柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(19)
衣うつ所へ旅のもどりかな 旦 藁
この旅から戾る人物は、どういふ種類の者かわからぬ。突然戾つて來たのか、或は歸るべき日に歸つて來たのか、それもわからぬ。わかるのは女房が砧盤[やぶちゃん注:「きぬたばん」。]を出して衣を擣つてゐるところへ、旅行から夫が歸つて來たといふことだけである。理窟を云へば衣を擣つ者が妻であり、歸つて來る者が夫であることも、句には現れておらぬやうであるが、そこはさう解するのが砧の句の定石であらう。下女砧を打ち、主人行商より歸るでは、この句の情味は全く減殺されてしまふ。
子規居士の「百中十首」の中に「七年の旅より歸るわが宿に妹が聲して衣打つなり」といふ歌がある。この句から脫化したものかどうかわからぬが、境地は全く同じである。たゞ旦藁は衣を持つ者の側より見、子規居士は旅より歸る者の側より見てゐるだけの相違に過ぎぬ。「七年の」の歌は固より想像の產物であるが、旦藁の句は一槪にそう斷ずることも出來ない。極めて手輕く敍し去つてゐるところに、却つて實感らしいものが含まれてゐる。
[やぶちゃん注:子規居士の「百中十首」のそれは、明治三一(一八九八)年のもので、標題の後に子規の『およそ百ばかり歌の中より十を選べと乞ひて同人の選びたる者この百中十首なり。歌の惡きは選者の罪にあらず、作者の着き歌無ければなり。見ん人必ず選者をな咎めたまひそ。』という前書があるもの。国立国会図書館デジタルコレクションの改造社版『子規全集』第七巻(昭和五(一九三〇)年刊)のここから始まるが、その内、「其十」で露月の選になる中にあった(左ページ後ろから三~二行目)。言わずもがな、であるが、この「妹」(いも)は実際の子規の実妹で彼の看病に献身した律(りつ)である。]
たばこ切鄰合せやくつはむし 素 覽
煙草を刻む音などといふものは、專賣局が出來た以後の人間には緣が遠くなつた。夜なべか何かに煙草を刻んでゐる家がある。その鄰の方では轡蟲が鳴き立ててゐる。いづれもあまり風流でない、やかましい方の取合[やぶちゃん注:「とりあはせ」。]である。轡蟲の聲から思ひついて、かういふ取合を求めたとなると、いさゝか窮屈になつて面白くないが、實際かういふ光景があつたのであらう。卽き[やぶちゃん注:「つき」。]さうで卽き過ぎぬところに、自然の妙は存するのである。
[やぶちゃん注:「くつはむし」「轡蟲」博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 鑣蟲(くつわむし)」を見られたい。
「專賣局が出來た」『「秋」(6)』の「妹がすむたばこの花の垣根かな 春 鷗」の私の注を参照されたい。]
茶ちりめん借て著て見る夜寒かな 秋之坊
泊客などであらうか、稍〻夜寒を感ずるといふまゝに、主人の著物でも出して著せる。その著物が茶縮緬なのである。一句の表だけ見ると、茶縮緬の著物を所望して借りたやうであるが、さうではあるまい。夜寒を凌ぐために借著をした、それが茶縮緬だつたといふのであらう。借著はして見たが、何となく身にそぐはぬやうな感じが現れてゐる。
「借具足我になじまぬ寒さかな」といふ蕪村の句は、趣向としても奇拔であり、調子もこの句より引緊つてゐる。秋之坊の句はさのみすぐれたものではなく、元祿の句としては多少の弛緩を免れぬが、再誦三誦すると、やはりこの句の方が吾々には親しみがある。と云つて逗留の夜寒に縮緬の著物を借りて見た經驗があるわけではない。
[やぶちゃん注:蕪村の句(この場合の「具足」は単なる「道具・物品」の意)は、調べてみると、表記は、
借具足我になじまぬ寒かな
である。]
笹葉たくあとやいろりの蛩 夕 兆
この「蛩」[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]は勿論今のコオロギである。例の「きりぎりすなくや霜夜のさむしろに」の歌が人口に膾炙してゐる通り、秋の蟲の中ではコオロギが冬まで生延びることになつてゐる。蛩によつて分てば秋になり、圍爐裏によつて分てば冬に入る。その邊は分類學者に任せて置いて差支無い。
秋とすれば大分末の方、冬とすればまだ淺い頃である。圍爐裏に笹の葉を焚いて、あたりが暖くなつた爲か、爐邊でコホロギが鳴き出した。笹の葉を焚くのだから、眞冬の榾のやうな旺な[やぶちゃん注:「さかんな」。]火になる氣遣は無い。そのほのかな溫みがコホロギに蘇生の想あらしめたのであらう。斷續して幽な[やぶちゃん注:「かすかな」。]聲が聞える、といふのである。
笹の葉を焚くといふやうな趣向は、實際でなければ思ひつくものではない。「もの焚きしあとや」とでも置替へて見れば、容易に自然の妙を感ずることが出來る。
すかすかと西瓜切也龝のかぜ 陽 和
西瓜といふものは季題の上では秋になつてゐる。瓜が夏で西瓜が秋といふのは、藤が春で牡丹が夏なのと同じく、季節の境目に於ける已むを得ぬ現象であらう。今は一切の事が便利過ぎる世の中になつてしまつたから、昔の季題の標準で律するわけには行かないが、西瓜を食ふのは赫々たる[やぶちゃん注:「かくかくたる」。]炎暑の中にも多少の涼味が動き初めてから――秋意のほのめくやうになつてからが多いかと思ふ。
西瓜の靑い肌に庖刀[やぶちゃん注:「はうちやう」。]を當ててすかりと切る。この庖刀はよく切れるのでなければならぬ。「すかすか」といふ言葉は、その切味を示してゐると共に、先づ二つに割り、次いで半月形に切るといふやうな、連續的な動作をも現してゐる。
この句は明に「龝の風」と斷つてゐるから、新涼の度が漸くこまやかになつてからのものに相違無い。西瓜の中味もよく熟し、すかと切る庖刀を露の滴る樣なども連想に浮んで來る。
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