柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(6)
朝霜に摺餌摺なり步長屋 梨 月
「步長屋」は「カチナガヤ」と讀むのであらう。「カチ」は徒侍[やぶちゃん注:「かちざむらひ」。]、普通にオカチといふやつである。徒士とも書き、步行とも書くやうに聞いてゐる。こゝで徒侍の分限などに就て、武家生活の方から何か云ふのは、吾々の任でもなし、又この句にさう必要なわけでもない。步長屋は徒侍の住んでゐる長屋と解してよさゝうに思ふ。
霜の白く置いた朝、さういふ步長屋で小鳥にやるべき摺餌を摺つてゐる。小鳥は朝起だから、無論早旦に相違無い。ゴロゴロ摺る摺餌の音と、朝霜との間には感じの上の調和があるが、朝早く鳥の摺餌なんぞを摺つてゐるところに、武家生活の或斷面が現れてゐるやうな氣がする。但それは眼前の小景を捉へたまでで、さう面倒な知識を要するほどのものではない。
更る夜や舟の咳きく橋の霜 雩 木
深更の趣である。橋の上には已に白く霜の置いてゐるのが見える。そこを通りかゝつた時、圖らずも寒夜に咳く[やぶちゃん注:「しはぶく」。]聲を耳にした、それは橋の下あたりに泊つてゐる舟人の咳であつた、といふのである。「置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」――橋の上を踏む行人の姿よりも、水上を家として舟に寐る人の生活が思ひ浮べられる。
店月橋霜は詩歌の題材として古來云ひ古された觀があるが、この句をして力あらしむるものは、深夜の水に響く舟人の咳である。この咳一聲あるが爲に、霜夜の天地の闃寂[やぶちゃん注:「げきせき」。]たる感じが却つて强くなる。行人の咳でなしに、姿は見えぬ舟人の咳であるだけに、一層あはれを感ぜしめる。
[やぶちゃん注:「雩木」「うぼく」と読んでおく。「雩」の原義は「雨乞い。夏の日照りの時に雨が降るように祈る祭祀」の意があるが、ここは「虹」の意であろう。
「置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」言わずもがな、「百人一首」六番歌で、中納言家持の一首。「新古今和歌集」の「卷第六 冬」に何故か入っているもので(六二〇番)、
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かさゝぎの渡せる橋にをく霜の
白きを見れば夜ぞふけにける
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「をく」はママ。
「店月橋霜」晩唐の温庭筠(おんていいん 八一七年~八六六年)の五言律詩、
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商山早行 溫庭筠
晨起動征鐸
客行悲故鄕
雞聲茅店月
人迹板橋霜
槲葉落山路
枳花明驛牆
因思杜陵夢
鳧雁滿囘塘
商山の早行(さうかう)
晨(あした)に起き 征鐸(せいたく)を動かす
客行(きやくかう) 故鄕を悲しむ
雞聲(けいせい) 茅店(ばうてん)の月
人迹(じんせき) 板橋(ばんきやう)の霜(しも)
槲葉(こくえふ) 山路(さんろ)に落ち
枳花(きくわ) 驛牆(えきしやう)に明らかなり
因(よ)りて思ふ 杜陵(とりやう)の夢
鳧雁(ふがん) 回塘(くわいたう)に滿つるを
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の第三句の「茅店月」と、第四句の「板橋霜」から。サイト「note」の高松仙人氏の『幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 月・霜」』によれば、この二句を、北宋の政治家文人として知られる『欧陽脩』(一〇〇七年~一〇七二年)『が感賞して、「これは梅聖兪」(せいゆ:北宋中期の詩人で官僚の梅堯臣(一〇〇二年~一〇六〇年)の字(あざな))『の云うところの表しがたい状景で、目前に在るようだが』、『表せない意(おもい)を、言外に見えるようにしたものである。」として、自身も「鳥声梅店雨、野色版橋春」の一聯を作ることになったと云う』とあった。
「闃寂」「げきじやく」(げきじゃく)とも読む。「ひっそりと静まって寂しいさま」を言う。]
火のきえておもたうなりぬ石火桶 蘭 仙
理窟屋に聞かせたら、火の有無は重量に關係はない、といふかも知れぬ。そこは感じの問題である。炭のおこつてゐる時はさほどに思はぬのが、火が消えて冷たくなつたら、ひどく重く感ずる。石火桶であれば、その冷たさも、重さも、二つながら普通の火鉢以上であらう。
底寒く時雨かねたる曇りかな 猿 雖
「底寒く」といふことは「底冷え」などといふ言葉と同じく、しんしんと底から寒いやうな場合を云ふのであらう。空が曇つて時雨でも來さうになつたが、遂に降らず、依然としてどんより曇つてゐる。さうして底寒い。何となく凝結したやうな狀態である。
時雨は關東の地に絕無といふわけでもあるまいが、山に遠い關東平野の中にゐる吾々は、さつと來て直に去る初冬の時雨なるものに緣が無い。その代り京都の冬を談ずる者の必ず口にする「底冷え」なるものからも免れてゐる。時雨は底冷えのする土地の產物だと云つたら、或は語弊があるかも知れぬが、いづれも山近い土地の現象であるだけに、相互關係を否定出來まい。この句は時雨の降りかねた場合の寒さを、的確に現し得てゐる。
[やぶちゃん注:「猿雖」は「えんすい」と読む。窪田猿雖(寛永一七(一六四〇)年~宝永元(一七〇四)年)は伊賀蕉門の最古参の一人として、芭蕉から信頼された人物で、伊賀上野の富商であった。屋号は内神屋(うちのかみや)。元禄二(一六八九)年に出家し、俳諧に専念し、撰集「猿蓑」に二句、「續猿蓑」に七句、入集している。別号に意専がある。この句は、路健編「旅袋」に所収する。]
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