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2024/06/17

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(8)

 

   こほる夜や燒火に向ふ人の顏 岱 水

 

「燒火」は「タキビ」とよむのであらう。寒夜火を焚いて暖を取る。作者は何も委しいことを敍して居らぬが、屋外の光景らしく思はれる。燃え盛さかる赤い燄が人の顏を照して、面上に明暗を作る。人の顏の赤く描き出された背後には、闃寂たる寒夜の闇が涯しなく橫はつてゐる。平凡なやうで力强い句である。

 

   はつ雪の降出す比や晝時分 傘 下

 

 讀んで字の如しである。何も解釋する必要は無い。こんなことがどこが面白いかと云ふ人があれば、それは面白いといふことに捉はれてゐるのである。芭蕉の口眞似をするわけではないが、「たゞ眼前なるは」とでも云ふより仕方があるまい。

 音もなく夜の間に降出して、朝戶をあけると眞白になつてゐるといふこともあれば、朝から曇つてゐる空が午頃[やぶちゃん注:「ひるごろ」。]に至つてちらちら雪を降らしはじめることもある。この句は後者で、さういふ初雪の降出す場合を、そのまゝ句にしたのである。

[やぶちゃん注:「芭蕉の」「たゞ眼前なるは」というのは、宝井其角の編になる俳文集「雜談集(ざふたんしふ)」(全二巻。元禄四(一六九一)年成立で翌年刊。上巻は俳論などの文章を、下巻は連句を中心に収録したもの)の「上卷」巻頭に記されてある。国立国会図書館デジタルコレクションの『俳人其角全集』第一巻(勝峯晋風編・昭和一〇(一九三五)年彰考館刊)の当該部を視認して電子化した(多少、手を加えた。歴史的仮名遣の誤りはママである)。

   *

一 伏見にて一夜、俳諧もよほされけるに、かたはらより芭蕉翁の名句、いづれにや侍る、と尋出られけり。折ふしの機嫌にては、大津尙白亭にて、

   辛崎の松は花より朧にて

と申されけるこそ、一句の首尾、言外の意味、あふみの人もいまだ見のこしたる成べし。其けしきここにも、きらきらうつろひ侍るにやと申たれば、又かたはらより、中古の頑作(けんさく)にふけりて、是非の境に本意をおほはれし人さし出て、其句、誠に誹諧の骨髓得たれども、慥なる切字なし。すべて名人の格的には、さやうの姿をも、發句とゆるし申にやと不審(フシン)しける。答へに、哉とまりの發句に、にてどまりの第三は、嫌へるによりてしらるべきか。おぼろ哉と申句なるべきを、句に句なしとて、かくは云下し申されたる成べし。朧にてと居(スヘ)られて、哉よりも猶ツシたるひゞきの侍る。是、句中の句、他に適當なかるべしと。此論を再ビ翁に申述侍れば、一句の問答に於ては然るべし。但シ、予が方寸の上に分別なし。いはゞ、さゞ波やまのゝ入江に駒とめてひらの高根のはなをみる哉。只、眼前なるはと申されけり。

   *

「辛崎の」の句は「甲子吟行」で、貞享二(一六八五)年三月の作で、恐らく大津の千那の別邸での詠。「さゞ波やまのゝ入江に駒とめてひらの高根のはなをみる哉」は、かの源従三位頼政のものである。]

 

   をし船の沙にきしるや冬の月 素 覽

 

「をし船」といふ言葉はよくわからぬが、句の意味から考へて、淺瀨か何かで船を押すことではあるまいかと思ふ。

 えいえいと押す船の底が、沙に軋つて寒さうな音を立てる。皎々たる寒月の下、船を押す人の姿が沙上に黑々とうつゝてゐるやうな氣がする。夏の月夜ならば、かういふ出來事も一興として受取れるが、天地一色の冬の月ではさう行かない。一讀骨に沁みるやうな寒さを感ぜしめるところに、この句の特色がある。

 

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