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2024/06/14

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(4)

 

   麥まきの藪をへだつる西日かな 吾 仲

 

 現在麥を蒔きつ窶ある畑の向うに藪があつて、その向うに夕日がかゝつている。藪があるだけ、日の傾くことも多少早いわけであるが、同時にその藪によつて平野の單調を破つてゐる感がある。單に傾きつゝある西日といふよりも、藪の秀[やぶちゃん注:「ほ」。]がこれを隔てるといふ方が、景色の上に或まとまりを作ることになるからである。

 麥蒔に夕日を配した句は、この外にも猶「麥蒔のうしろ淋しき入日かな 支庸」「麥蒔の影法師長き夕日かな 蕪村」の如きものがある。冬の日の暮れ易いことも固よりではあるが、麥蒔頃の野良の寒さが、何となく夕日の名殘を惜しませるのではないかと思ふ。

[やぶちゃん注:このパースペクティヴは、タルコフスキイの「鏡」のような遠近法の魔術的なスカルプ・イン・タイムを思わせる、優れた一句と思う。

「麥蒔のうしろ淋しき入日かな 支庸」どの派かは判らぬが、俳人麓庵支庸かと思われる。「安永六丁酉歲」という俳諧撰集を安永六(一七七七)年に板行している。以下の蕪村の句が無関係ではないとすれば、蕪村の一派であろうか。

「麥蒔の影法師長き夕日かな」蕪村の安永七(一七七八)年の句として「蕪村遺稿」に載る。但し、そこでも表記は、

   *

 麥蒔の罔兩(かげぼし)長き夕日かな

   *

である。]

 

   時雨るゝや古き軒端の唐辛 爐 柴

 

 草家の軒などに眞赤な唐辛子が吊してある。そこに時雨が降るのである。

「古き軒端の」といふ言葉は、百人一首を連想せしめさうなものであるが、この場合、そんな事を顧慮する必要は無い。古ぼけた軒端に吊した唐辛子だけが、たゞ赤々と著しく眼に入る。その色が赤ければ赤いだけ、侘びた趣が增すのである。言葉は雅馴であつて、內容に一種の新しい感じがある。然も時雨と古き軒端と、極めて陳腐な配合を竝べた末に、突如として唐辛子を點出することは、決して凡庸の手段でない。芭蕉の「春雨や蜂の巢つたふ屋根の漏」の句が、春雨と軒の雫といふ尋常な配合を用ゐながら、蜂の巢によつて全く新なものにしてゐるのと、稍〻相似た筆法である。俳諧の妙味はこの邊に存するのであらう。

[やぶちゃん注:錯雑物がない、鮮やかに見事なズーム・アップである。

『芭蕉の「春雨や蜂の巢つたふ屋根の漏」』は元禄七(一六九四)年の作で、「炭俵」に所収する。そこでは、

   *

 春雨や蜂の巢つたふ屋ねの漏

   *

の表記である。]

 

   冬旅や足あたゝむる馬の首 誐々

 

 馬上旅行といふものは、未だ曾て經驗したことが無いが、冬日風に向つて馬を驅るなんぞは、あまり難有いこととは思はれない。芭蕉が伊良胡に杜國を訪ねた時の句に「すくみ行くや馬上に氷る影法師」とあるのを見ても、その寒さは略〻想像出來る。

 この句は馬上の旅を續けてゐる人が、足のつめたさに堪へず、馬の首に觸れてあたゝめる、といふことらしい。溫め鳥[やぶちゃん注:「ぬくめどり」。]と同じやり方である。馬の體溫によつて足をあたゝめるといふのは、馬上の寒さを裏面から現したやうで、實はさうでない。吾々も作者と同じく、足を觸れる馬の首のあたゝかさを如實に感じ、併せて昔の旅人の侘しさをしみじみと感ずる。珍しい句である。

[やぶちゃん注:私のブログの「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる (分量膨大に附き、ご覚悟あれかし)」を参照されたい。サイト版で一括した「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる(「笈の小文」より 藪野唯至附注)PDF縦書版」もある。]

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