柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(21)
殘る蚊に袷著てよる夜さむかな 雪 芝
殘る蚊と、秋の袷と、夜寒と三つの材料から成立つてゐる。しかしそのために五目飯や三題噺のやうなことにはならず、渾然として一體になつてゐるのが、この句の手際であらう。
漸く夜寒を感ずる頃である。何かの集りがあつて、來た人が皆袷を著てゐる。が、その座には秋の蚊が殘喘を保つてゐて、時々人の肌を襲ひに來る、といふ意味の句らしい。夜寒と殘る蚊とが一句の上に交錯するなどは、ちよつと思ひつかぬ趣であるが、自然の上にはいくらもある事實である。一面夜寒を感じ、一面殘る蚊を見る。秋の或季節の趣は、殆どこの一句に悉されてゐるやうに思ふ。
「袷著てよる」の「よる」といふ言葉は、見方によつていろいろに解されるが、しばらく右のやうに解して置いた。人の集りと云つたところで、さう大勢の會合ではあるまい。たゞ袷を著てゐるといふだけでなしに、「よる」の一語があるため、一句をちよつと複雜なものにしてゐる。平淡なやうで手の込んだ句である。
うら道の露の深さや猫の腹 夕 兆
この裏道は草などの生はえた、狹い道らしく思はれる。さういふ道に現在猫がゐるわけではない。猫の腹がしとどに濡れてゐるのを見て、裏道を步いて來たものと推定し、草に置く露の如何ばかり[やぶちゃん注:「いかばかり」。]深いかを想ひやつたのであらう。
眼前の光景を現したやうな「うら道の露の深さや」といふ言葉が、想像の上に立つてゐるところに、この句の特色がある。猫の毛は一體に他の獸に比して水をはじく力が乏しいから、露の草むらなどを步けばぐつしより濡れてしまふ。裏道の露の深さは、この猫の腹の濡れ工合によつて想像されるのである。「露の深さ」と猫の腹との間に、想像的意味が含まれてゐるものと見れば、必ずしも無理な表現とも思はれぬ。
瓢簞の軒端にさがる日あしかな 爲 有
軒端に瓢簞[やぶちゃん注:「へうたん」。]がぶらりと下つてゐる、稍〻傾いた秋の日脚がその邊に明るくさしてゐる、といふ光景らしい。作者はかう描き去つたのみで、瓢簞の影も點じなければ、他の配合物も持つて來ない。手の込んだ後世の句から見ると、その點は羨うらやましい位大まかである。
「日あし」といふ言葉に限定された時間は無いわけだから、かう云つただけでは傾いた日脚かどうかわからぬやうなものの、軒に下つた瓢簞にさす日脚とすれば、外の時間では工合が惡い。西へ廻つた秋の日脚で、明るい中に漸く日の詰つたことを思はせる光線が眼に浮んで來る。當然あう解して差支無いやうに思はれる。
外屋敷や野分に殘る柿の蔕 野 童
「外屋敷」はトヤシキと讀むのかと思ふが、よくわからない。「野分[やぶちゃん注:「のわき」。]に殘る」といふ言葉から考へると、野分の直後のやうだけれども、實際はもう少し時間の距離があるので、野分に吹落された柹の蔕が梢に殘つてゐる、秋もかなり闌けた[やぶちゃん注:「たけた」。]場合ぢやないかといふ氣もする。批評の發達した近頃の句は、電車の交叉點を突切る時のやうに、前後左右を見廻して作るから、言葉の現す意味も自ら考慮されてゐるが、昔の人はさういふ點にあまり頓著せず、眼中の印象を悠々として一句に收めてゐる。この「柹の蔕」なども慥にその一例と見るべきもので、どこにどう殘つてゐるのか、深く問はぬやうな趣がある。
篠深く梢は柹の蔕さびし 野 水
三線からむ不破の關人 重 五
といふ附合の句は、ずつと以前七部集を耽讀した頃から、頭に沁み込んで離れぬものの一であるが、これが先入主になつているせゐか、野童の柹の蔕も直に梢にあるものと解釋した。外屋敷の背景の下に、この蔕のあるところを考へれば、柿の木の梢より外にはあるまいと思ふ。
子供の時分、父が柹の木を二本買つて植ゑたことがあつた。一本の百目柹には大きな實が一つ二つ殘つてゐたが、一本の方は葉も何も悉く落盡して、枯木のやうになつてゐた。その梢に點々と黑いものの殘つてゐるのを、何かと思つて竹竿で落して見たら、固く干からびた蔕であることがわかつた。この柹は庭に植ゑてから、一度もならずに枯れてしまつたと記憶してゐる。嘗て「篠深く」の句に興味を感じ、今又この柹の蔕を取上げたのも、畢竟この少年の時の事が土臺になつてゐるのかも知れない。人間といふものは他の句を解釋するに當つても、自己の世界を脫却出來ぬものと見える。
[やぶちゃん注:宵曲の自己分析は見事!
「野水」と「重五」のそれは、「冬の日」の(前後を少し附した)、
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櫛ばこに餅すゆるねやほのかなる かけい
うぐひす起(おき)よ帋燭(しそく)とぼして 芭蕉
篠(ささ)ふかく梢は柹の蔕さびし 野水
三線からん不破のせき人 重五
道すがら美濃で打ける碁を忘る 芭蕉
ねざめねざめのさても七十 杜國
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の表記である。]
炭竈をぬりて冬待つ嵐かな 吏 明
山家[やぶちゃん注:「やまが」。]の句であらう。冬が近くなつたので、炭を燒くべく炭竈を塗り、もう何時[やぶちゃん注:「いつ」。]冬が來ても差支無い用意がとゝのつた。若し「炭竈をぬりて冬待つ山家かな」だつたら、それこそ平凡極るものだけれども、作者は句に一轉化を與へるため、嵐といふものを持出して來た。冬が近づくに從つて、山は屢〻嵐が吹く。「いかばかり吹く峯の嵐ぞ」といふやうな、詠歎的なものではない。現實に山家の人の心を搖る[やぶちゃん注:「ゆする」。]寒い嵐である。この嵐あるによつて、この句ははじめて魂が入つたことになる。
俳諧の要諦はこの「嵐」の呼吸に在る、と云つただけでは、未だ意を悉さぬ[やぶちゃん注:「つくさぬ」。]嫌があるかも知れぬが、この嵐の如きものがあつて、畫龍點晴の妙を發揮する場合が多いといふことは、斷言してよからうと思ふ。
[やぶちゃん注:「いかばかり吹く峯の嵐ぞ」は「新古今和歌集」の「卷第六 冬歌」の藤原資宗朝臣の一首、
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後冷泉院御時、上(うへ)のをのこども
大井河にまかりて、「紅葉浮ブㇾ水ニ」と
いへる心をよみ侍(はべり)ける
いかだ士よ待てこととはん水上(みなかみ)は
いかばかり吹く山のあらしぞ
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である。]
はつ秋や小袖だんすの銀の鎰 巴 水
「鎰」といふのはカギのことである。普通の鍵とどう違ふかわからぬが、その邊は專門家に一任してよからうと思ふ。第一この句では鍵がどうなつてゐるのか、それからして明瞭でない。「小袖だんす」といふものを句の中に持出した以上、腰にぶら下げたりしてゐるのでないことは慥だけれども、今少し立入つて、この場合鍵がどうなつてゐるかといふ段になると、さつぱり見當がつかぬのである。
この句の生命は「銀」の一字にある。もしこの句から銀の字を除いたならば、卒然として價値の半を失ふに相違ない。鍵は銀光を放つことによつて初秋と調和し、それが一句の中心をなしてゐるやうに思ふ。假にこの句から鍵の音を連想する人があるにしても、その音は銀光の範圍に屬するものでなければならぬ。
蚊屋しまふ夜や銀屛のさびのよき 醉 竹
蚊帳を釣らぬやうになつて、何となくぱつとした燈影が座邊を照す。そこに立てた屛風の銀が稍〻さびて、極めて落著いた色を見せてゐる。作者は句中に灯を點じてはゐないけれども、「さびのよき」銀屛がしづかに灯を受けてゐることは十分想像出來る。
支考は芭蕉の「金屛の松のふるびや冬籠」の句について、「金屛は暖かに銀屛は涼し」と云ひ、「六月の炎天に金屛をたてんに、人の顏かゞやきてよからず、さる坐敷は道具知らぬ人に落ちぬべし、されば金銀屛の涼暖を今の人の見付けたるにはあらず、そも天地より成せる本情なり」と論じた。それほど面倒なことを云はなくてもいゝが、前の句と云ひ、この句と云ひ、初秋の季節に銀色を配したのは頗る感覺的である。銀の鍵は燦然たるところに、屛風は銀の色のやゝさびたところに、各〻秋の心を捉へてゐる。「銀の鎰」の方は時間を明にせぬが、やはり夜の燈下がふさはしいやうな氣がする。
[やぶちゃん注:『支考は芭蕉の「金屛の松のふるびや冬籠」の句について、……』芭蕉の元禄六年の十月九日附許六宛書簡初出だが、異形句が多い。
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金屛の松の古さよ冬籠(「炭俵」)
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金屛に松のふるびや冬籠り(「笈日記」)
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金屛の松もふるさよ冬籠(「芭蕉庵小文庫」)
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金屛の松のふるびや冬籠(「陸奥鵆(むつちどり)」)
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因みに、この句は富家の座敷を想起した想像句で、そこに侘びた芭蕉の冬籠りを通わせたのである。さて、さる方の論文によって、この支考の評は、俳論「續五論」の一節であることが判った。その引用を参考に正字で示すと、
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金屛はあたゝかに銀屛は涼し。 是をのづから金屛・銀屛の本情也。(略)[やぶちゃん注:論文者による。]金屛・銀屛のうち出たる本情は、貴品高家の千畳敷とおもひよるべし。それを松の古さよといはれたれば、牒つがひもはなればなれに兀(はげ)
かゝりて、ばせを庵六畳敷のふゆごもりと見え侍るか。是風雅の淋しき實なるべし。金屛のあたゝかなるは物の本情にして、松の古さよといふ所は二十年骨折たる風雅のさびといふべし。
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である。衒学的な支考らしい大上段で、微苦笑したくなるね。]
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