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2024/06/05

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(12)

 

   朝顏よ一番馬の鈴の音 北 空

 

 今の電車にしろ、バスにしろ、始發と終發の時間は大體きまつてゐるから、昔の馬にもさういふ定めがあつたものと思はれる。其角の「それよりして夜明烏や時鳥」といふ句が「己が光」には「夜明の馬や」となつており、馬としても解釋出來ぬことは無い、といふことは已に述べた。若しきまつて夜明に出る馬があれば、恐らく一番馬の名に値するのであらう。

 朝顏の花が咲いてゐる。しづかにその花に對してゐると、一番馬の通る鈴が聞えて來る。「驛路の朝顏」とでもいふべき題材である。明方の爽涼の氣と、朝顏の花と、高い鈴の音と相俟つて三重奏の觀を呈してゐる。

[やぶちゃん注:其角の句のそれは、『「夏」(9)』の、里東の「ほとゝぎす月夜烏の跡や先」の解説を指す。]

 

   稻づまや扇ひろげてたゝむ間 千 甫

 

 倏忽[やぶちゃん注:「しゆくこつ」。]時間がきわめて短いさま。現代仮名遣は「しゅっこつ」。]の感じである。

 扇をひろげてたゝむ、その短い間にさつと稻妻がさす。ひろげた扇をパチリとたゝむ。その感じと稻妻の走る光とが句の上で一になつてゐる。

 配合の句と云へばそれまでであるが、所謂配合以上に或感じを捉へ得てゐるやうに思ふ。

[やぶちゃん注:句の「間」の読みは「あひ」であろう。]

 

   乘かけの荷をしめ直す野分かな 冬 稚

 

「乘かけ」といふのは乘掛馬のこと、本馬ならば三十六貫の荷を負わせるところを、荷を二十貫に減じ、一人これに乘るの謂である。

 さういふ支度で出かけたが、あまり野分[やぶちゃん注:「のわき」。]が吹きまくるので、途中で馬の荷を締め直す。必ずしも野分によつて吹飛されるわけではないにしても、著けた荷を途中で締め直すところに、野分らしい或不安が現れてゐる。

 昔の旅の心細さといふものは、今日からは十分に想像出來ない。馬背に跨つて野分に吹かれ行く旅人の樣子も、吾々の腦裏には動も[やぶちゃん注:「ややも」。]すれば畫裡の眺の如く映ずる。「荷をしめ直す」の一語は、旅の實感から生れたところに、云ふべからざる强味があるのである。

[やぶちゃん注:「本馬」(ほんま)は、江戸時代の宿場に置いた駄馬の一つの呼称。「一駄(だ)」として定められていた積荷量が四十貫(百五十キログラム)又は三十六貫(百三十五キログラム)の伝馬を指す。別に「からじり(うま)・からしり(うま)」(「輕尻・空尻」)がおり、こちらは、人を乗せる場合、手荷物を五貫目(十八・七五キロ)まで、人を乗せない場合は本馬の半分にあたる二十貫目(七十五キログラム)まで荷物を積むことが出来た。]

 

   溜り江や野分のあとの赤とんぼう 從 吾

 

「溜り江」といふ言葉はいさゝか耳慣れぬようであるが、水のあまり動かぬ、ぢつと湛へてゐる場所らしく想像される。荒れに荒れた野分がやんで、しづかな水の上に赤蜻蛉が飛んでゐるといふのである。

 この「溜り江」なる水はさう深くもないし、且淸澄なものとも思はれぬ。蘆葦[やぶちゃん注:「ろゐ」。]のたぐひでも生えてゐるやうなところであらうか、そこに弱々しい赤蜻蛉の飛んでゐる趣は、野分のあとの空氣に極めてよく調和してゐる。平凡に似て平凡ではない。下五字は「赤とんぼう」と延さずに「赤とんぼ」と詰つた方がいゝやうであるが、或は字でかう書いても、發音する場合には詰るのかもわからない。

 

   谷中は私(わたくし)風に鳴子かな ウ 白

 

「私雨」といふ言葉がある。或場所に限つて降る雨の意らしい。芭蕉に「梅雨ばれの私雨や雲ちぎれ」といふ句があり、西鶴も「偖も此所の私雨、戀をふらすかと袖ぬれて行ば」(三代男)「軒端はもろもろのかづらはひかゝりてをのづからの滴こゝのわたくし雨とや申すべき」(五人女)などと使つてゐる。更に後世になつても「あやしさの私雨や初紅葉」といふ嘯山の句、「箱根山關もる人も朝ぎりのわたくし雨にあざむかれつゝ」といふ景樹の歌など、之を踏襲したものがある。そこばかり降るのを「私雨」と稱するのは、誰の創意に成る言葉か知らぬが、含蓄があつて面白い。

 已に私雨といふ言葉が通用する以上、私風もあつて差支無さゝうである。外は風が吹くとも見えぬのに、こゝの谷間だけ風が吹いて、谷田の鳴子がガラガラ鳴る。「私風」といふ言葉には、妖氣といふほどではないけれども、多少怪しい感じが伴つてゐるやうな氣がする。

 私雨といふ言葉から出發して、新に私風といふ言葉を造つたのか、地方的にかういふ言葉があつたものか、その邊の穿鑿は不案內である。いづれにしてもこの語を用ゐずに、これだけの感じを現すことは困難であらう。

[やぶちゃん注:「私雨」小学館「日本国語大辞典」に、『限られらた区域にだけ降るにわか雨。特に、有馬、鈴鹿、箱根などの山地の者が知られている』とあり、俳諧撰集「唐人躍」(野々口立圃(りゅうほ)の門弟井上友貞延宝五(一六七七)年に刊したもの)の國信の句、

 もみじぬはわたくし雨よ松の聲

が例示されている。「わたくしかぜ」は同辞典には載らなかったが、登録しているG&Aサイト「Qura」のここで見つけた。『愛媛県では、いくつかの特徴的な強風(局地風)が見られます。このうち、宇和島市付近でみられる局地風に「わたくし風」というものがありますが、質問者の意図とは合致していないでしょうね』と謙遜しておられるが、『風は地形の影響を強く受けるため、地形の複雑な愛媛県では地域による差が大きく、東予東部の「やまじ風」、肱川河口付近の「肱川[やぶちゃん注:「ひじかわ」。]あらし」などと言われる局地風があります』とあり、さらに、「松山地方気象台」の二〇二四年五月の「気象と気象用語」というリーフレットPDF)にも、『【気象用語】「愛媛県の局地風」について』の中に、

   *

   わたくし風

 宇和島市では、低気圧等が四国の南岸を進むときに東よりの強風が吹くことがあります。この強風を地元では「わたくし風」「深山おろし」「大風」「宇和島風」と呼んでいるようですが、ここでは「わたくし風」とします。

 「わたくし風」は低気圧等が四国の南岸を進むとき、高知県側から東よりの風が鬼が城山系を吹きおろす強風で、農作物等に被害が発生することがあります(第2 図)。「わたくし風」もおろし風で強風とともに気温の上昇が見られます。

   *

とあった。「わたくし風」もあったと私は考える。

『芭蕉に「梅雨ばれの私雨や雲ちぎれ」といふ句があり』残念ながら、現在は芭蕉の句として正しくは認定されていない。所持する中村俊定校注「芭蕉俳句集」(一九七〇年岩波文庫刊)に「存疑の部」で見出した。「もとの水」に、

   *

  しなのの洗馬(せば)

 つゆばれのわたくし雨や雲ちぢれ

   *

とあり、他に「袖日記」・「芭蕉翁句解參考」(前書を『木曾路にて』とする。)・「俳諧一葉集」(作を貞享・元禄年中とする)に載る。

『西鶴も「偖も此所の私雨、戀をふらすかと袖ぬれて行ば」(三代男)「軒端はもろもろのかづらはひかゝりてをのづからの滴こゝのわたくし雨とや申すべき」(五人女)などと使つてゐる』国立国会図書館デジタルコレクションの『西鶴全集』「下卷」 (明治二七(一八九四)年帝国文庫刊)のここで前者が(右ページの「●戀は癒(なほ)らでいなの酒呑」の二行目下方から)、後者が、同「上卷」のここ(左ページ八行目中央。「●衆道(しゆだう)兩の手に散花(ちるはな)」の一節)で視認出来る。

『「あやしさの私雨や初紅葉」といふ嘯山の句』この句は確認は出来た。作者は儒者で俳人であった三宅嘯山(みやけしょうざん 享保三(一七一八)年~享和元(一八〇一)年)。本名は芳隆。三宅観瀾の一族で、京の質商。望月宋屋(そうおく)に俳諧を学び。炭太祇・与謝蕪村らと交わり、「俳諧古選」などの評論で、元禄期への復帰を唱えた京俳壇の重鎮であった。漢詩にも優れ、「嘯山詩集」を残し、中国近世の白話小説にも通じた。

『「箱根山關もる人も朝ぎりのわたくし雨にあざむかれつゝ」といふ景樹の歌』江戸後期の歌人桂園派の開祖香川景樹(かがわかげき 明和五(一七六八)年~天保一四(一八四三)年)の一首。国立国会図書館デジタルコレクションで確認は出来た。]

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