柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「冬」(5)
爐びらきや障子の穴の日のこぼれ 東 耕
爐開の疊の上に――疊でなくても構はぬが、先づ疊と解するのが妥當であらう――障子の穴から日がさしてゐる。ぽつりと落ちたやうな日影を「こぼれ」と云つたのである。いさゝか巧を弄した言葉のやうでもあるが、最も簡潔にその感じを現したものと見ることが出來る。
疊にさす小さな日影に目をとめる。そこに爐開頃にふさはしい、落著いた氣分が窺はれる。
筆や氷る文のかすりのなつかしき 機 石
人から來た手紙を讀んでゐると、ところどころ筆のあとのかすれたところがある。寒い夜半などに筆を執つて、穗先が氷つた爲にかすれたのであらうか、と想ひやつた句である。「文のかすり」と云つただけで、手紙の字がかすれてゐることを現し、その手紙を書く場合の寒さを想ひやるあたり、云ふべからざる情味を含んでゐる。
蕪村の「齒豁[やぶちゃん注:「あらは」。]に筆の氷をかむ夜かな」といふ句は、自ら筆をかむ場合であり、身に沁み通るやうな寒さを現してゐる點において、特色ある句たるを失はぬ。機石の句はその點から云へば寧ろ平凡であらう。たゞ平凡の裡に何となく棄てがたいものがある。
[やぶちゃん注:蕪村の句は「蕪村句集 槇卷之下」に載る。表記は、
*
齒豁(アラハ)に筆の氷を嚙む夜哉
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である。]
もの買に折敷をかぶる霰かな 燕 流
折敷[やぶちゃん注:「をしき」。]といふ言葉は地方によつては使はれてゐるかも知れぬが、現在の吾々には稍〻耳遠い。『言海』には「飯器を載する具。片木へぎ作りの角盆」とあるから、あまり上等なものではなさそうである。買物に行くのにそれを持つて行くのは、何か載せて歸るためであらう。丁度霰が降つて來たので、笠か帽子の代りに折敷を頭にかぶつた、といふのである。霰が降つている中を買物に出るのに、傘をさすほどのこともないから、折敷をかぶると解しても差支ない。
木導の句に「鍋屋からかぶつて戾る時雨かな」といふのがある。鍋を買ひに行つたか、修繕にやつたのを取りに行つたか、いづれにしても鍋屋から鍋を持つて歸る、折からの時雨に頭から鍋をかぶつて歸るといふので、この方が働いてゐるかと思ふ。折敷をかぶつて買物に出るといふよりも、鍋屋から鍋をかぶつて駈け戾るといふ方が、輕い卽興的なところがあつて面白い。
[やぶちゃん注:「鍋屋からかぶつて戾る時雨かな」この句は、「日本人の笑 文學篇」(池田孝次郎・柴田宵曲・森銑三共著/昭和一七(一九四二)三省堂刊)でも、採用している。この本は所持するが、共著者森銑三が著作権存続であるため、電子化は出来ない。国立国会図書館デジタルコレクションのここで原本の当該部をリンクさせておく。]
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