「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷一 㐧三 繼母娘を殺す幷柱に蟲喰ひ歌の事
㐧三 繼母(けいぼ)、娘(むすめ)を殺す幷《ならびに》柱(はしら)に「虫くひ歌」の事
[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。本篇は挿絵はない。]
江刕(がうしう)北郡(きたのこほり)「水《みづ》ほ」と云《いふ》所の近鄕(きんがう)に、理助と申《まふす》者、娘、一人、持ちけるが、繼母にて、朝夕(てうせき)、此の娘に、つらくあたる。
[やぶちゃん注:『江刕(がうしう)北郡(きたのこほり)「水ほ」』岩波文庫の脚注に『近江国野洲』(やす)『郡水保村』とする。ここは、現在の滋賀県守山市水保町(みずほちょう)である(グーグル・マップ・データ)。「琵琶湖大橋」の東岸に細長く東南に伸びる地区である。
「繼母」(第二参考底本では、既に第一回で言った通り、ここでも一貫して「継母」の表記)は標題で「けいぼ」と読んでおり、本文でもルビはないので、硬い音の「けいぼ」と読まざるを得ないが、個人的には私は、心中では自動的に「ままはは」と読みかえてしまう。]
誠に、世の中の邪見なる事は、色こそかはれ、いか成《なる》遠國遠里《ゑんごくゑんり》までも、「まゝ子」を、ねたみ、さいなむ心、さだまれる所也。
[やぶちゃん注:「邪見」サンスクリット語で「悪しき見解」という意味の語の漢訳。仏教では「見」という語を、しばしば、「特に誤った見解」の意味に使い、根本煩悩の一つに数える。これには「薩迦耶見」・「辺執見」・「邪見」・「見取見」・「戒禁取見」の五つの「五見」があり、孰れも誤った見解であるが、特に因果の道理を否定する見解は最も悪質であることから、それを特に「邪見」と言う(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ただ、本書の中では、文字通り、「邪(よこし)まな心を持った者」に意味で用いることの方が、多い。]
或る日、理助、十日ばかりの用有りて、他鄕(たがう)に有りける内に、かのむすめ、十六の、七月十六日の夜の事なりしに、折ふし。鄕内(がうない)にをどりはじまり、老若男女(らうにやくなんによ)、うちまじはり、をどりける。
繼母、此のをどりに、ことよせ、さるばかものを、たのみ、むすめを、ひそかに、ころして、山中ふかく、すつる。
其後《そののち》、夫(をつと)、かへりて、
「むすめは、いかに。」
と問《とふ》。
妻、答へて云《いふ》やう、
「さればこそ、むすめは、當(たう)十六日の夜、をどりに出《いで》けるが、今に歸らず。うけ給はれば、さる男と、かたらひ、かみみち、さして、行きけるよし、皆、くちぐちに申《まふし》けるが、さもこそあらん、日比《ひごろ》、おもしろきふりあれども、『いかなり。』ともと思ひしが、今、思ひあたり候。」
と誠しやかに申《まふし》ける。
[やぶちゃん注:「かみみち」「上道」。京へ向かう道。
「おもしろきふりあれども」「何とも奇妙・不審な素振りがあったけれども」。]
夫、
『さも、あるらん。』
とは、思ひながらも、
『繼母の中なれば、何國(いづく)へも、うりけるか、さなくば、追出《おひいだ》して、かく、我をたばかるやらん。』
と、心もとなくおもひ、一子なれば、明暮(あけくれ)、こひしくおもひしが、はや、其の年もくれ、明(あくる)秋の比にもなれば、理助、或《ある》夕ぐれの入《いり》あひばかりの事なるに、寢屋(ね《や》)に入《いり》、すぎにしむすめの事を思ひ出し、淚(なみだ)にしほれ、ゐたりしが、析ふし、柱に、「むしくひ」、あり。ふしぎに思ひ、立ちより、是を、うつし、みるに、歌、なり。
[やぶちゃん注:第二参考底本の「淚」の読みは(右丁下から九字目)、超拡大して見ても、明らかに『みなだ』と誤刻されている。特異的に訂した。]
「朽(くち)はつるつらき繼母(けいぼ)のしわさこそ
長きなみたのうらみなりけれ」
と、かやうに、「蟲くひ」、あり。
[やぶちゃん注:和歌本文は例式に従い、そのままに、濁点は打たずにおいた。]
理助、
「扨《さて》は。娘をころしけるに、うたがひなし。」
とて、やがて、女を一間成《なり》所へをし[やぶちゃん注:ママ。]こめ、せめ付《つけ》て、とふに、女、あまりけめとはれ、せんかたなくて、ありのまゝに申《まふし》ける。
其《その》まま目代(もくだい)[やぶちゃん注:代官。]へ、うつたへ、やがて、死罪(しざい)に行ひけり。
とかく、『𢙣心をなしても、人はしるまじき。』と思へども、天罰(てんばつ)のがれがたく、つゐには[やぶちゃん注:ママ。]、其身も一年の内に害《がい》にあへり。
心ある人、たれか、おそれざらんや。
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