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2024/06/10

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(20)

 

   畑々や豆葉のちゞむ秋日和 卓 袋

 

 柳田國男氏の「豆の葉と太陽」といふ本を近刊豫告で見た時、どういふ意味の標題か、見當がつかなかつたが、その內容を一讀するに及んで、奧州の大豆畠に於ける日光の美しさを說いた文章が、卷頭に置かれてある爲の名であることがわかつた。今日の風景鑑賞家なるものが、妙に農作物の色調に無關心であることは、柳田氏の說の通りであらう。若し這間の消息を解する者があるとすれば、それは俳人の畠でなければならぬと思つたら、果してかういふ句のあるのに氣がついた。

 この句は柳田氏が說かれたやうに、豆の葉の美しさを明瞭に描いてはゐない。たゞこれを讀むと、一面の豆畠に强い秋の日が照つてゐる、明るい光景が展開する。豆の葉はもう黃ばんでちゞんでゐる。その色調を現さぬのは、俳人がさういふ感覺に無頓著なのではなくて、「ちゞむ」の語に豆の葉の已に黃ばんでゐることを含ませたものと見るべきであらう。

 豆の葉などといふものは、平安朝以來の傳統に立つ歌よみの顧るべき材料ではない。殊にそれが少し黃ばんで、ちゞれ氣味になりながら、秋天の下に展けてゐる光景の如きは、恐らくは油畫が渡來するまで、畫家と雖も看過してゐた美しさではあるまいか。元祿時代には、まだこの外に「大豆の葉も裏吹ほどや秋の風」といふ路通の句があり、附合の中に「豆の葉も色づく鳥羽の畝傳ひ 林紅」といふ句を發見したこともあるが、柳田氏の說かれるところに最も近いものとしては、卓袋の一句を推すべきであらうと思ふ。吾々は柳田氏が一般に閑却され勝な「豆の葉と太陽」を以て、旅と自然とに關する一書に名づけられたことに敬意を表すると共に、早くこの光景に留意して自家藥籠中のものとした俳人の觀察眼を、この際改めて稱揚して置きたいのである。

[やぶちゃん注:『柳田國男氏の「豆の葉と太陽」といふ本』国立国会図書館デジタルコレクションの原本で(昭和一八(一九四一)年創元社刊)ここから、視認出来る。但し、初出は『東北の旅』(昭和五(一九三〇)年十一月発行)である。

「大豆の葉も裏吹ほどや秋の風」「西の雲」の歌仙に所収する。

「豆の葉も色づく鳥羽の畝傳ひ 林紅」は俳諧撰集「そこの花」に載る。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本俳書大系』第十七巻(昭和二(一九二七)年刊)のここ(左ページ上段五行目)で視認出来る。それを見ると、「畝」には『アゼ』のルビがある。]

 

   蕣のうねりぬけたり笹の上 萬 乎

 

 朝顏の蔓が笹にからまつて、笹の上まで拔け出てゐるといふのである。單に朝顏の蔓が上まで拔け出ただけでは面白くない。そこには必ず花が咲いてゐなければならぬ。俳人が朝顏といふ以上、花あることを常とするばかりでなく、花が無ければ「うねりぬけたり」といふ感じも亦はつきりせぬからである。

 芥川龍之介氏の「閑庭」と題した歌に「秋ふくる晝ほのぼのと朝顏は花ひらきたりなよ竹のうらに」といふのがあつた。これは末方になつた朝顏が晝まで咲いてゐる景色で、趣はいさゝか異るけれども、朝顏が細い竹にからんで行つて、高いところに花をつけてゐる樣子はよく現れてゐる。手入などをあまりせぬ、蔓の匍ふに任せた朝顏を描いた點は、この萬乎の句と同じである。

[やぶちゃん注:大正十五(一九二六)年十二月新潮社刊の芥川龍之介の単行作品集『梅・馬・鶯』に「短歌」の題で収められたものの一首。「閑庭」の前書の第一首。サイト版「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を見られたい。]

 

   稻妻や壁に書きたる大坊主 羽 笠

 

 稻妻がぱつと壁を照すと、その壁に畫いた大坊主の顏が浮んで見える、と思ふ間に又もとの闇に還つてしまふ。稍〻際どい、瞬間的な場合を現した句である。この大坊主は物凄いといふほどでもないが、作者はいづれかと云へば無氣味な風に扱つてゐるやうな氣がする。

 この句を讀むと、一茶の「秋風や壁のヘマムシヨ入道」を思ひ出す。ヘマムシヨ入道はヘヘノノモヘジのことである。似たやうで違ひ、違つたやうで似てゐるところに、この兩句の獨立性はあるのであらう。

[やぶちゃん注:「秋風や壁のヘマムシヨ入道」私の好きな一句。「七番日記」所収で、文化八(一八一一)年の作。

「ヘヘノノモヘジ」「へのへのもへじ」の別称。]

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