柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(14)
蓮の葉のいよいよ靑し花の跡 柳 燕
かういふ句は季題に拘泥して分類すると妙なことになる。蓮といふものは夏になつて居り、花といふ文字も使つてあるから、さし當り夏の部に入れて置くのが便宜のやうでもある。しかし「八重葎」といふ俳書がこれを秋の部に入れたところを見れば、花の咲かなくなつた蓮で、秋の句になるのであらう。蓮の實は秋の季題にあるが、花の跡だから實といふことにすると、いさゝか理窟つぽくなる。季はわかつてゐるに拘らず、分類に面倒な句である。
花は咲かなくなつたが、蓮の葉は依然靑い色をしてゐる。秋だからと云つて直に葉の衰[やぶちゃん注:「おとろへ」。]といふところに考へ及ぼすのは、自然に參せぬ、槪念の產物である。實際蓮の葉は秋になつて直ぐ破れるものではない。秋ながら靑い蓮葉を描いたのがこの句の眼目であり、「いよいよ靑し」の一語によつて、その靑さが强く浮ぶやうな氣がする。實もそこらにあるかも知れぬが、作者はたゞの靑さに眼を注いでゐるのみである。
蓮の實とか、敗荷はいかとかいふ季寄本位の觀念を離れて、秋天の下にいよいよ靑い蓮葉を見る。そこに元祿の句の自然なところがある。吾々は句そのものの價値よりも、この點に心を惹かれざるを得ない。
[やぶちゃん注:『「八重葎」』(やへむぐら)『といふ俳書がこれを秋の部に入れた』「八重葎」は正確には「八重葎 花」で、江戸前期の俳人神戸友琴(かんべゆうきん 寛永一〇(一六三三)年~宝永三(一七〇六)年:北村季吟に学び、生地の京都から加賀金沢に移り、和菓子商を営む傍ら、俳諧を教え、加賀俳壇に重きをなした人物。通称は武兵衛。別号に幽琴・山茶花など。編著には他に「白根草」「金沢五吟」「色杉原」などがある)の俳諧撰集。国立国会図書館デジタルコレクションの、『加越能古俳書大觀』上編(日置謙校・昭一一(一九三六)年石川県図書館協会刊)の、ここで、当該句が確認出来る(右ページ下段八行目)。リンク先では、刊行年を不詳とするが、元禄八(一六九五)年刊である。]
緣に出て手をうつ柿の烏かな 宜 律
句意は別に解するまでもない。緣に出て手を打つて、柿に來る烏を追つたといふのである。これを上から眞直に讀下して、柹の烏が緣側で手を打つやうに考へる人は、少くとも俳諧國の民にはあるまいと思ふ。
柹に烏は相當あり觸れた題材である。柹の烏を追ふといふ趣向も少くない。「柹を守る吝き[やぶちゃん注:「しわき」。]法師が庭に出でてほうほうといひて烏追ひけり」といふ子規居士の歌もあり、漱石氏は又「野分」の一節にこれを用ゐて、道也先生をして「蛸寺の和尙が烏を追つてゐるんです。每日がらんがらん云はして、烏計り追つてゐる。あゝいふ生涯も閑靜でいゝな」と評せしめてゐる。柹の烏を追ふ方法もいろいろあるらしい。この三種の中では、緣へ出て手を打つのが最も消極的のやうである。
[やぶちゃん注:「柹を守る吝き法師が庭に出でてほうほうといひて烏追ひけり」子規の明治三二(一八九九)年十月一日の『短歌第四會』の一首。
*
柹
柹を守る吝き法師が庭に出でてゝほうほうといひて烏追ひけり
*
である。国立国会図書館デジタルコレクションの『子規全集』第六巻(和歌・大正一五(一九二六)年アルス刊)のここで視認出来る。
『漱石氏は又「野分」の一節にこれを用ゐて、……』「野分」(のわき:明治四〇(一九〇七)年一月『ホトトギス』に発表。漱石が教職を廃し、専従作家となる前の最後の小説である)の「六」章の掉尾。国立国会図書館デジタルコレクションの漱石全集刊行会の昭和一一(一九三六)年刊の『漱石全集』第三巻のここ(当該部)で、正字正仮名で視認出来る。]
干稻の間もなく暮る日影かな 盛 弘
干稻に日が當つてゐる。もう間もなく暮れる心細い日影である。干稻の日影も寧ろ平凡な趣向であるが、「間もなく暮る」の一語によつて、その光景を明瞭ならしめてゐる。
稻架[やぶちゃん注:二字で「はさ」と読む。]にかけた稻か、田にひろげ干す稻か、それはわからぬ。この句の主眼はさういふ道具立の上でなく、今にも暮れようとする秋の日ざしが、僅に干稻の上に殘つてゐる、その感じに存するのであらう。
« 「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 安息香 | トップページ | 柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(15) »