柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(11)
天井に取付蠅や冬籠 紫 道
生殘りの蠅が天井にとまつて動かぬ。それを「取付」[やぶちゃん注:「とりつく」。]といふ言葉で現したのである。其角が憎まれてながらへる人に擬した通り、冬の蠅は已に活力を失つてゐるが、暖を求めてどこかに姿を現す。天井に見出すのは多くは夜のやうである。天井を離れまいとして、ぢつと取付いてゐる冬の蠅は、憎むといふよりは憐むべきものであらう。
天井の蠅もぢつとしてゐる。下にいる主人も――恐らくはぢつとしてゐるに相違無い。さういふ冬籠の一角を捉へたのがこの句の眼目である。
[やぶちゃん注:紫道の句は、一読、梶井基次郎の名作「冬の蠅」を想起させる(リンク先は私の古いサイト版)。
「其角が憎まれてながらへる人に擬した」其角編「續虛栗」(貞享(一六八七)年刊)所収の一句。そこでは前書は「寒蠅」(かんばへ)であるが、以下は「五元集」のものを示した。
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寒蠅爐をめぐる
憎まれてながらふる人冬の蠅
*]
胸に手を置て寢覺るしぐれかな 水 颯
胸に手を置くといふのは、熟考の際にも用ゐられるが、この句のはさうではない。胸の上に手を置いて寢ると、苦しい夢を見てうなされるから、手を載せないやうにしろ、と子供の時分よく云はれた。意識して手を置く筈も無いが、寢てゐる間に自然とさういふ姿勢になるのであらう。子供がうなされた時に注意して見ると、やはり胸に手を載せてゐることが多いやうである。
この句の中には夢のことは云つてない。併し胸に手を置いて寢た結果、苦しくなつて目が覺めたことは慥である。目を覺して氣がつくと、小夜時雨が庇に寂しい音を立てゝゐる。夜の寢覺に時雨を聞くなどは、陳腐の嫌を免れぬが、たゞさういふ姿勢を取つて寢た爲、目が覺めたといふところに、多少常套を破るものがある。胸苦しい夢を見て目が覺めた刹那の氣持と、小夜時雨といふものとの間にも、何等か調和するところがあるやうに思ふ。
たゝひろき庭も拂はずむら時雨 舍 羅
「何がしの院にまかりて」といふ前書がついてゐる。上五字は「たゞひろき」と讀むのか、今の俗語で「だだツ廣い」といふに當るのか、いづれにしても相當廣い庭と思はれる。その庭が掃除も行屆いて居らず、落葉なども拂はずにある。といふのであらうか。「拂はず」といふ言葉は尙他の意にも解せられるが、この場合きちんと片づいてゐないことだけは明である。
一塵もとゞめず掃き淸められた廣庭に、時雨が降るといふのも一の趣である。片づかぬ庭に時雨が降るといふのも亦一の趣である。兩者共に自然であつて、その間に時雨と撞著するところは無い。强ひて時雨趣味を限定して、統一を圖るなどは無用の沙汰である。
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