「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 乳香
にうかう 馬尾香 摩勒香
多伽羅香【佛書】
乳香 天澤香
蠻語【末須良以加
又云末須天
木須】
本綱乳香乃薰陸中似乳頭者總名爲薰陸香出於天竺
及大食國波斯國其樹類松以斤斫樹脂溢於外結而成
香聚而成塊圓大如乳頭透明者【名滴乳】爲上品以瓶收者
【爲乳塌】次之雜沙石者【爲黑塌】次之【今以楓脂雜之惟燒之可辨也】
乳香【苦辛微温】 香𮄒能入心經活血定痛故癰疽瘡瘍心腹
[やぶちゃん注:「𮄒」は「竄」の異体字。]
痛要藥素問云諸痛癢瘡瘍皆屬心火是矣産科諸方
多用之亦取其活血之効爾
乳香至粘難碾用時以繒袋掛於窓𨻶間良久取研乃
不粘入丸散微炒殺毒則不粘【古今醫統云研時口念玄胡索卽成末】
△按乳香樹雖似古松而花實有無未詳或謂波斯國松
樹亦非也然乳香形色氣味與松脂不遠也且薫陸香
乳香本是爲一物而氣色各別効用則稍異故立各條
*
にうかう 馬尾香《ばびかう》 摩勒香《まろくかう》
多伽羅香《たきやらかう》【佛書。】
乳香 天澤香《てんたくかう》
蠻語【「末須良以加(マスライカ)」、
又、云ふ、「末須天木須《マス
テムス》」。】
「本綱」に曰はく、『乳香は、乃《すなはち》、「薰陸《くんろく》」の中《うち》、乳頭《ちくび》に似る者なり。總名を「薰陸香」と爲《な》す。天竺、及び、大食(たいし)國・波斯(パルシヤ)國に出づ。其の樹、松に類す。斤(てをの)を以つて、樹を斫(はつ)り、脂(やに)外に溢(あふ)れ、結して、香に成る。聚《あつま》りて塊(かたまり)と成る。圓大にして、乳頭のごとく、透-明(すきとを[やぶちゃん注:ママ。])る者【「滴乳」と名づく。】、上品と爲す。瓶を以つて、收《をさむ》る者【「乳塌《にうたう》」と爲す。】、之れに次ぐ。沙石の雜(ま)じる者【「黑塌」と爲す。】之れに次ぐ【今、楓《ふう》の脂(やに)を以つて、之れを雜《まぢ》ふ。惟《ただ》、之れを燒≪けば≫、辨ずべきなり。】。』≪と≫。
『乳香【苦辛、微温。】 香《かう》、𮄒(かく)れて、能く、心經《しんけい》に入り、血を活《かつ》し、痛みを定《をさ》むる。故、癰疽・瘡瘍《さうやう》・心腹痛の要藥なり。「素問」に云はく、「諸痛・癢《やう/かゆみ》・瘡瘍、皆、心火に屬す。」と云《いふ》[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、是れなり。産科の諸方、多く、之れを用《もちふ》るも、之れ亦、其の活血の効を取るのみ』≪と≫。
『乳香、至つて粘(ねば)り、碾(をろ)し難し。用ふる時、繒袋(きぬ《ぶくろ》)を以つて、窓≪の≫𨻶《すき》の間《あひだ》に掛け、良《やや》久しくして、取り、研《おろす》時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、乃《すなはち》、粘らず。丸《ぐわん》・散《さん》に入るるには、微《わづかに》炒りて、毒を殺す。則ち、粘らず。【「古今醫統」に云はく、「研す時、口に『玄胡索《げんごさく》。』を念≪ずれば≫、卽ち、末《まつ》と成る。」≪と≫。】≪と≫。
△按ずるに、乳香の樹、古≪き≫松に似たりと雖も、花・實の有無《うむ》、未だ詳らかならず。或いは、「波斯(パルシヤ)國の松の樹。」と謂≪ふも≫、亦、非なり。然るに、乳香、形・色・氣味、「松脂」と遠からざるなり。且つ、『「薫陸香」≪と≫「乳香」≪と≫は、本《も》と、是れ、一物たり。』と。而れども、氣《き》・色《いろ》、各《おのおの》、別≪にして≫、効用も、則ち、稍(やゝ)異《こと》なり、《→なる》故≪に≫、各條を立つ。
[やぶちゃん注:「乳香」は、
双子葉植物綱ムクロジ目カンラン科ボスウェリア属 Boswellia の樹木から分泌される樹脂
を指す。当該ウィキによれば、『乳香の名は、その乳白色の色に由来』し、『古くからこの樹脂の塊を焚いて香とし』、『または香水などに使用する香料の原料として利用されている』。『香以外にも中医薬・漢方薬としても用いられ』、『鎮痛、止血、筋肉の攣縮攣急の緩和といった効能があるとされる』。『また、多く流通している南アラビア地域では、唾液分泌の促進やリラクゼーションのために乳香樹脂をガムのように噛むことがある』。『水蒸気蒸留で得られる精油は、食品や飲料に香料として添加される。また、香水にも利用され、シトラス系、インセンス様、オリエンタル系、フローラル系など、様々な香水に使われている。ベンゼンなどの溶剤を使って抽出したアブソリュートは、香りの定着剤として多くの香水に用いられる。乳香が数千年にわたり宗教に利用されてきたことを』鑑みると、『香として利用した際の芳香成分には、リラクゼーションや瞑想に効果的であると考えられる』。『アロマテラピーに精油が用いられるが、樹脂を燃焼させた際の成分とは異なるため、香としての効能を流用することはできない』。『精油には強い刺激作用があり、産地や抽出法で成分が異なるため』、『効能を一般化することは困難だが、香りを楽しむ目的で精油をマッサージなどと併用するのなら、アロマテラピーでの利用も有益であるかもしれない』。『精油の香りには興奮作用が、樹脂を燃やした香りにはリラックス効果が見られるようである』。『精油は強力な抗菌活性を持つが、抗真菌作用は非常に弱い』。『ボスウェリア属の樹木は、オマーン、イエメンなどのアラビア半島南部、ソマリア、エチオピア、ケニア、エジプトなどの東アフリカ』、『インド』『に自生している。 これらの樹皮に傷をつけると』、『樹脂が分泌され、空気に触れて固化する』。一~二『週間かけて乳白色 - 橙色の涙滴状の塊となったものを採集する』。『樹脂の性質は樹木の種類や産地によって大きく異なる。樹木は栽培して増やすことが困難で、これらの自生地の特産品となり、かつては同じ重さの金と取引されたこともある』。『古い時代には、現在はオマーンに属するアラビア南部のシスルから積み出される乳香が特に知られていた』。『現在も良質とされるものの商業的な生産は主にオマーンで行なわれている』(この最後の部分には「要出典」が附されてある)。『近年は火災、カミキリムシによる害、乱獲、乱開発、農地への転換などで急速に減少している。最近の研究では、今後』五十『年で約』九十『%減少すると予想されており、持続は不可能と考えられている』。『乳香は紀元前』四十『世紀にはエジプトの墳墓から埋葬品として発掘されているため、このころには』、『すでに焚いて香として利用されていたと推定されている。古代エジプトでは神に捧げるための神聖な香として用いられていた』。『神に捧げるための香という点は古代のユダヤ人たちにも受け継がれており、聖書にも神に捧げる香の調合に乳香の記述が見られる』。『また、ベツレヘムでイエス・キリストが生まれた時に東方の三博士がイエス・キリストに捧げた贈り物の中に乳香、没薬、黄金がある』。『日本にも』十『世紀には薫香の処方内への記述が現れるため、このころにシルクロードを通じて伝来したものと考えられている』(この最後の部分にも「要出典」が附されてある)。『日本正教会を含む正教会では、古代から現代に至るまで、奉神礼で香炉で乳香を頻繁に焚いて用いる。振り香炉にも乳香が用いられる』。『香水などへの使用が行なわれるようになったのは』十六『世紀に入ってからであり、乳香を水蒸気蒸留した精油や溶剤抽出物であるアブソリュートがこの用途に用いられるようになった』(この一文には全体に「要出典」が附されてある)。『西アジア及び地中海周辺地域の古代において乳香は、虫除け、宗教儀式、炎症薬として用いられていたこともあり』、『乳香の需要は高く、その需要に対しての供給量(収穫量)が少い場合は価格が高騰し、金と同じ重量で取引された記録がある。また西アジア及び地中海周辺地域において乳香の価格が高騰した際にはインド産“ボスウェリア・コナラ”から抽出された乳香のインディアン・フランキンセンスが交易商人によって輸入された。少なくともマウリヤ朝時代』(紀元前三二二年~紀元前一八五年)『には交易によってインドから西アジアに輸出されたと思われる記録及び民間伝承写本が幾つかある』。『インドにおいての乳香の歴史も古くインド聖典“アーユルヴェーダ”医学に用いられた』とある。
このボスウェリア属のうち、
ボスウェリア・サクラ Boswellia sacra
の英文ウィキがあったので、リンクさせておく。その末尾の方に、『ギリシャ神話によると、乳香を採取する植物は、嘗つては「レウコトエ」(Leucothoe)という名の人間の女性であった。太陽神ヘリオスは彼女に恋をし、以前の恋人クリュティエと別れた。苦々しい思いから、クリュティエはレウコトエの父オルカムスに盛んに陰口をしたところが、オルカムスは娘を生き埋めにしてしまった。ヘリオスは彼女を救うには遅過ぎたが、「土の中で腐らせておくわけにはいかない。」と、彼女を新しい木に変ぜさせて、空気を吸えるようにした』とあった。英文の「Leucothoe (daughter of Orchamus)」のウィキもリンクさせておく。
「本草綱目」の引用は、「卷三十四」の「木之一」「香木類」の「薫陸香」と「乳香」の合体した独立項で(「漢籍リポジトリ」)、ガイド・ナンバー[083-48b]から始まる、その「釋名」「集解」「修治」のパッチワークである。
「末須良以加(マスライカ)」言語不詳。オランダ語か。
「末須天木須《マステムス》」このカタカナは東洋文庫訳のルビに従った。同前。
「薰陸《くんろく》」「薰陸香」「ろく」は「陸」の呉音。小学館「日本国語大辞典」によれば、第一義に『インド、イランなどに産する樹のやにの一種。盛夏に、砂上に流れ出て、固まって石のようになったもの。香料、薬用となる。乳頭状のものは、乳香という。くろく。なんばんまつやに。薫陸香(くんろっこう)』とし、第二義に、所謂、「和の薰陸」として、『松、杉の樹脂が、地中に埋もれ固まってできた化石。琥珀(こはく)に似るが、琥珀酸を含まない。粉末にして薫香とする。岩手県久慈市に産する』とある。本底本では、次項が「薰陸香」である。①の本邦の初出例は九二七年の「延喜式」とする。なお、本底本では、この次の項が「薰陸香」である。
「大食(たいし)國」唐・宋代に、中国人が、アラブ国家やアラブ人、さらには、イスラム教徒一般を指した呼称。ペルシア人が「アラブ人」の総称として用いた呼称「タージー」(Tazi)に由来する(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。東洋文庫訳では、『大食国』にルビして、『サラセン・アラビア』とある。「サラセン」(英語:Saracen)は中世ヨーロッパ世界で「イスラム教徒」を指した語である。
「波斯(パルシヤ)國」ペルシャ。現在のイランを表わすヨーロッパ側の古名。
『瓶を以つて、收《をさむ》る者【「乳塌《にうたう》」と爲す。】、之れに次ぐ』東洋文庫では、ここに相当する部分に後注して、『『本草綱目』では瓶に収め取るものは瓶香で、次の雑沙石のものが乳塌で』、『一つずつ』、『ずれている』として、「本草綱目」原文と「和漢三才圖會」の原文を引いて比較してある。当該部に相当するものを、「漢籍リポジトリ」からコピー・ペーストし(私は「コピペ」という短縮形は生理的に気持ちが悪くて使ったことがない)、合わせて、上記原文部を併記しておく。
*
為瓶香以瓶收者次為乳塌雜沙石者次為黒塌色黒(「本草綱目」)
*
以瓶收者【爲乳塌】次之雜沙石者【爲黑塌】次之(「和漢三才圖會」)
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因みに、「塌」という語は、現代中国語で、「(支えられているものが)崩れ落ちる・倒れる・抜け落ちる」、「落ち凹む・へこむ」、「(気持ちを)落ち着ける」の意であったが、大修館書店「廣漢和辭典」を引いてみたら、『地が低い』、『床の低くて安らかなこと』、『おちる【おつ】。おとす』、『初めて耕す』とあったことから、樹木から樹脂を「落して」、諸状態で、それぞれに製品として「安んじる方法」を意味すると採っておく。
「楓《ふう》」決して「かえで」と読んではいけない。ユキノシタ目フウ科フウ属フウ Liquidambar formosana である。先行する「楓」を参照。
「𮄒(かく)れて」人が全く意識しないうちに体内に作用することを言う。
「心經」東洋文庫では、後注して、『身体をめぐる十二経脈の一つで、手の少陰心経のこと。一つは心臓から下って小腸に入る。支脈は心臓から咽喉にのぼ眼球の後ろから脳に入る。もう一つは心臓から肺に入り前腕を通って小指の先端に行く』とある。
「瘡瘍《さうやう》」東洋文庫訳では、割注して、『(主要・潰瘍をふくめたできもの一般の総称)』とある。
「素問」中国最古の医書とされている「黃帝內經」(こうていだいけい)の「素問編」。本来、この書は「素問編」と「靈樞編」の二部から成っており、黄帝と、その臣岐伯との問答に託し、「陰陽五行説」を利用して、生理・病理・衛生の基礎的理論を述べたもので、多少、後世の改修があるが、秦・漢頃の作と考えられている。「靈樞編」は鍼灸の術について述べたものとされるが、現存の「靈樞」の由来については、実は不明の点が多い。「素問」には王冰(おうひょう)の注 二十四巻があり、「靈樞」には、宋の史崧(ししょう)の注が二十四巻がある。これらとは別に、唐の楊上善の注になる「黃帝內經太素」全三十巻が日本にだけ伝わり、「黃帝內經」の旧形を保存している(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「心火」五行思想で「心」は「火」に属す。
「古今醫統」明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。
「研す時、口に『玄胡索《げんごさく》。』を念≪ずれば≫、卽ち、末《まつ》と成る。」東洋文庫では、後注して、『玄胡索は山草類で根を薬用とし、血を活かす良薬とされる。恐らくこの根は粉末にしやすく、それでこういうのであろう。』とある。この「玄胡索」は、キンポウゲ目ケシ科ケマンソウ亜科キケマン属延胡索(エンゴサク) Corydalis yanhusuo 、及び、東北延胡索 Corydalis ambigua の塊茎を基原とする漢方生薬。日本語のウィキもあるが、対象種の学名(しかも品種である)が不審なので、中文の「維基百科」の「延胡索」に基づいた。そこに異名として「玄胡索」もあるのである。そこに『中国本土の安徽省・山東省・浙江省・江蘇省・湖北省・河北省・河南省桔河市及び信陽市に分布し、主に丘陵地帯の草原で見られ、模式種の原産地は浙江省杭州』とあり、『辛味、苦味、温感を持つ様々なアルカロイドが含まれており、主に血液循環の促進・気の促進・鎮痛・鎮静・催眠効果がある』といったことが書かれてある。さて、私は、東洋文庫の注に、一つ、文句がある。それは、「念」の意味を解説していない点である。迂闊な読者は、この「念」という動詞を物理的に「混ぜ込む」の意で採ってしまうだろうと思ったからである。残念乍ら、「念」の漢語・日本語の孰れも、「混ぜ込む」などという動詞の意味は、ない、のである。則ち、これはフレーザーの言う「類感呪術」で、玄胡索の根が粉末にし易いということから、乳香を削る際、心の中で「念」(ねん)ずることで、呪的に乳香の性質を変ずることが出来ると言っているのである! そこを言わずして、何の現代語訳かッツ!!!
「而れども、氣《き》・色《いろ》、各《おのおの》、別≪にして≫、効用も、則ち、稍(やゝ)異《こと》」「《→なる》故≪に≫、各條を立つ」この最後の附言は、ここ以降では、その理由から、後、独立項で「香」(こう)類を扱う、と言っているのである。]
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