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2024/06/11

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(22) / 「秋」の部~了

 

   蕣や桃の下葉のちり初る 之 道

 

 つくろはぬ庭などの樣であらう。朝顏の花が咲いてゐるほとりに桃の木があつて、已に色づいた下葉をはらはらと落す、といふ光景である。朝顏と桃とは近くにあるといふだけで、格別深い交涉があるわけではない。季題は勿論朝顏に在るけれども、朝顏の咲く時に當つて桃の下葉が散りはじめるといふ、交錯した事實を描いた爲に、子規居士の所謂二箇中心の句のやうな趣になつてゐる。

「あさましき桃の落葉よ菊畠」といふ蕪村の句は、菊畠に溜る桃の落葉を詠んだので、どこまでも菊畠が中心になつて居り、落葉はその景物に過ぎない。之道の句は寧ろ「桃の下葉のちり初る」といふ推移に興味を置いたものの如く、それだけ句としては蕪村のほど纏つてゐないけれども、又その纏らぬところが自然だとも云へる。元祿と天明との相異は、この邊にも存するのであらう。

[やぶちゃん注:『「あさましき桃の落葉よ菊畠」といふ蕪村の句』「蕪村句集」の「卷之下」の「秋之部」に載る。安永七(一七七八)年から天明三(一七八三)年の間の作。因みに、「自筆句帳」では「落葉よ」は「落葉や」となっている。]

 

   雲高き野分の跡の入日かな 空 能

 

 野分[やぶちゃん注:「のわき」。]がやみ方になつて、一しきり赤い夕日が西の空を染める。その赤い入日の空を、野分の名殘の風に乘つて、斷雲[やぶちゃん注:「ちぎれぐも」。]が高く飛んで行く、といふ光景を句にしたものかと思ふ。

 但「雲高き」といふ言葉は、必ずしも高く飛ぶ場合には限らぬかも知れない。野分のあとが何時の間にか晴渡つて、澄んだ空高く雲が浮んでゐるものとも解される。飛ぶにしても、浮ぶにしても、その雲が入日の朱を帶びてゐることは慥である。

「野分の跡の入日」だけでは格別のことも無いが、「雲高き」の一語を點じたため、濶然たる秋の夕空が直に眼に浮んで來るやうな氣がする。

 

   化兼る狐とびゆく野分かな 一 空

 

 一疋の狐が何者かに化けるつもりで、先刻からいろいろ工夫してゐるが、未熟なせゐか、あまり風が强過ぎるせゐか、たうとううまく化けられないで、野分の中を向うへ飛んで行つた、といふやうなところであらうか。句には現れてゐないが、夕方らしい情景である。

 日本の文學には屢〻未熟の狐とか、化損ひの狐とかいふものが出て來る。妖氣を伴うべき狐魅談に愛敬を生じ、滑稽が生れるのは全くかういふ未熟な、化損ひの徒が介在する爲である。この野分の中で化けかねた先生なども、狐の爲に氣を吐くに足らぬにせよ、文學的材料としては一顧の價値がある。

 狐は蕪村に至つて大に獨得の趣味が發揮された觀があるが、この句はその先蹤と見るべきものである。若干の滑稽味を伴ふ點に於て、特にその感を强うする。

[やぶちゃん注:「化兼る狐とびゆく野分かな」この句、岩波文庫版では、上五のを「化兼(ばけかね)る」とルビを振っている。しかし、私は「ばけかぬる」と読む。

「狐は蕪村に至つて大に獨得の趣味が發揮された觀がある」蕪村の「新花摘」には、五篇の狐狸談を収録しており、蕪村が狐狸の怪を信じ、好んでいたことは、よく知られている(私の「柴田宵曲 俳諧博物誌(13) 狸 二」は参考になろう)。蕪村の狐の句を拾うのは、ちょっと厄介だなと思って、検索を掛けたところ、幸い、個人ブログ「猫まち 俳句的つれづれ日記」の「蕪村の狐の句」に拾われてあった。所持する同引用句集(岩波文庫)で表記を確認し、一部に読みを追加し、漢字を恣意的に正字にして以下に示す。

     *

   公達に狐化たり宵の春

   小狐の何にむせけむ小萩はら

   石を打(うつ)狐守(もる)夜のきぬた哉

   草枯(かれ)て狐の飛脚通りけり

   春の夜や狐の誘ふ上童(うへわらは)

   短夜や金(かね)も落さぬ狐つき

   飯盜む狐追(おひ)うつ麥の秋

   巫女(かんなぎ)に狐戀する夜寒(よさむ)かな

   水仙に狐あそぶや宵月夜

     *]

 

   はれきるや光に曇る月の影 旦 藁

 

 晴れ渡つた、明皎々たる月である。併し中天にかゝつた圓い影を見ると、その明な光の中にほのかな曇がある。霧が立つとか、薄雲がかゝるとかいふわけではない。晴れた光の中の曇である。その感じを現すのに「光に曇る」の語を以てしたのであらう。

 秋の夜の月の隈なきをのみ愛ずるめでたき人々には、到底かういふ觀察は出來ない。さうかと云つて皎々たる月では平凡だから、殊更に光の中の曇を發見しようといふわけでもない。ぢつと月の光に眺め入る時、そこに一點の曇を感じた、といふのが自然の姿なのである。深夜の月の光の中に、潤んだやうな曇を感ずるのは、何人にも味ひ得べき趣であつて、而も容易に句にし得ぬところのやうに思ふ。「光に曇る」の語も云ひ得て妙である。

 

   めいげつや客をむかひに里離れ 探 志

 

 あまり月がいゝので、急に人を呼んで酒でも飮まうと思ひ立つて、ぶらぶら月下の道を里離れた[やぶちゃん注:「さとはなれた」。]あたりまで步いて行つた、といふ風にも解せられる。

 名月のことだから、かねて人を會する約があつたが、漫然家にあつて待つに堪へず、來る道はわかつてゐるので、迎え旁〻出かけて行く。月竝な歌よみなら「月を見がてら」とか何とかいふところとも解せられる。

 客の性質や客との關係は、さう僉議を加へるほどのことも無い。この句の興味は、名月の夜に當つて客を迎へに行くといふこと、その迎へる道がいつか里離れたところまで來てゐた、といふことに在る。月に浮れたといふほどでないにしても、輕い氣分の下に步いてゐることは想像出來る。

 

   午の貝おくる木玉や三井の秋 探 志

 

 何かの合圖に貝を吹くといふことは、現代の吾々には殆ど沒交涉である。法螺貝を手に取つたことはあつても、未だかつて吹いたことは無い。山伏にも因緣が無いから、貝の音に耳を驚かされた記憶も持合せて居らぬのである。

 この句の貝は時刻を報ずるものらしく思はれる。食事の合圖かどうかわからぬが、午[やぶちゃん注:「ひる」。]になつて貝を吹き鳴らす。その音が遠く谺して聞えて來る。場所が三井寺だけに、秋天の下にひろがる大湖を背景にして、谺も遠きに及ぶのであらう。

 三井の秋は日本畫の題材になりさうな舞臺である。併し湖を畫き、雲を畫き、寺を畫き得ても、そこに「午の貝おくる木玉」を添へることは、丹靑の技のよくするところであるまい。詩の獨自の境地はこの邊にも存する。

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、句は、「ひるのかひおくるこだまやみゐのあき」である。

「丹靑」「たんせい」・「たんぜい」両用に読む。「絵画」また、「絵の具で描くこと」。]

 

   御明の消て夜寒や轡むし 里 東

 

 轡蟲は秋鳴く蟲の中でも最も景氣のいゝ、哀感に乏しいもののやうな氣がするが、この句は妙にうら寂しい情景を持出した。

 神前か、佛前か、今まで上げてあつた御明(みあかし)がふつと消えて、あたりは暗くなつた。と同時に俄に夜寒を感ずる、轡蟲が鳴いてゐる、といふのである。

 御明が消えて、俄に夜寒を感ずる、といふ風に限定して解釋しないでも、寂然たる夜寒の屋內に、今までついてゐた一點の燈が消えた、と見てもいゝのであるが、この句の表現には或動きがあるので、その動きに基いて前のやうに說いたのである。いづれにしても句の世界に大した變りがあるわけではない。

 轡蟲の聲も最初のうちは四鄰を惱ますだけの威力を具へてゐるが、秋が深くなるにつれて、かすれたやうな聲に變つて來る。この轡蟲もいさゝか聲の衰へた場合、從つて夜寒も身に入む[やぶちゃん注:「しむ」。]頃と解していゝかも知れない。

 

   捻上て友待顏や雁の首 諷 竹

 

「友待顏」といふ言葉から考へると、この雁は一羽のやうに見える。首を捻上げるやうにして友を待つといふ以上、これは飛んでゐる雁ではない。水の上か、田圃か、何かの上に下りてゐるらしい。作者はさういふ雁の恰好を見て「友待顏」と解したので、さういふ感じを起させたのは、雁が一羽きりで寂しげに見えたからだらうといふことになる。

 詩歌に取入れられた雁の多くは空を飛んでゐるか、或は雁聲を耳にするかで、雁そのものの姿に及んだものはあまり見當らない。俳諧には往々雁の姿を捉へたものがあるが、それにしても捻上げた雁の首などは、異色あるものたるを失はぬ。「月の出や皆首立てゝ小田の雁」といふ子規居士の句は、この句に比べると繪畫的であり、趣向も複雜になつてゐる。諷竹の句の興味は雁の形だけを描いた、單純な點に在るかと思ふ。

 

   秋ふかし人切り土堤の草の花 風 國

 

「人切り土堤」は地名といふよりも、寧ろ俗稱の部類であらう。「人切り土堤」と稱する以上、嘗てそこで人が斬られたとか、よく人の斬られることがあるとか、何かさういふ由來があるに相違無い。現在は何事も無いにしても、そんな名があるだけに、何となく寂しい感を與へる。もう秋も深くなつた「人切り土堤」に草の花が咲いてゐる、といふのがこの句の見つけどころである。

 鳴雪翁の自敍傳に、今の芝公園と愛宕山の界のところを「切通し」といふ、晝間から宵の口までは相當賑であつたが、夜が更けると寂しくなり、辻斬なども屢〻行はれた、翁は子供心に、始終人を斬るから「切通し」だと思つてゐた、といふことが見えてゐる。「人切り土堤」に至つては、その上に更に人の字がついてゐるのだから、連想のそこに及ぶのは當然である。生々しい人斬の噂なども傳はつてゐるとすれば、寂しい以上に凄愴な感じさへ伴つたであらう。けれども「人切り土堤」に附會して、この草の花は赤い方がいゝとまでは考へない。「秋ふかし」といふ季節に照應する、寂しい感じのものであればよからうと思ふ。

[やぶちゃん注:以上の内藤鳴雪の「鳴雪自叙傳」は国立国会図書館デジタルコレクションの原本(大正一一(一九二二)年刊岡村書店刊)のここで視認出来る(右ページ最終行から)。]

 

   二階からたばこの煙秋のくれ 除 風

 

 たゞ眼前の景である。煙草を吹かしてゐる以上、そこに人間のゐることはいふまでもないが、どんな人間かわからず、又どんな人間であつてもいゝわけである。作者は秋の暮の中に一軒の二階家を認め、その二階に吹かす煙草の煙を描いただけで、他の消息を傳へてゐない。「煙草ふかす二階の人や秋のくれ」とでもいえば、人間の姿が句の上に現れるが、さういふ點に一向重きを置かず、煙だけで用を濟してしまつた。

 煙につきものの「立昇る」といふ言葉も、「なびく」といふ言葉も、この場合に用ゐるものとしては强きに失する。ふはりと宙に浮ぶやうな煙の狀態は、「二階からたばこの煙」といふ無造作な表現によつて、却つてよく現し得るのかも知れない。

 

   夜寒哉煮賣の鍋の火のきほひ 含 粘

 

 煮賣屋の鍋の下を焚き立てる火が、旺に赤々と燃えてゐる。鍋の內のものは食欲を刺激するやうな匂をさせることであらうが、作者はその句にも、ぐつぐつ煮える鍋の音にも、格別感覺を働かしてゐない。赤々と燃え盛さかる火そのものに興味を集中して居り、それが夜寒の感を强からしむる結果になつてゐる。

「夜寒哉」といふ風な言葉を上五字に置く句法は、俳句に於て非常に珍しいといふほどでもないが、下五字に置いたのよりは遙に例が少い。それだけ用ゐにくいといふことにもなるが、詠歎的な氣持は下五字を「かな」で結ぶよりも强く現れるやうな氣がする。この句は「火のきほひ」の一語によつて、上の「夜寒哉」を引緊めてゐるやうである。

 

   朝顏や皆實みになして引たぐる 玄 梅

 

 大輪朝顏か何かの貴重な種類であれば、自ら咲かせる花を制限して、多く實などを結ばせぬやうにするのであらうが、これはそんな面倒なものではない。莟の出來ただけを悉く花にし、その花も千切つたりせずに、皆實になるに任せて置いて、蔓ごと引たぐるといふ意味であらう。平凡なる駄朝顏である。

 これと同樣なことは、人生の各方面において認められる。敎育方針などといふことも、畢竟この朝顏に臨む態度と似たものかも知れぬ。秀才を產み、貴重な花を作るのも固より結構であるが、花の咲くに任せ、實のなるに任す態度には、自らなる氣安さがある。そこに安心の地を見出すのは、或は吾々に與へられた使命であらう。

[やぶちゃん注:これを以って、「秋」の部は終っている。]

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