柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(3)
炭竈や兩膝(モロヒザ)抱(ダキ)て髭男 散 木
炭竈を守るためであらう、ぼうぼう髭を生はやした男が、兩膝を抱いてそこに居る、といふのである。「炭燒のひとりぞあらん竈の際」といふ其角の句は、炭竈の樣子を想ひやつたのであるが、これは炭竈のところにゐる男の樣子を、的確に現した點に特色がある。
「兩膝抱て」といふ中七字は、その男の樣子を描き得て妙である。「蓆敷いて長臑[やぶちゃん注:「ながすね」。]抱きぬ夜水番[やぶちゃん注:「よみづばん」。] 泊月」などといふ句も、この意味に於て軌を同じうするものであらう。
[やぶちゃん注:三句、孰れも、フランスの初期自然主義小説のワン・シーンをスカルプティングした強いリアリズムを感ずる。大正期以降のプロレタリア俳句のようなメッセージさえ伝わってくるとも言えよう。但し、調べたが、作者や収録本は判らなかった。
「炭燒のひとりぞあらん竈の際」は俳論・俳諧発句・連句集を合わせた「雜談集(ざふだんしふ)」(元禄四(一六九一)年刊)に、
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炭燒のひとりぞあらん釜の際(キハ)
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と載るのを、国立国会図書館デジタルコレクションの『俳人其角全集』第一巻(勝峯晋風 編・昭和一〇(一九三五)年彰考館)のここで見つけた(下巻・左ページ下段二行目)。
「蓆敷いて長臑抱きぬ夜水番」これは極めて不親切。近現代のもので、作者は、野村泊月(明治一五(一八八二)年~昭和三五(一九六一)年)。当該ウィキによれば、『兵庫県出身の俳人。本名勇』。『竹田村(現丹波市)生。酒造家西山騰三の次男で兄は西山泊雲』。明治三〇(一八九七)『年、早稲田大学英文科卒。同年結婚して野村姓となる。中国の杭州で教職についたが、病により帰国し』明治四三(一九一〇)『年より』、『大阪九条で日英学館を経営した。在学中』から『高浜虚子に師事。兄泊雲とともに』「丹波二泊」と『呼ばれた』。大正一一(一九二二)『年、田村木国、皆吉爽雨と』『山茶花』を『創刊、雑詠選者』となった。昭和一一(一九三六)年、『山茶花』を『辞し』て、自ら『桐の葉』を創刊し、主宰した。『豪放磊落な性格で酒豪であった』とし、『ホトトギス』の『停滞期の作家で、三村純也は「虚子の提唱を忠実に守りぬき、平明な写生句が実を結ぶ先駆けをなした」としている』(「現代俳句大事典」)とあった。本書を読む者なら、当然、知っていると考えて、かく書いたものとは思われるが、現在では、近代定型俳句に詳しい方でないと、それほど有名な人物ではない(自由律俳句から無季語俳句に移った私は全く知らなかった)。因みに、兄泊雲は『「秋」(8)』の宵曲の解説で既出既注である。]
前髮に雪降かゝる鷹野かな 吏 明
鷹野の趣は、獵銃以後に生れた吾々には十分にわからない。同じ狩であつても、飛道具に鷹を用ゐるとなると、雅致と餘裕と竝び生ずるやうな感じがする。一度呑ませたあとで吐かせる鵜飼とは同日の談でない。
御小姓などであらう、鷹野の御供をする若衆の前髮に、霏々として雪が降りしきる。勿論雪はあたり一面降り埋めつゝあるのであるが、美しい若衆の前髮に降りかゝるところを見つけたのが、この句の主眼であり、鷹野の景色に或ポイントを與へたことになつてゐる。炭竈の髭男はもともとそこに一人しかいない役者であらうが、これは鷹野における人數の中から、特に若衆役を持出した點に一種の技巧がある。畫のやうな趣である。
餅搗や捨湯流るゝ薄氷 晚 柳
餅搗の場合に湯をこぼす。その湯が白い湯氣を立てながら、薄氷の方へ流れて行く、といふだけのことであらう。薄氷のミシミシと音して解ける樣、一面に立つ湯氣の白さまで、眼に浮んで來るやうに思はれる。
元祿時代のかういふ句を見る每に、吾々はいつも眞實の力を痛感する。寫生と云つても、實感と云つても畢竟同じことである。如何に句を作る技術上の練磨が發達したところが、それだけでかういふ句を得ることは不可能であらう。
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