柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(16)
聖靈もござるか今の風の音 桃 妖
迎火でも焚いてゐる場合かと思はれる。ざわざわと吹き渡る風の音も、その場合たゞならぬやうにおぼえて、亡き魂がこの風に乘つて來るのではないかといふ氣がする。「吹く風の目にこそ見えね」といふことも、一方が聖靈[やぶちゃん注:「しやうりやう」。]であるだけに、特にもの恐しいやうな感じを伴つてゐる。
かういふ心持は古今を通じて變りはあるまい。
迎火の消えて人來るけはひかな 子 規
風が吹く佛來給ふけはひあり 虛 子
子規居士のは必ずしも佛でなしに、迎火の消えた闇の門を、向うから人の來るけはひがする、といふ意味かも知れぬ。併しさういふ普通の人の來るけはひさへ、この場合は或幽遠な世界に觸れるのである。「鳴雪俳句集」などには出ていないが、鳴雪翁にも「迎火に魂や來る道の鴫飛んで」といふ句があるよしを、何かで見たおぼえがある。桃妖の句は技巧的に云へば、この中で一番劣るであらう。たゞどこか素樸なところがあつて、この內容に適してゐるのみならず、時代において先んじてゐることも認むべきである。
[やぶちゃん注:子規の句は、ネットの複数の掲示句を見るに、
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迎火の消えて人來るけはひ哉
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であるようだ。私は「久女好きの虛子嫌ひ」だが、虚子のこの句は、所持する大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和五五(一九八〇)年増補校訂八版)で、句集「五百句」所収で、明治二八(一八九五)年秋の作であることが判った。林火は虚子パートの冒頭にこの句を掲げている。それは、この句が、子規の従弟にして虚子の旧友で、ピストル自殺した藤井古白(明治四(一八七一)年~明治二八(一八九五)年四月十二日)を『追慕する霊迎えの句である』(林火解説文より)からである(古白の自死の原因は、文学・哲学を志しながら、それが世間に認められないジレンマによる神経疾患発症の他に、禁断と認識された叔母「すみ」への恋慕が絡んでいた。因みに、虚子もこの「すみ」を愛していた競争相手でもあったのである)。この句自体に、実は、以下の脇書がある(国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここで確認したが、林火の記載にそこにないものがあるため、勘案して入れ込んでおいた)。
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明治二十八年
八月。府下豐島群下戶塚村四三四、古白
舊廬に移る。一日、鳴雪、五城、碧梧桐、
森々召集、運座を開く。
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林火、末尾に、『夕闇迫る門辺で芋殼を焚くのが迎え火であるが、その煙りがたなびけばそれはそれに乗って仏が来たような気配を与える。「風吹けば」がこの句に妖気を添えて効果があることを見逃せぬ。』『子規はこの句を天位となし「句法の巧妙、老成家ノ手ニ成リタラン」と小評している。なお子規に「亡き古白を思ひ出でて」の前書ある「春の夜のそこ行くは誰そ行くは誰そ」がある。』と擱筆している。子規の慟哭の一句は、やはり、明治二十八年の作である。]
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