柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(2)
石竹の一花咲る冬野かな 桃 里
蕭條たる冬野の中に、たつた一輪石竹の花が咲いてゐる。かういふ光景には未だ逢著したことが無いが、實際には屢〻あるのかも知れない。尙白にも「よろよろと撫子殘る枯野かな」といふ句がある。趣は略〻似たやうなものであるが、句としては尙白の方が遙にすぐれてゐる。「よろよろと」の一語が枯野に殘る撫子の樣子を如實に現してゐるのみならず、强ひて一花と限定しないのも、却つて風情が多いからである。
嘗て定家の「拾遺愚草」を點檢して「霜冴ゆるあしたの原のふゆがれに一花さけるやまとなでしこ」の一首を發見した時、尙白の句と比較すると、數步を讓らなければなるまいと老へたことがあつた。今にして思へば、尙白の句は寧ろ獨立して考へらるべきで、それよりはこの桃里の句の方が、よほど定家の歌に似てゐる。桃里は定家の歌によつて、この趣向を立てたものではないかも知れぬ。たゞ定家の歌以上の働きを、この句に認め難いのを遺憾とする。
[やぶちゃん注:「石竹」双子葉植物綱ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis 。
「尙白」の句は、調べた限りでは、
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よろよろと撫子殘る枯野哉
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の表記である。
「霜冴ゆるあしたの原のふゆがれに一花さけるやまとなでしこ」文治二(一一八六)年の「二見浦百首」の中の一首。]
大きなる雪折々の霙かな 旭 芳
霙[やぶちゃん注:「みぞれ」。]が降るのを見ていると、時々大きな雪片がまじつてゐる、と云つたのである。平凡な事柄のやうで、一槪にさう云ひ去ることの出來ぬものがある。
由來霙などといふ句は、配合物を主にしたものが多く、霙そのものを見詰めたものは少い。この句はその少い一例である。折々まじる大きな雪片は、直に讀者の眼にはつきりうつるやうな氣がする。
膳棚へ手をのばしたる火燵かな 溫 故
火燵を無性箱[やぶちゃん注:「ぶしやうばこ」。]と云ひ出したのは誰か知らぬが、頗る我意を得てゐる。物臭太郞にも或點で興味を持つ吾々は、勿論火燵を以て亡國の具と觀ずるわけではない。無性を直に道德的功過に結びつけるのは、少くとも俳人の事ではあるまいと思ふ。
この句は火燵に於ける無性の一斷片を現したものである。火燵は第一に人の起居の動作を懶くする。膳棚へ手をのばしたといふのは、立つて取るのが面倒だから、無性中に事を行はうといふに外ならぬ。
火燵からおもへば遠し硯紙 沙 明
といふ句なども、やはり同じやうな心持を現してゐる。作者は火燵に在つて何か書くべき硯や紙の必要を感じながら、取りに行くのが懶いために、その「硯紙」の距離を遠く感ずるのである。句としては特に見るに足らぬが、無性箱の消息を傳へたものとして、前句と併看の價値はあるかも知れない。
[やぶちゃん注:「膳棚」膳や椀などの食器をのせる棚。
「功過」「功罪」に同じ。]
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