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2024/06/03

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(9)

 

   名月や葛屋の軒のたりさがり 東 夷

 

「葛屋」は「言海」を見ると、「くさや、かややニ同ジ」とあつて、茅屋の字が宛ててある。葛といふ字に格別の意味は無いのであらう。草家の軒の傾いた樣を「たりさがり」と云つたものと思はれる。月下に茅屋を見る場合ではない、茅屋の內に坐して名月を望む場合である。さうでなければ「たりさがり」といふ言葉が、あまり利かぬことになつて來る。

「明月の御覽の通り屑家かな」といふ一茶の句は、茅屋より更に進んで「けちな家」といふ貶意を含んだものと思はれるが、これを讀むと、名月に對する「屑家」といふ對照的な考が先に立つて、肝腎なその家の樣子は一向眼に浮んで來ない。一茶一流の自嘲の氣が强過ぎる爲である。從つてこの句の裏には、御覽の通りの屑家ではあるが、名月を見るには何の妨も無い、といふ底意が窺はれる。芥川龍之介氏はかつて芭蕉と一茶とを比較して、

 「明月や池をめぐりて夜もすがら」とは芭蕉が

  明月の吟なれども、一茶は同じ明月にも、

  「明月や江戶のやつらが何知つて」と、氣を

  吐かざるを得ざりしにあらずや。

と云つたことがあるが、必ずしも芭蕉との比較において然るのみではない。茅屋に坐して名月を望むといふ狹い天地に於て、有名ならざる東夷の作と比較しても、その差は斯の[やぶちゃん注:「かくの」。]如く甚しいのである。芥川氏は元祿人と一茶との差異を以て人生觀の差異に歸し『元祿びとの人生は、自然に對する人生なり。一茶の人生は現世なり。今人の所謂「生活」なり。一茶を元祿びとと異らしむるは、この一點にありと云ふも誇張ならず』と斷じたが、この解釋はこゝにも當嵌るべきものと信ずる。

[やぶちゃん注:芥川龍之介の「一茶句集の後に」は、ネット上には前文の電子化物が存在しないことが判ったため、正字正仮名で、急遽、電子化注をブログで揚げておいた。]

 

   名月や何に驚く雉の聲 示 右

 

 句意は改めて說くまでもない、極めて明瞭である。名月の光の下に、突如として鋭い雉子の聲がする。あれは何に驚いたのであらうか、と云つたのである。

 月の光にうかれて鳴く阿房鴉[やぶちゃん注:「あはうがらす」。]の聲は、平凡であるだけに無事である。寢ぼけた雞の聲にしても格別のことはない。雉子の聲は銳いと同時に、どことなく尋常ならざるものがある。雉子を啼かしむる何者かのあることを想像させる。「何に驚く」の語の生れる所以であらう。

 

   つむ本の木口ぞ古き秋の暮 旦 藁

 

「木口」と書いてあるけれども、これは「小口」の意であらうと思ふ。座右に積んだ本の小口が悉く古びてゐる。作者は秋の暮に當つて、その古い小口にしみじみと目をとめたのである。

 書册を詠じた句の少からぬ中に在つて、書物の小口に注目したものは、この句の外に「待春や机にそろふ書の小口 浪化」しか今記憶に無い。きちんと揃へた書の小口に春を待つよろこびを感じ、積み重ねた書の小口の古びに秋の暮の寂しみを感ずる。いづれも俳諧の微妙な觀察であるが、平日書物に親しむ者でなければ、容易にこの種の趣は捉へ得ぬであらう。但この兩句を比較すると、趣に於ては浪化の方がまさつてゐるかと思はれる。

[やぶちゃん注:書狂の私は反対。旦藁(たんかう(たんこう))の方が、遙かにしみじみしていて好ましい。]

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