにも感ぜられる。或は夜景の爲かも知れない。
[やぶちゃん注:「鰊群來」は「にしんくき」と読み、鰊(硬骨魚綱骨鰾(ニシン)下区ニシン上目ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii )が産卵のため、三~四月頃、主に北海道西岸に回游して来て、その放つ精液で海面が乳白色に見える現象を指す。「春」の季語であったが、参照した小学館「日本国語大辞典」によれば、初出の実例句は、山口誓子の句集「凍港」(昭和八(一九三二)年刊)の、
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どんよりと利尻の富士や鰊群來(にしんくき)
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で、近代の新しい季語であるが、ニシン漁衰退で季語として死語となってしまった。しかし、去年、それが北海道で珍しく見られたのを、私はNHKの自然番組で見、感激した。
「幸田露伴博士の說によると……」この露伴の引用は、随筆「華嚴瀧」の「七」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの幸田露伴「鷲待庵物語」(昭和二四(一九四九)年刊・朝日新聞社『朝日文庫5』)のこちらで正字正仮名で視認出来る。引用は右ページ後ろから三行目からであるが、その直前に『車は夕暮に迫つて菖蒲が濱から歌が濱へと走つたが、この間のドライブは實に愉快である。右は中禪寺湖なり、左は男體山なり、道は好し、樹木の茂れる中を走るのであるから、そのさわやかさは幾度も繰返して味はひたいと思ふくらゐである。車中から偶然(ふと)見る湖岩に漣波(さざなみ)が立つて赤腹(あかはら)といふ小魚が群騷いでゐる。產卵のために雌魚が夢中になつてゐるのである。古い語で「タキル」とこれをいふ』とあって、引用部が続く。「タキル」は「たぎる」で「滾る」「沸る」であろう。なお、「博士」とあるが、当該ウィキによれば、露伴は学歴は逓信省電信修技学校卒で、文学は独学。明治四一(一九〇八)年(年)、京都帝國大学文科大学初代学長の旧友狩野亨吉に請われ、破格の招聘で国文学講座の講師となった。大学を辞めた翌年の明治四四(一九一一)年、明治四十年に、唐の伝奇小説「遊仙窟」が「万葉集」に深い影響を与えていることを論じた「遊仙窟」を主たる業績として「文学博士」の学位を授与されている。]
引網の魚えり分くる月夜かな 川 鳥
「寄月漁父」といふ前書がある。題によつて想を構へたものであらう。その點前の句とは多少の逕庭がある。
尤もこれは構へ得べき想ではあるが、全然實感を伴はぬわけではない。引寄せた網の中から獲物を選り分ける。銀鱗潑剌として月光に躍る有樣は、決して惡いことはない。たゞ全體から見ていさゝか平凡なのである。月下の漁父についてこれだけの景色を描き出すことは、比較的容易な憾がある。
湖に行水すつる月夜かな 西 與
「大津止泊の比」といふ前書がついてゐる。湖畔の家に泊つて、行水をすました湯を月夜の湖に捨てる、といふだけの事である。今の人だと假令同じ場合に臨んでも、「湖に」と大きな語を點ずることを敢てしないかも知れぬ。元祿の句の面白味はかういふ大まかな所にもある。
行水を捨てる句として最も人口に膾炙したのは、鬼貫の「行水のすてどころなし蟲の聲」であらう。この水を捨てたら折角鳴いてゐる蟲が鳴きやむに相違無い、蟲はそこら一面に鳴いてゐるので、どこへ水を捨てていゝかわからない、といふのは思はせぶりの甚しいものであり、えせ風流である。この句が俚耳[やぶちゃん注:「りじ」。世間の俗人らの耳。]に入り易いのも、全くこの思はせぶりの爲で、俗人はこの種のえせ風流に隨喜する傾がある。子規居士も「月見つゝ庭めぐりせばなきやまんゐながら蟲の聲は聞かまし」といふ歌を評して
[やぶちゃん注:以下、底本では、一行目が一字下げ、二行目以降が、二字下げで引用してある。妙なので、全部、引き上げて、前後に「*」を入れた。]
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「なきやまん」と想像語にする事歌よみの常ながら極めて惡し。箇樣なる想像を風流と思ひ居れども、こはえせ風流にして却て俗氣を生ずるのみ。庭を步行いて[やぶちゃん注:「あるいて」。]蟲が鳴きやみたりとてそれが不風流になる譯もあるまじ。寧ろ想像をやめて、實地に蟲の鳴きやめたる樣を詠む方實景上感を强からしむるに足らんか。………古歌の「渡らば錦中や絕えなん」といふも惡し。それよりも、渡りて錦の絕えたる方面白きなり。
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と喝破したことがあるが、これはそのまゝ鬼貫の句に該當すべきものである。行水の湯をざぶりと月の湖に捨てるの朗然たるに如かぬ。
泊雲氏の「暗き湖に何洗ふ音や行水す」などといふ句は、同じく湖畔の行水を題材としたものである。但大正年代だけに捉へ所がこまかくもなり、複雜にもなつてゐる。
[やぶちゃん注:『鬼貫の「行水のすてどころなし蟲の聲」』は明和六(一七六九)年平安書肆刊・大祇校訂「鬼貫句選」では、
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行水(ぎやうずい)の捨(すて)どころなしむしのこゑ
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である。
『子規居士も「月見つゝ庭めぐりせばなきやまんゐながら蟲の聲は聞かまし」といふ歌を評して……』国立国会図書館デジタルコレクションの『子規全集』第六巻(昭和四(一九二九)年改造社刊)の「短歌愚考」(明治三三(一九〇〇)年一月作)のここの一節で視認出来る。但し、やり玉に挙げた和歌の後にある、子規の思うままに改作した、
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(愚考)月照らす庭の小萩をめぐりつゝ我行く方に蟲なきやみぬ
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を宵曲はカットしている。いやいや、子規の改作の方がすっと胸に落ちる。
『泊雲氏の「暗き湖に何洗ふ音や行水す」』西山泊雲(明治一〇(一八七七)年~昭和一九(一九四四)年)は兵庫県生まれ。本名は亮三。当該ウィキによれば、『兵庫県竹田村(現丹波市)生。酒造家西山騰三の長男。弟は野村泊月で、泊月の紹介で高浜虚子に師事した。酒造業を継いだが、青年期には神経衰弱に陥り』、『家出や自殺未遂を経験。また』、『家業が不振となった折には、虚子がその醸造酒を「小鼓」と命名』、『ホトトギス』に『何度も広告を出して再興を助けた』。『鈴木花蓑』(はなみの)『と並び』、『ホトトギス』『沈滞期を代表する作家で』、『同誌巻頭を』二十八『回取っているが、山本健吉は(花蓑と比べても)「泊雲のほうがより没主観の写生主義であり、句柄も鈍重で冴えたところがない」としている』。『泊月とともに丹波二泊とも呼ばれた。代表句に「土間にありて臼は王たり夜半の月」』とある。]
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