柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(13)
月うすし河獺や取ル鮭の魚 蘆 錆
薄月夜である。はつきりとも見えぬ水の隈くまに、何やらざぶんといふ物音がする。獺が鮭でも取るのであらう、といふ句意らしい。
獺が魚を取るのに不思議は無いと云へばそれまでのやうであるが、この句は慥に妖氣を含んでゐる。水面がはつきり見え渡らぬのも、獺のふるまひにふさはしい。はつきり獺の姿を現さず、ざぶんといふ水音だけ聞かせて――それも句の裏になつてゐる――想像に委したのも妖氣を助けてゐる。但さういふ細工を意識して捏上げた句でなしに、作者の實感から得來つたものであることは云ふまでもない。
[やぶちゃん注:「蘆錆」「ろしやう」か「ろせい」か、確認出来ない。
「妖氣」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を見られたいが、本邦の民俗社会では、古くから狐狸に次いで、人を騙す妖獣として食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon は認識されていた事実がある。しかし……その種を近代、日本人は絶滅させてしまった。その方が、遙かに怪奇にして怨みの妖気が漂うと言うべきだ。]
月代や煮仕舞たる馬の菽(まめ) 廣 房
月代は「月白」と書いたものもある。月の將に出でむとするに當つて、東の空が先づ薄明るくなる、それを云ふのである。中七字は「煮えしまひたる」と讀むのであらう。
秋の夜長に馬にやるべき豆を煮る。ぐつぐついゝ工合に煮えた頃、ほのかに東に月代が上つて來た。やゝ遲い月の出汐になつたのである。一讀しづかな農家の庭に立つ想がある。
そよ風に早稻の香うれしかゝり船 松 雨
平野の中を流るゝ江河のほとりであらうか、岸近く繫いだ船に、爽な早稻田の香が流れて來る。あるかなきかのそよ風が稻の香を漂はせるのである。
昧爽[やぶちゃん注:「まいさう」。]か、夕方か、乃至は晝間か、さういふ時間はこの句に現れてゐない。船中に在る作者は、岸近く繫いだことによつて、野を渡る微風を感じ、そこに流るゝ稻の香をなつかしんだものであらう。「うれし」の一語に野をなつかしむ心持が窺はれる。
[やぶちゃん注:「昧爽」明け方のほの暗い時を指す語。]
芭蕉葉を尺取むしの步みかな 末 路
廣い芭蕉の葉の上を、小さな尺蠖むしが步きつゝある。作者はこの事實に興味を覺えたので、外に何も隱れた意味はない。芭蕉葉の寸法を測るのだなどと解するのは、この句に在つては曲解である。
再版の「獺祭書屋俳話」の表紙には、芭蕉の葉と小さい蝸牛の畫がかいてあつた。芭蕉の葉の蝸牛は直に畫になるが、尺蠖ではさうは行かない。が、句としては一の興味ある光景になつている。所謂配合論者が考へて而して成るやうなものではない。
[やぶちゃん注:「末路」幾ら何でも「まつろ」ではあるまい。「ばつろ」と読んでおく。
「尺取むし」「尺蠖むし」昆虫綱鱗翅(チョウ)目シャクガ(尺蛾)上科シャクガ科 Geometridae に属する蛾類の幼虫を総称する語。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚇蠖(シャクトリムシ)」を見られたい。
『再版の「獺祭書屋俳話」の表紙には、芭蕉の葉と小さい蝸牛の畫がかいてあつた』辛うじて、「古書 古群洞」公式サイトのこちらの画像で確認出来る。左下に小さく蝸牛が視認出来る。]
名月や背戶から客の二三人 枝 動
名月の晚に背戶から客が二、三人來た、といふだけである。特に「背戶から」といふ以上、背戶以外から來た客もあることになるかも知れぬが、この句はそれには拘泥しない。たゞ「背戶から客の二三人」とのみ云ひ放つてゐる。
子規居士が「俳句問答」で、俳句と理窟とに就て辨じた時、「名月や裏門からも人の來る」といふ句を例に引いて、「も」の字を難じたことがある。「裏門からも」といふ裏には「表門からも」といふことが含まれてゐる、そこに知識乃至理窟の働きがある、單に「名月の夜人の裏門より來る」といふ一場の光景を詠むべきである、といふのである。「背戶から」の句は偶然その一方のみを敍した實例になつてゐる。
[やぶちゃん注:「俳句問答」の当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの「俳諧大要・俳人蕪村・俳句問答・俳句の四年間」(正岡子規著・高濱淸(虚子)編・大正2(一九一三)年籾山書店刊)のここで当該部が視認出来る。この「も」に対する批判は非常に共感出来る。この「も」でこの句は死んでいる。所謂――「てにをは」の命――である。]
« 「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 麒麟竭 | トップページ | 「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 安息香 »