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2024/07/31

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 椶櫚

 

Syuro

 

しゆろ   栟櫚  棕【俗字】

      【和名種魯】

椶櫚

 

[やぶちゃん注:「櫚」の字はここでは、(つくり)の「呂」の中央の一画が左で繋がっている字体であるが、表示出来ないので、通常の「櫚」とした。]

 

本綱椶櫚樹最難長初生葉時如白及葉髙二三尺則木

端數葉如扇髙一二𠀋則葉亦大而如車輪萃樹杪上聳

四散岐裂其莖三稜四時不凋其幹正直無枝近葉𠙚有

皮褁之毎長一層卽爲一節幹身赤黑皆筯絡宜爲鍾杵

其皮有𮈔毛錯縱如織又如馬騣䰕故字從㚇其毛剝取

[やぶちゃん字注:「㚇」は「本草綱目」では「椶」であるが、これでも問題がないので、そのままとする。]

縷解可織衣帽褥椅之屬毎歳必兩三剝之否則樹死或

[やぶちゃん字注:「兩」は原本では二箇所の「入」が左が(にすい)、右が(にすい)を左右反転した字体だが、こんな異体字はないので、正規の「兩」とした。]

不長也三月於木端莖中出數黄苞苞中有細子成列乃

花之孕也狀如魚腹孕子謂之㯶魚【亦曰㯶笋】漸長出苞則成

花穗黄白色結實纍纍大如豆生黄熟黑甚堅實其皮𮈔

可作繩入水千歲不爛其筍及子花有小毒戟人喉未可

輕食

皮【苦濇】 治腸風下血赤白痢止吐衂及崩中帶下

 燒存性佐以他藥與亂髮灰同用更良【年久敗棕入藥用】

一種 小而無𮈔惟葉可作帚

蒲葵 葉與此相似而柔薄可爲扇笠【是此別種也】

 夫木朝またき梢斗に音たてゝすろのは過る村時雨哉爲家

△按椶櫚今𠙚𠙚有之薩摩最多剥皮毛爲帚爲繩其葉

 亦細割如線而爲帚民間多植有利

一種 唐棕櫚者其葉剪又不㴱不如倭棕櫚婆娑

[やぶちゃん字注:「㴱」は「深」の異体字。]

一種 棕櫚竹似竹而中實葉似棕櫚而短【見于竹類下】

 所謂蒲葵笠同團扇白色似菅而𤄃美也本朝未有之

 

   *

 

しゆろ   栟櫚《へいろ》  棕《しゆ》【俗字。】

      【和名、「種魯」。】

椶櫚

 

「本綱」に曰はく、『椶櫚の樹、最も長《ちやう》じ難《がた》し。初《はじめ》て葉を生ずる時、「白及《はつきゆう》」の葉のごとし。髙さ、二、三尺なる時[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、木の端、數葉《すうえふ》、扇《あふぎ》のごとし。髙さ一、二𠀋≪となれば≫、則ち、葉も亦、大にして、車輪≪の≫、樹≪の≫杪《こずゑ》に萃(あつま)るがごとし。上≪に≫聳(そび)へて、四(《よ》も)に散じ、岐《き》≪に≫裂≪けり≫。其の莖、三《みつ》≪の≫稜《かど》、あり。四時、凋まず、其の幹(ゑだ[やぶちゃん注:ママ。])、正直《せいちよく》にして、枝、無し。葉に近き𠙚に、皮、有りて、之れを褁《つつ》む。毎《つね》≪に≫長≪ずること≫、一層≪づつにして≫、卽ち、≪それ、≫一節《ひとふし》を爲《な》す。幹《みき》≪の≫身、赤黑にして、皆、筯絡《きんらく》[やぶちゃん注:筋状に連なった経絡(けいらく)。人の経絡に擬えた謂い。]あり。宜しく、鍾杵(しゆもく)[やぶちゃん注:鐘を撞く撞木(しゅもく)。]と爲すべし。其の皮、𮈔毛《いとげ》有り、錯縱《さくじゆう》して、織るがごとく、又、馬《むま》の騣-䰕(たてがみ)のごとし。故に、字、「㚇」[やぶちゃん注:この漢字には「集まる」の意がある。]に從ふ。其の毛、剝(は)ぎ取《とりて》、縷-解(ほど)きて、衣《ころも》・帽《ばうし》・褥椅《じよくき》[やぶちゃん注:褥(しとね)を支える寝台、或いは、現在の寝椅子(カウチ)の意であろう。東洋文庫訳では、『(しとねいす)』とする。]の屬に織るべし。毎歳《まいとし》、必ず、兩《ふた》たび、三たび、之れを剝ぐ。否(《し》から)ざれば、則ち、樹(き)、死(かゝ)るか、或いは、長《ちやう》ぜざるなり。三月、木の端≪の≫莖の中に於いて、數≪個の≫黄《き》≪の≫苞《はう》[やぶちゃん注:花の根元に生ずる小形の葉。]を出《いだす》。苞中、細《こまかなる》子《たね》、有りて、列を成す、乃《すなはち》、花の孕《はららご》なり。狀《かたち》、魚の腹《はら》に孕(はら)める子のごとし。之れを「㯶魚《そうぎよ》」と謂ふ【亦、「㯶笋《そうしゆん》」と曰ふ。】。漸《やうや》く、長じて、苞を出だす時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、花穗を成《なす》。黄白色≪にして≫、實を結ぶこと、纍纍《るいるい》として、大いさ、豆のごとし。生《わかき》は黄≪にして≫、熟せば、黑し。甚だ、堅實なり。其の皮𮈔《かはいと》≪にて≫、繩を作るべし。水に入《いりて》、千歲《せんざい》≪までも≫、爛(たゞ)れず。其の筍《たけのこ》[やぶちゃん注:違和感のある方は、シュロは「棕櫚竹」という異名があること、その土から生えた若芽が、事実、筍(たけのこ)に似ていることを、グーグル画像検索「シュロ タケノコ」の幾つかで、事実、タケノコのようだ、と述べているのを見られるがよかろう。]、及び、子《たね》・花、小毒、有り。人の喉を戟(げき)す。未だ輕《かるがる》しく、食ふべからず。』≪と≫。

『皮【苦、濇《しよく》[やぶちゃん注:本邦の略字「渋」、中国語の略字「涩」の異体字で、意味は同じ]。】 腸風[やぶちゃん注:感染性胃腸炎か。]・下血・赤白痢[やぶちゃん注:「没石子」の私の注を参照。]を治す。吐衂《はなぢ》、及び、崩中《ながち》・[やぶちゃん注:女性生殖器からの病的な出血の内、大量出血する症状を指す。]帶下《こしけ》を止《と》む。』≪と≫。

『≪皮を≫燒《やき》て、≪しかも、≫性を存《そんじ》、佐《たすけと》するに、他藥を以《もつてす》。亂髮の灰、同じく用ふれば、更《さらに》良《よし》【年久《としひさしく》敗棕《くされるしゅろ》≪も≫、藥に入れて用ふ。】。』≪と≫。

『一種は、小にして、𮈔(いと)、無く、惟《ただ》、葉≪のみの者、有り≫。帚《はふき》に作るべし。』≪と≫

『蒲葵《ほき》 葉、此《これ》と相《あひ》似て、柔かにして、薄く《✕→薄き者》、扇《あふぎ》・笠《かさ》に爲《つく》るべし【是は、此れ、別種なり。】。』≪と≫。

 「夫木」

   朝まだき

    梢《こずゑ》斗《ばかり》に

       音たてゝ

      すろのは過ぐる

       村時雨(むらしぐれ)哉(かな)爲家

△按ずるに、椶櫚《しゆろ》、今、𠙚𠙚、之れ、有≪れど≫、薩摩、最も多し。皮・毛を剥《はぎ》て、帚と爲《し》、繩に爲《す》る。其の葉も亦、細《こまかに》割(わ)り、線《せん》のごとくにして、帚と爲る。民間、多《おほく》植《うゑ》て、利、有り。

一種は、「唐棕櫚《たうじゆろ》」と云ふ者は[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、其の葉、「剪又(きりまた)」、㴱《ふか》からず、倭《わ》の棕櫚の婆娑《ばさ》たる[やぶちゃん注:「ばっさばっさ」のオノマトペイア。]≪とは≫、しか、ならず。

一種。「棕櫚竹《しゆろちく》」。竹に似て、中實《ちゆうじつ》にして、葉は、棕櫚に似て、短《みじかし》【「竹類」の下を見よ。】。

 所謂《いはゆる》、「蒲葵笠《びらうがさ》」・同《どう》「團扇(うちは)」[やぶちゃん注:「蒲葵團扇(びらううちは)」の意。]≪は≫、白色≪にして≫、菅(すげ)に似て、𤄃(ひろ)く、美なり。本朝に、未だ、之れ、有らず。

 

[やぶちゃん注:これは問題なく、メインは、

単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属シュロ Trachycarpus fortunei 'Wagnerianus'(シノニム:Trachycarpus wagnerianus

で、別名を「ワジュロ」(和棕櫚)と言う(「維基百科」の上記種のページ「棕櫚」をリンクさせておく。但し、「和」に騙されてはいけない。本種の原産地は実は、明確には判っていない。中国南部から亜熱帯地方のどこか(英文の同種のウィキには、過去の『自然分布を追跡することは困難であ』り、『原産地は中国中部(湖北省以南)・日本南部(九州)・ミャンマー北部南部・インド北部』を挙げている)であり、日本のものは外来種とする説もあり、逆に「ブリタニカ国際大百科事典」では、シュロの項で、ズバり、『九州南部原産』とある)。そして、本文中に一種として記される「唐棕櫚」が、

シュロ属トウジュロ Trachycarpus fortunei 'Wagnerianus'(シノニム:Trachycarpus wagnerianus

である。植物学上は同種とされるが、造園業者やシュロ加工業者にとっては、価値が、先の「(ワ)ジュロ」とは大きく異なることから、この形で、明白に弁別する呼名となって民間にも浸透している(植物に冥い私でさえ少年期より知っていた)。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『シュロ(棕櫚・棕梠・椶櫚)は、ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus の樹木の総称であ』り、『シュロ属の一種 Trachycarpus fortunei (別名:ワジュロ)の標準和名でもある』。『シュロ属は』五『種以上の種が属する。シュロという名は、狭義には、そのうち』、一『種のワシュロの別名とされることもある。逆に広義には、他の様々なヤシ科植物を意味することもある』。『常緑高木。温暖で、排水良好な土地を好み、乾湿、陰陽の土地条件を選ばず、耐潮性も併せ持つ強健な樹種である。生育は遅く、管理が少なく済むため、手間がかからない』。『植物学上の標準和名はシュロ(学名:  Trachycarpus fortunei )で、別名をワジュロ(和棕櫚)とする。中国名は棕櫚。中華人民共和国湖北省からミャンマー北部まで分布する。日本では平安時代、中国大陸の亜熱帯地方から持ち込まれ、九州に定着した外来種である。日本に産するヤシ科の植物の中では最も耐寒性が強いため、本州以南(東北地方まで)の各地で栽培されていて、なかには北海道の石狩平野でも地熱などを利用せずに成木できるものもある。ヤシ科の植物の中でほぼ唯一、日本に自生する。しかし現在では野生のものはないとも言われる』。『地球温暖化で冬の寒さが厳しくなくなり、本州でも屋外で育ちやすくなっている』。東京都港区白金台にある『国立科学博物館附属自然教育園』『では』、一九六五『年に数本だったシュロが』二〇一〇『年に』は実に二千五百八十五『本へ増えた』。『雌雄異株で、稀に雌雄同株も存在する。雌株は』五~六『月に葉の間から花枝を伸ばし、微細な粒状の黄色い花を密集して咲かせる』(雌株は俗に「姫棕櫚」とも呼ばれる)。『果実は』十一~十二『月頃に黒く熟す』。『幹は円柱形で、分岐せずに垂直に伸びる。大きいものでは樹高が』十五『メートル』『ほどになることがあるが、多くは』三~五メートル『ほどである』(私の家の斜面にも五メートルを超えるワジュロの老樹が斜面に聳えている。多分、私とほぼ同じ年齢と推定される)。『幹の先端に扇状に葉柄を広げて数十枚の熊手型の葉をつける。葉柄の基部は幹に接する部分で大きく三角形に広がり、幹を抱くような形になっている。この葉柄基部や葉鞘から下に』三十~五十『センチメートル』『にわたって幹を暗褐色の繊維質が包んでおり、これをシュロ皮という』。『江戸時代後期』の文政一三(一八三〇)『年』『にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本の出島から初めて西洋に移出し、後にイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンに献名された』。『一説によると』、十『年で』一メートル『成長すると考えられており、おおよその樹齢の目安になる』(ここには要出典要請がかけられているが、私は今、六十七歳で、我が相棒の樹高は、まさにそれを無言で示しているものである)。以下、「トウジュロ」の項。『トウジュロ』『はシュロ(ワジュロ)と同種とされるが、造園の世界では価値が大きく異なるので、この系統の呼び名となっている。ワジュロよりも樹高・葉面が小さく、組織が固い。そのため』、『葉の先端が下垂しないのが特徴である。その点が評価され』、『庭園などでの利用はこの方が利用される。元来中国大陸原産の帰化植物で、江戸時代の大名庭園には既に植栽されていたようである。中国南部に分布するシュロは、トウジュロとして区分される。トウジュロは先述の』通り、『葉が下垂しないことから、ワジュロよりも庭木としてよく利用され、かつては鉢植え用の観葉植物として育てられることもあった。現在は鉢植えとしての価値は大幅に減少し、衰退している。造園上では、樹皮の繊維層を地際から全て残した物が良い物とされる』。以下、雑種「アイジュロ」の項。『ワジュロとトウジュロの間には雑種を作ることが可能で、この交雑種はアイジュロ(合い棕櫚)亦はワトウジュロ(和唐棕櫚)と呼ばれている。ワジュロとトウジュロが近くに植えられている場所でよく発生するが、鳥が異種の花粉を運ぶことで、近辺に異株が生えていなくてもアイジュロを生じる事も少なくない。大半のアイジュロは、ワジュロとトウジュロの中間の性質を示すが、葉が垂れるものから、中には一見するとアイジュロとは分からないほどトウジュロに似通った特徴を示すものもいる。大半はワジュロほど長い垂れを生じない。成長の速度や耐寒性なども変わりがなく、あえて作出する者はいないが、野外採集で採られたアイジュロを栽培する場合はある』(そもそもが、現行では学名が同じであるから、学名はないようだ。敢えて言うなら、Trachycarpus fortunei  × Trachycarpus fortunei 'Wagnerianus' 'Aijyuro' とでもなろうか(笑))。以下、「ノラジュロ」の項。但し、この項全体に、出典指示要請がかけられてある。『シュロの種子は多く』生じ、『鳥によって運ばれるため』、『かなり広い範囲を移動することが可能である。このため、通常』、『シュロが生えていない場所にシュロの芽や子ジュロが生えている光景をよく目にすることが』ある。『このように、人が故意に植えたわけでないのに』、『芽を出し』、『成長しているシュロのことを俗にノラジュロ又はノジュロという。ノラジュロは人家や公園、森林、墓地などの至る所に発生し、多くは群生する。現在』、『深刻な問題は発生していないが、ノラジュロが増えることによる環境への問題が心配されている。このことから』、『ノラジュロを害樹として指定し』、『積極的に駆除する自治体も存在する。しかし、成長した株は』、『一見』、『小さいように見えても』、『地中深く』、『根を張り』、『幹を太らせているので、駆除には手間を要する』。『通常、シュロは寒さに弱く』、『小さな株は越冬が出来ないと言われてきたが、近年の温暖化による影響で冬が越せる確率が上昇し、子ジュロの生存率が上がったことにより』、『東北地方でもノラジュロの群れを見ることが出来るようになっている』。以下、「利用」の項。『庭園で装飾樹としてよく用いられる。繊維や材を採るために栽培が盛んで、日本各地に植えられているが、和歌山県が最も多く植えられているという。日本人にとってシュロは』、『ソテツ』(裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ  Cycas revoluta )『と並んで』、『異国情緒を感じさせる植栽として愛好され、寺や庭園に植えられたと考えられている。庭園用にはトウジュロが用いられてきたが、ワジュロは実用に栽培されることが多く、両種は似ているので混じって使われている』。『シュロ皮を煮沸し、亜硫酸ガスで燻蒸した後、天日で干したものは「晒葉」』(さらしば)『と呼ばれ、繊維をとるのに用いられる。シュロ皮の繊維は、腐りにくく伸縮性に富むため、縄(棕櫚縄)や敷物(マット)、タワシ、篩の底の材料などの加工品とされる。又、シュロの皮を用いて作られた化粧品も発売されている。葉も』、専ら、『敷物や箒(棕櫚箒)などに使われる。繊維は菰(こも)の材料にもなる』。『樹皮の繊維層は厚く』、『シュロ縄として古くから利用されている。棕櫚縄は園芸用には極めて重要で、水に強くて』、『腐りにくく、細くても切れにくいので重宝がられている。タワシやマットに使われるのも、水に強くて水はけがよい性質によるものである』。『ウレタンフォームの普及以前は、金属ばねなどとの組み合わせで、乗り物用を含む椅子やベッドのクッション材としても一般的であった』。『また、材は仏教寺院の梵鐘をつく撞木に使われたり、床柱に利用され、寺に植えられることも多かった』。『シュロは日本の温帯地域で古来より親しまれた唯一のヤシ科植物であったため、明治以降、海外の著作に見られる』、『本来は』、『シュロとは異なるヤシ科』Arecaceae『植物を「シュロ」と翻訳していることが、しばしば認められる。特にキリスト教圏で聖書に多く記述されるナツメヤシ』(ヤシ目ヤシ科ナツメヤシ属ナツメヤシ(棗椰子)Phoenix dactylifera )『がシュロと翻訳されることが多かった。例えば』、「ヨハネによる福音書」の十二章十三節に『おいて、エルサレムに入城するイエス・キリストを迎える人々が持っていたものは、新共同訳聖書では「なつめやしの枝」になっているが、口語訳聖書では「しゅろの枝」と翻訳し、この日を「棕櫚の主日」と呼ぶ。現在、棕櫚の主日ないし「棕櫚の日曜日」は、復活祭の』一『週間前の日曜日が該当する』とある。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「(ガイド・ナンバー[086-42a]の以下)のパッチワークである。

「白及《はつきゆう》」単子葉植物綱キジカクシ目ラン科セッコク亜科エビネ連 Coelogyninae 亜連シラン(紫蘭)属シラン Bletillastriata のことか。これ、及び、ラン科 Orchidaceae の一部の種に見られる茎の節間から生じる貯蔵器官である偽球茎(偽鱗茎:英語:pseudobulb)は、漢方生薬「白及」(ハッキュウ)と称し、止血や痛み止め・慢性胃炎に処方される。

「㯶魚《そうぎよ》」「㯶笋《そうしゆん》」グーグル画像検索「シュロの実」を見られたい。まあ、私は納得出来る。「維基文庫」にある、清の汪灝らの撰になる「御定佩文齋廣羣芳譜 卷七十九」の「㯶櫚」の項に(左に送って中央より少し前にある)、「本草綱目」から抜き書きしたかと思われる、

   *

三月於木端莖中出數黄苞苞中有細子成列乃花之孕也狀如魚腹孕子謂之亦曰漸長出苞則成花穗黄白色結實纍纍大如豆生黄熟黒甚堅實

   *

があった(太字は私が附した)。

「亂髮」これは、髪を梳いたりした、ばらばらになった髪を纏めておいたものを指す。脱線だが、本邦のごく近代や、現代中国では、床屋のカットした髪の毛を集めて、醬油を作ることがあることを、余り、知らない方が多くなった。と言っても、私も知ったのは、二十代の頃、行きつけの床屋の主人から、修行中の若い日に、そう言って集めに来る業者がいた、と教えて貰ったのだが、後に、二十年ほど前、中国の匿名投稿動画で、その加工の一部始終を見た。全く知らない方は、ウィキの「人毛醤油」を見られたい。

「蒲葵《ほき》」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビロウ属ビロウ変種ビロウ Livistona chinensis var. subglobosa 。中文名「蒲葵」で、別名を「扇葉蒲葵」という(「維基百科」の「蒲葵」で確認した。以下の邦文のウィキでは二つの名が逆転している当該ウィキから少し引用する。『東アジアの亜熱帯の海岸付近に自生する。分布地は中国大陸南部、台湾、日本の南西諸島・小笠原諸島・九州南部・四国南部である。九州での自生地は鹿児島県、宮崎県が主で、次が』、『長崎県の五島列島・阿値賀島(平戸)・田平(九州本島最北自生地』『)。北限は福岡県宗像市の沖ノ島とされるが、福岡県のものは江戸時代以降に平戸から移植されたことが調査で判明している』。本邦の『ビロウの古名「アヂマサ」の文献初出は』「古事記」下巻の「大雀命」(仁徳天皇)の条の『天皇御製歌である』として、そちらに掲げられてある。また、『平安時代の王朝、天皇制においては』、『松竹梅よりも、何よりも神聖視された植物で、公卿(上級貴族)に許された檳榔毛(びろうげ)の車の屋根材にも用いられた。天皇の代替わり式の性質を持つ大嘗祭においては現在でも天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)』(天皇の即位式の前に禊祓(みそぎはらい)のために籠る仮小屋で、檳榔で頂上を覆い、四方に帳をかけ、中に毯(たん)を敷いて大床子(だいしょうじ:天皇が食事や理髪等の際に座る長方形で四脚から成る台椅子)をたてたもの。前後を開いて出入する)『の屋根材として用いられている』。『民俗学者の折口信夫はビロウに扇の原型を見ており、その文化的意味は大きい。扇は風に関する呪具(magic tool)であったとする。民俗学者谷川健一は、奄美・沖縄の御嶽には広くビロウ(クバ)が植えられておりビロウの木の下が拝所である事、ビロウから採取できる資材がかつて南島人の貴重な生活資材となっていた事を指摘している』とあった。

「夫木」「朝まだき梢《こずゑ》斗《ばかり》に音たてゝすろのは過ぐる村時雨(むらしぐれ)哉(かな)」「爲家」「すろ」がシュロである。既出既注の「夫木和歌抄」の一首。「卷二十九 雜十一」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「14080」)。

「棕櫚竹《しゆろちく》」竹(タケ亜科 Bambusoideae イネ科タケ亜科 Bambusoideae )に似ているために名に「竹」が附されただけで、単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科カンノンチク属シュロチク Rhapis humilisウィキの「カンノンチク属」によれば、『原産地は中国南部 - 南西部。カンノンチク』( Rhapis excelsa :原産地は中国南部)『ほどではないが、古典園芸植物として多くの品種がある。葉はシュロ』『に似ている。耐陰性、耐寒性が強くディスプレイ用の観葉植物として人気のある品種。また、古典園芸ではカンノンチクと本種を一纏めにして観棕竹ということがある』とあった。

『「竹類」の下を見よ』ずっと後の「卷第八十五 苞木類」の「㯶竹」。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版で当該部をリンクしておく。

「菅(すげ)」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex に属する種群。ウィキの「スゲ属」によれば、タイプ種は Carex hirta とするものの、『身近なものも多いが、非常に種類が多く、同定が困難なことでも有名である』とあった。但し、『カサスゲ』(スゲ属カサスゲ  Carex dispalata )『カンスゲ』(カンスゲ  Carex morrowii )『などの大型種の葉は、古くは笠(菅笠)や蓑などに用いられた』。『特にカサスゲはそのために栽培された。現在でも、注連縄』(しめなわ)『など特殊用途のために栽培されている地域もある』とあった(リンクはウィキのそれぞれ)。

「本朝に、未だ、之れ、有らず」九州にビロウは自生しており、直前で良安は「蒲葵團扇(びらううちは)」とルビしているにも拘わらず、不審だが、良安は「古事記」の「アヂマサ」が「蒲葵」(ほき)が「びらう」のことであると理解しておらず、誰かが、九州から持ち込んだ「蒲葵笠《びらうがさ》」「蒲葵團扇」を、良安だけでなく、当時江戸前期の本州人は、それを長崎からの「南蛮渡り」として、誤って理解していたとしか考えられない。則ち、九州にビロウが自生することを、江戸中期の京や江戸の人々は知らなかったのだと考えるしかない。それも、江戸後期には、事実が知られたようで、「重訂本草綱目啓蒙」の第三では、小野蘭山は正しく『蒲葵、ビロウナリ。南國ノ產ナル故、北地ニテハ、生長シ難シ。』と述べており、本邦に植生することが判っていたものと思われる。

2024/07/30

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 華櫚木

 

Birumakarin

 

くは りん  俗作花梨誤

       矣

華櫚木

 

ハアヽ リユイ モ

[やぶちゃん字注:「くは」はママ。「くわ」が正しい。但し、訓読でも、そのままとする。「櫚」の字はここでは、「グリフウィキ」のこれ((つくり)の「呂」の中央の一画がない)であり、後の本文でも、同部の一画が左で繋がっている字体であるが、表示出来ないので、通常の「櫚」とした。]

 

本綱華櫚木出於安南及南海其木性堅紫紅色似紫檀

而色赤又有花紋者謂花櫚木可作床几及噐皿扇骨諸

△按華櫚木來於南蠻其木理似欅而帶紫光色作板及

 噐美也今以榠櫨呼花梨且疑思華櫚木誤之甚者也

[やぶちゃん字注:「榠櫨」の「榠」は「グリフウィキ」のこれで、「櫨」は同じく「グリフウィキ」のこれであるが、孰れも表示出来ないので、それぞれ、この字で電子化した。]

 

   *

 

くは りん  俗、「花梨」と作≪るは≫、誤り。

 

華櫚木

 

ハアヽ リユイ モ

 

「本綱」に曰はく、『華櫚木《くわりんぼく》は、安南《アンナン》、及び、南海より、出づ。其の木、性、堅≪く≫、紫紅色。紫檀《したん》に似て、色、赤く、又、花紋、有る者、「花櫚木《くわりんぼく》」と謂ふ。床几(しやうぎ)、及び、噐《うつは》・皿、扇-骨(かなめ)の、諸物に作るべし。』≪と≫。

△按ずるに、華櫚木、南蠻より來《きた》る。其の木理《きめ》、欅(けやき)に似て、紫光色を帶ぶ。板、及び、噐に作りて、美なり。今、「榠櫨《メイサ/かりん》」を以つて、「花梨(くはりん[やぶちゃん注:ママ。])」と呼ぶ《✕→び》、且つ、「華櫚木」かと、疑-思《うたがひておも》ふは、誤《あやまり》の甚しき者なり。

 

[やぶちゃん注:これは、種同定に――非常に――困った。それは、良安の附言が、我々が現在、「カリン」と認識し、和名を「カリン」とする、

双子葉植物綱バラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensis

ではないと否定し、明確に述べ、キョウレツに指弾しているからである。ウィキの「カリン(バラ科)」に、漢字名を「花梨」「花櫚」「榠樝」としており、「維基百科」の同種の「木瓜(薔薇科)」では、別名「榠楂」とするのだが、この「楂」については、「跡見群芳譜」の「さんざし山楂子)」(バラ科サンザシ属サンザシ Crataegus cuneata 。漢名を「野山樝」とする)の解説の中で、「樝」に就いて、漢語の『樝(サ,zhā)・楂(サ,zhā)・柤(サ,zhā)は、同字として通用している』と述べておられるから、「榠楂」は、イコール、「榠樝」だからである。

 そこで、さらに種々の漢語で検索を掛け続けたところ、「華櫚木」で、図に当たった! 沖中忠一氏の論文「木材製品の研究(一〇)の三――木材の樹種別用途」に決定的な記載があることを見出し、「同志社大学学術リポジトリ」のこちらで入手出来た(『同志社商学』巻 九・二号・一九五七年七月十五日発行所収・PDF:因みに、この発行日は、私が生まれて、丁度、五ヶ月後である)。以下に、当該部分を引用させて頂く。「三 貿易木材」の一節である(「(一三二) 四六」ページ」)。学名は斜体にはなっていない。

   《引用開始》

 一〇七 カリンPterocarpus macrocarpus Pterocarpus indicus 花梨、華櫚木、紅花櫚。心材が白色、心材が黄褐色。伐採後数年間水浸して辺材を腐らして除き去り心材のみを用材とする。原産地はシャム[やぶちゃん注:タイ王国の旧名。]で中部以北の高台や山地のジャングル中に他樹に混って育っている。心材の直径一mにも達する大木も出る。材質は紫檀よりも軽く(比重〇・九)かつ軟いが本材全体から見ると重・硬といわねばならない。大材がでるから用途は他の唐木類よりも大きい物にも向けられる。三弦の胴と棹、楽器部品、家具、器物、彫刻置物などのほか床柱、床縁その他装飾向造作材料に用いられる。例えば三弦棹の材料としては紅木紫檀、古渡以下の紫檀も櫧[やぶちゃん注:カシ。或いはアカガシ。]も花梨も用いられるが紅木紫檀が最高価でこの順である。三弦胴ででは花梨胴が最上等とされる。その他の用途でも花梨は紫檀の下位にある。三弦の場合は鳴り音が特に紅木紫檀が勝れているという事もあるが一般用途では、色沢の相違から花梨が紫檀の下位に見られるらしい。

 唐木商がカリンと称する物以外に別名カラナシ、キボケ、アンラクカ、アンランジュ、木瓜、榠櫨、㮊木李[やぶちゃん注:「ボウボクリ」か。]などと呼ばれて器具材とされる樹がある。これは中国原産の樹であって日本でも栽植されている。この樹は植物分類学ではイバラ科で Cydonia sinensis [やぶちゃん注:科は旧分類で、学名はカリンのシノニムである。]と名付けられ、カリンと呼ばれるが唐木の花梨とは全く別物である。材色は心材が稍[やぶちゃん注:「やや」。]赤褐で、硬く木理緻密で紋理がある。美材であって珍重される。

   《引用終了》

スゴいぞ! これでキマりだッツ!! 則ち、この「花梨」「華櫚木」「紅花櫚」の漢名を持つ種は、

双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連インドカリン属ビルマカリン Pterocarpus macrocarpus

である!!! 当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『ビルマカリン』は英名を『Burma padauk』と言い、別名を『オオミカリン』と言い、『東南アジアの雨緑林に自生する』『広葉樹である。自生地はミャンマー、ラオス、カンボジア、タイ、ベトナムにあり、インドおよびカリブ海に移入されている』。『ビルマカリンは高さが』十~三十メートル『(まれに』三十九メートル『に達するものがある)に成長する中型の木で、幹は直径』一・七メートル『まで太くなる。乾季は落葉する。樹皮は薄片状で灰色がかった茶色である。切ると赤いゴム状の樹脂を分泌する。長さ』二十~三十五センチメートル『の羽状複葉で、小葉は』九~十一『枚』、『つく。花は黄色で、長さ』五~九センチメートル『の総状花序をなす。果実は直径』四・五~七センチメートル『で』、『周囲に丸い翼がついた豆果で』あり、『中に種子が』二『つ』、『または』、三つ』、『入っている』。『木材としては耐久性があり、シロアリにも耐性がある。このため』、『家具、建設用材木、荷車の車輪や工具の柄、支柱などに重用される。実際にはローズウッド』(Rosewoodはマメ目マメ科マメ亜科ダルベルギア連 Dalbergieaeツルサイカチ属 Dalbergia の植物に冠される総称)『ではないが、ローズウッドとして取引されることもある。ビルマカリンの花期は』四『月で、これはミャンマーの新年にあたるティンジャンの時期にあたることから、ミャンマーでは国家の象徴の一つとされている』とあった。ヤッタぜ! ベイビィ! 一件落着!

 なお、言っておくと、当初、ネットを検索するうちに、Woods Hammer氏の驚くべきサイト「カリンとマルメロ(制作中) Pseudocydonia sinensis & Cydonia sinensis 」を見出し、読んでみて、正直、『こりゃ、かなわんな……』と思った。「カリンとマルメロはどのように呼ばれているか」のページを読むと、本項に触れて、『「今,榠櫨を花梨と呼び,これを華櫚木かと思っているのは甚だしい誤りである」と記載されて』おり、『「カリン」の名称は,この木の木目が別の植物である「花櫚」(華櫚木)に似ていることに由来するとのこと。すなわち,カリンと花櫚の区別も注意が必要なのである。』と、非常に慎重な考証が成されてあったからである。しかし、惜しいことに、サイト名に未だ『制作中』ということで、お書きになられた部分だけでは、この私の疑問である「華櫚木」の正体を知り得なかったのである。しかし、非常に素晴らしいサイトなので、是非、読まれたい。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「櫚木(ガイド・ナンバー[086-42a]の以下)の「集解」のほぼメイン全部である。短いので、以下に全文を示しておく(多少、手を加えた)。

   *

櫚木【拾遺】

 集解【藏器曰出安南及南海用作床几似紫檀而色赤性堅好時珍曰木性堅紫紅色亦有花紋者謂之花櫚木可作器皿扇骨諸物俗作花梨誤矣】

 氣味辛温無毒主治産後惡露衝心癥瘕結氣赤白漏下竝剉煎服【李珣】破血塊冷𠻳煮汁熱服爲枕令人頭痛性熱故也【藏器】

   *

「安南《アンナン》」インドシナ半島東岸の狭長な地方。現在のヴェトナムである。その名は唐の「安南都護府」(唐の南辺統治機関)に由来する。唐末、「五代の争乱」(九〇七年〜九六〇年)に乗じて、秦以来の中国支配から脱却した。一時は明に征服されたが、一四二八年(本邦では室町時代の応永三十五年・正長元年相当)独立。十七世紀には朱印船が盛んに出入し、ツーラン・フェフォには日本町が出来た。

「南海」日中ともに、この語は、古代から中世期に於いて、漠然と広域の「東南アジア諸国」を指すことがあった。

「紫檀《したん》」一説に、二種を含むとし、マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連ツルサイカチ属ケランジィ Dalbergia cochinchinensis と、マルバシタン Dalbergia latifolia である。但し、異論を唱える者もあり、それらはウィキの「シタン」を見られたい。

「欅(けやき)」ここは良安の言葉であるから、バラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata でよい。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 樺

 

Kaba

 

かば    𣛛

      【和名加波

       又云加仁波】

【音話】

 

ハアヽ

[やぶちゃん字注:𣛛は底本では悩ましい字で、先ず、(へん)は「木」ではなく、「禾」であり、(つくり)の最下部は「皿」の内部を「人」にしたものである。中近堂版は、まさにその通りに印字されている。しかし、東洋文庫では、この「𣛛」を用いている。「漢籍リポジトリ」で「本草綱目」の影印本の当該部を見ると(単体画像。最終行の「釋名」の下)、それは「𣛛」の(つくり)の下部が、「山」の最終画を除去し、そこに「内」の字のようなものを入れた字体である(電子化では、漢字表記不能となっている)。しかし、実は「𣛛」は「樺」の異体字であり、恐らく影印本の字は「グリフウィキ」のこれであることが、ほぼ判明するのである。

 

本綱樺生遼東及西北諸地其木似山桃色黃有小斑㸃

紅色其皮厚而輕虛軟柔皮匠家用襯鞾裏及爲刀靶之

類或褁鞍弓𩍐或以皮燒烟熏紙或以皮卷蠟可作燭㸃

木皮【苦平】 治黃疽【煎服】時行熱毒瘡及乳癰良

[やぶちゃん字注:「黄疽」は「本草綱目」で確認したところ、「黃疸」の誤字であることが判ったので、訓読では訂した。

五雜組云持官炬者以鐵籠盛樺皮燒之昜燃而無烟也

 新六櫃川の岸に香へるかはさくら散りわかる社とちめ成けれ衣笠内大臣

[やぶちゃん注:この和歌は、下句に誤りがあり、「散りわかる社」(こそ)は「散るこそ春の」が正しい。訓読では訂した。]

△按樺本草未詳何木皮不言其花葉實也而刀靶之靶

 乃鞘歟鞍弓𩍐之𩍐乃鐙歟本朝稱樺者山中單花櫻

 皮也皮色及所使用如上說【詳于山果之下】

 

   *

 

かば    𣛛《カ/ク》

      【和名、「加波《かば》」、

       又、云ふ、「加仁波《かには》」。】

【音「話」。】

 

ハアヽ

 

「本綱」に曰はく、『樺《かば》は、遼東《りようとう》及び西北の諸地に生ず。其の木、山桃《さんたう》に似て、色、黃なり。小斑㸃、有り≪て≫、紅色。其の皮、厚くして、輕-虛《かるく》、軟-柔《やはらか》≪なり≫。皮-匠-家(かはや)[やぶちゃん注:革鞣(かわなめ)し工。靴職人。]、用《もち》ふ。鞾(くつ)の裏に襯(し)く。及び、刀≪の≫靶《つか》[やぶちゃん注:柄(つか)に同じ。]の類に爲《つく》る。或いは、鞍《くら》・弓・𩍐《あぶみ》を褁(つゝ)む。或いは、皮を以つて、燒《やき》、≪その≫烟《けむり》に、紙を熏(ふす)ぶ。或いは、皮を以つて、蠟《らう》を卷《まき》て、燭《しよく》と作《な》し、㸃ずべし。』≪と≫。

『木≪の≫皮【苦、平。】 黃疸を治す【煎じて服す。】。時-行-熱《はやりねつ》・毒瘡、及び、乳癰《にうよう》[やぶちゃん注:乳腺炎。]に良し』≪と≫。

「五雜組」に云はく、『官炬《くわんきよ》を持つ者、鐵籠(ゑじかご)[やぶちゃん注:「衞士籠」。]を以つて、樺≪の≫皮を盛り、之れを燒く。燃(も)へ[やぶちゃん注:ママ。]昜《やす》くして、烟《けむ》り、無し。』≪と≫。

 「新六」

   櫃川(ひつかは)の

        岸に香(かを)へる

       かはざくら

      散るこそ春の

           とぢめ成りけれ

                  衣笠内大臣

△按ずるに、樺《かば》は、「本草」に、何《なん》の木の皮と云ふことを、未だ、詳かにせず[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]。其の花・葉・實を、言はざるなり。而《しか》≪も≫、「刀靶」の「靶」は、乃《すなはち》、「鞘(さや)」か。「鞍弓𩍐」の「𩍐」は、乃《すなはち》、「鐙(あぶみ)」か。本朝に「樺≪の皮≫」と稱するは、山中の「單-花-櫻(ひとへざくら)」の皮なり。皮の色、及び、使用《つかひもちひ》る所、上說のごとし【「山果」の下に詳かなり。】。

 

[やぶちゃん注:「樺」は日中ともに、

双子葉植物綱マンサク亜綱ブナ目カバノキ科カバノキ属 Betula

である。ウィキの「カバノキ属」を引く(注記号はカットした)。『カバ・カンバ(樺)、カバノキ(樺の木)などと総称する。属名の Betula(ベトゥラ)の語源は、瀝青(天然アスファルトやタール、ピッチ)を意味する英語の butumen(ビチューメン)の語源と同じで、オウシュウシラカバ』( Betula pendula(別名シダレカンバ。ヨーロッパに分布するが、本邦のシラカンバ Betula platyphylla と近縁である)『の肥厚した樹皮を煮るとタールを抽出することができることからきている』。『木材としてはしばしばカバザクラ(樺桜)、あるいは単にサクラ(桜)とも呼ぶ。サクラの方がイメージが良いのと、カバがバカに聞こえるから、カバザクラと材木商が言い出したのが始まりとされる。カバザクラと言う名称は、木材商の悪しき習慣とされている』。『世界に約』四十『種、日本に約』十『種がある(分類によって数は一定しない)。落葉広葉樹で、北半球の亜寒帯から温帯にかけて広く分布する。高原の木として知られる』シラカンバや、『亜高山帯のダケカンバ』( Betula ermanii )『が代表的である』。『いわゆるパイオニア樹種の一つであり、日本の寒冷地ではササが密生する無立木地の表土を除去する地ごしらえをすると』、『カバノキ』類『が優占することが多い。葉は黄色く紅葉する』。『木目の美しさでは桜や楢に劣るが、比較的安価であるので家具やフローリング材に、楢や桜の代用品として使用される。廉価な商品に使われることが多い。濃い目に塗装してウオルナットやチークの代用品としてもよく使用される。 ドラムのシェル材としても使われ、おもに中級グレードの機種に採用されることが多い。ただ、傷つきやすいという欠点がある』。以下、独立ページの「樺皮」から引く。『樺皮(かばかわ、birch bark )とは、ユーラシアと北アメリカにある数種のカバノキ属の木の樹皮である』。『丈夫で水に強く、厚紙のような樹皮は、容易に切断され、曲がり、縫い合わされるため、先史時代より、価値のある家屋・工芸品・筆記媒材になっている。今日でも樺皮は、様々な手工芸品や美術品によく用いられる木の一種であり続けている』。『樺皮はまた、医薬的および化学的に有益な物質を含んでいる。それらの生成物(ベツリン』(Betulin:天然に豊富に存在するトリテルペンの一種。カバノキ属の樹皮から単離される)『など)には抗菌性を持つものもあり、樹皮加工物を保護したり、樹皮容器内の食品を保存する助けになっている』。『ネアンデルタール人は、樹皮から得られたタールを接着剤とした』とある。以下、ウィキの「カバノキ属」に戻り、その「種」の項のうち、日本及び中国に分布すると記す種のみをチョイスして以下に並べる。但し、各解説は独自に作成した。中文名は「維基百科」の「樺木屬」を用いた。分布・固有種につては、それ以外に英語の当該種のウィキや学術論文他を参照した。

Betula apoiensis (アポイカンバ:アルタイ共和国・シベリア・モンゴル・中国北東部・朝鮮半島・本邦の北海道に自生する白樺の一種)

Betula austrosinensis (中国固有種:中文名「華南樺」。広東・湖南・広西・四川・貴州・雲南などの標高千~千八百メートルの高地に植生する)

Betula chichibuensis (チチブミネハリ:日本固有種)

Betula chinensis(トウカンバ:中文名「堅樺」。朝鮮、及び、中国の遼寧・山東・甘粛・河南・山西・陝西・黒龍江・河北などに分布)

Betula corylifolia (ネコシデ:日本固有種)

Betula costata (チョウセンミネバリ:中文名「碩樺」:極東ロシア沿海州・中国北東部・朝鮮半島中・北部、及び、日本列島に分布)

Betula dahurica (ヤエガワカンバ :中文名「黑樺」。日本・中国・朝鮮半島・東モンゴル・極東ロシアに分布。当該ウィキがあるが、右標題の学名の綴りを誤っている。なお、本種には変種で、日高地方の新冠町(にいかっぷちょう)の日当たりのよい山地だけに生える北海道固有種であるヒダカヤエガワ Betula davurica var. okuboi がある)

Betula ermanii (ダケカンバ:中文名「岳樺」。日本・千島列島・サハリン・朝鮮半島・中国東北部・内蒙古・ロシア沿海州・カムチャツカなどに広く分布する。本種には品種アツハダカンバ Betula ermanii f. corticosa の他、変種チャボダケカンバ Betula ermanii var. saitoana 、アカカンバ Betula ermanii var. subcordata がある)

Betula fruticosa (中文名「柴樺」。和名コウアンヒメオノオレ:シベリア・極東・北朝鮮・中国の黒竜江省にのみ分布する)

Betula globispica (ジゾウカンバ:日本原産)

Betula grossa (ミズメ:日本固有種。岩手県以南から九州に分布する。無縁な他種と間違える異名が多い。当該ウィキを見られたい)

Betula maximowicziana (ウダイカンバ:日本固有種。北海道と福井県・岐阜県以北の本州に分布する)

Betula middendorffii (ポロナイカンバ:中文名「扇葉樺」。中国の黒竜江省、及び、極東地区・シベリアに分布する)

Betula ovalifolia (ヤチカンバ:サハリン・朝鮮・中国東北・ウスリー、及び、日本の北海道の更別村と別海町にのみ分布する)

Betula platyphylla(シラカンバ:白樺。中文名も同じ。当該ウィキ(注記号はカットした)によれば、『北半球の温帯から亜寒帯地方に多く見られ』、『基変種であるコウアンシラカンバ Betula platyphylla var. platyphylla と』、『それにごく近縁』の『オウシュウシラカンバ Betula pendula は、アジア北東部の朝鮮半島・中国、東シベリア・樺太・ヨーロッパの広い範囲に分布する』。『日本では、変種の Betula platyphylla var. japonica が、本州の福井県・岐阜県以北の中部地方、関東地方北部、東北地方、北海道まで、高冷地の落葉広葉樹林帯と亜高山帯下部に分布する。特に北海道では多く見られる。高原の深山などに生え、日当たりのよい山地に群落を作って自生する。近縁種にダケカンバがあるが、シラカンバは高山には及ばず』、『比較的』、『低地に分布し、ダケカンバは高地に分布する』とある。また、本邦には他に、変種二種、エゾノシラカンバBetula platyphylla var. kamtschatica 、及び、カラフトシラカンバ Betula platyphylla var. mandshurica  が分布する。なお、ウィキの「カバノキ属」の「種」のリストには、同種の変種品種『 Betula platyphylla var. japonica f. laciniata キレハシラカンバ』が載るが、この学名では、ネット検索で分布を記す記載に邂逅出来なかった。)

Betula schmidtii (オノオレカンバ:中文名「賽黒樺」。「維基百科」の「賽黑樺」によれば、『日本・朝鮮・ロシア、中国の吉林省・遼寧省などに分布する』とある。品種 Betula schmidtii f. angustifolia (ホソバオノオレ)は満州地方・朝鮮半島・極東ロシア沿海地方、及び日本が原産である)

Betula szechuanica(シセンシラカンバ(四川白樺):四川省特産)

Betula utilis (ヒマラヤカンバ :中文名「糙皮樺」。アフガニスタン・インド・ネパール・チベット、中国の陝西省・山西省・青海省・甘粛省・河北省・雲南省・四川省・河南省などの標高千七百メートルから三千百メートルの高高度に多く分布する。ヒマラヤ地方では本種の樹皮から紙などを作るという。亜種ベニカンバBetula utilis ssp. albosinensis は中国中西部に分布する。同じく亜種のBetula utilis ssp. jacquemontii ヒマラヤに分布する。ウィキの「カバノキ属」での解説によれば、『日本産のシラカバは冷涼な地域において成長したものでなければ白い樹皮にはならないが』、この後者の亜種は、『暖地であっても幼苗の時点で白い樹皮を持ち、住宅用庭木として用いられる』とあった)

同リストでは、最後に『雑種』として、

Betula × avaczensis オクエゾシラカンバ

が掲げられてあるが、これは「シラカンバ」と「ダケカンバ」の雑種である。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「樺木(ガイド・ナンバー[086-40b]の以下)からのパッチワークである。但し、この項、私がさんざん以上で詳述したのに反し、思ったより、記載が貧弱である。良安が不満たらたらなのも、よく理解出来る。

「山桃《さんたう》」これは注意が必要。本邦の「山桃」であるブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra ではなく(中文名は「楊梅」)、中国原産で絶滅危惧種のバラ目バラ科スモモ属 Prunus 節ロトウザクラ(魯桃桜) Prunus davidiana だからである。「維基百科」の「山桃」を見られたいが、『果肉の味が薄く、食用にならない』とあった(英文ウィキでは『食用になるが、推奨されない』とあった。食の中国人が『不堪於食用』とするからには、かなり不味いものと思われる)。

『「五雜組」に云はく、『官炬《くわんきよ》を持つ者、鐵籠(ゑじかご)[やぶちゃん注:「衞士籠」。]を以つて、樺≪の≫皮を盛り、之れを燒く。燃(も)へ[やぶちゃん注:ママ。]昜《やす》くして、烟《けむ》り、無し。』「五雜組」(同書は複数回既出既注。始動回の「柏」の私の注を参照されたい)のそれは、「中國哲學書電子化計劃」で調べたところ、「卷十」の「物部二」に、

   *

樺木似山桃、其皮軟而中空、若敗絮焉、故取以貼弓、便於握也。又可以代燭。餘在靑州、持官炬者、皆以鐵籠盛樺皮燒之、易燃而無煙也。亦可以覆庵舍。一云、「取其脂焚之、能闢鬼魅。」。

   *

とあった。「衞士籠」は、東洋文庫訳で割注で示されたものを採用した。この語は、小学館「日本国語大辞典」では、『香道で空薫(そらだき)の時に用いる道具。一寸(約三センチメートル)四方の網状のもので銀製。形が衛士のかがり火をたく籠に似るところからいう。針金のかぎに掛け、火鉢などに刺して用いる。えじこ。』とあるが、ここは、まさに本来の、中国の「官」庁等に於いて、夜警用の大型の「炬」火を指しているものと思われる。上記の最後の鬼魅(魑魅魍魎)を退ける呪力を持つというところが、民俗社会の習慣を教えて呉れる。同じことは、「本草綱目」の当該項の最後に『脂主治燒之辟鬼邪【藏器】』とあった。

「新六」「櫃川(ひつかは)の岸に香(かを)へるかはざくら散るこそ春のとぢめ成りけれ」「衣笠内大臣」既出既注。以下の一首は、日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認したが、「第六 木」のガイド・ナンバー「02356」で、作者は鎌倉初期から中期にかけての公卿で歌人の衣笠家良(きぬがさいえよし)の作である。「櫃川」は山科川の古名であるが、主として旧安祥寺川(きゅうあんしょうじがわ:グーグル・マップ・データ。「旧」は現行の正式な川名の一部であるので注意)、及び、山科川下流を指したものらしい。

『「刀靶」の「靶」は、乃《すなはち》、「鞘(さや)」か。「鞍弓𩍐」の「𩍐」は、乃《すなはち》、「鐙(あぶみ)」か』それぞれの漢字を調べたが、良安の推理は当たっている。

「單-花-櫻(ひとへざくら)」単弁の花をつける桜のことで、特定種を指さないが、現在の代表種であるバラ目バラ科サクラ亜科サクラ属又はスモモ属サクラ亜属ソメイヨシノ Cerasus × yedoensis ‘Somei-yoshino’ が生まれたのは江戸後期であり、良安は直前で『山中の』と言っているので、本来の桜であった、花弁が五枚の一重咲きである、サクラ属ヤマザクラ Cerasus jamasakura を指している。

『「山果」の下に詳かなり』本書のずっと後の、「卷第八十七」の「山果類」の「櫻」を指している。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該項をリンクさせておく。解説本文の二行目から、早くも、「皮」の叙述が現われている。]

2024/07/29

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 烏木

 

Kokutan

 

こくたん  烏樠木

      烏文木

烏木   【俗云古久太牟】

 

ウヽ モ

[やぶちゃん注:「樠」は底本では、「グリフウィキ」のこれの十一画目((つくり)の下部の中央の縦画)が下まで貫いている字体だが、表示出来ないので、「樠」で示した。東洋文庫も、中近堂版も、この字を採用している。]

 

本綱烏木出雲南南蠻樹髙七八尺葉似椶櫚其木體重

堅緻色正黑如水牛⻆可爲筯及器物有間道者嫩木也

南人多以檕木染色僞之【檕音計繘耑木也】

[やぶちゃん注:この最後の割注は「本草綱目」の記載にはないので、良安の補正注である。但し、内容が上手く噛み合っていない。後注する。

 按烏木出雲南廣東其性堅實黒色類于⻆俗謂之

 黒檀以爲白檀紫檀等之類非也【檀見于香木下】

[やぶちゃん注:最後の二行は良安の評であるが、頭に「△」がない。これは、私の記憶では、なく、特異点である。単なる脱字であるから、訓読では挿入した。]


黒柹  柿詳于山果類

△按黒柹卽山中椑柹木心也黒色光澤宻理堅硬爲噐

 甚美以亞鐵刀木烏木伹嫩木則色不光黑【鐵刀木見于後】

 

   *

 

こくたん  烏樠木《うまんぼく》

      烏文木《うもんぼく》

烏木  【俗、云ふ、「古久太牟《こくたん》」。】

 

ウヽ モ

 

「本綱」に曰はく、『烏木、雲南・南蠻に出づ。樹の髙さ、七、八尺。葉、椶櫚《しゆろ》に似て、其の木、體、重く、堅(かた)く緻(こまや)かにして、色、正黑。水牛の⻆《つの》のごとし。筯(はし)[やぶちゃん注:箸に同じ。]、及び、器物《うつはもの》に爲《つく》るべし。≪木理(きめ)に≫、間-道(しますぢ)、有る者は、嫩木(わか《ぎ》)なり。南人、多く、檕木《けいぼく/おほさんざし》を以つて、色を染めて、之れを僞る。』≪と≫。【「檕」は音「計」。繘-耑《ゐどのつるべなは》≪の≫木なり。】[やぶちゃん注:既に述べた通り、この最後の割注は「本草綱目」の記載にはないので、良安の補正注である。但し、内容が上手く噛み合っていない。後注する。

△按ずるに、烏木、雲南・廣東《かんとん》に出づ。其の性、堅實にして黒色。≪其の材質は≫⻆(つの)に類す。俗、之れを黒檀《こくたん》と謂ふ。以つて、白檀《びやうくだん》・紫檀《したん》等の類と爲《な》≪すは≫、非なり【檀は香木の下《もと》を見よ。】。


黒柹(くろがき)  柿、山果の類に詳かなり。

△按ずるに、黒柹は、卽ち、山中≪の≫椑-柹(しぶがき)の木の心《しん》なり。黒色、光澤≪あり≫、宻-理《こまやかなるきめ》≪にして≫、堅硬《けんかう》、噐に爲《つくるに》、甚だ、美≪なり≫。以つて、鐵刀木(たがやさん)・烏木(こくたん)に亞《つ》ぐ。伹《ただし》、嫩木(わか《ぎ》)は、則ち、色≪は≫、光《ひかり》≪は≫、黑からず【「鐵刀木」≪は≫、後《あと》を見よ。】。

 

[やぶちゃん注:「こくたん」「烏木(うぼく)」は、あまり認識されているとは思わないが、我々が親しんでいる柿の木=カキノキ科 Ebenaceaeの仲間で、 

双子葉植物綱ツツジ目カキノキ科カキノキ属コクタン Diospyros spp.(英名:Ebony(エボニー))

である。最初に、アカデミックでないと信じない御仁のために、平凡社「世界大百科事典」を引く(コンマは読点或いは中黒に代え、記号も囲み数字にし、一部に「:」を挿入した)。『カキノキ科カキノキ属Diospyrosの樹木には黒色の心材を有するものがあり、これをコクタンと総称する。シタン・タガヤサン・カリン(花櫚)などとともに代表的な唐木(からき)の一つで,床柱・框(かまち)・和机・飾棚・仏壇・茶だんす・細工物・美術工芸品・楽器(ピアノの鍵盤・バイオリンの糸巻など)・箸・そろばん枠などに賞用される。材質が緻密で、気乾比重』〇・八〇~一・四三『(一般には』一・〇五~一・二〇)と、『きわめて重硬である。しかし重硬な割に加工しやすく、狂わない。色調によって通常つぎのように区別される。①本黒檀:全体漆黒色で光沢がある。②縞黒檀:黒色と灰褐色または帯紅褐色が縞をなす。』普通、『やや低く評価される。③青黒檀:やや青緑色を帯びた黒色。光沢は少なく、最も重硬。④斑入黒檀:黒色と黄褐色が大理石またはメノウに似た美しい斑模様をつくる。最も高価』。『カキノキ属には世界の熱帯~亜熱帯を中心として約』五百『種があるが、直径』五十センチメートル『以上の大径となるものが少なく、かつ』、『黒色心材をほとんどもたないものが多い。そのため』、『コクタンを産する樹種は数十種以下に限られる。おもな産地はインド』から『インドシナ・スリランカ・フィリピン・スラウェシ・アフリカ熱帯である。日本のカキやマメガキなどの心材にも黒色の縞模様が認められることがあり、これを〈黒柿〉といって装飾用材として珍重する』とあった。次いで、ウィキの「コクタン」を引く(注記号はカットした)。『熱帯性常緑高木の数種の総称。インドやスリランカなどの南アジアからアフリカに広く分布している。木材は古代から世界各国で家具や、弦楽器などに使用され、セイロン・エボニーは唐木のひとつで、代表的な銘木である』。『樹高』二十五メートル、『幹の直径』一メートル『以上になるが、生育がきわめて遅い。幹は平滑で黒褐色である。葉は長さ』六~十五センチメートル『の長円形、平滑でやや薄いが革質で光沢がある。花は雌雄同株で、雄花は数個から十数個まとまり、雌花は単生する。果実は直径』二センチメートル『くらいで、カキの実を小さくしたような感じであり、食用になる』。以下、幾つかの種がリストされる。

Diospyros ebenum(通称「セイロン・エボニー」、「イースト・インディアン・エボニー」、「本黒檀」:『インドやスリランカ原産。シルクロードの交易品として古くからアジアやヨーロッパで使用されているエボニー。植林も多くされており、木材供給量では最も多い品種』。『エボニーでは最高級とされる』)

Diospyros celebica(通称「マカッサル・エボニー」。『日本国内ではカリマンタン・エボニーと称されることもある』。『縞黒檀』。『インドネシア原産のエボニー。中でもスラウェシ(セレベス)島産のものが有名で、英語圏では同島の中心的な港湾都市であるマカッサルに由来する通称が流通している。縞杢と呼ばれる特徴的な縞模様の木目を有している』)

Diospyros malabarica(「通称「ブラック・アンド・ホワイト・エボニー」、「ペール・ムーン・エボニー」、『斑入黒檀』。『ラオスなどの東南アジア原産のエボニー。白と黒の斑点や縞模様の独特な木目が特徴』)

Diospyros mun (通称「ムン・エボニー」、「ブラック・アンド・ホワイト・エボニー」、『青黒檀』。『ラオスやベトナムなどの東南アジア原産のエボニー。乾燥前の段階では緑色がかっているため』、『日本では青黒檀と呼ばれる』)

Diospyros crassiflora(通称「アフリカン・エボニー」、「ガブーン・エボニー」。『マダガスカルやカメルーン、ナイジェリアなどアフリカ全土に分布するエボニー。木材がギャングの資金源にされやすいことからワシントン条約の附属書IIに登録されている』。『セイロン・エボニーの代替用としてしばし』ば『使われる』)

『コクタンの木材は銘木として古くからよく知られ、製品の素材に用いられる心材の材質の特徴としては漆黒の色合いで』、『緻密かつ重厚かつ堅固である点が挙げられる。 細工用の木材として、家具、仏壇、仏具、建材、楽器、ブラシの柄などに使用される。特にピアノの黒鍵、ヴァイオリンなど弦楽器の指板、三線の棹、カスタネット(打楽器)やチェスの駒などに用いられている』。『木材販売業者界では黒いエボニーほど貴重とされる。そのため、しばしば色の薄い廉価なエボニーを染色加工したり、塗装されたメイプルなどで代替されることがある。こういった行為を一括してエボナイズ(ebonized)と呼ぶ。エボナイズにはタンニンや墨汁、アクリル塗料、酢酸、樹皮、酸化鉄など様々な材料が試されている。エボナイズされた木材は、黒檀の代替品として主にバイオリンなどの廉価な楽器で使用されている』。『マダガスカルでは欧米やアジアで銘木と言われる近縁種の樹木が多く生育していることから、近年』、『木材産業が非常に盛んになっている。 特にアフリカン・エボニーは古くから高級家具や楽器で愛用されているエボニーの近縁種であるため、現地の物価としては非常に高値で取引され、原産国の武装ギャングによって、私有地や国立公園の産業用でない樹木が強奪されることがしばしある。これらの木材のほとんどが中国やヨーロッパの木材販売業者に流れ』、『世界中に流れているとの報告もある。現在、治安の安定化とギャングの資金源を断つために、ワシントン条約の附属書IIに登録されており、加盟国内から輸入する際には生産者の販売証明書類の提出を求められている』。二〇一二『年には、アメリカのギターメーカーであるギブソン社が、現地の木材販売業者から証明書類を取得せずにマダガスカル・エボニーを輸入したとして』三十九『万ドルの罰金を司法当局から命じられている』とある。

 さて、気になっているのは、「本草綱目」も、良安も、植生地を「雲南」としていることであった。おまけに良安は「廣東」まで挙げている。上記の二種の引用にも、「維基百科」の維基百科」の「烏木(紅木)」にも、その「來源物種」の「烏木」にも、「厚瓣烏木」にも、中国を植生域とする記載がないので、ちょっと疑ったのだが、麗澤大学外国語学部教授(中国民俗概論・中国民族文化担当)で中国民俗学・中国民族学専攻にして博士号を持っておられる金丸良子氏にサイト内の「7.烏木(黒檀 ebony wood)」に、『南方アジアに産する、かきのき科の常緑高木。中国では、海南・雲南・広東・広西の地に産する』。『材質は黒色で堅く、美しい光沢が出る。紅木と同様に重質ではあるが、裂けやすく、大木が少ないこともあり、家具材としての利用は多くない。その大部分は、「盒子」などの小さな箱物である。また、淡い色の花梨などの木材と組み合わせるなどの象嵌装飾などが著名である。象・羊・龍などの吉祥物の玩具などがよくみられ、箸・民族楽器の良材でもある』とあったので、目から鱗であった。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「烏木(ガイド・ナンバー[086-40a]の最終行以下)からのパッチワークである。但し、この項、恐ろしく記載が少ない。思うに、時珍は、漢方材としてのそれは入手していたのだろうが、実際のコクタン属の樹木を見ていないのではないかという気が、ちょっとしてきた。全文を、やや手を加えて示す。

   *

烏木【綱目】

釋名烏樠木【樠音漫】烏文木【時珍曰本名文木南人呼文如樠故也】

集解【時珍曰烏木生海南雲南南畨葉似㯶櫚其木漆黒體重堅緻可爲筋及器物有間道者嫩木也南人多以檕木染色僞之南方草物状云文木樹高七八尺其色正黒如水牛角作馬鞭日南有之古今注云烏文木出波斯舶上将來烏文闗然温括婺等州亦出之皆此物也】

氣味【甘鹹平無毒】主治解毒又主霍亂吐利取屑研末温酒服【時珍】

   *

「椶櫚《しゆろ》」通常の漢字表記は「棕櫚」。ヤシ科シュロ属の常緑高木。ここでは、ワジュロ(和棕櫚: Trachycarpus fortunei )とトウジュロ(唐棕櫚: Trachycarpus wagnerianus )の両方を挙げておく。両者の区別は、前者が葉が折れて垂れるのに対して、後者は優位に葉柄が短く、葉が折れず、垂れない。近年、二種は同種ともされるが、園芸では、敢然として区別される。ウィキの「シュロ」によれば、『樹皮の繊維層は厚く』、『シュロ縄として古くから利用されている』。『また、ホウキの穂先の材料として使われる、日本の伝統的な和箒』(わほうき)『の棕櫚箒』(しゅろほうき)『としての利用も一般的である。繊維は菰(こも)の材料にもなる』とある。

「水牛の⻆《つの》のごとし」言わずもがなだが、伐り出した木材の木目や模様が、水牛の牛の角の見た目の模様等が似ているというのである。

「間-道(しますぢ)」「ステッキ専門店【ラカッポ】」公式サイト内の「黒檀(こくたん)について」(材の写真が豊富にあるので必見!)の「②縞黒檀(しまこくたん)」に、『縞黒檀は、スリーキーエボニー、条(しま)黒檀、中国では間道烏木(かんどううぼく)』(☜)『とも呼ばれます。現在一般に黒檀と言えば、戦前から日本ではこの材を指します。インドネシア(ジャワ島)、マレー半島全域、ボルネオ島、特にインドネシア(セレベス島)から産するマカッサルエボニーが有名です。マカッサルとは、インドネシア南スラウェシ州の都市、ウジュンパンダン市の事です』とあり、当該材の写真がある。

「檕木《けいぼく/おほさんざし》」これが、種同定に迷った。東洋文庫もこれについては沈黙しており、ルビさえもない。そこで調べた。例えば、中文の「百度百科」の「檕」では、(1)として「梅」と「山楂」を掲げており、その(2)には、『桔槔上的横木,一端系重物,一端系水桶,可以上下,亦可以转动,用以取物。』とあったのである。私が良安の後にある割注がおかしいと言っているのは、良安は「木」を樹の名前を名指さずに、この字が別に持つところの、「井戸から水を汲むために作られる滑車の附いた釣瓶(つるべ)の装置に於いて、釣瓶と装置を繋げ、汲み上げるための重要な鶴瓶繩を巻き付けて、釣瓶が、その水を入れた重力によって半自動的に巻き上げ、巻き下げをさせる横木」の意味を、そこに書いてしまっているからなのである。いや! そうじゃないだろ! 大事なのは、そんなもんじゃないんだ! 「木」という木の同定種名なのだ! さて、同じ「百度百科」の「檕梅」を確認すると、『即山楂』とある。そこで、「これはサンザシか?」と思って、まず、日本語の当該ウィキを見ると、漢方生剤名「山査子」で、中国中南部原産で、享保一九(一七三四)年に薬用樹木として「小石川御薬園」に持ち込まれたのが最初である、

バラ目バラ科サンザシ属サンザシ Crataegus cuneata

とあった。

「うん? ちょっと待った! 「和漢三才圖會」の成立は 正徳二(一七一二)年だぞ?」

と大不審が起こった。そこで、おもむろに「維基百科」の同じ種であるはずのページを、右上の多言語群から選んで開くと、ビックリ仰天! そこでは、中文名は「山楂」なのだが、学名は、サンザシのそれではなく、

山楂屬山楂 Crataegus pinnatifida

となっているのだ! 種小名が全く違うのだ! シノニムの可能性があるので、調べたら、これが、シノニムじゃあなくて、別種だったのだ! 学名で検索した結果、ぞえぞえ氏のサイト「植物写真鑑」のここで、

オオサンザシ(大山査子)Crataegus pinnatifida

と載っていたのを発見したのだった。そこには、原産地を『中国(東北部、北部)、朝鮮半島、アムール、ウスリー』とあった。勘弁してよ! 良安センセー!

「白檀《びやうくだん》」双子葉植物綱ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album

「紫檀《したん》」一説に、二種を含むとし、マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連ツルサイカチ属ケランジィ Dalbergia cochinchinensis と、マルバシタン Dalbergia latifolia である。以上の「白檀」と、これは、先行する「香木類 檀香」の私の注を転写した。

但し、異論を唱える者もあり、それらはウィキの「シタン」を見られたい。

「黒柹(くろがき)」小学館「日本国語大辞典」によれば、特定種ではなく、ツツジ目カキノキ科カキノキ属カキノキ Diospyros kaki 、或いは、変種ヤマガキ Diospyros kaki var. sylvestris の『柿の木の心材が暗紫色のものをいう。毛柿に多く、俗に黒檀(こくたん)と称して建築や工芸材として珍重する』とあり、既に「和名類聚鈔」に載っていることが判った。サイト「GRAXEN japanの「黒柿」のページがよい(写真豊富)。『通常の柿の木は製材した際、橙色〜淡黄色に近い色味をしています』。『しかしながら、稀に墨色のような黒色が樹の中心部に入ることがあります。これを黒柿と呼びます』。『黒柿が出る確率は』一『万本に』一『本とも言われ、非常に貴重で高価な存在です』とあった。スゲーなッツ!

「柿、山果の類に詳かなり」ずっと後なので、中近堂版で、わんさかある「柹」の冒頭をリンクしておく。本「黒柹」はここの「椑柹」で立項されてある。

「鐵刀木(たがやさん)」先の紫檀・黒檀とともに「三大唐木(とうぼく)銘木」の一つに数えられるマメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサンSenna siamea 。材は漢名「鉄刀木」が示す通り、硬くて重く、耐久性があり、木目が美しい。

『「鐵刀木」≪は≫、後《あと》を見よ』同じく中近堂版で示しておく。右ページの「たがさん 鐵樹」で表題の下に異名で「鐵刀木」を確認出来る。]

平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之六〔六〕石佛のばけたる事 / 平仮名本「因果物語」(抄)~了

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を見られたい。この回の底本はここから。次のコマの右丁に挿絵がある。挿絵には、右上方に枠入りで「京さかもと町」というロケーション・キャプションが書かれてある。また、最後に語られる「水筒桶」も左下方に描かれてある。現在の京都御苑の南直近の中京区坂本町(さかもとちょう:グーグル・マップ・データ)。冒頭、「同じ京の」とするが、これは、前話「因果物語卷之六〔五〕狐產婦の幽㚑に妖たる事」が、同じく京都をロケーションとしていたからである。

 なお、本篇を以って、平仮名本「因果物語」(抄)を終わる。]

 

Sekibutubake

 

因果物語卷之六〔六〕石佛(いしぼとけ)のばけたる事

 

 おなじ京の坂本町に、牢人(らうにん)の侍りしが、よそへ、ゆきて、夜《よ》ふけて、かへりしに、雨、すこしふりて、又、はれたり。

 からかさを、かたげて、橫町(よこ《まち》)の小門《こもん》をとをり[やぶちゃん注:ママ。]しに、門の上のかもゐ[やぶちゃん注:「鴨居」。但し、この場合は、横町の入り口に設けられた防犯用の大木戸の脇の通用の潜り門の上の横梁を指す。]に、からかさ、

「ひし」

と、とりつきたり。

『ふしぎ。』

に、おもひて、ひけども、ひけども、はなれず。

 やうやう、ひきとりて、家にかへりて、みれば、からかさの「かしら」を、つかみまくり侍り。

[やぶちゃん注:「かしら」唐傘の頭頂部の骨の結集部は単に「頭・天」(ともに普通は「あたま」と読む)・「天上」、或いは、それらに「轆轤(ろくろ)」をつけて呼称した。

「つかみまくり侍り」頑丈な「あたま轆轤」が、根こそぎ、剝ぎ取られてれて御座った。]

 此のおとこ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、

「くちおしき[やぶちゃん注:ママ。]事かな。『ばけ物に、「からかさ」、とられたり。』と、人にわらはれんも、はづかし。今、一度、行《ゆき》て、ためしに、せん。」

と、おもひ、刀《かたな》・わきざし、よこたへて[やぶちゃん注:しっかりと帯刀して。「家に置いて」ではない。異変にそんな物騒な軽装では行かない。]、ゆきければ、なには[やぶちゃん注:ママ。「なにかは」の脱字であろう。]しらず、長《たけ》九尺ばかり[やぶちゃん注:約二・七三メートル弱。]の、大入道《おほにふだう》、出《いで》て、かいなを、とらへて、ねぢあげ、兩(りう[やぶちゃん注:ママ。])こし[やぶちゃん注:腰に帯刀していた二本差し。]を、もぎとり、つきはなして、かきけすやうに、うせにけり。

 このおとこ、兩こしを、とられ、ちからなく、家にかへり、わづらひつきて、卅日《さんじふにち》ばかり、なやみけり。

 その夜のあけがた、橫町(よこまち)の水筒桶(すいどうをけ)の上に、「十《じふ》もんじ」にして、のせて有《あり》けり。

 其後も、たびたび、あやしき事共《ども》の有《あり》しが、

「水桶(《みづ》をけ)の下に、年久しき『石ぶつ』を、しきて、おきたりし。さだめて。此の、わざにや。」

とて、ほりおこして、「大炊(おほゐ[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「おほひ」が正しい。])の道場(どうぢやう)」へ、おくり侍りし。

「それよりのちは、何事も、なかりし。」

と、嶋(しま)彌左衞門(やざゑもん)、物がたりなり。

[やぶちゃん注:「大炊の道場」岩波の高田先生の脚注に、『中京区大炊町にあった浄土真宗聞名寺をさす』とあった。平凡社「日本歴史地名大系」の「大炊道場跡」「おおいどうじようあと」によれば、京都市中京区の旧銅駝(どうだ)学区の行願寺門前町にあった大炊道場跡は、『寺号を』聞名寺(もんみょうじ)『と称し、時宗遊行派の道場であった。貞享二年(一六八五)刊の「京羽二重」は』『、その場所を「京極ゑひす川」と記す。「山城名勝志」は京極』『東春日(かすが)南とするが、貞享三年の京大絵図は』、『現京都市中京区行願寺門前(ぎようがんじもんぜん)町辺りに描く。大炊道場は、もと大炊御門大路北、室町』『西(現中京区)にあって、今に道場町の町名を残す。この地は光孝天皇の小松』『殿跡と伝え、道場内に光孝天皇の位牌石塔などがあった』とある。現行の同寺は、京都府京都市左京区東大路仁王門上る北門前町のここ(グーグル・マップ・データ)にあり、サイト「京都風光」のこちらに詳しい。

 これを以って、私の怪奇談蒐集の道程の半ばを過ぎた感が、今、している。

2024/07/28

平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之六〔五〕狐產婦の幽㚑に妖たる事

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を見られたい。この回の底本はここから。その左丁に挿絵がある。挿絵には、右上方に枠入りで「京はなたて町」というロケーション・キャプションが書かれてある。本文では「立花町」となっているが、これは現在の京都府京都市中京区花立町(はなたてちょう)であろうから(グーグル・マップ・データ)、このキャプションの方が正しいと言えよう。今回は、「……」を一部で用いた。]

 

Sanpukitune

 

因果物語卷之六〔五〕狐(きつね)、產婦(うぶめ)の幽㚑(ゆうれい)に妖(ばけ)たる事

 寛永二年[やぶちゃん注:一六二五年。]のころ、京にのぼりて、逗留(とうりう)せし時、二村(ふたむら)庄二郞、語られしは、

……此ごろ、きどく[やぶちゃん注:「奇特」。滅多に聴かぬ、非常に不思議で異常なこと。]なる事、あり。

 立花町といふ所に、白かね屋与七郞といふものゝ女房、難產(なんざん)して、死(しに)侍り。

 その夜より、かの女房の「ばうこん[やぶちゃん注:「亡魂」。]、「產新婦(うぶめ)」に成《なり》て、うらのかたなるまど[やぶちゃん注:「窓」。]のもとへ來《きた》り、赤子(あかご)を、なかせけり。

 すさまじき事、かぎり、なし。

 あたりちかきもの共《ども》、わかき女わらはどもは、おそろしがりて、日《ひ》だに、暮《くる》れば、戸を、さしかためて、かほ[やぶちゃん注:「顏」。]をも、さしいださず。

 与七郞、

『口おしき[やぶちゃん注:ママ。]事。』

に、おもひ、寺の長老を、たのみ、仏事を、いとなみ、山ぶしを、かたらひて、いろいろ祈禱いたしけれども、すこしも、しるし、なし。

[やぶちゃん注:「長老」岩波文庫の高田氏の脚注に、『禅宗では寺の住持。もしくはその上位の老僧。』とする。

「山ぶし」同前で、『里山伏。修験道から派生した、民間呪術者』とある。]

 毎夜、來りて、なきけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、与七郞は、となりへ、まゐりて、かき[やぶちゃん注:「垣」。]の、ひまより、うかゞひ見れば、まことの「うぶめ」にては、なくして、大いなる「ふるぎつね」なり。

「にくき事かな。」

とて、半弓(はんきう[やぶちゃん注:ママ。そのまま「はんきゆう」でよい。])をもつて、射(い)ければ、ねらひ、はづして、「きつね」の、うしろあしに、たちけり。

 あとかたなく、にげうせてより、「うぶめ」は、二《ふた》たび、きたらず。

 四、五日ほど、ありてのち、かの「きつね」、与七郞に、つきて、口ばしり、

「いかに。わが、あそぶところを、弓にて、射(い)ける事の、はら立《はらだたし》さよ。それが、よきか、これが、よきか、」

と、いふて、さまざま、くるひけり。……

「のちに、与七郞は、死(しに)にけり。」

と、申されし。

[やぶちゃん注:「產新婦(うぶめ)」私の記事では、四十件に上る記載がある。その中でも、古い部類に入るもので、ガッチりとマスに注してあるものとしては、

『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姬(3) 產女(うぶめ)』

がよいだろう。以下、時系列で並べると、

宿直草卷五 第一 うぶめの事

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十六 難產にて死したる女幽靈と成る事 附 鬼子を產む事」

奇異雜談集巻第四 ㊃產女の由來の事

等が、それなりに読める内容であり、私も同等の注を附してあるので、見られたい。一応、ウィキの「産女」をリンクしては、おく。

「毎夜、來りて、なきける」ここに高田衛氏は脚注して、『其の声、『をばれう、をばれう』と鳴くと申しならはせり」(『百物語評判』巻二の五)。』とされておられる。私の「古今百物語評判卷之二 第五 うぶめの事附幽靈の事」を見られたい。

「半弓」常の弓より短い長さの弓(全体に半分くらい)で、低い位置で、座位でも射ることが出来、室内での待ち伏せなどにも用いる。しかし、またしても、絵師がアカンな。この弓は普通の大きな弓だ。因みに、矢は、鳥獣を射る雁股(かりまた)である。


「それが、よきか、これが、よきか、」最後の台詞は、恐らく、古い狐の鳴き声のオノマトペイアである「こんくわい、こんくわい、」をインスパイアしたものであろう、と私は思う。

平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之六〔四〕非分にころされて怨をなしける事

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を見られたい。この回の底本はここから。本話には挿絵はない。標題の「非分に」は、この場合は、「不当に」の意。]

 

因果物語卷之六〔四〕非分《ひぶん》にころされて、怨(うらみ)をなしける事

 伊駒讚岐守(いこまさぬきのかみ)家中に、山口彥十郞といふ侍(さぶらひ)、有《あり》けり。

[やぶちゃん注:「伊駒讚岐守」岩波文庫の高田氏の脚注に、『高松藩主生駒讃岐守高俊』(慶長一六(一六一一)年~万治二(一六五九)年)。『寛永十七』(一六四〇年)『年三十歳の時、家中不取締りによって、城地召しあげのうえ、出羽国由利へ迫放された。』とあった。当該ウィキ、及び、ウィキの「生駒騒動」を参照されたい。元凶は高俊の度を外れた男色嗜好で、藩政を顧みなかったことに起因する。]

 とし久しく、奉公をつとめしか共《ども》、つひに[やぶちゃん注:ママ。]、知行(ちぎやう)の加增(かぞう)も、なかりしかば、彥十郞、

「くちおしき[やぶちゃん注:ママ。]こと也。われより、後に出《いで》たるもの共、大かた、立身(りつしん)するもの、おほきに、みな、これらに、こえられける事こそ、やすからね[やぶちゃん注:面白くないことだ。]。」

とて、述懷(じゆつくわい)いたし、(ぶはうかう)になり侍り。[やぶちゃん注:「無奉公」城への出仕を一切しないことを指す。]

 讚岐の守、大きに、はらだち、にくみて、とらへて、「しばりくび」にせられ、女房・子共《こども》まで、みな、ころされたり。

[やぶちゃん注:「しばりくび」「絞り首」。高田氏の脚注に、『罪人を後ろ手に縛り、首を前にのべさせて斬首する刑。庶人、下民に対する処刑法。』とある。]

 彥十郞、今を「さいご」[やぶちゃん注:「最期」。]のときに、いたつて、大いに、いかつて、いはく、

「それがし、述懷奉公いたしける事は、身におぼえたる科(とが)なれば、ちから、なし。わが妻子(さいし)は、科(とが)、なし。いかでか、ころし給ふべきや。いはんや、侍ほどの者を、切腹(せつぷく)せさせずして、しかも、『しばりくび』にせらるゝ事こそ、やすからね。」[やぶちゃん注:「述懷奉公」同前で、『公然とお上の非を訴えること。』とある。]

とて、又、うしろ、むきて、「太刀どり」[やぶちゃん注:首斬り役人。]、橫井(よこゐ)二郞右衞門を、

「はた」

と、にらみ、

「かまへて、切(きり)そこなふな。よく、きれ。ちかきうちに、わが此《この》念力《ねんりき》、むなしからずば、しるし、あるべし。」

と、いふ。

「心得たり。」

とて、くびを、うちをとし[やぶちゃん注:ママ。]ければ、二、三間(げん)[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]ばかり、

「ころころ」

と、まろびて、こなたへ、切口(きりくち)、すはりて、まなこを見すへ[やぶちゃん注:ママ。]、橫井(よこゐ)を、

「きつ」

と、にらみて、目を、ふさぎけり。

 二郞右衞門、家に、かへりてより、狂乱(けうらん[やぶちゃん注:ママ。「きやうらん」が正しい。])して、立居(たちゐ)・ねおきに、山口が「くび」、血まなこになりて、にらみ、面《おも》かげに立ちて、はなれず。

 橫井、大いに、口《くち》ばしり、刀(かたな)を、ぬきて、切《きり》めぐりけるほどに、一門のもの共《ども》、めいわくして、やうやう、かたなは、うばひとりけり。

 其後《そののち》は、

「あれ、あれ、彥十郞よ、われは、殿《との》のおほせによりてこそ、打ちたれ、ゆるし給へ、ゆるし給へ、」

と、いふて、手を、あはせ、あがきて、七日《なぬか》といふに、死(しに)けり。

 其後、彥十郞がばうれゐ[やぶちゃん注:ママ。「亡靈(ばうれい)」。]、つねのごとく、はかま、かたぎぬ、きて、刀、わきざしを、さし、家中(かちう)の傍輩(はうばい)の目に、見ゆる事、たびたび也。

 これに行《ゆき》あふ人は、そのまゝ、ふるひつき、わづらひ出《いだ》して、ほどなく、死(し)するもの、十四、五人に汲べり。

「これは、きどく[やぶちゃん注:「奇特」。滅多に聴かぬ、非常に不思議で異常なこと。]の事也。」

とて、家中より、「そせう」[やぶちゃん注:ママ。「訴訟」。ここは嘆願・哀訴の意。]を、いたし、山口があとを、とぶらはせらるゝに、しばしば、亡䰟(ばうこん)[やぶちゃん注:「䰟」は「魂」の異体字。]も、なだみけるか[やぶちゃん注:「宥(なだ)みけるか」。慰霊に効果があって、怒りや不満などを和らげられ、静められたものか。]、と、おぼえて、

人の目には、見えざりしかども、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、家中のながやのうち、ことの外に、屋嗚(やなり)、いたし、城中(じやうちう)の大木《たいぼく》、風、もふかざるに、うちをれ、其外、色々、あやしき事共《ことども》、おほかりけり。

 讚岐守も、よこしまなる心、出來《いでき》て、いくほどなく、身上《しんしやう》、はてけり。

「山口が『ばうこん』の、うらみなり。」

と、諸人《しよにん》、申《まうし》あひけり。

[やぶちゃん注:「いくほどなく、身上《しんしやう》、はてけり」「生駒騒動」は寛永一〇(一六三三)頃が震源で、寛永十二年から寛永十六年にかけて泥沼状態となり、幕府による生駒讃岐守高俊の改易・流罪は寛永一七(一六四〇)年七月二十六日であるから(「身上」「はてけり」はこの結末を指していると考えてよい)、この話の時制は、寛政十四、五、六年辺りを設定しているものかと推定される。なお、高俊は流配地である出羽国由利郡にて享年四十九で亡くなっている。]

平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之六〔三〕家の狗主の女房をねたみける事

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を見られたい。この回の底本はここから。本話には挿絵はない。]

 

因果物語卷之六〔三〕家(いへ)の狗(いぬ)、主(しう)の女房を、ねたみける事

 津の国、兵庫(ひやうご)のあたりに、長七といふものあり。大坂より、酒を、とりよせて、あきなふ。

 親は、ちかきころ、二人ながら、死《しに》けり。

 長七は、いまだ、女房も、なし。

「さびしき、たよりの、なぐさみになるもの。」

とて、吠可(べいか)の女狗(めいぬ)を、もとめ、さまざま、藝(げい)を、させて、ことのほかに、かはゆがり[やぶちゃん注:ママ。]、かひけり。

[やぶちゃん注:「吠可(べいか)」岩波文庫の高田衛氏の注に、『矮狗(べいか)。狆(ちん)のような小型の犬。愛玩用の犬。』とある。「吠」の方には慣用音として「ベイ」があるが、「矮」にはないので当て字。しかし、「吠」と「矮」を見れば狆らしい。当該ウィキによれば、狆の『文字は和製漢字で』、『屋内で飼う(日本では犬は屋外で飼うものと認識されていた)犬と猫の中間の獣の意味から作られたようである』とあった。因みに、私が最も生理的に嫌いな犬種である。]

 夜には、ふところに、ねさせ、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、わが朝夕、食(しよく)をいるゝ御器(ごき)[やぶちゃん注:人用の食器。]に、食を、いれて、くはせけり。

 

「さても、いつまで、獨りずみせらるべきや。女房を、むかへよ。」

とて、友だち、媒人(なかうど)して、あたりの人の娘を、よばせけり。

 此《この》女房をむかへしより、かのいぬ、今の女房に、ほえかかり、くらひつかんと、するほどに、

「これは。さだめて、見しらぬゆへ[やぶちゃん注:ママ。]なるべし。」

とて、さまざま、食物を、あたへ、ちかづくれども、くひも、くはず、すこしも、なつかず、ほえかゝる事、ひま、なし。

 あるとき、女房、昼(ひる)ねしてありしを、かのいぬ、ねらひよりて、のどぶえに、とびかゝりしが、おとがひ[やぶちゃん注:「頤」。]に、せかれて、小袖の袵(えり)を、くらひ、やぶる。

 女房、

「これにては、此の家に堪忍(かんにん)なりがたし。いとまを、たまはれ。」

とて、

「出《いで》て、ゐな[やぶちゃん注:ママ。「去(い)な」。]ん。」

といふ。

 「さらば、此いぬを、よそに、つかはせ。」[やぶちゃん注:「さらば」は、前の意を含みつつ、離縁するのが厭ならば、「では、」の意であろう。但し、岩波文庫版では、地の文としてある。しかし、それでも座りが悪い単語である。この発言は、女房のそれとしか、私は、採れない。]

と、いへども、

「さやうのいぬは、おそろし。」

とて、『もらはん』といふ人も、なし。

「しからば、すてよ。」

とて、里とをく[やぶちゃん注:ママ。]、すつれば、人より、さきに、かへる。

 西国舟《さいごくぶね》に、のせて、やりぬれば、海へ、とび入《いり》て、をよぎ[やぶちゃん注:ママ。]かへる。

「いまは。すべきやう、なし。」

とて、いぬを、つなぎ、壁(かべ)に、ひきとをし[やぶちゃん注:ママ。]て、くびを、しめころして、木のもとに、うづみけり。

「今は、心やすし。」

とて、月日をかさぬるところに、女ばう、たゞならず、わづらひしが、「くわいにん」して、十月(とつき)になり、すでに產(さん)のけ、つきて、なやみける事、五日ばかりにて、やうやう、生れたり。

 その子を、みれば、かたちは、女子《をなご》にて、人のごとくなりけれども、手足にも、身にも、

「ひし」

と、毛(け)、をひ[やぶちゃん注:ママ。]て、そのなくこゑ、いぬのごとし。

 親ども、大いに、はぢ、おどろきけるが、此《この》子、いくほどなく、死(しに)けり。

 さまざま、とぶらひければ、其後は、別の事、なかりき。

 

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 蘓方木

 

Suou

 

すはう  蘇木

     【和名須房】

蘓方木

 

ソウ ハン

[やぶちゃん注:標題中の「蘓」は「蘇」の異体字。但し、底本では、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、最も近い異体字である「蘓」を使用した。下方の異名、及び、本文では、良安は、引用でも、評でも、以下をご覧の通り、通常の「蘇」を使用している。]

 

本綱南海島有蘇方國其地產此木故名今人呼爲蘇木

爾崑崙交趾暹羅多有特暹羅國賤如薪其樹類槐葉如

楡葉而無澀抽條長𠀋許花黃子青熟黒其木煎汁染絳

色忌鐵噐則色黯其木蠧之糞名曰紫納

木【甘鹹】 破血治產後血脹及月經不調排膿止痛消癰腫

 撲損瘀血及三陰經血分藥【少用則和血多用則破血】凡使去上粗

 皮幷節【若得中心文橫如觜⻆者號曰木中尊其力倍常】

 金瘡接指凡指斷乃刀斧傷者【蘇方末敷之外以蠺繭包縛完固數日如故】

[やぶちゃん字注:「蠺」は「蠶(蚕)」の異体字。実際には、底本では、「グリフウィキ」のこれ(上部の二つの「天」が、ともに「夫」)であるが、表示出来ないので、最も近いこれに代えた。]

△按蘇方暹羅咬𠺕吧交趾東京六甲柬埔寨等之南方

 多將來之煎汁染帛及紙絳色次于紅花

 倭有蘇方木樹皮濃白色葉似菝葜葉而薄有光伹葉

 莖長三月有花淡紫攅生大可麥粒結莢狀似紫藤子

 而小中有細子春種子生然未見大木故不知其汁染

 物否今所圖𢴃本草必讀之繪此與倭蘇方不遠伹本

 草綱目所言花實異而已疑倭曰蘇方者卽紫荊也【詳于灌木類紫荊下】

 

   *

 

すはう  蘇木《そぼく》

     【和名、「須房(すはう)」。】

蘓方木

 

ソウ ハン

 

「本綱」に曰はく、『南海≪の≫島に「蘇方國《すはうこく》」有り。其の地に此の木を產する。故《ゆゑ》、名づく。今の人、呼《よんで》「蘇木《そぼく》」と爲すのみ。崑崙《こんろん》[やぶちゃん注:中国の三国時代以後に現在のベトナム・カンボジア・マレー半島などを包含する南海地方を指す呼称。東洋文庫では、『(マレー半島)』と割注する。以下に確かにそれらの国が示されているので、そこに限定しても問題はない。]・交趾(カウチ)[やぶちゃん注:現在のベトナム。]・暹羅(シヤム)[やぶちゃん注:現在のカンボジア。]に、多《おほく》有り。特に暹羅國には賤(やす)きこと、薪《たきぎ》のごとし。其の樹、槐《えんじゆ》の類にして、葉、榆《にれ》のごとくして、澀《そふ》[やぶちゃん注:音(漢音)の現代仮名遣は「ソウ」。既出既注だが、再掲すると、これは葉にある葉脈が網目状になっている網脈のことを指す。これがない植物の葉は少数派である]、無し。條《えだ》、抽《ぬきんでる》こと、長さ一𠀋許《ばかり》。花、黃なり。子《み》、青く、熟せば、黒し。其の木の煎汁《せんじじる》、絳色《あかいろ》を染む。鐵噐を忌む。則ち、色、黯《くろ》し。其の木≪の≫蠧《きくひむし》の糞、名づけて「紫納《しなう》」と曰《い》ふ。』≪と≫。

『木【甘、鹹。】 血を破り、產後≪の≫血脹《けつちやう》、及び、月經≪の≫調はざるを治≪す≫。膿《うみ》を排《を[やぶちゃん注:ママ。]》し、痛《いたみ》を止《とめ》、癰腫《ようしゆ》・撲損《うちきず》・瘀血《おけつ》を消す。乃《すなはち》、三陰經≪の≫血分の藥≪なり≫【少し、用ふれば、則ち、血を和す。多用≪すれば≫、則ち、血を破る。】。凡そ使《つかふ》に、上の粗皮(あら《かは》)、幷《ならびに》、節《ふし》を去る【若《も》し、中心≪の≫文《もん》、橫《よこた》はり、觜《くちばし》・⻆《つの》のごとくなる者≪を≫得≪ば≫、號して、「木中尊《もくちゆうそん》」と曰ひて、其の力、常に、倍す。】。』≪と≫。

『金瘡≪の≫指を接(つ)ぐ。凡そ、指、斷《たちきれ》≪たる≫、及び、刀・斧にて傷《きずせ》らる者≪たり≫【蘇方の末《まつ》[やぶちゃん注:粉末。]、之れを敷《しきのべ》、外《そと》≪を≫、蠺《かひこ》の繭《まゆ》を以つて、包み縛り、完《まつたき》≪に≫固《かため》、數日《すじつ》≪にして≫、故《もと》≪のごとし≫】。』≪と≫。

△按ずるに、蘇方、暹羅(シヤムロ[やぶちゃん注:この表記もある。])・咬𠺕吧(ジヤカタラ)・交趾(カウチ)・東京(トンキン)・六甲(ロツコン)・柬埔寨(カボチヤ)等の、南方より、多く、之れを將來す。汁に煎じ、帛《ぬの》及び紙を染≪む≫。絳(もみ)色[やぶちゃん注:深紅色。]≪にして≫、紅花《べにばな》に次ぐ。

 倭に、「蘇方≪の≫木」、有り。樹の皮、濃(こまや)かにして、白色。葉、「菝葜(じやけついばら)」の葉に似て、薄く、光《ひかり》、有り。伹《ただし》、葉・莖、長し。三月、花、有り、淡紫、攅(こゞな)りて生ず[やぶちゃん注:密集して咲く。]。大いさ、麥粒可《ばかり》。莢《さや》を結ぶ、狀《かたち》、紫-藤-子(ふじのみ)に似て、小さく、中、細≪かき≫子《たね》、有り。春、子を種《うう》≪れば≫、生ず。然れども、未だ、大木を見ず。故《ゆゑ》≪に≫、知らず、其の汁≪をして≫、物を染≪むるや≫否や≪を≫。今、圖する所は、「本草必讀」の繪に𢴃《よ》る。此れと、倭の蘇方と、遠≪から≫ず。伹《ただし》、「本草綱目」に言ふ所≪の≫花實《くわじつ》、異《こと》なるのみ。疑ふ≪らく≫は、倭に「蘇方」と曰ふ者、卽ち、「紫荊《しけい》」なり【「灌木類」の「紫荊」の下《もと》に詳かなり。】。

 

[やぶちゃん注:この「本草綱目」の記載の「蘓方」=「蘇方」と、良安が言っている、日本にある「蘇方の木」=「紫荊」は、全くの別種である。本物の「蘇方」は、本邦には植生しない、

双子葉植物綱マメ目マメ科ジャケツイバラ(蛇結茨)亜科ジャケツイバラ連ジャケツイバラ属スオウ Biancaea sappan

である。「維基百科」の「蘇木(植物)」もリンクさせておく。そこでは、異名として『櫯木:櫯枋・蘇枋・蘇方・蘇方木・蘇枋木・紅紫・赤木』を挙げ、『薬として使用されるだけでなく、端午節の団子の中身としても使用される』とあった。良安が葉が似ているとした「菝葜(じやけついばら)」は同属のジャケツイバラ Biancaea decapetala であるから、ごく微かに掠った感じではある。

 一方、良安のそれは、マメ科 Fabaceaeではあるが、スオウとは全く異なる、中国原産の、

マメ科ハナズオウ(花蘇芳)亜科ハナズオウ属ハナズオウ Cercis chinensis

である。「維基百科」の同種のページ「紫荊」もリンクさせておく。

 まず、本邦には植生しない真正の「スオウ」を、ウィキの「スオウから引く(注記号はカットした)。漢字表記は『蘇芳、蘇方、蘇枋』で、『インド、マレー諸島原産で』、『ビルマから台湾南部にも分布し、染料植物として利用される』。『種小名 sappan 、英名 sappan (wood) は、マレー語の sapang に由来する。漢名・和名(歴史的仮名遣いではスハウ、拼音: sūfāng)も同じ系統の言葉である』。『心材は蘇木(ソボク、スボク)、蘇方木(スオウボク)と呼ばれる』。『花は黄色』、五『花弁、円錐花序。枝に棘がある。成長すると樹高は』五『メートルほどに達する』。『心材や莢からは赤色の染料ブラジリン』(Brazilin:名称は、新世界で発見された南アメリカブラジル東部原産の、一五四〇年に学術的に報告された同じジャケツイバラ連 Caesalpinieaeの Paubrasilia 属ブラジルボク Paubrasilia echinata に由来する)『が取れ、その色は蘇芳色と呼ばれる。飛鳥時代から輸入され、公家の衣服の染色に使用された。東南アジアと日本間の朱印船貿易でも交易品として扱われている』。『漢方薬として駆瘀血』(くおけつ:血液の欝滞を去り、血の流れを改善して、解毒する効果持った処方剤)、『通経、鎮痛、抗炎症薬、産後悪阻、閉経、腹痛、月経不調、癰痛、打撲傷などに用いる』とあり、わざわざ、『また、似た名の種にハナズオウがあるが、こちらは近縁ではない。ハナズオウは春先に咲く花を鑑賞する目的で栽培される花木であり、染料は採らない』と注記する。

 では、次に、ウィキの「ハナズオウを引く(同前)。『中国原産の』『落葉小高木で』、『春に咲く花が美しいため、庭などによく植えられる。別名、ハナズホウ、スオウバナ(蘇芳花)とも呼ぶ。和名の由来は、花の色がマメ科の染料植物スオウで染めた蘇芳染(すおうぞめ)の汁の色に似ていることによる。中国名は紫荊』。『日本には北海道、本州、四国、九州に分布する。 高さは』二~三『メートル』『になる。樹皮は灰褐色で皮目は多いが、生長に関わらず』、『ほぼ滑らかである』。『若い枝は淡褐色で皮目が目立ち、ややジグザグ状になる。葉は』五~十『センチメートル』『のハート形でつやがあり、葉縁が裏側に向かって反り返る独特の形をしている。葉柄の両端は少し膨らむ。秋の紅葉は黄色系に染まり、黄色と褐色のモザイク模様なったり』、『様々な変化を見せながら、葉が散るころには褐色になる』。『早春に枝に花芽を多数つけ』四~五月頃、『葉に先立って開花する。花には花柄がなく、枝から直接に花がついている。花は紅色から赤紫色(白花品種もある)で長さ』一センチメートル『ほどの蝶形花。開花後、長さ数』センチメートル『の豆果をつけ、秋から冬に赤紫色から褐色に熟す』。『冬芽は鱗芽で、葉芽は卵形、花芽はブドウの房状に小さな蕾が多数集まる特徴的な形をしている。枝先につく仮頂芽は葉芽で、花芽はそれよりも下につく。側芽は枝に互生する。冬芽の芽鱗の数は、葉芽が』五~六『枚、花芽の蕾は』二『枚つく。葉痕は半円形で維管束痕が』三『個つく』。『早春に咲く赤紫色の花とハート形の葉が好まれ、公園樹や庭木によく利用される』。『ハナズオウ属は北半球温帯に数種が分布する。地中海付近原産のセイヨウハナズオウ( C. siliquastrum )は落葉高木で高さ十メートル『ほどになり、イスカリオテのユダがこの木で首を吊ったという伝説から』「ユダの木」『とも呼ばれる。このほかアメリカハナズオウ( C. canadensis )などが栽培される』とあった。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「蘇方木(ガイド・ナンバー[086-38b]以下)からの例の通りのパッチワークである。

「蘇方國《すはうこく》」マレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家旧マラッカ王国(一四〇二年~一五一一年:ポルトガルにより占領)。但し、李時珍は一五一八年生まれであるから、既に過去の話である。

「槐」双子葉植物綱バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 先行する「槐」を参照されたい。

「榆」双子葉類植物綱バラ目(或いはイラクサ目)ニレ科ニレ属 Ulmus 。先行する「榆」を参照されたい。

『其の木≪の≫蠧《きくひむし》の糞、名づけて「紫納《しなう》」と曰《い》ふ』鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目Cucujiformia下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidaeのキクイムシ類。キクイムシは樹によっては、特定種のみが食害することが、結構、多いが、スオウのそれは、不明。「紫納」も検索で掛かってこない。しかし、キクイムシの糞にかく、特別な名を与え、時珍が、かく、わざわざ示しているのは、薬効か染色か、何らかの用があるのであろう。

「血を破り」東洋文庫訳では、『血の結滞を破り』、『流れを促進させる』とある。抗脂血剤か。

「產後≪の≫血脹《くちやう》」産後に生殖器内で血液が滞留して脹れる症状か。

及び、月經≪の≫調はざるを治≪す≫。膿《うみ》を排《を[やぶちゃん注:ママ。]》し、「癰腫《ようしゆ》」悪性の腫れ物で、根が浅く、大ききなものを言う。

「瘀血《おけつ》」血液が流れにくくなり、体の中に滞ってしまうことで起こる状態を指す。

「三陰經≪の≫血分」「三陰經」は東洋文庫の後注に、『太陰(手の太陰肺経・足の太陰肺経)、少陰(手の少陰心経・足の少陰腎経)、願陰(手の厥陰心包経・足の厥陰肝経)。つまり身体の中を通っている十二経脈のうちの陰経で、詳しくいえば六陰経。これと六陽経を合せて十二経となる。』とあり、「血分」は訳の割注で、『(血の変調に係わる病症)』とある。

「血を破る」前掲「血を破り」と同義。

「常に、倍す」普通の物よりも倍の効果を発揮する。

「蘇方の末、之れを敷《しきのべ》、外《そと》≪を≫、蠺《かひこ》の繭《まゆ》を以つて、包み縛り、完《まつたき》≪に≫固《かため》、數日《すじつ》≪にして≫、故《もと》≪のごとし≫」ホンマかいな!?!

「東京(トンキン)」紅河流域のベトナム北部を指す呼称であるとともに、この地域の中心都市ハノイ(旧漢字表記「河内」)の旧称。

「六甲(ロツコン)」不詳。「廣漢和辭典」にも「日中辞典」にも載らない。東洋文庫も知らんぷり。何か漢字表記に誤りがあるか?

「柬埔寨(カボチヤ)」カンボジアに同じ。

「紅花」双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctorius

「紫-藤-子(ふじのみ)」マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda の実。

「本草必讀」東洋文庫の巻末の「書名注」に、『「本草綱目必読」か。清の林起竜撰』とある。なお、別に「本草綱目類纂必讀」という同じく清の何鎮撰のものもある。この二種の本は中文でもネット上には見当たらないので、確認出来ない。

『「灌木類」の「紫荊」の下《もと》に詳かなり』かなり先なので、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版で示しておく。]

2024/07/27

平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之五〔一〕きつねに契りし僧の事

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を見られたい。この回の底本はここから。ここに挿絵がある。挿絵には、右上方に枠入りで「むさしの国そうせんじ」というロケーション・キャプションが書かれてある(後の注で示すが、寺名は「さうせんじ」の誤りである)。主人公の回想の直接話法部分は、長いので、読み易さを考え、特異的に「――」・「……」を用い、話柄内でも改行・段落を施した。]

 

Kitunenitotugisisou

 

因果物語卷之五〔一〕きつねに契りし僧の事

 むさしの國、※泉寺(そうせんじ)に、宥伯とて、わかき僧のありけるが、かたち、はなはだ、うるはしかりければ、人みな、めで、まよひけり。

[やぶちゃん注:「※泉寺(そうせんじ)」(「※」=「扌」+「窓」)岩波文庫の高田氏の注に、『淺草橋場にあった曹洞宗妙亀山総泉寺。現在は板橋区小豆沢へ移転。』とあった。東京都板橋区小豆沢(あずさわ)にある曹洞宗妙亀山総泉寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『この寺は当初』、『浅草橋場(現在の台東区橋場)にあり、京都の吉田惟房の子梅若丸』(中世・近世の諸文芸に登場する伝説上の少年。京都北白川吉田少将の子で、人買いに攫われ、武蔵国隅田川畔で病死したとされる。東京都墨田区向島の木母寺(もくぼじ)境内に梅若塚がある。謡曲「隅田川」、浄瑠璃などに作品化されている。以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)『が橋場の地で亡くなり、梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して梅若丸の菩提を弔うため』、『庵を結んだのに始まるという。その後、武蔵千葉氏の帰依を得』、室町時代の『弘治年間』(一五五五年~一五五八年)に『千葉氏によって中興されたとされる。佐竹義宣によって再興され、江戸時代には青松寺・泉岳寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺のひとつであった』。大正一二(一九二三)年の『関東大震災で罹災したため、昭和』三(一九二八)年、『現在地にあった古刹』『大善寺に間借りする形で移転。その後』、『合併して現在に至』っている。『大善寺は』十五『世紀末の開山にして「江戸名所図会」にも載るほどの有名な寺であり、現在境内に残る薬師三尊(清水薬師。伝・聖徳太子作)こそが、元の大善寺の本尊である。八代将軍吉宗が鷹狩りの途中に大善寺に立ち寄り、境内の湧き水(薬師の泉。板橋区小豆沢『三-七』)』(ここ)『が』、『あまりに美味であったので「清水薬師」と命名したと伝わる。同地の地名「清水坂」の謂れとされている。清水坂』(ここ)『には地蔵が安置されており、子育て地蔵として信仰されていた。この地蔵も現在は同寺境内にある』。なお、『台東区橋場』二『丁目の旧寺地には平賀源内の墓が残る』。これは『松平頼寿を中心とした平賀源内先生顕彰会が移転に反対し、総泉寺や東京府に働きかけて、元の位置に再建されたため』で、これによって、本篇の真のロケーションが明確に判る。ここである。

 ある夕暮(《ゆふ》ぐれ)より、わづらひ出《いだ》し、たゞ、うかうかとして[やぶちゃん注:ぼんやりとして。]、物もいはず、おりおり[やぶちゃん注:ママ。]は、すゞりを、とりいだし、物かく躰(てい)なり。みる人あれば、とりかくし侍る。

 その文《ふみ》は、ひたすら、艷書(えんしよ)を、とりむかふ躰なり[やぶちゃん注:書き認(したた)める樣子である。]。

「心地は、いかに。」

と、ゝへども、こたへも、せず。

 かくて、七日《なぬか》ばかり、すぎて、夜《より》のまに、行《ゆき》がたなく、うせにけり。

 人々、方〻《はうばう》に、てわけを、いたし、尋れもとめけるに、さらに、しる人、

なし。

 寺僧衆《じそうしゆ》、あまりに、たづねわびて、妙㐂山(めうきさん)に、いのりをかけしかば、そのりやく[やぶちゃん注:「利益」。]にや、うせて、十三日めに、寺の堂(だう)のしたに、うめき、によぶ[やぶちゃん注:「呻吟(によ)ぶ」(単に「吟ぶ」兎も書く)。ここは「叫ぶ」の意。]こゑ、きこえしかば、えんの板(いた)を、はづしてみるに、土より一尺ばかり下に、小袖(こそで)の見ゆるを、引出《ひきいだ》したりければ、宥伯(ゆうはく)也。

[やぶちゃん注:「妙㐂山(めうきさん)」岩波の高田氏に注に、『寺内に祀った妙義山神社のこと。失せ物に効があった。』とある。梅若伝説に基づくものであろう。]

 かたち、やせおとろへ、無性(むしやう)に成《なり》て[やぶちゃん注:正気でなくなってしまった状態で。]出《いで》たり。

 諸僧、すなはち、陀羅尼(だらに)[やぶちゃん注:真言の短い呪文。]をよみ、さまざま、いのり侍りしかば、やうやうに、人ごゝち出來《いできたり》にけり。

 粥(かゆ)など、すゝめて、やうじやう[やぶちゃん注:「養生」。]するに、七日といふに、本復(ほんぷく)いたしけり。

 さて、人々、

「此間《このあひだ》の心《ここ》ち、ありさまは、いかやうに、おぼえ侍りけるぞ。」

と問ふに、宥伯(ゆうはく)、こたへて、いはく、

――……われ、かたちのうるはしきを、我ながら、めでたき事におもひけるに、ある夕ぐれに、しかるべき女、一人、來《きた》り、ひそかに、文《ふみ》を、わたしけるを、よみてみれば、大名(《だい》みやう)のむすめのもとより、

『われに思ひかけたる』

よしの、艷書なり。

『これは。うれしき事なり。』

と、うつゝ心《ごころ》になり[やぶちゃん注:夢心地となって。]、さまざま、こと葉を、つくし、返事せしかば、

「夕《ゆふ》さり[やぶちゃん注:夕刻。]、ひそかに、人を、まいら[やぶちゃん注:ママ。]せん。それに、つれて、いらせ給へ。」

と、ありしが、前の女、一人、むかひに來《きた》る。

 それに、うちつれて、行《ゆき》ければ、大《おほき》なる屋かたのうら門、ほそく、あきたり。

 しのび入《いり》てみれば、あぶら火、かすかに、ともし、人も、すくなく、きれゐ[やぶちゃん注:ママ。「綺麗」或いは「奇麗」。]なる部屋の内に、屛風(べうぶ)、たてまはし、いと、しのびたる躰(てい)にて、うつくしき女房、一人あり。

 われを見て、いと、よろこぶ躰(てい)也。

『前の女房は、めのと[やぶちゃん注:「乳母」。この姫に仕える女。]也。』

と、おぼえしが、さかづき、いだして、もてなす。

 かくて、もろともに、ふして、此《これ》ほどの心盡(《こころ》づく)し[やぶちゃん注:思いの丈(た)け、そのままに。]、さまざま、なさけふかく、かたらひ、わりなくちぎりて侍りしを、家老(からう)とおぼしきもの、入來《いりきた》る。

 むすめは、おそれて、にげうせぬ。

 われを、とらへて、しばり、いましむるを、かなしみ、なげく……と……おぼえしが、やうやう、心《ここ》ち、さめたり。――

と、かたる。

「扨《さて》は。『きつね』の『わざ』にこそ。」

とて、かの「あな」を、よく、ほらせたれば、おくふかく、きつね、四つ、五つ、にげ出《いで》て、うせぬ。

 その跡は、何も、なし。

 宥伯(ゆうはく)が、ねたるあと、ばかり也。

「宥伯には、さんげ[やぶちゃん注:「懺悔」。]を、いたさせければ、其後《そののち》は、別条も、なかりけり。」

と、寺僧の物語《ものがたり》。

 元和《げんな》二年の事也。

[やぶちゃん注:「元和二年」一六一六年。家忠の治世。家康は同四月十七日に没している。]

2024/07/26

平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之四〔六〕私をいたしける手代の事

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を見られたい。この回の底本はここから。ここに挿絵あり。挿絵には、右上方に枠入りで「ゑちぜんの国つるかの町」(「ゑ」と「か」はママ)というロケーション・キャプションが書かれてある。但し、この挿絵は問題があり過ぎる、最低にして最悪の稀有の挿絵である。後で注で詳細を記す。

 

Watakusiwositarutedai

 

因果物語卷之四〔六〕私(わたくし)をいたしける手代(てだい)の事

 

 越前(えちぜん)の國、敦賀(つるが)の町に、米問(《こめ》といや)仁兵衞といふものゝ手代に、作十郞といふもの、年久しき家の子にて、しかも、よろづ、才漢《さいかん》也《なり》ければ、万事、作十郞に、うちまかせて、まかなはせけり。

[やぶちゃん注:「私(わたくし)」岩波文庫で高田氏は、本文中に「わたくし」に脚注され、『私利。店の商いの中に、自分だけの商いを持ちこむこと。』と記されておられる。

「手代」商店で、主人から委任された範囲内で、営業上の代理権をもつ使用人。丁稚の上で、番頭の下。丁稚と異なり、給与を受けていた。ここでは、「米問屋」であるから、番頭がいなかったとは思われないが、或いは、高齢で、名誉職として、事実上の業務は、この「作十郞」が行っていたと考えられ、されば、そこにチェックする人物もおらず、以下の過ちが起こったものであろう。

「家年久しきの子」代々、この「仁兵衞」の「米問屋」に勤め続けてきた一族の「奉公人」の意。

「才漢」「才幹」(物事を成し遂げる知恵や能力・手腕)の誤記か。或いは、「『才』智に富んだ好『漢』(男子)」というつもりか。]

 そのあいだに、わたくしをかまへ、金銀をたくはへ、ひそかに、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]があきなひを、いたし、損(そん)のゆく事、あれば、主(しう)の損(そん)に、かけゝり。

 此者《このもの》、わたくしに、商賣(しやうばい)するよし、「とり沙汰」ありければ、主の仁兵衞、大いに、いましめ、しかりければ、

「ゆめゆめ、さやうの事、侍らず。」

とて、おそろしき起請文(きしやうもん)を書き、血判(ちばん)を、すゑたり。

[やぶちゃん注:「おそろしき起請文(きしやうもん)」高田氏の脚注には、『神仏の罰も恐ろしい誓いの文。そらぞらしい嘘の誓いの文を書いたことをいう。』とある。

「血判(ちばん)」「けつばん」「けつぱん(けっぱん)」等の読みがある。底本自体で「ちばん」と濁点を打っている(左丁二行目下方)。]

 かくて、廿日ばかり過《すぎ》てのちに、作十郞が身に、大なる瘡(かさ)、いできたり。

「身の、あつき事、火にやかるゝがごとく、いたむ事、いふばかりなし。」

とて、うめき、かなしむ。さまざまに、くすりを、あたふれども、しるしなく、七日といふに、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]死(しに)けり。

 かばねの、くさき事、たとへんかた、なし。

 「をしほ」の西福寺(さいふくじ)におくりて、土葬(どさう)にいたし、上に、卵塔(らんとう[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])を、たてたり。

[やぶちゃん注:「かばねの、くさき事、たとへんかた、なし」急激に発症し、短期で死に至っているので、高い確率で、熱性マラリアが強く疑われる。体温が急激に上昇し、多臓器不全で亡くなったものと思われ、夏場であったなら、この時代、腐敗が急速に進行することは容易に起こる。因みに、私は十九年前の七月、親友を熱性マラリアで亡くした

『「をしほ」の西福寺(さいふくじ)』この「をしほ」という地名らしきものは、高田先生同様、位置も漢字も不詳であるが、「西福寺(さいふくじ)」は、現在の福井県敦賀市原(はら)にある浄土宗大原山(おおはらさん)西福寺である。南北朝期の応安元(一三六八)年の開山である。「をしほ」を調べるべく、「ひなたGPS」で戦前の地図まで調べたが、この附近は、元「松原村」であったことが判っただけで、それらしい地名は見当たらなかった。ちょっと、考えたのは、どうも、この山号は後背地の山の名前であることが判ったので、「大原山の山の「尾(を)」の、その先「の穗(ほ)」にある寺――などと妄想してしまった。

「卵塔」(らんたう)は、通常、僧侶の墓に使用されることが殆んどである点で、私は大いに不審である。なお、後の描写から、石製のそれではなく、所謂、木製の卒塔婆であることが判る。卵塔は別名を無縫塔とも呼び、最上部に円柱状でバットのヘッド部分をカットしたような形で、塔頂が僅かに尖った形状の、卵形にやや似た塔身を立てたものである(知らない方のためにグーグル画像検索「無縫塔 卵塔」をリンクさせておく。なお、これは、鎌倉時代に宋から来日した僧侶によって齎されたもので、鎌倉よりも前には卵塔は存在しない)。さても。これまた――またしても――挿絵を描いた絵師は本篇の内容に徹底して――全く合わせて描いていない――ことが判明するのである。このシーンは、ここようり後のシークエンスを切り取ったものと思われるが、それ以前に、そもそもが、彼の変死に際し、彼の生前の嘘だらけの起請文の報いとしての、凄惨な修羅の急病死と死体腐敗のため、葬儀は忌まれて、接触を最小限にした、簡便な埋葬であったのだから、挿絵のような、組み石の土台の上に観音開きの立派な屋根もついた納骨堂(廟)であろう筈が無いのである。土を適当に浅く掘って、ぶち込み、さっさと形ばかりに土をぶっかけ、そこに、卵塔型の卒塔婆を、ぶっ刺して、早々に葬送を終わった(シャレではありません!)に違いないのである。しかもだ! 倒れている塔婆を見ると、卵塔なんどの形ではなく、ごくごく普通の五輪塔の刻みなのである。いやいや! というより、私は卵形に削った卒塔婆なるもの自体、未だ嘗つて、見たことがないのである。

 さて、一七日《ひとなぬか》といふに、かの仁兵衞夫婦(ふうふ)の人、

「永々(ながなが)、なじみたるものを、ふびんなる事かな。」

とて、なみだを、ながし、庵主を、よびて、經を、よませ、それより、西福寺へ、まいり[やぶちゃん注:ママ。]て、墓にまゐりけるに、作十郞が墳(つあか)の卵塔(らんとう)、をびただしく[やぶちゃん注:ママ。]、

「べきべき。」

と、なり侍り。

「『のみの木』の『いた』[やぶちゃん注:「板」。]は、日のてらせば、しめられて、『めきめき』と、なる物なれば、さもあるべし。」

と、いふ人も、あり。

 又、

「けしからず、鳴るは、子細、あるべし。すさまじき事なり。」

と、いふ人も、あり。

 大勢(《おほ》ぜい)、ともなひて、行《ゆき》けるが、一人も、ちかく、立《たち》よりてみるもの、なし。

 しきりに、

「めきめき。」

と、なりけるが、卵塔(らんとう)、うごき出《いで》て、うちたをれ[やぶちゃん注:ママ。]、つか、くづれて、尸骸(しがい)、はね出《いで》つゝ、そりかへりて、ふしたり。人々、きもを、けして、にげまどひけり。

 されども、すておくべき事ならねば、

「火葬(くはさう)に、せよ。」

とて、人を、たのみ、薪(たきゞ)をつみて、やきけるに、火の中より、はね出《いで》、はね出《いで》、二、三度も、かくのごとくいたしけるを、やうやうにして、灰(はい[やぶちゃん注:ママ。])になし、もとの「つか」に、うづみ、ねんごろに、とふらひければ、其のちは、別(べち)の事も、なかりし、となり。

「元和《げんな》年中の事なり。」

 糸や宗貞か(そうてい)、かたりき。

[やぶちゃん注:「のみの木」岩波文庫の補正本文では、『臣(のみ)の木』となっており、脚注で、『モミの木か。「臣の木も生ひつぎにけり」(『萬葉集』三二二)。』とある。『モミ』は「樅」でマツ科モミ属モミ Abies firma 。「万葉集」の歌は、短歌も添えて全歌を示す(前書の「幷」は「ならびに」と読む)。を訓読は中西進氏のそれに従った。

   *

   山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)の
   伊豫の溫-泉(ゆ)に至りて作れる歌一首
   短歌

皇神祖(すめろぎ)の 神の命(みこと)の 敷(し)きいます 國のことごと 湯はしも 多(さは)にあれども 島山(しまやま)の 宣(よろ)しき國と こごしき[やぶちゃん注:嶮しい。] 伊豫の高嶺(たかね)の 射狹庭(いさには)[やぶちゃん注:神を祀るための神聖な「齋庭(いさには)」。]の 岡に立たして うち(しの)ひ 辭(こと)思(しの)ひし み湯の上の 樹群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生(お)ひ繼(つ)ぎにけり 鳴く鳥の 聲も變らず 遠き代(よ)に神さびゆかむ 行幸處(いでましどころ)

   *

「しめられて」乾いて縮んで。

「そりかへりて」高田氏の脚注に、『普通、土葬の棺桶では死者の身体を折りまげて入れる。』とある。所謂、「座棺」である。ここも絵師は才能がない。腐りきった遺体が、反り返っていなきゃダメだッツーの!!! 本篇は、挿絵が原文の凄絶性をすっかり払拭してしまった珍しいケースと言える。

「元和年中」一六一五年~一六二四年。徳川秀忠・徳川家光の治世。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 蕪荑仁

 

Tiyousennire

 

ぶい にん  莁荑 無姑

       𦽄䕋

蕪荑仁  【和名比木佐久良】

 

本綱蕪荑榆之類出河東河西及髙麗山中狀如榆葉圓

而厚莢亦如榆莢氣臭如𤜢性殺蟲置物中亦辟蛀但患

[やぶちゃん字注:この項に出る「蟲」は二箇所、明らかに最上部に左払いの一画がある、「グリフウィキ」のこの字体であるが、表示出来ないので、「蟲」とした。]

其臭有大小兩種小者卽榆莢也人多以外物相和不可

不擇去之

蕪荑仁【辛温】治疳瀉冷痢【得訶子豆蔲良】去三蟲化食治五痔蟲

[やぶちゃん字注:「三蟲」は同前だが、行末の「蟲」は、先のそれではなく、通常の「蟲」である。]

 牙痛者【以蕪荑仁安蛀孔中及縫中甚効】

△按蕪英荑本朝古有而今無之亦出於攝丹二州山中然以不分明令停止之

 

   *

 

ぶい にん  莁荑《ぶい》 無姑《ぶこ》

       𦽄䕋《でんたう》

蕪荑仁  【和名、「比木佐久良《ひきさくら》」。】

 

「本綱」に曰はく、『蕪荑は榆《にれ》の類≪にして≫、河東・河西、及び、髙麗の山中に出づ。狀《かたち》、榆のごとく、葉、圓《まどか》にして、厚し。莢《さや》も亦、榆の莢のごとく、氣《かざ》、臭(くさ)きこと、「𤜢《しん》」のごとし。性、蟲を殺し、物の中に置《おき》て、亦、蛀《むしくひ》を辟《さ》く。但《ただし》、其の臭きを患《わずら》ふ[やぶちゃん注:その臭いことが難点である。]。大小の兩種、有り、小さき者は、卽ち、「榆莢《ゆきやう》」なり。人、多《おほく》、外物《ほかのもの》を以つて、相和《あひわ》せる≪故(ゆゑ)、≫之≪れを≫、擇去《えらびさ》らざるべからず。』≪と≫。

『蕪荑仁【辛、温。】疳瀉・冷痢を治す【「訶子《かし》」・「豆蔲《づく》」を得て、良し。】三蟲を去り、食を化《くわ》し、五痔を治す。蟲牙《むしば》、痛≪む≫者≪を治す≫【蕪荑仁を以つて、蛀孔《むしくひあな》の中、及び、縫《あはせ》め≪の≫中《なかに》、安《やすんずれば》、甚だ、効≪あり≫。】。』≪と≫。

△按ずるに、蕪英荑、本朝、古《いにし》へ、有《あり》て、今は、之れ、無し。亦、攝・丹の二州の山中より出づ。然≪れども≫、分明ならざるを以つて、之れを停止《ちゃうじ》せしむ[やぶちゃん注:底本では「令」の右に「―アリテ」と訓点を振っているが、これでは、読めないので、中近堂版を採用した。]。

 

[やぶちゃん注:これは、良安の記載は無効となる。「維基百科」の「大果榆」にある、

双子葉植物綱バラ目ニレ科ニレ属チョウセンニレ Ulmus macrocarpa

であり、本邦には植生しないからである。そこには、別名の筆頭に「神農本草經」からとして、この「蕪荑」が挙がる(ここで「仁」が附されてあるのは、漢方名で、同種の種を指す生薬名と思われる)。以下、他の別名は、「姑榆」(「爾雅」)・「山松榆」(「說文」)・山榆」(「廣雅」)・「白蕪荑」(「聖惠方」・「黃榆」(「中國經濟植物志」)とあり、以下、地方名で「迸榆」(河北)・「扁榆」と「柳榆」(河南)、「山扁榆」(遼寧熊岳)とし、他に「東北木本植物圖志」からとして、「翅枝黃榆」「倒卵果黃榆」「廣卵果黃榆」「蒙古黃榆」「矮形黃榆」とある。解説によれば、『北朝鮮・ロシア中部、安徽省・吉林省・甘粛省・山西省・山東省・河南省・遼寧省・青海省・陝西省・黒竜江省・河北省・江蘇省・内モンゴルなどの、中国本土の標高三百メートル以上の地域に分布する。七百メートルから千八百メートルの黄土の丘陵・段丘・斜面・谷・固定砂丘、及び岩の裂け目などに植生しており、未だ人工的に導入されて栽培されたことはない。』とあるからである。現在の中国国内で移植栽培が行われていないのに、日本に古くにはあったという良安の語りは、全く、信じられないサイト「植物和名―学名インデックス YList」の本種の記載にも、「生体情報」に「外」とあり、あまり学術的には信用出来ない記事が別の種であったのだが、サイト「PictureThis ポケットの中の植物学者」の「植物の百科事典」の「チョウセンニレの分布」の地図では、日本は北方領土を除いて、一ヶ所も含まれていない。中文の「百度百科」の「にも、中国『東北部、華北、北西部、江蘇省に分布』するとし、「漢方薬剤としては」という意味か、『中国東北部・華北・陝西省・甘粛省などで生産されている』とある(★ここの記載は、中国語であるが、私が見たものの中では、以下に示す英文ウィキの同属に次いで、詳しい)。ウィキの「ニレ」にも、『朝鮮半島と中国東北部からチベットにかけての一帯に広く分布』し、『種小名 macrocarpa は「大きい果実」の意味』で、『中国名は大果楡だが』、『地域名も多い』とすることから、良安の話は、百%、何かを錯覚した誤謬である。

 英文ウィキの「 Ulmus macrocarpa を見よう(下線は私が引いた)。冒頭からガツン!と来るぞ! 『日本を除く極東に固有の落葉樹または大低木である。旱魃や極寒に強いことで知られ、中国北東部の吉林省のホルチン(中国語:科爾沁)砂地地方や砂丘の麓では小木で、その高みでは低木となっている』。『樹齢十年までは、アメリカニレ U. americana に酷似するが、サイズがアメリカニレまでには近づくことはない』(アメリカニレは最大三十メートルに及ぶ)。『樹高は十七メートルに達し、細い幹の胸高直径は、まず四十センチメートルを超えることはない。樹皮は縦に裂け目があり、色は濃い灰色。小枝には、しばしばコルク質の翼状の突起が生え、数年間、そのまま残ることがある。葉は、通常、倒卵形で、長さ九センチメートル未満、幅五センチメートル(幼木ではかなり小さい)で、主に、厚く革のような質感と、鈍角の二重鋸歯又は単鋸歯のある縁が特徴である。風媒花で、花弁のない完全な花が、三月から五月にかけて咲く。種小名が示すように、U. macrocarpa は直径五十ミリメートル未満の大きな丸い翼果で識別でき、五月~六月に熟す』。『「オランダニレ病」』(Dutch elm disease)『に対する中程度の耐性と』、『ニレ黄化病』(elm yellows)『に対し、弱いが、感受性を持ち、オクラホマ州とイタリアでの試験では、ニレ葉甲虫 Xanthogaleruca luteola 』(コウチュウ目カブトムシ亜目ハムシ上科ハムシ科ニレハムシ属ニレハムシの学名)『に対しても、非常に耐性があることが証明されている』。『 U. macrocarpa は、十九世紀後半に』『英国に『並木の一部として』『移入された』。後に『この木は、一九四九年からハンプシャー州ウィンチェスター』で『繁殖・販売され、一九六二年から一九七七年にかけて四十七本が販売されている』。『一九〇八年には、アメリカのマサチューセッツ州アーノルド植物園に移入された。イリノイ州モートン植物園で景観樹として』『評価され、現在では』、『公園やキャンパスなどのオープン・エリアに適していると考えられている。通常』、本種は『水浸しになりやすい排水不良の土壌では耐えられないが、モートン植物園での人工凍結試験では』、『中国産のニレの中では、最も耐寒性があることが判明しており、LT50(組織の五十%が死ぬ温度)は』実に『摂氏ナイマス三十六度であった』とある。以下、『二種の変種が認められている』として、

Ulmus macrocarpa var. glabra

Ulmus macrocarpa var. macrocarpa

の二種が挙げられてあり、また、

ハイブリッド、ハイブリッド栽培品種、栽培品種

Ulmus macrocarpa macrocarpa と Ulmus macrocarpa davidiana var. japonica (既出のハルニレ)の自然雑種 Ulmus × mesocarpa

が、『一九八〇年代に韓国で発見された』ともあり、最後に、ビシッと、『この分類群には既知の栽培品種はない』とある。――良安先生! 日本には、チョウセンニレは、昔も今も、ないんですよ!!

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「蕪荑」(ガイド・ナンバー[086-36b]以下)からの継ぎ接ぎキョウレツのパッチワークである。あまりにひどいので、細部の『 』は、やめた。

『和名、「比木佐久良《ひきさくら》」』これが、良安の誤謬の元凶の一つと思われる。この「ヒキザクラ」というのは、私の愛する花の一つである、

モクレン目モクレン科モクレン属ハクモクレン節コブシ Magnolia kobus

の異名(地方名)の一つだからである。宮澤賢治の「なめとこ山の熊」(リンク先は「青空文庫」)に出る。ウィキの「コブシ」の「日本国内における異名」によれば、『赤い実(種子)に辛みがあるため、「ヤマアララギ」(アララギはふつうイチイのこと)、「コブシハジカミ」(ハジカミはサンショウのこと)ともよばれる』。『地域によってはコブシの花の時期に稲の苗代や種まきをしたことから、コブシは「タウチザクラ(田打桜)」や「タネマキザクラ(種まき桜)」ともよばれた』。『北海道の松前地方』など『では、遠見だと桜に似ているが花期が桜より早いことから、「ヒキザクラ」』(☜)、『ヤチザクラ」、「シキザクラ」などとも呼ばれる』、『また』、『同様に桜に先駆けて咲くことと、花付きのよい年には豊作になるとされることから、「マンサク」(「先ず咲く」、「満作」の意)との名もある(標準和名でマンサクとよばれる植物は別の植物である)』とある。

「河東・河西」黄河流域の東西。因みに、黄河は暴れ川どころか、流域が、下手をすると数年で、しばしば大きく変化するため、東岸だった地方が、西岸になるということが、よく発生する。されば、「三十年河東、三十年河西。」という諺があり、これは「世の中の盛衰は常に移ろい易いこと」の喩えとして知られる。

「𤜢《しん》」大修館書店「廣漢和辭典」で、「廣韻」と「廣韻」を引いて(これは「中國哲學書電子化計劃」のここで、他の出典も含め、確認出来る)、『獣の名。狸(たぬき)の一種。臭気があって黄色。沢に住んで鼠を食う』とある。但し、ネットでも検索したが、現存する動物名(タヌキ類)を指定したものは見当たらない。とすれば、実際にいるとすれば、ウィキの「タヌキ」に載る、中国に棲息すると思われる、

哺乳綱食肉目イヌ科タヌキ属タイリクタヌキ(ビンエツタヌキ) Nyctereutes procyonoides procyonoides

コウライタヌキ Nyctereutes procyonoides koreensis

ウンナンタヌキ Nyctereutes procyonoides orestes

ウスリータヌキ Nyctereutes procyonoides ussuriensis

の孰れかの地方名かとも思われる。以上の四種を画像検索で見比べたが、特異的に黄色い毛色の種はいない。そもそもタヌキ類の毛色はどれも、個体差があり、一部が黄色く見えるものがおり、皮膚疾患などによってそうなる場合もある(私も嘗つて勤務していた横浜緑ケ丘高等学校の近くの丘で、一族、皆、黄色がかったタヌキの親子(子は複数)を目撃したことがある)。また、「臭気がある」とあるが、タヌキ類は「溜め糞」の習性が知られているから、それを指すものとも思われる。ウィキの「タヌキ」によれば、タヌキ『には』、『複数の個体が特定の場所に糞をする「ため糞(ふん)」という習性がある』。一『頭のタヌキの行動範囲の中には、約』十『か所のため糞場があり』、一『晩の餌場巡回で、そのうちの』二、三『か所を使う。ため糞場には、大きいところになると、直径』五十センチメートル、『高さ』二十センチメートル『もの糞が積もっているという。ため糞は、そのにおいによって、地域の個体同士の情報交換に役立っていると思われる』とある。また、「沢に住む」というのも、限定条件にならない。タヌキは、その体毛が『長い剛毛と密生した柔毛の組み合わせ』を成しており、『湿地の茂みの中も自由に行動でき、水生昆虫や魚介類など水生動物も捕食する。足の指の間の皮膜は、泥地の歩行や遊泳など』、『水辺での活動を容易にする』とあるからである。また、タヌキは雑食だが、筆頭の被捕食哺乳類は齧歯類――代表は鼠――である。なお、本邦の、ホンドタヌキ Nyctereutes viverrinus viverrinus と、エゾタヌキ Nyctereutes viverrinus albus  は日本固有種である。

「疳瀉」神経性の下痢。

「冷痢」外気の温度、或いは、体温自体の低下による下痢のことか。東洋文庫には割注もない。

「訶子《かし》」双子葉植物綱バラ亜綱フトモモ目シクンシ科モモタマナ属ミロバラン Terminalia chebula 。英語“myrobalan”。別和名カリロク。英文の当該ウィキが詳しい。そこには、『南アジアと東南アジア全域に分布している。中国では雲南省西部を原産とし、福建省・広東省・広西チワン族自治区(南寧)・台湾(南投)で栽培されている』とあった。ミロバランの実の写真もある。

「豆蔲《づく》」これは、先の「篤耨香」の注で示した、カタバミ目ホルトノキ科ホルトノキ属 Elaeocarpus の種群の異名である。

「三蟲」「盧會」で既出既注だが、再掲しておくと、東洋文庫訳では、割注して、『蛔(かい)虫・蟯(ぎょう)虫・条虫』とある。これらのヒト寄生虫が、果してちゃんと古くに認識されていたかどうかに、ちょっとクエスチョンを感じたのだが(「庚申信仰」の道教の「三尸(さんし)の蟲」を想起してしまった)、薬学論文を見るに、後漢に成立した「神農本草本經」に既に「厚朴は三虫を殺す」という記載があり、その「三虫」について、以上の三種の寄生虫がちゃんと挙げられてあった(「厚朴」はモクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata 、或いは、シナホオノキ Magnolia officinalis の樹皮を乾燥させたもの)。

「食を化《くわ》し」消化を促進し。

「五痔」複数回既出既注だが、再掲しておくと、東洋文庫の「丁子」の割注に、『内痔の脈痔・腸痔・血痔、外痔の牡痔・牝痔をあわせて五痔という』とあったが、これらの各個の症状を解説した漢方サイトを探したが、見当たらない。一説に「切(きれ)痔・疣(いぼ)痔・鶏冠(とさか)痔(張り疣痔)・蓮(はす)痔(痔瘻(じろう))・脱痔」とするが、どうもこれは近代の話っぽい。中文の中医学の記載では、「牡痔・牝痔・脉痔・腸痔・血痔」を挙げる。それぞれ想像だが、「牡痔・牝痔」は「外痔核」・「内痔核」でよかろうか。「脉痔」が判らないが、脈打つようにズキズキするの意ととれば、内痔核の一種で、脱出した痔核が戻らなくなり、血栓が発生して大きく腫れ上がって激しい痛みを伴う「嵌頓(かんとん)痔核」、又は、肛門の周囲に血栓が生じて激しい痛みを伴う「血栓性外痔核」かも知れぬ。「腸痔」は穿孔が起こる「痔瘻」と見てよく、「血痔」は「裂肛」(切れ痔)でよかろう。

「縫《あはせ》め」この漢字には、ある物と、ある物の、「合わせ目(め)」の意味があるので、歯と歯の間を指していよう。東洋文庫でも、疑問符附きだが、『(歯と歯の間?)』と割注する。

「安《やすんずれば》」充塡すれば。

「攝・丹の二州の山中より出づ。然≪れども≫、分明ならざるを以つて、之れを停止《ちゃうじ》せしむ」摂津と丹波と、地域まで具体に指定されて言われてもねぇ、何の種と勘違いしておられるのか、ワ、カ、リ、マ、セ、ンて! 但し、良安が、こう記す以上は、公的に採取が禁じられていた事実があると考えねばなるまい。良安一人の錯誤ではなくて、国単位、或いは、当該国にある藩のレベルで、そう誤認されていた種があることは、確かなようだ。御存知の方があったら、若しくは、それらしい記載が古文書にあることを御存知となら、是非、お教え下さい。

2024/07/25

平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之四〔五〕生ながら火車にとられし女の事

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を見られたい。この回の底本はここから。右丁に挿絵あり。挿絵には、右上方に枠入りで「河内國やをのざいしよ」というロケーション・キャプションが書かれてある。]

 

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因果物語卷之四〔五〕生《いき》ながら、火車《かしや》にとられし女の事

 

 河内の国、八尾(やを)といふ所のあたりに、弓削(ゆげ)といふ在所(ざいしよ)あり。

 八尾の庄屋、用の事ありて、夜ふけがたに、平㙒海道(ひらのかいだう)を、もどりけるに、弓削のかたより、大いなる明松(たいまつ)を、ともして來《きた》る。

 そのはやき事、とぶが、ごとし。

 卽時(そくじ)に、ちかく來《きた》るを見れば、明松にはあらずして、大いなるひかり也。

 その中に、何とはしらず、八尺ばかりの、おとこ[やぶちゃん注:ママ。]二人、わかき女房の、兩の手を、引きたてて、ゆく。

 そのひかりの、かげよりみれば、弓削(ゆげ)の庄屋の女房なり。

 あやしみながら、おそろしく、見おくりけるが、ぜんぜんに、とをく[やぶちゃん注:ママ。]なりて、うせにけり。

 夜あけてのち、人を、つかはして、尋《たづぬ》るに、

「此《この》四、五日、わづらひ侍る。」

といふ。それより、三日めに、かの女房、死(しに)けり。

 これも、

「ひごろ、心だて、はしたなくて、人を、つらくあたりて、めしつかひ、朝夕の食物(しよくもつ)をも、ひかへて、おほくは、くらはせず、被官(ひくわん)[やぶちゃん注:ここは雇われている下人・下女。]の者も、めいわくせし。」

と也。

 生《いき》ながら、地獄に、おちける事、うたがひ、なし。

 近き比《ころ》の事也。

[やぶちゃん注:まず、言っておかなくては、ならないのは、この絵師は、ちゃんとストーリー通りに描いていない点である。二人の異様な男(八尺は二・四二メートル。にしても、女房の背丈から見て、そんなに高く見えへんがな)に、芝の束で拵えた巨大な松明を持たせてしまっている。或いは、判っていて、空中を浮遊する不定形の光りというのは、「とても絵にはかけまへん。」と尻を捲って、「こう、描かしてもいます。」と平然と、かく描いたというところであろう。およそ、怪奇談の挿絵としては、レッド寄りのイエロー・カードだな。なお、どうでもいいことなのだが、この八尾の庄屋が持っているものは何だろう? かなり大きく、先端部分が櫛状に分離した鍬のように見えるが? 夜更けだから、用心に持っているというのも、かなり長めの脇差を佩刀しているから、却って邪魔なんじゃ、ありまへんか? とツッコミたくなる私であった。

「火車」前の話「卷之四〔四〕ねたみ深き女つかみころされし事」の私の注を参照されたい。「生《いき》ながら、火車《かしや》にとられ」た、と言う標題が、そちらの注で言ったオーソドックスな「火車」の標準外れであることを確信犯で述べていることが判る。

「河内の国、八尾(やを)」現在の大阪府八尾(やお)市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「弓削(ゆげ)」同八尾市弓削町(ゆげちょう)附近。

「平㙒海道(ひらのかいだう)」高田氏の脚注に、『大阪天王寺より平野を経て、八尾、柏原とつなぐ道筋。』とある。天王寺はここ、平野はここ、柏原はここ。但し、「奈良街道」というのが、最も普通に使われていた通称である。

「そのひかりの、かげよりみれば、」その奇体な光りによって照らされた中の「かげ」「姿」で「映像」の意である。]

平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之四〔四〕ねたみ深き女つかみころされし事

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を見られたい。この回の底本はここから。]

 

因果物語卷之四〔四〕ねたみ深き女、つかみころされし事

 むかし、京の、冨(とみ)の小路(こうぢ)白山町(はくさん《ちやう》)に、伊兵衞と云《いふ》者の女房は、きはめて、「りんき」[やぶちゃん注:「悋氣」。嫉妬心。]ふかきものにて、しかも、口、わろく、人の事、あしざまに、いひなし、人の仕合《しあはせ》、よくなるを、そねみ、あしくなるを、よろこび、わが心にあはぬ人の家に、もし、わろき事出來《いでく》れば、

「さて、しらけよ。心地よし。」

など、いひけり。

[やぶちゃん注:「京の、冨(とみ)の小路(こうぢ)白山町(はくさん《ちやう》)」現在の中京区の、上(かみ)・中(なか)・下白山町(しもはくさんちよう)の附近(グーグル・マップ・データ)。

「しらけよ」。岩波文庫の高田氏の注に『露見したよ、ばれたよ。上方語。』とある。]

 子もなく、たゞ、夫婦すみけるに、本願寺宗にて、夫(をつと)は、ある朝、とく、おきて、町内にある道場[やぶちゃん注:浄土真宗本願寺派の教会所を指す。]にまいり[やぶちゃん注:ママ。]て、夜あけに、下向いたし、戶をけて、内に入《いり》けるに、「ねや」は、有《あり》ながら、女房は、なし[やぶちゃん注:閨(ねや)の寝具の容易はしてあるのに、女房は、いない。]。

 裏の戶は、内より、かけがね、はまりて、あり。

 夫(おつと[やぶちゃん注:ママ。])あやしく思ひ、戶を、あけて、うらに出《いで》てみれば、うらの、町のさかひ目の壁(かべ)ぎはに、あかはだかにて、ふして、あり。

 立《たち》よりて、みれば、兩の「あし」を、引《ひき》ぬき、「はらわた」、出《いで》て、死(しゝ)て、あり。

 いか成《なる》ものゝ「わざ」といふ事を、しらず。

 人みな、いはく、

「日ごろの心だて、あしかりけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、かゝるめに、あひけり。」

と。

 そしるものは、おほくして、あはれがる人は、なし。

 生(いき)ながら、「火車(くはしや)」に、とられける事は、をして[やぶちゃん注:ママ。]、しられけり。服部(はつとり)八弥、物語せられし也。

[やぶちゃん注:「火車」高田氏は『一種の妖獣。突如、雷鳴と共に天空より降り、人の屍を奪い去ると信じられていた。』とされるのだが、江戸時代の妖異としての「火車」は、ゔヴァラエティに富み、一様ではない。高田氏の言われたそれは、怪奇談集に中でも、確かに、一つの極(きょく)としてのオーソドックスな「火車」であることは、間違いないのだが、この場合、女房はすっ裸にされ、生きながら、両足を大腿部から引き抜かれ、内臓を引き摺り出すという凄惨な方法で「殺害されている」のであって、よくあるパターンである「葬送の途中、雷が轟くと同時に、死体が空中から現われ、はっきりとは見えない魔物たる「火車」なるものに奪われてしまう。」という定番の「火車」とは、シチュエーションが違い過ぎるのである。私のブログの記事や怪奇談では、「火車」が出現する話は二十件を下らない。比較的新しいものでは、『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「火車」』がある。「茅窻漫錄」の引用だが、ここでは珍しく「火車」の魔物の実像(なるもの)が「魍魎(カシヤ)」として紹介されている(個人的には、この図、鼻白むものである)。狗張子卷之六 杉田彥左衞門天狗に殺さる」をお手軽に剽窃したと私は考えている、「多滿寸太禮卷第四 火車の說」がある。また、私が、反射的に想起してしまう、別なタイプの「火車」というのは、通常は「片輪車」という呼称の方が一般的なもので、これは、『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「片輪車」』の私の注でリンクさせた怪奇談を見られるのが、最も手っ取り早い。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 榆

 

Nire

 

にれ   零榆 枌【白榆】

     【和名夜仁禮

       有數種】

【音俞】

     莢榆 白榆

     刺榆 樃楡

 

本綱有數千種今人不能盡別也莢榆白榆皆大榆也有

[やぶちゃん字注:「千」は底本は間違いなく汚れでなく、「千」である。試しに、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版を見ても、「千」であった。しかし流石に、ちょっと躊躇したので、「漢籍リポジトリ」の引用元「榆」(本原文と同様に「楡」ではなく、「榆」の字体なので検索は注意されたい。ガイド・ナンバー[086-33a]以下)の項を見たら、そこでは、思った通り、「數十種」であった。訓読では訂した。

赤白二種白者名枌其木甚髙大未生葉時枝條間先生

榆莢形狀似錢而小色白成串俗呼之楡錢後方生葉似

山茱萸葉而長尖𧣪潤澤嫩葉※浸淘過可食刺榆有鍼

[やぶちゃん字注:遂に表示出来ない漢字に遭遇した。底本の当該字、中近堂のそれを見るに、〔「火」(へん)+「棄」(つくり)〕のように見えた。そして、「漢籍リポジトリ」を見たところ、そこだけ電子データが画像になっており、影印本を確認したが、やっぱり〔「火」(へん)+「棄」(つくり)〕であった。

刺如柘其葉如楡諸榆性皆扇地故其下五穀不植今人

采其白皮濕搗如糊用粘瓦石極有力或以石爲碓嘴用

此膠之

榆白皮【甘平滑利】 治大小便不通除邪氣消腫入手足太陽

 手陽明經五淋腫滿胎產之諸證宜之又能治兒禿瘡

 和醋塗之蟲當出

△楡木葉皺有刻齒而小不潤多蝕三四月開花細小淡

 赤生莢莢長不過五六分中有細子其材堅重同于橿

 木

 

   *

 

にれ   零榆《れいゆ》 枌《ふん》【白榆《はくゆ》】

     【和名、「夜仁禮《やにれ》」。數種、有り。】

【音「俞《ゆ》」。】

     莢榆《きやうゆ》 白榆

     刺榆《しゆ》   樃楡《らうゆ》

 

「本綱」に曰はく、『≪榆《にれ》は、≫數十種、有り。今の人、盡《ことごと》く別《わか》つこと、能はざるなり。莢榆《きやうゆ》・白榆《はくゆ》じゃ、皆、大《だい》≪なる≫榆《にれ》なり。赤・白、二種、有り、白き者を「枌《ふん》」と名づく。其の木、甚だ、髙大なり。未だ葉を生ぜざる時、枝條の間≪に≫、先づ、榆莢《ゆきやう》を生ず。形狀、錢に似て、小なり。色、白くして、串を成す。俗に、之れを「楡錢」と呼ぶ。後《しり》への方《かた》に、葉を生じ、「山茱萸《さんゆしゆ》」の葉に似て、長く尖《とが》り、𧣪《するどく》≪して、≫潤澤≪たり≫。嫩《わかき》なる葉≪は≫、※[やぶちゃん字注:※=〔「火」(へん)+「棄」(つくり)〕。白文の注を参照。]《ゆが》き浸《ひた》し[やぶちゃん注:十分に湯で湯がいて、浸しておき。]、淘《よなぎ》り過《すぐ》して[やぶちゃん注:水で十全に洗い流して。]、食ふべし。刺榆《しゆ》は、鍼刺《はりとげ》、有りて、柘《しや》のごとく、其の葉は、楡《にれ》のごとし。諸《もろもろの》榆、性、皆、地を扇《あふ》ぐ故《ゆゑ》、其の下に、五穀を植ゑず。今の人、其の白皮を采《とり》て、濕《しめ》し、搗《つ》き、糊のごとくし、用ひて、瓦石《ぐわせき》を粘(つ)く。極《きはめ》て、力、有り。或いは、石を以つて、碓-嘴《うすのきね》と爲《なす》≪に≫、此れを用ひて、之れを膠《はりあは》す。』≪と≫。

『榆白皮《ひはくひ》【甘、平。滑-利《なめらか》。】 大小便≪の≫通ぜざるを治し、邪氣を除き、腫《はれもの》を消す。手足の「太陽《經》」、手の「陽明經」に入り、五淋・腫滿・胎產の諸證、之れに宜《よろ》し。又、能く兒の禿瘡《とくさう/はげ》を治す。醋《す》に和して、之れを塗れば、蟲《むし》、當(まさ)に出づべし。』≪と≫。

△楡の木、葉、皺(しは)み、刻齒《きざみば》有りて、小さく、潤《うるほ》はず、多く、蝕《むしくふ》。三、四月、花を開き、細小≪にして≫、淡赤《うすあか》く、莢《さや》を生《ずれども》、莢の長さ、五、六分《ぶ》に過ぎず。中≪に≫、細《こまかき》子《たね》、有り。其の材、堅重なること、橿木(かしの《き》)に同じ。

 

[やぶちゃん注:「榆」(=「楡」)は日中ともに、

双子葉類植物綱バラ目(或いはイラクサ目)ニレ科ニレ属 Ulmus

で問題ない(「維基百科」の「榆屬」も参照されたい)。ウィキの「ニレ」を引く(注記号はカットした)。『ニレ』(楡=榆『はニレ科ニレ属の樹木の総称である。英名はエルム (Elm) 』。但し、『日本でニレというと、一般にニレ属の』一『種であるハルニレ』(春楡:ハルニレ変種ハルニレ Ulmus davidiana var. japonica )『のことを指す』。『広葉樹であり、かつ基本的に落葉樹だが、南方に分布する一部に半常緑樹のものがある。樹高は』十『メートル』『 未満のものから』、『大きいと』四十メートルを『超すものまである。最大種は中米の熱帯雨林に分布する Ulmus mexicana という種で』、『樹高』八十メートルに『達する。樹形は比較的低い高さから幹を分岐させ、同科のケヤキ(ニレ科ケヤキ属)』(ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata )『などとよく似る種が多いが、比較的真っ直ぐ幹を伸ばすものもある。樹皮は灰色がかった褐色で縦に割れる種が多いが、一部に平滑なものもある』。『枝は真っ直ぐでなく左右にジグザグに伸びる(仮軸分岐)。葉は枝に互生し、葉の基部は左右非対称になることが多い。葉は先端に向かうにつれて急に尖る。オヒョウのように複数の先端を持つものも多い。葉脈の形態は中央の』一『本の主脈から側脈が左右に分岐する形(羽状脈)である。ニレ科でもエノキ属( Celtis )、ウラジロエノキ属( Trema )、ムクノキ属 ( Aphananthe )などは主脈が』三『本に見える三行脈である。ただし、これらは最近はニレ科でなくアサ科』(バラ目アサ科 Cannabaceae)『に入れることが多い。葉の縁には鋸歯を持つ。ニレ属は二重鋸歯と呼ばれる鋸歯を持ち、大きな鋸歯同士の間に小さい鋸歯を挟む。これに対し、ケヤキ属は普通の鋸歯である』。『花は両性花、花粉の散布方式は風媒であり』、『花は地味である。種子は扁平な堅果で膜質の翼を持つ』。『斜面下部、谷沿い、川沿いなど湿潤で肥沃な所を好む種が多い。また、陽樹であり日当たりを好む性質で、開けた場所や生け垣で見られる。花は風媒花であり、ほとんどの種類は春に花を咲かせる。種によって芽吹く前に花を付けるもの、芽吹いた後花を付けるものがある。一部の種類は秋に花を付ける。果実は開花後』、『数週間で熟す。種子は風散布、萌芽更新、倒木更新もよく行う』。『何種類もの昆虫がニレの色々な部分を餌として利用している』。以下、「立ち枯れ病」の項。『ニレの立ち枯れ病は別名オランダニレ病とも呼ばれ、もとは東アジアからきた病気であるが、病原菌が最初に特定されたのがオランダだったことに由来する。ニレの立ち枯れ病は、病原菌となる胞子をつけた甲虫キクイムシが樹皮の下に潜り込み、孔道とよばれる孔を掘ることによって広まる。この病気に汚染されると、初夏に広い範囲で葉が黄色くなり、茶色くなってしおれていき、ニレの巨木でも』僅か一『か月ほどで枯死してしまう。ニレの立ち枯れ病が最初に流行したのは』一九二〇『年代で、これは程なく収束したが』、一九七〇『年代に毒性が強い真菌が引き起こした流行は環境災害となり、イギリスだけで』二万五千『万本、ヨーロッパと北米では数億本のニレが枯死した。原因は、古代ローマ人がブドウの木を仕立てるために支柱として西ヨーロッパにオウシュウニレ(別名:ヨーロッパニレ)』 Ulmus minor 『を持ち込み、挿し木や根萌芽から木を増やしていったところ、遺伝的に同一のクローンばかりになって同じ病虫害を受けやすくなったためといわれている。現在ニレの大木が残っている場所は、自然の障壁によって隔離されたイングランド南東部の沿岸や、市民の努力で残ったアムステルダムなど数カ所だけである。こうしたことからアムステルダム市当局では徹底的な監視と衛生管理が行われている。また十数年にわたる地道な交配によって、菌類に耐性がある栽培品種が』十『種類以上も作り出され、アムステルダムなどで大量に植え付けられている』。『ヨーロッパではニレ(楡)とブドウ(葡萄)は良縁の象徴とされる。この風習は元々はイタリア由来とされ、以下のような話がある。古代ローマ時代からイタリアではブドウを仕立てる支柱としてニレを使うために、ブドウ畑でニレも一緒に栽培していた。成長したニレは樹高』三メートル『程度のところで幹を切断する。ニレは萌芽を出すので』、『これを横方向に仕立てて』、『ぶどうの蔓を絡ませてやるのだという。古代ローマの詩人オウィディウス(Ovidius、紀元前』四三年~『紀元前』二六『年)はこれを見て』、『いたく感動し、ulmus amat vitem, vitis non deserit ulmum(意訳:楡はブドウを愛している。ブドウも傷ついた楡を見捨てない)という詩を読んだ』。『この話はローマ神話の神で恋仲だった季節の神ウェルトゥムヌスと果実の神ポーモーナの話としても好まれ、ルネサンス時代には絵画の題材としてもよく描かれた』。『他にも北欧神話(スカンディナヴィア神話)に登場する人類最初の男女アスクとエムブラのうちのエムブラ(女)が最高神オーディンに息を吹きかけられたニレの樹から生まれたとされる。エムブラ(Embla)がニレを表す英語のエルム(Elm)になったといわれ、その語源はケルト語の Ulme からきたといわれる。ギリシア神話では詩人で竪琴の名手だったオルペウスが妻の死を悼み』、『ニレの木の下で泣いたとされ、悲しみの象徴とされることもある』。『北アメリカの東海岸では、マサチューセッツ州のボストンにイギリスから脱出して到着した清教徒たちが村を作ったときに、周辺のインディアンが親切にもエルムを土地条件の指標にすることを教え、その土地は肥沃で耕作にも適し、水も容易に得られ洪水の危険もないことを知り得たという。この有益な情報から、ボストンをはじめ多くの美しい都市が生まれた』。『ヨーロッパのその他の地域では、ニレ(エルム)を重要な樹に位置づけている。ニレの樹が大木になることからくる巨木信仰だけでなく、着火しやすいニレから火を得たという例が多いからといわれる』。『成長が早く移植が容易、また樹形や鮮やかな新緑が魅力的で爽やかな印象を与えるためか』、『街路樹や庭園樹への利用が多い樹種である。秋の紅葉も見事であり、ヨーロッパなどでは風景画の題材としてもよく描かれ』、十三~十七『世紀の巨匠の絵画によく描かれた。オランダのハーグとアムステルダムでは世界一のニレが見られ、アムステルダムでは運河や街路沿いに』七『万』五千『本以上のニレが植えられている。日本では北海道大学(北海道札幌市)構内のニレ並木が有名。盆栽にもなる』。『心材と辺材の境は明瞭、やや硬い。比重は』〇・六『程度。空気に触れなければ腐りにくいといい、ヨーロッパでは水道管に用いた。またイチイ』(裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata )『の代用として弓にも使ったという。和太鼓の胴材にはケヤキが最高とされるが、ニレが代用されることもあるという』。『しなやかさがあることから』、『古代エジプトではチャリオットの車軸に使われていた』。『飢饉時などに種子などを食用とする場合がある』。「延喜式」では『特に香気のない本種の樹皮の粉を使った楡木(ニレギ)という名の漬物が記録されている。アメリカ産の U. rubra という種の内樹皮は』、『胃や喉の炎症を鎮める効果があり、FDA』(Food and Drug Administration:アメリカ食品医薬品局)『に認可された数少ない生薬の一つとなっている。小枝や葉は家畜の飼料としても使え、ヒマラヤ地域などでは今も使うという』。以下、「世界のニレ属植物」の冒頭。『ニレ属( Ulmus )は北半球の温帯に約』二十『種があり、アジア、北アメリカ、ヨーロッパにかなり近い種が分布する。特にアメリカニレ』( U. americana :北米大陸東部に広く分布する大型種。英名“American elm”で、種小名も「アメリカの」で、まさにアメリカを代表するニレである)『とヨーロッパニレは性質や形状がよく似ている。ヨーロッパのニレはどの種も互いによく似ており、樹高が』三十メートルに『達することも珍しくない。ニレは身近にある木で』、『関心が高く、それでいて』、『地域差も激しい』ためか、『研究者によって相当の相違がある。学名の異名であるシノニムも数多く、ずらっと』十『個以上並ぶ種もある。日本にはハルニレ』(春楡:当該ウィキを参照されたいが、ハルニレは中国東北部から陝西省・安徽省にかけて、及び、朝鮮半島・日本に分布するの他には、

アキニレ Ulmus parvifolia(秋楡:当該ウィキを参照されたいが、やはり、中国大陸の広い範囲と、朝鮮半島・インドシナ半島・日本・台湾に分布する)

オヒョウ Ulmus laciniata (於瓢:当該ウィキを参照されたいが、やはり、日本・サハリン・朝鮮半島・中国北部に分布する)

の三種が『分布する』(と言っているが、後で挙げている★を附しておいた「トウニレ」も含むから、「四種」が正しい)。以下、そこに挙げられているニレ属の内、中国に分布する種を、一部を除き、学名のみ、ピックアップしておく。

Ulmus bergmanniana

U. castaneifolia

U. changii

U. elongata

U. glaucescens(分布を記さないが、わざわざ『乾燥地にも耐えることから』、『中国名は旱楡』であるとあるので、「維基百科」の「旱榆」を見たところ、「中國固有種」とあり、分布は「山西・內蒙古・山東・甘肅・遼寧・河南・陝西・寧夏。河北などの地方」とあった)

U. lamellosa

チョウセンニレ U. macrocarpa

U. microcarpa

U. prunifolia

アリサンニレ U. uyematsui(台湾に植生する。「維基百科」で調べたところ、中文名は「阿里山榆」であった)

U. chenmoui

★トウニレ U. davidiana (『中国東北部から朝鮮半島、日本にかけて分布。樹高』三十センチメートル、『直径』一メートルに『達する大型種で日本産ニレ類としては最大種。葉柄は比較的長くよく目立つ。日本産種のハルニレは大陸産のものと比べて果実の毛が生えてないことからは U. davidiana var. japonicaとし変種扱いすることも多い。かつてはU. japonicaとされ、大陸産種とは別種扱いされていた。和名の漢字表記は春楡とされ』、『これは春に花が咲くことからといわれる。もっとも、ほとんどのニレは春に花が咲くものである』)

U. harbinensis

U. lanceifolia

U. pseudopropinqua

★★★ノニレ U. pumila (『東はシベリア・モンゴルから西はカザフスタンに至るまで分布』とあるが、中国周辺の広域であり、『中国名は垂枝楡』とあるので、「維基百科」で調べてみたら、なんと! 標題は、ズバり! 「榆樹」で、別名を『名榆・白榆・家榆・錢榆・西伯利亞榆』とあって、本項の異名や、記載に相応しい別名であることが判った。而して、原産を東部アジア及び中央アジアとし、しかも、『木材は、強く、耐久性があり、樹皮を粉にし、「榆皮麺」に製することができ、翅果』(=翼果)『の若いものは、柔らかく、一般に「榆錢」として知られており、食用となる』とあるので、

私は「本草綱目」の記載の主たる種はmこのノニレ Ulmus pumila

であると、断定したい!!!)

U. szechuanica

なお、「維基百科」の「榆屬」にも、膨大な種のリストがある。「維基百科」の記載としては珍しく、各種のページが短いながら、かなりあり、そこでは、中国に分布する種の場合は、地域を示しているものが多い。上記の種もある。一つ、一つ、総てを調べれば、以上のとは、異なる中国固有の別のニレの種を掲げることが可能と思われるが、そこまでやる気は、私には、ない。悪しからず。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「榆」(ガイド・ナンバー[086-33a]以下)からのパッチワークである。

『未だ葉を生ぜざる時、枝條の間、先づ、榆莢《ゆきやう》を生ず。形狀、錢に似て、小なり。色、白くして、串を成す。俗に、之れを「楡錢」と呼ぶ』小学館「日本大百科全書」の「ニレ」属の記載の中に、『花は葉に先だって開くことが多』いとあった。本邦の「ニレ」のウィキにある、ヨーロッパニレ Ulmus minor のものだが、「若い果実」の写真を見られたい。ホンマや! 葉、ない! んで、もって、ナンやこれ?――「銭」みたような、実――やで!!

「山茱萸《さんゆしゆ》」ミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ Cornus officinalis 。先行する「丁子」で注済み。

「𧣪《するどく、あがり》≪て、≫」この漢字は意味を調べるのに苦労した。蜿蜒、検索を続ける中で、やっと、中文サイトの「漢語國學・康煕字典」のここで判った。そこに、

   *

《集韻》:山巧切,音稍 —— 牛角貌。[やぶちゃん注:「開」の字は「開」の「グリフウィキ」の異体字のこれ。表示出来ないので、代えた。]

《集韻》:所敎切,稍去聲 —— 角銳上。或作𤙜

   *

以上から「牛の角が有意に開いて生えているさま」と、「角(状の物)が鋭く上に向かって突き出るさま」を言っていると判読した。漢籍の古い文章を見ると、この「𧣪」の前後に、この「本草綱目」と同じく、この「𧣪」の前後に、「尖」や「上」「銳」の字が同伴していることも確認した。最終的にグーグル画像検索「Ulmus leaf」を見て、かく読みを決定したものである。

「柘《しや》」バラ目クワ科ハリグワ(針桑)連ハリグワ属ハリグワ  Maclura tricuspidata 。小学館「日本大百科全書」によれば、『落葉小高木。小枝はときに直立する刺(とげ)となる。葉は互生し、倒卵形または広卵形で長さ』六~十『センチメートル、先は鈍くとがり』、『全縁または』、『しばしば浅く』三『裂する。裏面には細毛がある。雌雄異株』。六『月に開花し、雄花序は淡黄色、球状で長さ約』一『センチメートルの柄がある。集合果は秋に赤く熟し、径約』二・五『センチメートル、花被は多肉となって痩果(そうか)を包む。朝鮮半島や中国に分布する。葉をカイコが食べるのでクワの代用として栽培もされる。日本の庭園には雄木が多くみられる』とあった。本種は、養蚕用に明治初期に移入したことが判っているため、良安はこの「柘」をハリグワとは認識していない。よくって、クワ科クワ属ヤマグワ Morus austrails 、悪くすると、ツゲ目ツゲ科ツゲ属ツゲ変種 Buxus microphylla var. japonica だと思っいるはずだ。でもねぇ、ヤマグワも、ツゲも強烈なトゲなんざ、ありんせんぜ?

「其の白皮を采《とり》て、濕《しめ》し、搗《つ》き、糊のごとくし、用ひて、瓦石《ぐわせき》を粘(つ)く。極《きはめ》て、力、有り。或いは、石を以つて、碓-嘴《うすのきね》と爲《なす》、此れを用ひて、之れを膠《はりあは》す。」確認出来る記載探しに手古摺ったが、「熊本大学薬学部薬用植物園 薬草データベース」の「ハルニレ」で、やっと発見した。『樹皮を水に浸して叩きほぐしたものは縄や紐に加工された』とあった後に、『樹皮を水に浸して得られた粘液は接着剤として利用された』と出る。

『手足の「太陽《經》」、手の「陽明經」』東洋文庫の後注に、『手の太陽小腸経。手の小指の先端外側からおこり、手の外側を通って肩に出、一つは鎖骨上窩(か)から胸に入り、心に連絡し、咽頭をめぐって横隔膜を下り、胃に行き小腸に達する。支脈は鎖骨上窩から頰・目尻から耳に入る。またもう一つは頰から分かれて目頭へ行く』。『足の太陽膀胱経は巻八十二肉桂の注三参照』(先行する「肉桂」の私の注の「足の太陽經」を見られたい)。『手の陽明大腸経。手の第二指の先からおこり、腕をのぼって肩から首のうしろに行き、鎖骨上窩に入る。そこから二つに分かれるが、一つは頰から歯に入り、口角をまわって鼻翼の外側に至る。もう一つは胸から肺に連絡し、横隔膜を通って大腸に入る。』とある。

「五淋」石淋・気淋・膏淋・労淋・熱淋という膀胱・尿路に関する症状を指す語。

「腫滿」全身が浮腫(むく)み、腹部が膨満する症状。

「胎產」胎児の成長や疾患、妊婦の様態・疾患全般を指す。

「兒の禿瘡《とくさう/はげ》」小児生・若年性の円形脱毛症。あまり認識されているとは思われないが、実は、円形脱毛症の患者の約四分の一は十五歳以下である。

「橿木(かしの《き》)」「樫」「橿」とも書く。ブナ科Fagaceaeの一群の常緑高木。シラカシ・アカガシ・アラカシ・ウラジロガシなどの総称。]

2024/07/24

平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之四〔三〕盗をせし下女鬼につかみころされし事

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を見られたい。この回の底本はここから。標題の読みの「をに」はママ。]

 

因果物語卷之四〔三〕盗(ぬすみ)をせし下女、鬼(をに)につかみころされし事

 おなじきころ、東(ひがし)六条の、永井(ながい[やぶちゃん注:ママ。])五兵衞と云《いふ》もの、召しつかひける下女、その心ね、きはめて、「ふとくしん」なり。

[やぶちゃん注:「おなじきころ」底本で、前の話の最後を見ると、「寛永十三年の事也」とあるのが判る。一六三六年。

「東(ひがし)六条」この附近(グーグル・マップ・データ)。東本願寺・西本願寺の北直近。

「ふとくしん」「不得心」。思慮がなく、無茶なこと。無作法なこと。]

 年(とし)は、四十にもあまりぬらんと、見えながら、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]念佛の一返をも、申《まうし》たる事、なし。

 あまつさへ、手くせ、わろく、ぬすみごゝろ、あり。

 物を買(かふ)とては、錢《ぜに》を、へぎとり、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、その家にありながら、朝夕の「めし米(ごめ)」・「たきゞ」までも、ぬすみて、賣(うり)しろ、なして、錢に、なし、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]が用の事に、つかひけり。

[やぶちゃん注:「へぎとり」「耗(へ)ぎ盜(と)り」。当該の金の一部を掠め取り。]

 九月のすゑかたに、夜《よ》ふくるまで、客(きやく)のありければ、夜食(やしよく)を、こしらへさする。

 此《この》下女、すなはち、米を、桶(をけ)に入《いれ》、うらの、井《ゐ》のもとの、「はた」[やぶちゃん注:「端」。「井戶端」。]に出《いで》て、水を、くみて、あらはんとせしが、俄《にはか》に、

「あら、おそろし、あら、かなしや、」

とて、うちたをれ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

 

Gejyowokorosuoni

[やぶちゃん注:底本の挿絵はここで視認出来る。挿絵の右上部にはロケーションの『京ひかし六条地内』というキャプションが囲みで記されてある。]

 

 人々、おどろき、たすけおこし、くすりを、のませければ、やうやう、よみがへりぬ。

 さて、

「いかなる事の有《あり》しぞ。」

と、いふに、下女、こたへて、いはく、

「井のもとの『はた』に、立《たち》りよけるところに、何とは、しらず、長(たけ)一丈もあるらんと、みえし入道、來《きた》り、わが『かうべ』を、つかむと、おぼえて、其後《そのあと》は、しらず。今も、『かうべ』は、うづき、いたむなり。」

と、いふ。

 髮(かみ)の中を見れば、大いなる「つめ」がた、三つ、あり。

 底(そこ)ふかく、入《いり》たる躰《てい》也。

 血も、いでずして、ただ、

「うづき侍る。」

とて、かなしみけるが、

「三日めに、死にけり。」と、見庵(けんあん)、かたられし。

[やぶちゃん注:「見庵」作者正三の情報屋であろう。医師かも知れない。]

平仮名本「因果物語」(抄) 正規表現・電子化注 始動 / 因果物語卷之四 〔一〕戀ゆへ、ころされて、其女につきける事

[やぶちゃん注:「因果物語」は、江戸初期の曹洞宗の僧侶・仮名草子作家で、元は旗本であった鈴木正三(しょうさん 天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年:本姓は穂積氏)が生前に書き留めていた怪異譚の聞書を、没後、門人でああった誰かが、寛文元(一六六一)年以前に勝手に出版したものである。当該ウィキによれば、この平仮名本「因果物語」は、『正三の』生前の『戒めに反し』、『勝手に平仮名本が刊行され』、しかも、『その内容には偽作されたものなどが含まれていたため、弟子たちが正本として発表した』片仮名本「因果物語」(全三巻)である。『片仮名本の序文を書いた雲歩和尚は、先行して世に出ていた平仮名本を「邪本」と呼んで非難している』とある。以下、出版及び影響などが続くが、ご自分で見られたい。何故なら、私は、この事情をよく知っており、既に、このブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で、正本である『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版)』全篇の正字電子化オリジナル注附きで、完遂しているからである。

 底本は、「国書データベース」の「酒田市立光丘文庫」のマイクロ収集になるものの画像を使用する(リンクは第一話の「因果物語卷之四 〔一〕戀ゆへ、ころされて、其女につきける事」である)。私は、本書の活字本は、全十篇のみの抄録である岩波文庫の高田衛校注の「江戸怪談集(下)」(一九八九年刊)に載るものしか所持していない。高田先生の巻末の「解説」によれば、その抄録対象を選ばれた理由を述べておられ、この「平仮名本」の『巻四―六については、『片仮名本・因果物語』の内容と関係のうすい、『平仮名本』の独自な増補部分と見なすことができる。本巻収録の説話は、この巻四―六の部分に限定して、選抜したものである』とされておられる。そちらでの底本は、『東洋文庫蔵本』の『十二行本で大本三冊で刊記はない』とある。されば、同文庫のものを、OCRで読み込み、上記底本で、表記を正字に直して電子化する。ここに、高田先生に御礼申し上げるものである。

 因みに、これを以って、私は、この岩波の全三巻の「江戸怪談集」に所収する作品は、総て、正字表現で、ブログでの電子化を終えることとなる。言っておくと、その内、先の「疑殘後覺」(抄)と、『本平仮名本「因果物語」(抄)』以外の怪談集は、独自に全篇を、原本に当たって、正字表現で電子化したものである。この高田先生の「江戸怪談集」は、私が結婚する直前の三十二歳の時、貪るように読んだ、謂わば、私がブログの「怪奇談集」を始める遠い根っこに当たる、忘れ難い作品集であるから、個人的に、ある感慨がある作業となる。

 判読で、正字か異体字かを迷った場合は、正字を採用し、底本に振られている読みは、総てを( )で附し、難読と判断したものは、高田氏の振られたものを参考に、推定で歴史的仮名遣で、《 》で附した。

 底本では、「。」が、読点の代わりに打たれてある箇所が多くあるが、自由に読点に適宜代え、また、必要を感じた箇所には、句読点及び記号を私が挿入し、さらに読み易さを考えて、段落・改行を行う。濁音の記号がない場合は、私の判断で濁点を附した。それは、五月蠅いだけなので、注はしていない。

 但し、踊り字「〱」「〲」は生理的に厭なので、正字或いは「〻・々」に代える。

 注は、高田氏の附されたものを参考にさせて戴く。引用させて戴く場合は、その都度、それを明記する。

 標題は、抄録なので、底本の各篇の標題を参考に、「因果物語卷之○ 〔○〕」の形で、標題の上に附すこととした。

 では、始動する。因みに、初篇の標題の「ゆへ」の歴史的仮名遣の誤りはママである。本文中の誤字の場合は、必ず、割注する。

 挿絵のあるものは、岩波版にあるものをOCRで読み込み、補正して掲げる。]

 

因果物語卷之四 〔一〕戀ゆへ、ころされて、其女につきける事

 伊勢の國、「かとり」といふ所に、淺原(あさはら)七右衞門と云《いふ》牢人(らうにん)あり。

[やぶちゃん注:『伊勢の國、「かとり」』現在の三重県桑名市多度町(たどちょう)香取(グーグル・マップ・データ)。]

 一人のむすめを、もちたり。かたち、うるはしかりけり。

 被官(ひくわん)のものに、猪之介《ゐのすけ》とて、廿四、五のおとこ[やぶちゃん注:ママ。]の有りしが、此むすめを、思ひかけて、すきまを、ねらひ、さまざま、いひけれ共《ども》、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、なびかず。

[やぶちゃん注:「被官(ひくわん)のもの」この場合は、浪人「淺原(あさはら)七右衞門」が召し抱えている下人・使用人のこと。]

 かくて、猪之助[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、わづらひつき、うちふすまでは、なけれども、ものも、くはず、色、わろく、やせおとろへたり。

 「くすし」を、つけて、療治(れうじ[やぶちゃん注:ママ。])さすれ共《ども》、いかなるわづらひ共《とも》、しれず。

 日を、かさねてのちに、猪之助、ひそかに、傍輩(ばうはい)の下女に、かたりけるやうは、

「それがしのわづらひは、別(べち)の事に、あらず。かうかう、おもひそめたる事の、かなはずして、やまひと、成《なり》たり。此てい[やぶちゃん注:「體」。]ならば、さだめて、むなしく成《なる》べし。後《のち》の世こそ、悲しけれ。執心(しうしん)ふかく、まよひなば、むすめ子の御身も、思ふやうには、あるべからず。」

と、なみだを、ながして、かきくどきけり。

 下女、きゝて、大いに、おどろき、むすめの母に、かたりければ、母も、きもを、けして、七右衞門に、かたる。

 七右衞門、大いに、はらを、たて、

「譜代(ふだい)の下人として、主(しう)のむすめを、おもひかけて、その、のぞみを、とげぬ、とて、わがむすめの一代、『思ふやうにあるべからず。』といふこそ、いくけれ。」

とて、ふしてゐける猪之助を、ひき出《いだ》し、くびを、はねけり。

[やぶちゃん注:「譜代(ふだい)の下人」この場合は、「淺原」家に、代々、仕えていた使用人の意。]

 其夜《そのよ》より、かのむすめの目に、猪之介[やぶちゃん注:ママ。]が「ばうれい」[やぶちゃん注:「亡靈」。]、あらはれみえて、おそろしき事、かぎりなし。

 さまざまに、とぶらひを、いたし、門《かど》にも、窓(まど)にも、「牛王(ごわう)」を、をして[やぶちゃん注:ママ。「押(お)して」。]、ふせげ共《ども》、さらに、やまず。

 のちには、よる・ひるとなく、側につきそひて、はなれず。たゞ、むすめの目にのみ、みえて、餘人の目に、みえず。

[やぶちゃん注:「牛王」熊野神社・手向山八幡宮・京都八坂神社・高野山・東大寺・東寺・法隆寺などの諸社寺で出す厄難除けの護符「牛王(玉)宝印」(中世のものが「玉」が多い)のこと。図柄はそれぞれに異なるが、七十五羽の鴉を図案化した「熊野牛王」は有名(私は熊野三社総てのそれを書斎に配してある。私のブログのマイ・フォトの「SCULPTING IN TIME 写真帖とコレクションから」を見られたい。上段の一番左が熊野速玉大社(新宮)のもの、中央が一番のお気に入りの熊野那智大社、一番右が熊野本宮大社のものである)。その裏は、誓紙や起請文を書く際、神かけたものとするために用いた。]

 此《この》ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、むすめも、わづらひつきて、いくほどなく、むなしくなりけり。

 「繫念無量劫(けねんみりやうこう)」と、經に、とかれし也。

 執心(しうしん)、ふかく、思ひ入《いり》けるこそ、おそろしけれ。

[やぶちゃん注:「「繫念無量劫(けねんみりやうこう)」「一念五百生(ごひやくしやう)繫念無量劫」。「一念五百生」(たった一度だけ、妄想を心に抱いただけで、五百回も生死を重ねる輪廻の報いを受けること)と説かれるが、もし、妄想に強くとらわれてしまった時は、量り知れぬ長い時間に亙って、その罪を受け続けるということ。「般若心經」など、諸仏典に出るが、この語は、俗では、まさに、この話の如く、男女の愛執(あいしゅう)の持つ危うさについて言われることが多い。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 椋

 

Riyou

 

むくのき  松楊  棶

      【和名無久】

【音凉】

 

リヤン

 

本綱椋生江南林落間大樹葉似柹兩葉相當子細圓如

牛李生青熟黒其木堅重煑汁色赤其材如松其身如楊

故名松楊其陰可蔭凉故名椋其材中車輞

△按椋樹似欅而微白色其材堅重用爲榨酒木及柺杖

 其葉似櫧葉而薄團有鋸齒枯亦堅以葉靣可摩琢象

 牙鹿⻆及木噐勝於木賊其子黒色而圓如龍眼肉去

 皮者也小兒喜食之本草謂似柹葉者非也

 相傳曰源空上人出生日幡降下於此樹因名誕生木

 彼宗派之軰貴重其念珠【其木有作州久米郡】

加條木 閩中記曰其葉可用摩犀⻆象牙按此與椋同

 類者乎

 

   *

 

むくのき   松楊《しようやう》  棶《らい》

       【和名、「無久」。】

【音「凉《りやう》」。】

 

リヤン

 

「本綱」に曰はく、『椋《りやう》、江南の林落[やぶちゃん注:「林と村落」の意でとっておく。]の間に生ず。大樹の葉は、柹《かき》に似、兩葉、相《あひ》當《あた》り[やぶちゃん注:対生し。]、子《み》、細≪く≫圓《まどか》にして、「牛李《ぎうり》」のごとし。生《わかき》は青く、熟せば、黒し。其の木、堅重≪にして≫、汁に煑て、色、赤し、其の材、松のごとく、其の身、楊《やなぎ》のごとし。故に、「松楊」と名づく。其の陰(かげ)、蔭凉《いんりやう》なるべし[やぶちゃん注:涼しい爽やかな木蔭を作ることが出来る。]。故《ゆゑ》、「椋」と名づく。其の材、車輞《しやまう》[やぶちゃん注:車輪の外周に当たる輪の部分。]に中《あて》る。』≪と≫。

△按ずるに、椋《むく》の樹、欅(けやき)に似て、微《やや》、白色。其の材、堅重≪にして≫、用ひて、「榨酒木(しめぎ)」、及び、柺杖(をうこ/をうご[やぶちゃん注:ママ。「物を担う天秤棒」であるが、歴史的仮名遣は「おうこ(ご)」である。])に爲《つく》る。其の葉、櫧(かし)の葉に似て、薄く、團《まろ》く、鋸齒、有り。枯れても、亦、堅し。葉の靣《おもて》を以つて、象牙《ざうげ》・鹿⻆《しかづの》、及び、木≪に≫噐《うつは》を摩-琢(みが)くべし。木-賊《とくさ》より勝《すぐ》れり。其の子《み》、黒色にして、圓《まろ》く、「龍眼肉」の皮を去《さり》たる者のごとし。小兒、喜んで、之れを食ふ。「本草」に『柹の葉に似たり』と謂ふは、非《ひ》なり。

相《あひ》傳《つたへ》て曰はく、「源空上人[やぶちゃん注:法然。]、出生《しゆつしやう》の日、幡(はた)、此の樹に降-下(ふり《くだ》)る。因《より》て、「誕生木」と名づく。」≪と≫。≪されば、≫彼《か》の宗派の軰《やから》、其の念珠を貴重す[やぶちゃん注:「信徒は、誰もが、何より、椋の木の実で作った数珠を愛用する。」の意。]【其の木、作州久米郡《くめのこほり》に有り。】。

加條木《かでうぼく》 「閩中記《びんちゆうき》」に曰はく、『其の葉、用ひて、犀⻆《さいかく》・象牙を摩《みが》くべし。』≪と≫。按ずるに、此れ、椋《むく》と同類なる者か。

 

[やぶちゃん注:「椋」は、再び、真っ青になるくらい、日中で、全く異なる種である。従って、少なくとも、「本草綱目」の「椋」は「むく」と訓じてはダメで、「りやう(りょう)」と読まねばならない。無論、残念ながら、良安はそれに気づいておらず、反対に、「本草綱目」の記載の一部を「誤り」と言ってしまっているわけである。さて、中国では、「椋」は、

双子葉植物綱ミズキ目ミズキ科ミズキ属クマノミズキ Cornus macrophylla

であるのに対し、本邦の「椋(むく)」、「むくのき」は、「クマノミズキ」とは、縁も所縁もない、

アサ科ムクノキ属ムクノキ Aphananthe aspera

である。中文名は、シノニムで記されていたので、探すのにちょっと時間がかかったが、「維基百科」の「棶木」が、同種である(複数のシノニムがあるので、次のリンク先の「分類」のシノニムを参照されたい)。まず、ウィキの「クマノミズキ」を引く(注記号はカットした)。漢字表記は『熊野水木・女真』で、『山地に生える。和名は、三重県熊野に産するミズキ』(ミズキ属のタイプ種であるミズキ変種ミズキ Cornus controversa var. controversa )『の意味。熊野の地名がつくが、ミズキとともに日本全国各地でみられる』。『日本では、本州、四国、九州に分布し、山地に自生する。アジアでは、朝鮮、台湾、中国、ヒマラヤ、アフガニスタンに分布する』。『落葉広葉樹の高木で、樹高は』八~十二『メートル』『になる。枝は横に張り出し、枝先が上を向くミズキ科』Cornaceae『特有の樹形になる。樹皮は灰褐色から灰黒緑色で縦筋が入る。一年枝は緑色や赤褐色で、ほぼ無毛』で、四つから五つの『縦稜がある。葉は、長さ』一~三『センチメートル』『の葉柄をもって枝に対生し、形は卵形または楕円形で、先端は長い鋭尖頭で基部は』、『くさび形、縁は全縁。葉身の長さ』は、六~呪六センチメートル、『幅』三~七センチメートルで、『裏面は』、『やや粉』っぽい『白色になる』。『花期は』六~七月で、『新枝の先に、径』八~十四センチメートルの『散房花序をつける。花は多数の白色』四『弁花。果期は』十『月。果実は核果で、径』五『ミリメートル』『ほどの球形で』、『紫黒色に熟す』。『冬芽は裸芽で、黒っぽい毛に覆われた幼い葉が』二『枚』、『向き合い、先は白い毛があり』、『筆の穂先のようになる。枝先に頂芽がつき、枝には側芽が対生する。葉痕は突き出し、葉痕から稜が下方に伸びる。葉痕に維管束痕が』三『個』、『つく』。『ミズキはクマノミズキより花期は』一と『月ほど早く、葉は枝に互生する』とある。ミズキとの違いは、なかなか見分け難い。サイト「庭木図鑑 植木ペディア」の「クマノミズキ/くまのみずき/熊野水木」では、クマノミズキの豊富な写真とともに、ミズキとの判別法が写真附きで示されてあるので、是非、見られたい。また、森林インストラクターの Taku氏が主製作者であるサイト「かのんの樹木図鑑」の「クマノミヅキ」のページを見ると、材質について、『ミズキに比べると心辺材の境界が明瞭。心材はやや赤味を帯びることから,ミズキのように「こけし」などの材料には用いられにくい。しかし,ミズキよりも重硬で,薪炭材としての利用価値はミズキよりも高いとされる』とあって、「本草綱目」の記載と一致する

 一方、良安の記載では、ムクノキとなってしまっているので、ウィキの「ムクノキ」を引く(同前の処理をした)。漢字表記は『椋木』・『樸樹』で、『東アジアに分布する。単にムク(椋)、またはエノキ』(双子葉植物綱バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis 。先行する「榎」を参照されたい)『に似るため』、『ムクエノキ(椋榎)とも言う。果実は甘酸っぱく、ムクドリ』(スズメ目ムクドリ科ムクドリ属ムクドリ Sturnus cineraceus 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 椋鳥(むくどり) (ムクドリ)」を参照)『などの小鳥が集まる木で知られる。ざらついた葉が漆器などの研磨剤に』(良安の記載と一致する)、『かたい材は運動具などに利用される』。『成長が比較的早く、大木になるため、日本では国や地方自治体の天然記念物に指定されている巨木がある』(省略するが、下方の「日本の天然記念物」の項で、ムクノキの名木八つが、リストされてある)。『和名ムクノキの語源は諸説ある。ムクドリが実を好むのでムクノキになったという説。大木になると樹皮が剥がれてくることから、剥く(ムク)からムクノキになったという説。あるいは、ザラザラする葉を研磨剤に用いたことから、「磨く」を意味する古語「むく」から「むくの木」となったという説がある』。『「椋」を「むく」と読むのは国訓で、本来この字は、同様に落葉高木ではあるが』、『「ちしゃ」を意味する。ただし、「ちしゃ」の同定にはムラサキ科のチシャノキ』(ムラサキ科 Ehretioideae 亜科チシャノキ(萵苣の木)属チシャノキ Ehretia acuminata 。)『または』、『エゴノキ科のエゴノキ』(ツツジ目エゴノキ科エゴノキ属エゴノキ Styrax japonicus )『の二説あり(他にキク科のレタスもあるが』、『草本なので除外する)、真の椋がどちらかは判然としない』。『「椋」には「くら(蔵・倉)」の意味もある。この意味は、中国古典には見られない(「椋」音でその意味には「𢈴」を使う)が、日本独自の国訓ではなく、古代朝鮮に由来する』(ここは、なかなか興味深い事実であった)。『「椋」を含む地名や名字は多い。「むく」と読むものも「くら」と読むものもあり、「椋本」などはどちらでも読む』。『「むく」を訓とする字には「樸」もある。ただし』、『この字は同音の「朴(えのき、国訓 ほおのき)」と通じ、とくに現代中国の簡体字では「樸」の字形も「朴」であり』、『区別をしない』。『日本、中国、インドシナに分布する。日本国内では関東以西の本州から四国、九州でごく普通に見られ、屋久島、種子島にも分布する。琉球列島ではまれだが、沖縄島には分布する。ムクノキ属で唯一、日本に生育する』種でる。『主に山地から低地の森林内、山野に生育する。温暖な沿岸地に多くみられる。植栽もされ、特に人家周辺の神社などによく見かける』。『落葉広葉樹の高木で、高さは』二十~三十『メートル』、『幹の直径は』一メートル『以上になり、板根が発達する場合もある。樹皮は淡灰褐色で、若木の表面はほぼ平滑だが、樹齢に伴って縦に網目状の割れ目が生じて浅い筋が入り、老木では樹皮が大きく反って剥がれてくる。ケヤキのようにまだら状にはならない。一年枝は無毛で皮目が多い。生長が非常に早く、林の空き地などでいち早く大木になる』。『葉は互生し、長さ』四~十『センチメートル』『の卵形又は狭卵形で、葉縁は先端まで鋭い鋸歯があり、葉脚は』、『くさび状』で、『行脈を持つ。葉の形はケヤキによく似ているが、ケヤキよりも細長く大きめで、先端側の半分が細め、鋸歯が鋭いのが特徴である。葉の質は薄く、表面は細かい剛毛が生え、紙やすりのようにざらついている。秋になると黄色系に紅葉し、赤みがかることはほとんどない』。『花期は』四~五月頃で、『雌雄同株で、花には雄花と雌花がある。葉と展葉とともに葉の根元に淡緑色の小さな花を咲かせる。花の後に直径』七~十二『ミリメートル』『の球形で緑色の果実(核果)をつけ、同じニレ科のエノキよりも大きい。果期は』十月頃で、『熟すと』、『黒紫色になり、乾燥して食用になり、味は非常に甘く美味である』(良安の記載と一致する)。『ムクドリ、ヒヨドリ』(スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵯(ひえどり・ひよどり) (ヒヨドリ)」を参照されたい)、『オナガ』(スズメ目カラス科オナガ属オナガ Cyanopica cyana )、『などの小鳥が好んで果実を食べに集まり、種子の散布にも関与している』。『冬芽は、枝先に仮頂芽がつき、側芽が互生して枝に沿ってつき、横に副芽をつけることもある。冬芽は長楕円形で伏毛が生えており』、『全体に白っぽいが』、六~十『枚つく芽鱗の縁には毛がない。冬芽のすぐ下にある葉痕は半円形で、維管束痕は』三『個』、『ある』。『木材は建築材や器具材に利用される。材の質はやや堅く粘りがあるが、耐久性は低い。かたい材を利用してバットなどの運動具に用いられ、道具材、楽器材などにも使われる。 葉の裏のざらつき、ケイ酸質の毛で覆われているので、漆器の木地や角細工、鼈甲細工、象牙などの表面を磨くのに使われる』とあり、最期も良安の記載と完全に一致する。

 本篇の「本草綱目」の引用は、独立項ではなく、ヤナギ類の総論に当たる「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「松楊(ガイド・ナンバー[086-32b]以下)からの抄録である。全文を引用しておく(一部に手を加えた)。

   *

松楊【「拾遺」】   校正【「併入唐本」草椋子木】

 釋名【椋子木音凉時珍曰其材如松其身如楊故名松楊「爾雅」云椋卽來也其隂可䕃凉故曰椋木藏器曰江西人呼爲凉木松楊縣以此得名】

 集解【藏器曰松楊生江南林落間大樹葉如梨志曰椋子木葉似柿兩葉相當子細圓如牛李生青熟黒其木堅重煮汁色赤郭璞云椋材中車輛八月九月采木日乾用】

 木 氣味甘鹹平無毒主治折傷破惡血養好血安胎止痛生肉【「唐本」】

 木皮 氣味苦平無毒主治水痢不問冷熱濃煎令黒服一升【藏器】

   *

「牛李《ぎうり》」東洋文庫の割注では、『(李(すもも)の一種)』とあったが、スモモ属 Prunus ・サクラ属 Cerasus で、中文の「牛李」を探してみたが、見当たらない。そこで、素直に「維基百科」で「牛李」を検索したところ、当該ページがあった。分類を見ると、また、東洋文庫に騙されたことが判った。これは! 「李(スモモ)」どころじゃ、ネエわッツ!

バラ目クワ科パンノキ連パンノキ属 Artocarpus nigrifolius

だ! 和名は、なく、日本語で解説されたページもない。学名のグーグル画像検索で出てきた画像は、これだッツ! 英文当該種のウィキで、雲南省に植生するとあった。

「榨酒木(しめぎ)」醪(もろみ)から、液体だけを搾り出すための榨木(しめぎ)。

「櫧(かし)」「樫」「橿」とも書く。ブナ科Fagaceaeの一群の常緑高木。シラカシ・アカガシ・アラカシ・ウラジロガシなどの総称。

「木-賊《とくさ》」維管束植物門大葉植物亜門大葉シダ植物綱トクサ亜トクサ目 トクサ科トクサ属トクサ Equisetum hyemale 当該ウィキによれば、『表皮細胞の細胞壁にプラントオパール』(plant opal:植物の細胞組織に充填する非結晶含水珪酸体(SiO2.nH2O))『と呼ばれるケイ酸が蓄積して硬化し、砥石に似て茎でものを研ぐことができることから、砥草と呼ばれる』。『地下茎があって横に伸び、地上茎を直立させる。茎は直立していて』、『中空で節がある。茎は触るとザラついた感じがし、引っ張ると節で抜ける。節の部分にはギザギザのはかま状のものがあって、それより上の節の茎がソケットのように収まっているが、このはかま状のぎざぎざが葉に当たる。茎の先端にツクシの頭部のような胞子葉群をつけ、ここに胞子ができる』。『トクサ科』Equisetaceae『の植物は石炭紀から存在すると言われている。石炭紀の大気は助燃性を持つ酸素の濃度が高かったため、稲妻などにより引き起こされる野火のリスクは現在よりもはるかに高かった。トクサは耐火性のあるケイ酸を蓄積することで、野火から生き延びるよう進化したと考えられている』とあった。

「龍眼肉」ムクロジ目ムクロジ科リュウガン属リュウガン Dimocarpus longan の果肉。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『中国南部やインドが原産といわれる。果樹として主に東南アジア地域で広く栽培されている。果実の主な生産地は福建省など中国南部、台湾 (特に南投県と嘉義県が一番有名)、タイ、ラオス、インドネシア、ベトナム。日本では鹿児島県の大隅半島や、沖縄などの一部地域に分布する』。「大和本草」には、『「薩摩に茘枝(れいし)竜眼の木もとより山にありと云う」の記述があり』、十八『世紀には日本で栽培されていたことがうかがえる』とあった。但し、ここで言っているのは、生の果肉を割ったそれではなく、漢方薬として果肉を乾燥させたものを指していよう。

「作州久米郡《くめのこほり》」美作国(みまさかのくに)にあった久米郡。但し、近世に久米北条郡・久米南条郡に分割されている。地域は当該ウィキの地図を見られたい。

「加條木《かでうぼく》」不詳。お手上げ。東洋文庫もダンマリである。

「閩中記《びんちゆうき》」東洋文庫の巻末の「書名注」では『不詳』とするが、調べたところ、台湾のサイトのこちらで、以下のような解説がなされてあった。『福州地域の文書を記録した古書は、三冊、存在し、孰れも「閩中記」と題されており、一冊目は東晋時代の晋安県知事陶夔作のものである。次いで、唐の太中五(八五一 )年に林諝が書いた 十 巻の内、その三部が、南宋の慶暦 三(一〇四三)年になって、林世程によって引き継がれたものの、その巻数は未詳であり、これら三種の年代記は、長い間、失われたままである。しかし、南宋の梁克嘉が、林世程の著書に基づいて「三山志」を編纂している』とあったので、その最後のものを指すか、或いは、前二者の佚文が残っているのかも知れない。なお、「閩中」は地方名で、福建省中部の三明市(永安市・沙県区)を中心とした地方を指す。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

2024/07/23

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 贅柳

 

Kobuyanagi

 

こぶやなき 正字未詳

 

贅柳

 

 

△按贅柳生山谷叢生髙五六尺葉似白楊葉而花穗與

 柳無異其木枝皆有縱脹起剥皮如堆文亦似人肬贅

 故呼曰贅柳木理濃美可以作牙杖

 

   *

 

こぶやなぎ 正字、未だ詳かならず。

 

贅柳

 

 

△按ずるに、贅柳、山谷に生じ、叢生す。髙さ、五、六尺。葉、白楊《まるばやなぎ》の葉に似て、花穗、柳と異《こと》なること無し。其の木・枝、皆、縱(たつ)に、脹《ふく》れ起《おこ》ること、有り。皮を剥げば、堆(うづたか)き文《もん》のごとく、亦、人の肬(いぼ)、贅《こぶ》に≪も≫、似たり。故《ゆゑに》、呼んで「贅柳《こぶやなぎ》」と曰ふ。木理(きめ)、濃(こまや)かにして、美なり。以つて、牙杖(やうじ)に作るべし。

 

[やぶちゃん注:これは、比定同定に困った。東洋文庫でも、一切、種名を出していない。そこで、私が所持する中で、最も信頼している小学館「日本国語大辞典」で引いた。あった! しかし……そこには……疑問を添えつつも、『植物「いぬこりやなぎ(犬行李柳)」の異名か。《 季語・春 》*俳諧。誹諧発句帳―春・柳「葉かすみのかかるはあやしこぶ柳<親重>*俳諧。毛吹草―五「用よけに精を入るやこぶ柳<栄正>」*和漢三才図会―八三「贅柳(コブヤナキ)』とあり、「語源説」として『その根に瘤を生ずるところから〔俚言集覧〕』とし、「発音」として『コブヤナギ』と、例示に本項が引かれてしまっているからである。私は既に、前項の「𣏌柳」で、それを、双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属イヌコリヤナギ Salix integra に比定同定してしまっているからである。私は、それなりに、手順を踏んで、日中の記載を調べ、それを決定している。

 されば、どうするか?

 まず、一つ、気になったことがある。それは、「語源説」の「俚言集覽」(国語辞書。福山藩の漢学者太田全斎が、自著の「諺苑 」(げんえん)を改編増補したものと考えられているもので、十九世紀前期の成立。全二十六巻。石川雅望(まさもち)の「雅言集覧」に対するものとして書かれたらしく、口語・方言を主として扱い、諺も挙げてある。配列は五十音の横段(ア~ワ/イ~ヰのように)に従う。後、井上頼圀・近藤瓶城が普通の五十音順に改め、増補刊行した「增補俚言集覽」全三冊が一般に利用されている。江戸時代の口語資料として重要。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)の引用である。そこには、

『その根』(☜)『に瘤を生ずる』

とある。ところが、良安は、ここで、

『其の木・枝』(☜)『皆、縱(たつ)に、脹《ふく》れ起《おこ》ること』が『有』って、その木、或いは、枝の『皮を剥げば、堆(うづたか)き文《もん》の』ようなものが視認でき、それは、『亦、人の肬(いぼ)、贅《こぶ》に≪も≫、似』ている。

と言っている点の齟齬である。

肬・瘤が生ずる部位が違う

のである。これは、孰れの記載も、いい加減ではない形で、その部位を指定しているのである。

ということは、太田全斎の言っている「イボヤナギ」と、良安がここで指示している「イボヤナギ」は異なる種だということになる。とすると、これは、

●「イヌコリヤナギ」ではなく、「コリヤナギ」(ヤナギ属コリヤナギ Salix koriyanagi )ではないか?

或いは、

●「イヌコリヤナギ」の個体の中で、何らかの寄生病原体によって肬状・瘤状の変形が生じた異常個体ではないか?

という仮説を、私は、この時点では、持ったのだが、気になったので、国立国会図書館デジタルコレクションの「俚言集覽 中卷」(村田了阿編・井上頼圀/近藤瓶城・増補/一九六五年名著刊行会刊)で確認してみた(左ページ上段四~五行目)。電子化する。《增》は、原本では「增」の囲み字。

   *

癭(コブ)柳 〔鷹筑波〕氣力もやあればそ力こぶ柳《增》水楊の一種根に瘤を生す枝の心[やぶちゃん注:芯。]にて柳ごりを製す𣏌柳ともいふ

   *

おい、おい! ヤバいぞ! 『𣏌柳ともいふ』とあるやないか!

……と……その瞬間……実は、私は……昨日……前回の「𣏌柳」を注している最中……

チラと――ある――素朴な疑問を抱いたことを思い出した

のである。それは、

……『「杞柳」で「役に立たない柳」の意味なのに、「本草綱目」には、「車の轂(こしき)にするとよい」と言い、「その枝を処理を施して編んで、箱-篋(はこ)を作る」と言ってる。……かの「孟子」にも、「盃を作る」と書いてある、というじゃないか? 良安も、「その枝で篋(はこ)」則ち、「柳行李」を「作る」と言い、その皮を金瘡(刀剣・包丁等による切り傷)の妙薬としているじゃないか? これ、十全に役に立ってるやんか? なんで、こんな名前にしたんやろ?』……

という不審である。

 私は、前回では、あくまで、「杞柳」の日中の漢字表記、及び、学名を比定同定の「伝家の宝刀」としたのであるが、

……これ……考えてみりゃあ……なんだな……

……「イヌコリヤナギ」……

……「犬行李柳」……

……「犬」だ!

◎この「犬」は、諸生物の和名や通称で――『非常によく似ているが、「役に立たない」種の卑称の接頭語』――じゃないか!!!

と、遅蒔きながら、ようよう、気がついたのであった。則ち、

★前の「𣏌柳」こそが、漢名に偽りありであって、それこそが、由緒正しい、ヤナギ属コリヤナギ Salix koriyanagi であって、この「贅柳」の方こそが、イヌコリヤナギ Salix integra である

という結論に至ったのであった。

 仕切り直す。さても。この「贅柳」は、

双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属イヌコリヤナギ Salix integra

である。「維基百科」の「杞柳」を見られたい。本邦のウィキの「イヌコリヤナギ」を引く(注記号はカットした)。『犬行李柳』は、『水辺などに生える。栽培品種であるハクロニシキ(白露錦、学名:S. integra 'Hakuro Nisiki')がよく栽培されている』。『北海道〜九州』『朝鮮に分布する落葉低木』とあるが、これは、誤りである。「維基百科」の「杞柳」の「分布」に、『日本・ロシア・北朝鮮・安徽省吉林省・河北省・黒竜江省・遼寧省など中国大陸に分布し』、『安徽省撫陽市扶南県は、中国林業局によって「中國杞柳之」に選ばれた』とある。『樹高は』一・五『メートル』『ほどで、幹径は』十『センチメートル』『ほどになる。一年枝は真っ直ぐに伸びて、小枝は折れにくい。樹皮は暗灰色で滑らかだが、老木になると縦に裂ける。一年枝は黄褐色で無毛である。花期は』三~四月で、『雌雄異株。種子は白い毛が生えている。冬芽は小さく、卵形で無毛』、一『枚の芽鱗が帽子状に被っている。枝先に仮頂芽を』二『個』、『つけ、側芽は枝に対生するが、ずれたり』、『互生することもある。葉痕はV字形で維管束痕が』、三『個』、『つく』。『名前の由来は、コウリヤナギ(コリヤナギともいう)』(コリヤナギが正式和名であるが、漢字表記は「行李柳」である。ヤナギ属コリヤナギ Salix koriyanagi 『に似ているが、役に立たないという意味から。中国名は、杞柳』とある。この場合の「杞」=「𣏌」は、ご存知の「杞憂」の中国古代の国名である。杞の国の人が、「天が、崩れ落ちてくるのではないか?」と心配したという、「列子」の「天瑞」篇の故事から、「心配する必要のないことをあれこれ心配すること・取り越し苦労」の意に転じた。古くは「杞人の憂へ」とも言った。

 さて。厳密には、

――イヌコリヤナギに、根、或いは、幹・枝に、病変のようなイボ状・コブ状のものが生じ、

――コリヤナギには、それが発生しないという事実確認が出来ないと、決定打とはならない

のだが、流石に、ネット上にそのようなことまで書いてくれている日・中の記事は、ない。どなたか、お教え下さったら、恩幸、これに過ぎたるはない。

 なお、これより、前の「𣏌柳」の注の全面改訂に取り掛かる。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 𣏌柳

 

Kiryu

 

きりう

 

𣏌柳

 

キイ リウ

 

本綱𣏌柳生水旁葉粗而自木理微赤可爲車轂今人取

[やぶちゃん字注:後で全文を見せるが、「自」は「本草綱目」では、『杞栁生水旁葉粗而白木理微赤』であって、誤字である。訓読では「白」に直した。]

其細條火逼令柔屈作箱篋孟子所謂𣏌栁爲杯棬者是

△按𣏌柳毎夏採氣條三四尺者剥去皮作篋白色光澤

 名柳行李壓于物不損旅行必用之噐也多出於藝州

 嫩木時剥皮故大木希也其皮縛金瘡甚佳

 

   *

 

きりう

 

𣏌柳

 

キイ リウ

 

「本綱」に曰はく、『𣏌柳、水の旁《かたはら》に生ず。葉、粗くして、白≪し≫。木理《きめ》、微《やや》、赤くして、車の轂《こしき》[やぶちゃん注:車輪の輻(や)の集まる中央部分の名称。]に爲《な》すべし。今人《こんじん》、其の細き條《えだ》を取り、火≪に≫逼《ちか》≪づけ≫、柔《やはら》ならしめ、屈《たは》めて、箱-篋《はこ》を作る。「孟子」≪に≫所謂《いはゆる》、「𣏌栁、杯-棬《はいけん/さかづき》≪を≫爲《つくる》。」とは、是れなり。』≪と≫。

△按ずるに、𣏌柳、毎夏、「氣條(ずはい)」[やぶちゃん注:東洋文庫訳で割注して、『真直ぐに高くそびえて生え出ている枝』とある。]、三、四尺の者を採りて、皮を剥(は)ぎ去《さり》、篋《はこ》に作る。白色≪にして≫、光り、澤《うる》はし。「柳行李(《やなぎ》かうり)」と名づく。物に壓(お)されて≪も≫、損ぜず、旅行必用の噐《うつは》なり。多≪くは≫、藝州に出づ。嫩木《わかぎ》の時、皮を剥《はぐ》故《ゆゑ》に、大木、希(まれ)なり。其の皮、金瘡《かなさう》を縛(くゝ)りて、甚だ、佳《よ》し。

 

[やぶちゃん注:【二〇二四年七月二十三日:注の全面改訂を行った。それは、日中の漢名及び学名の完全一致を見て、本種を、何の疑問もなく、双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属イヌコリヤナギ Salix integra に比定同定したのであったが、次項の「こぶやなぎ 贅柳」(既に先ほど公開した)を考証する内に、そちらこそが、「役に立たない柳」=「𣏌柳」(「𣏌」は「杞」の異体字)であることが、事実として判ったからである。】この「𣏌柳」は、現行では、日中ともに、

双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属イヌコリヤナギ Salix integra

に比定同定されている。この事実は、「維基百科」の「杞柳」、及び、本邦のウィキの「イヌコリヤナギ」の漢名、及び、学名が一致しているのを見られたい。

 しかし、この和名

「犬行李柳」

とは、

「行李柳」にそっくりだが、「役に立たない(=犬)柳」の意味

である。

 しかし、この項、「本草綱目」の引用には、「車の轂(こしき)にするとよい」と言い、「その枝を処理を施して編んで、箱-篋(はこ)を作る」と言っている。そればかりか、かの「孟子」にも、「盃を作る」と書いてある、とする。良安も、「その枝で篋(はこ)」=「柳行李」を「作る」と言い、その皮さえも、「金瘡」(刀剣・包丁等による切り傷)の妙薬だと太鼓判を押している点で、一貫している。これは、即ち、ぺらぺらの樹皮に至るまで、利用出来ない部分は一ヶ所もない――万能の柳――だと言っているのである。これは、真逆である!!!

 従って、本種は、「イヌ(犬)」でない方、真正の、

双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属コリヤナギ Salix koriyanagi (辞書(後に引用した)を見ると、古くは「コウリヤナギ」と呼んでいたものが、縮約され、それが和名になったとする。しかし、もし、これが事実であるなら、最初にその種を名指したものを、正式和名とするのが、厳しく守られた規則であるからして、本種は「コウリヤナギ」とすべきである)

であると考えないと、合わないことが判明したのである。

 平凡社「世界大百科事典」の「コリヤナギ」から引く(コンマは読点に代えた)。『ヤナギ科の落葉低木で、水辺に栽培される。長さ』に名著『内外の枝を集めて、皮をむいて柳ごうりを作る。和名のコリヤナギはコウリヤナギが詰まったものである。朝鮮から移入されたものといわれ、江戸時代には広く用いられていた。雌雄異株で、高さ』二~三メートル『になる。葉は長さ』六~十一・五センチメートル、『幅』六~十八ミリメートル。『花期は』三『月。葉が展開するよりも早く、細い円柱状の尾状花序を出す。雄花序は長さ』二~三センチメートル、『雌花序は』一・五~二・七センチメートル、『苞の先が黒色で、初めは花序全体が黒色に見える。兵庫県豊岡が名産地であるが、高知・長野県などでも栽培される。バスケット、果物かご、いすなどをつくるほか』、『切花にもする。なお』、『近縁のイヌコリヤナギS.integra Thunb.が日本にも野生するが、こうりは作らず』、『切花にする程度である』とあった。なお、本種の中文名は「尖葉紫柳」である。「維基百科」は乏しい(あるだけマシで、邦文のウィキは、ない)。そこには、『北朝鮮・日本・中国の遼寧省に分布し、標高百七十メートルから千四百メートルの地域に植生するが、現行、人工的移植導入や栽培は未だ行われていない』とある。以上の「世界大百科事典」の記載から、その樹皮・用材が多様の便に供せられてきたことは、はっきりした。本文の「本草綱目」や、良安の評価とも一致する。最早、「𣏌(=杞)柳」が、正真のコリヤナギであることは、明白である。しかし、いつの時代か判らないが、明らかに明よりもずっと前の中国で、見た目がよく似ているイヌコリヤナギと一緒くたになって、「杞柳」と中文名が記載されてしまい、それが固定し、近代に至って、そのまま、中国で本家コリヤナギに「杞柳」を標準中国名としてつけてしまったものと、私は、推理する。

 本篇の「本草綱目」の引用は、独立項ではなく、ヤナギ類の総論に当たる「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「桞」(ガイド・ナンバー[086-23a]以下)の「集解」からの抄録である。当該部総てをコピー・ペーストしておく(一部の表記に手を加えた)。

   *

杞栁生水旁葉粗而白木理微赤可爲車轂今人取其細條火逼令柔屈作箱篋孟子所謂杞栁爲桮棬者魯地及河朔尤多

   *

『「孟子」≪に≫所謂《いはゆる》、「𣏌栁、杯-棬《はいけん/さかづき》≪を≫爲《つくる》。」と』これは「孟子」の「告子章句上」の次の一節。

   *

告子曰、性猶杞柳也、義猶桮棬也、以人性爲仁義、猶以杞柳爲桮棬、孟子曰、子能順柳之性而以爲乎、將賊戕杞柳而後以爲桮棬也、則亦將戕賊人以爲仁義與、率天下之人而禍仁義者、必子之言夫。

   *

告子、曰はく、

「性(せい)は、猶ほ、杞柳(きりう)のごときなり。義は、猶ほ、桮棬(はいけん)のごときなり。人の、性を以つて、仁義を爲すは、猶ほ、杞柳を以つて、桮棬を爲(つく)るがごとし。」

と。

 孟子、曰はく、

「子は、能(よ)く、杞柳の性に順(したが)ひて、以つて、桮棬を爲るか。將(は)た、杞柳を戕賊(しやうぞく)して[やぶちゃん注:通常は、「人を殺害して」の意だが、ここは「杞柳の持っている本性に、逆らって、無理矢理、加工して」の意である。]、而(しか)る後(のち)、以つて、桮棬を爲るか。如(も)し、將(は)た、杞柳を戕賊して、以つて、桮棬を爲らば、則ち、亦、將た、人を戕賊して、以つて、仁義を爲(な)すか。天下の人を率(ひき)ゐて、仁義に禍(わざは)ひする者は、必ず、子の言(げん)なるかな。」

と。

   *

私は、個人的には、「孟子」が嫌いである。諸子百家の主な書は所持している中で、「孟子」だけは、所持していない。ここにあるような、論理的な鏡像のように整然と対句で相手を黙らせるところに、「惻隱の情」とは正反対の、冷徹な予定調和思想を感じるからであろうと思う。私の一番好きな中国の哲学書は「莊子」である。改訂する前の注では、この注を忘れていたのも、生理的嫌悪感が作用したためであった。今回、改めて補足した。

「氣條(ずはい)」意味は割注した通りであるが、後の後の「卷八十五」の巻末にある「樹竹之用」の「うへき 樹」にある当該箇所を、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版で示しておく。当該箇所は左ページの解説本文の二行目の中央にある。ここと同じ仕儀で、電子化・訓読しておく。なお、この原文の「ズハイ」も、以下に出る原文の「スバヱ」も、歴史的仮名遣としては、誤りで、正しくは、当初は清音で、「すはえ」(後世では「ずわえ」とも)である。「須波惠」は当て字なので、「惠(ゑ)」は無効である。

   *

木翹高起曰翹楚【俗云須波惠】斫過樹根傍復生嫩條蘖【與木同。】

   *

木、翹《ぬきんで》て、高く起《た》つを、「翹楚(すばゑ)」と曰《い》ふ【俗に云ふ、「須波惠」。】。

   *]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 扶栘

 

Yoropayamanarasi

 

ふいのやなぎ 移楊 唐棣

       高飛 獨搖

扶栘

 

フウ イン

 

本綱扶栘生江南山谷與白楊是同類二種樹大十數圍

圓葉弱蒂微風則大搖故名之花反而後合

木皮【苦有小毒】 燒作灰置酒中令味正經時不敗

白楊與移楊並雜五木皮煮湯浸將損痺諸痛腫去風

和血

五木湯 桑 槐 桃 楮 柳是也

△按桑槐萍蓬草 忍冬 風藤等草木相和煎湯浴之【倭方】

 

   *

 

ふいのやなぎ 移楊《いやう》 唐棣《たうてい》

       高飛《かうひ》 獨搖《どくやう》

扶栘

 

フウ イン

 

「本綱」に曰はく、『扶栘は、江南の山谷に生ず。白楊《はくやう》と、是れ、同類二種≪なり≫。樹の大いさ、十數圍《かこひ》。圓《まろ》き葉、弱き蒂《てい》[やぶちゃん注:前の「白楊」にも出た通り、この場合は「へた」ではなく、「葉を支えている葉柄(ようへい)」のことを指す。]、微風、ふけば、則ち、大いに搖《ゆる》ぐ。故に、之れを名づく。花、反《そり》て、後《のち》、合《がつ》す。』≪と≫。

『木の皮【苦。小毒、有り。】 燒《やき》て、灰と作《なし》、酒≪の≫中に置《お》≪けば≫、味をして、正《ただし》く≪し≫、時を經て≪も≫、敗《くさら》ざらしむ。』≪と≫。

白楊(まるばやなぎ)と、移楊《いやう》と、並《ならびに》[やぶちゃん注:どちらも。]、五木の皮に雜(ま)ぜて、湯に煮《に》、浸《ひた》≪せば≫、損痺《そんひ》[やぶちゃん注:広義の「痺(しび)れ」や「痛み」。]・諸痛腫を將(さ)り[やぶちゃん注:「將」は動詞として「去る」の意がある。]、風《かぜ》[やぶちゃん注:風邪。]を去り、血を和《なごま》す。

「五木湯《ごもくゆ》」は、桑(くは)・槐(ゑんじゆ[やぶちゃん注:ママ。])・桃(もゝ)・楮(かうぞ)・柳(やなぎ)、是れなり。

△按ずるに、桑・槐・萍蓬草(かはほね《ぐさ》)・忍冬《すいかづら》風藤《ふうとう》等の草木、相《あひ》和(ま)ぜて、湯に煎《せん》じて、之れを浴(あび)る【倭方《わはう》。】

 

[やぶちゃん注:「扶栘」と「ふいのやなぎ」というのは、日中では、同属ながら、種としては、異なる。中国語の「扶栘」は、

双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属ヨーロッパヤマナラシ Populus tremula

を指すのに対し、本邦の「ふいのやなぎ」というのは、ヨーロッパヤマナラシの変種で、日本固有種である、

ヤマナラシ属ヨーロッパヤマナラシ変種ヤマナラシ Populus tremula var. sieboldii

であるからである。東洋文庫訳では、「本草綱目」の引用の「扶栘」に割注して、『(ヤナギ科ヤマナラシ)』としてしまっているので、厳密には、アウトである。前者のヨーロッパヤマナラシは日本語のウィキがないし、「維基百科」にもないので、取り敢えず、英文の同種のページを見ると(但し、かなりの箇所に「要出典」がかけられてある)、ヨーロッパヤマナラシは、『旧世界の冷温帯地域原産のポプラの一種で』、『高さ四十メートル、幅十メートルまで成長する大きな落葉樹で』、大きく成長した個体の『幹の直径は一メートルを超える』。『樹皮は若木では淡い緑がかった灰色で、滑らかで、濃い灰色のダイヤモンド形の皮目があり、古木では、濃い灰色で亀裂が認められる』。『成木の枝に生える成葉は、ほぼ円形で、長さより、わずかに幅の方が広く、直径二~八センチメートルで、縁には、粗い鋸歯があり、横に平らな葉柄は長さ四~八センチメートルである。平らな葉柄は、僅かな風でも葉を震わせることが可能で、これが学名の由来である』(調べたところ、種小名はラテン語の“tremula”で、これは「震える」の意である。もうお分かりと思うが、音楽用語の「トレモロ」(イタリア語“tremulo”)と同語源である)。『苗木や、急速に成長する吸芽(根の芽)の茎の葉は、異なる形をしており、ハート形から、ほぼ三角形である。それらはまた、二十センチメートルの長さにも達する、遙かに大きいことが多く、葉柄も、それほど平らではない』。『花は風媒花で、新葉が出る前の早春に咲く。雌雄異株で、雄花と雌花は別の木に咲く。雄花は緑と茶色の模様があり、花粉を散布する際の長さは五~十センチメートル。雌花は緑色で、受粉時の長さは二~六センチメートルで、初夏に成熟し、十~二十個(或いは五十~八十個)の莢(さや)を結実させ、莢には、多数の小さな種子が綿毛(わたげ)の中に埋め込まれてある。綿毛は、成熟して、莢が裂ける際、種子が風で散布されるのを助ける』。『他のポプラと同様に、この木は吸芽(根の芽)によって広範囲に広がり、親木から最大四十メートル離れたところまで成長し、広大なクローン群落を形成する。これによって、不要な木を、一帯から除去する作業が特に困難になることがよくある。これは、表面の成長が、総て除去された後でも、新しい吸芽が、最大、数年間に亙って、広範囲の根系から、芽生え続けるためである』という。『本種はヨーロッパとアジアに自生しており、アイスランドとイギリス諸島から、東はカムチャッカ半島、北はスカンジナビア半島と、ロシア北部の北極圏内、南はスペイン中部、トルコ、東は、中国の天山山脈、北朝鮮、日本北部にも分布している』。『植生域の南部では、山岳地帯の高地に分布する』。『非常に丈夫な種であり、長く寒い冬と、短い夏に耐える』。『公園や大きな庭園で栽培され』ている。『材質は、軽く、柔らかく、収縮が殆んどない。木材やマッチに使用されるが、パルプや製紙業界でも高く評価されており、特に筆記用紙として役立つ』。『その丈夫さと急速な成長と再生能力を考えると、再生可能エネルギー用の木材の生産に重要な役割を果たし』ており、『生態学的には、多くの昆虫や菌類が恩恵を受けるため、この種は重要である。この木はさらに、若い森林を必要とするいくつかの哺乳類や鳥類の棲息地を提供している』とあった。なお、たまたま、「プログレッシブ ロシア語辞典(露和編)」の解説を見つけたところ、ロシア語でヨーロッパヤナマラシは“оси́на”(音写「アシナ」)で、『ユダが首を吊った木との伝承から』、『不吉な木とされる』とあったことを添えておく。なお、良安は、本邦の固有種であるヤマナラシ生体の木自体には言及していないので、特に必要を感じないが、一応、本邦固有種のウィキの「ヤマナラシ」をリンクさせておく。一部のみ引用する。そこには、ヤマナラシ=「山鳴らし」の『名は、葉がわずかな風にも揺れて鳴ることから。箱の材料にしたことから』、『ハコヤナギ』『(箱柳、白楊)の別名もある』(この後半部は、前項の真正の「白楊」(前項)と混同する危険性があるので注意されたい。)『日本固有種で、北海道から九州にかけて分布』し、『丘陵や山地に自生する』。『樹高は』十~二十五『メートル』『になる』。『大きな木では』一『本立ちする』。『樹皮は灰白色で菱形の皮目が目立つが、老木では黒みを増して縦に裂ける』。『若木は樹皮の白みが強く、触ると白い粉がつく』。『一年枝ははじめ白い毛があるが、のちに無毛になり、短枝もよく出る』。『葉は互生し』、七~十五『センチメートル』『ぐらいで』、『広楕円形から菱状卵形』を成し、『下面は灰白色。あまり風がなくとも、サラサラと葉擦れ音がし、強風ではザワザワと音が大きい』とある。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「扶栘」(ガイド・ナンバー[086-31b]以下)からのパッチワークである。

「唐棣《たうてい》」この「棣」は、双子葉植物綱バラ目バラ科スモモ(李)属ニワウメ(庭梅)亜属 Lithocerasusニワウメ Prunus japonica を指す。漢字表記及び中国語では「郁李」(いくり)。当該ウィキによれば、『中国華北、華中、華南などの山地に自生し、日本へは江戸時代に渡来した』。『観賞用のために広く栽培されている』とあった。「本草綱目」によれば、「爾雅」出典である。なお、実は、項目標題の「扶栘」の「栘」も、このニワウメを意味する漢語である。

「高飛《かうひ》」「獨搖《どくやう》」孰れも素敵な異名ではないか!

「白楊《はくやう》」前項を参照されたい。

「花、反《そり》て、後《のち》、合《がつ》す」グーグル画像検索「populus tremula flowerをリンクさせておく。

「五木湯《ごもくゆ》」は、小学館「日本国語大辞典」によれば、桑・柳・桃・楮(こうぞ)・槐(えんじゅ)などの五木を煎じて入れた入浴用の薬湯。また、内服用の煎じ薬。脚気にきくという。初出は「日葡辞書」とする。「五木」は、同辞典で、『五種の木。特に江戸時代、領主が伐採を禁じた有用樹(保護樹)。七木、九木を禁木に指定した藩もあるが、尾張藩の木曾山では、檜(ひのき)、椹(さわら)、明檜(あすひ)』(裸子植物門マツ綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ亜科アスナロ属アスナロ Thujopsis dolabrata )、『𣜌子(ねずこ)』(ヒノキ亜科クロベ属クロベ Thuja standishii )『高野槇(こうやまき)』(ヒノキ目コウヤマキ科コウヤマキ属コウヤマキ Sciadopitys verticillata )『の五木を停止木(ちょうじぼく)として厳しく取締った。「県令須知」には、桑、槐』、『楡』、『柳、楮』『を五木としているが、これは木性に毒のない樹木を指す』。「ごぼく」とも読む、とあった。この「県令須知」(けんれいすうち)とは、十八世紀中頃に成立した地方書(じかたしょ)。著者は谷本教(たにもとのり 元禄二(一六八九)年~宝暦(ほうれき)二(一七五二)年)。本教は近江国の生まれで、通称は猶右衛門(ゆうえもん)、号は南湖子(なんこし)。知られた画家谷文晁の祖父である。若い頃から、民事に通達していたが、大津代官の手代(てだい)として治績をあげ、延享元(一七四四)年には新規御直抱(おじきかかえ)となって、江戸に召還された。後の寛延二(一七四九)年には御普請(ごふしん)役として、幕府勘定所詰となった。このような経験をもとに、郡代・代官らの農民支配上の心得に資するため、各地に残存する覚書類を分類・抜粋して著したのが本書である。全四巻からなり、検地・村里・検見(けみ)・水利・種芸の全五編が収められるが、記述は具体性に富み、有用な手引書となっていると、小学館「日本大百科全書」にあった。

「桑(くは)・槐(ゑんじゆ[やぶちゃん注:ママ。])・桃(もゝ)・楮(かうぞ)・柳(やなぎ)」これらは、「柳」を枝垂れる種に限定する他は、本邦のそれらと同種(群)である

「萍蓬草(かはほね《ぐさ》)」スイレン目スイレン科コウホネ属コウホネ Nuphar japonica 。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 萍蓬草(かはほね) (コウホネ)」を参照されたい。

「忍冬《すいかづら》」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica の漢方生薬名は「忍冬(にんどう)」「忍冬藤(にんどうとう)」。棒状の蕾を天日で乾燥したもの。

「風藤《ふうとう》」コショウ目コショウ科コショウ属フウトウカズラ Piper kadsura のこと。「風藤葛」。当該ウィキを見られたいが、サイト「猿島 専門ガイドツアー」の「◆フウトウカズラ」は必見! 私も遠足の担任引率で猿島(個人的には「怪奇大作戦」の遺愛の傑作24年目の復讐」のロケ地に行けて感激であった)に初めて行った際、本種を見た。]

2024/07/22

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 白楊

 

Marubayanagi

 

丸ばやなぎ  獨搖

 

白楊    【俗云丸葉乃

        夜奈岐】

ペツ ヤン

[やぶちゃん注:「獨搖」の「獨」は「㯮」に見え、「搖」は(つくり)の「缶」が「正」の上に橫画「一」が附された字である。困ったので、中近堂版を見たところ、「獨搖」とあった。「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」でも、「白楊」の項(ガイド・ナンバー[086-30a]直下より)の「釋名」の冒頭に「獨揺」とあったので、安心してそれを採用した。東洋文庫でも『独揺』とする。]

 

本綱白楊木身似楊微白故名白楊非如粉之白也木髙

大葉圓似梨而肥大有尖靣青而光背甚白色有鋸齒木

肌細白性堅直用爲梁栱終不撓曲其根不時碎札入土

卽生根故昜繁風纔至葉如大雨聲伹風微時其葉孤絕

𠙚則往往獨搖以其蒂長葉重大勢使然也

△按白楊爲牙枝名丸葉楊枝性韌於柳然治牙齒痛之

 功以柳爲勝京師大佛得長壽院棟梁木卽出於紀州

[やぶちゃん注:「棟」の(つくり)の「東」の中央の閉じた横画がないが、中近堂で「棟」とした。]

 熊野楊其長六十六閒【凡四十三𠀋余】蓋此白楊乎

 

   *

 

丸《まる》ばやなぎ  獨搖《どくえう》

 

白楊    【俗に云ふ、「丸葉乃

       夜奈岐《まるばのやなぎ》」。】

ペツ ヤン

 

「本綱」に曰はく、『白楊《はくやう》は、木の身《しん》、楊《やう》に似て、微《やや》白《しろし》。故《ゆゑ》に「白楊」と名づく。粉《こな》の白きごときなるに非ざるなり。木、髙く、大≪なり≫。葉、圓《まろ》≪くして≫、梨≪の葉≫に似て、肥大≪なり≫。尖《とがり》、有り。靣《おもて》、青くして、光り、背《うら》、甚だ、白色≪にして≫、鋸齒《きよし》、有り。木の肌、細(こま)かに≪して≫、白く、性、堅直なり。用ひて、梁《はり》・栱《ひじき》[やぶちゃん注:「肘木」。寺社建築などで、斗(ます:斗形。平面が正方形又は長方形の材)と組み合わせて「斗栱」(ときょう)を構成する水平材。参照した「デジタル大辞泉」に図があるので見られたい。東洋文庫訳では『けた』とルビするが、採らない。]と爲す。終《つひ》に、撓(たは)み《✕→まず、》曲(まが)らず。其の根、時ならず[やぶちゃん注:不意に。]、碎《くだけ》札《じにし》[やぶちゃん注:「死にし」。「札」には「夭折」・「流行病で死ぬこと」の意がある。私は、今、知った。]、土に入《いり》、卽ち、根を生《しやう》ず。故に、繁り昜《やす》く、風《かぜ》、纔《わづ》かに至れば、葉、大雨《おほあめ》の聲のごとし。伹《ただし》、風、微《わづか》なる時、其の葉、孤絕≪せる≫𠙚≪にありては≫、則ち、往往に≪して≫、獨り、搖(うご)く。其の蒂《てい》[やぶちゃん注:この場合は「へた」ではない。葉を支えている葉柄(ようへい)のことを指す。]、長く、葉、重きを以つて、大勢《たいせい》、然(しか)らしむるなり。』≪と≫。

△按ずるに、白楊《まるばやなぎ》は、牙-枝(やうじ)と爲し、「丸葉の楊枝」と名づく。性、柳より≪も≫韌(しな)へり。然れども、牙-齒《は》の痛みを治するの功は、柳を以つて、勝《まさ》れりと爲す。京師≪の≫大佛、「得長壽院《とくちやうじゆゐん》」の棟-梁(むなぎ)の木は、卽ち、紀州熊野より出でたる。≪その≫楊(やなぎ)、其≪の≫長さ、六十六閒【凡そ、四十三𠀋余。】。蓋し、此れ、白楊か。

 

[やぶちゃん注:「丸ばやなぎ」「白楊」とは何か? これには、かなり悩まされた。まず、東洋文庫訳では、解説本文の最初に出る「白楊」に割注して、『(ヤナギ科オオバヤマナラシ)』とするのだが、これを調べてみると、

✕双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属オオバヤマナラシ Populus grandidentata

なのだが、日中ともにウィキが存在しない。そこで、先ず、大不審を持った。さらに、英文のものを見たところが、このオオバヤマナラシ、北米原産で、主にアメリカ北東部とカナダ南東部に分布するとあって、日中には自生しないのである。これには退場以外はない。東洋文庫の大誤謬である。さて、さらに調べたところ、何のことはない、日本語のウィキに「マルバヤナギ」があるじゃないか!

キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属マルバヤナギ Salix chaenomeloides

である。以下、引用する(注記号はカットした)。『別名はアカメヤナギ、ケアカメヤナギ。川沿いなどに生える。細長い葉の種が多いヤナギ類の中で、本種の葉は丸みのある形をしていることからマルバヤナギの名がある。また、新芽が赤いことからアカメヤナギの別名がある』。『日本の本州(東北地方中部以南)・四国・九州と、朝鮮半島、中国中部以南の湿地に分布する。大きな川沿いでは普通に見られる』。『落葉広葉樹の高木。樹高は』十~二十『メートル』、『幹径は』三十~八十『センチメートル』『ほどになる。枝は横に張りだして、幅広の樹冠をつくる。樹皮は暗灰褐色で縦に裂ける。一年枝は緑褐色や紅紫色で、無毛である』。『花期は』四~五『月ごろで、ヤナギ属としては遅い方である。雌雄別株。葉は楕円形で、鋸歯のある円形の托葉が付属する』。『冬芽は鱗芽で互生し、三角形で無毛、褐色で』、『やや』、『つやがある。芽鱗は帽子状ではなく』、三『枚の芽鱗に包まれていて、合わせ目が枝側にあるのが特徴である。葉痕は隆起して浅いV字形となり、維管束痕は』三『個つく』とあった。「維基百科」を見る。同じ学名である。漢字表記は「腺柳」で、別名に「河柳」とあった。私が種を探すのに時間がかかったのは、実は、当初、ずっと、「白楊」という、私にとっては、すこぶる魅力的な「本草綱目」の項目名に惹かれ、中文サイトを探し続けてしまったからである。私もオオボケであった。「太田川河川事務所」公式サイトの「アカメヤナギ(マルバヤナギ)」も、これ、なかなか、いいのだが、無断引用を、一切、禁じているので引用はしないので、リンク先を読まれたい。ただ、そこで、種小名 chaenomeloides について、バラ目バラ科ナシ亜科の「ボケ属 Chaenomeles に似た」という意味である、とあったのである。学名のグーグル画像検索もリンクさせておく。

「獨搖《どくえう》」「白楊」この「風もないのに葉が揺れる木」という志賀直哉の「城之崎にて」みたような不思議な名と、私の心を捕えた「白楊」は、何故か、現代中国では、殆んど使われていないのには、ちょっとロマンティシズムを傷つけられたようで、淋しい気がした。花も葉も、とても魅力的であった。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「楊」(ガイド・ナンバー[086-30a]以下)からのパッチワークである。例によって、無茶なブツ切りの継ぎ接ぎで、『 』を細かに入れると、読み難くなるだけなので、諦めた。

「大勢《たいせい》、然(しか)らしむるなり」東洋文庫訳では、『自然にそのようになるのである』とある。

『京師≪の≫大佛、「得長壽院」』東洋文庫後注に、この「得長壽院」について、『吉田東伍『大日本地名辞書』によれば現在の東山区、蓮華王院南(八條の北)あたりにあったか、とあるが、現在では例えば平凡社『日本歴史地名大系』にみられるように、左京区岡崎にあったとされる。』とある。京都市の「京都市歴史資料館 情報提供システム フィールド・ミュージアム京都」の「得長寿院跡」によれば、『得長寿院は鳥羽上皇』の『御願寺の一つ。平忠盛』『が造営した観音堂には』、『十一面観音や等身聖観音千体が安置されており』、『現存する蓮華王院(三十三間堂)と同規模の建築であったといわれる』とあり、「所在地」は『左京区岡崎徳成町』として、拡大地図も載る。グーグル・マップ・データではここである。但し、この寺、平家が滅亡して三ヶ月後に京都周辺を震源とした「文治地震」(元暦二年七月九日午刻(ユリウス暦一一八五年八月六日十二時(正午)頃/グレゴリオ暦換算一一八五年八月十三日)によって崩壊していまっている。ただ、この前の「京師≪の≫大佛」というのは、不審である。

「六十六閒【凡そ、四十三𠀋余。】」「六十六閒」は百十九・九八メートルで、「四十三𠀋余」は百三十・二九メートルで、かなり、違うぞ? 別ソースか?]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 水楊

 

Kawayanagi

[やぶちゃん注:右上方に、本来なら、今まで本文で、「本草綱目」の引用の後に附す良安の識語が、挿入されている。但し、東洋文庫の後注によれば、これは『杏林堂版にはない』とある。因みに、国立国会図書館デジタルコレクションの本底本と同じ原本を活字化した中近堂の当該項を(この挿絵部分のキャプションじみたそれはそのまま)リンクさせておく。また、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の私と同じ原本当該画像もリンクさせておく。こうした良安の仕儀は異例であり、病跡学的には、前項で、時珍を批判した良安の精神的な変異を感じさせるように、私には思われてならない。なお、このキャプション的なそれは、今まで通り、本文の後ろに配しておくので、ここでは電子化しない(東洋文庫も同じ仕儀をしている)。但し、最後の二字「花狀」(花の狀《かたち》)は、そこにくねって挿入された花の形状へのキャプションであるので、外す

 

かはやなぎ 青楊 蒲柳

      蒲楊 蒲栘

水楊   栘柳 雚苻

     【和名加波夜奈木】

シユイ ヤン

 

本綱水楊葉圓濶而尖枝條短硬勁韌可爲箭笴有二種

一種皮正青一種皮正白可爲矢其花與柳同

白皮根 【苦平】治金瘡痛乳癰腫痘瘡【生擂貼瘡其熱如火再貼遂平】

 枕草紙さかしらに柳の眉のひろごりて春の面をふする宿哉淸少納言

△按川柳池川岸揷之

能活不大木而保土其

花附枝如螵蛸小靑緑

色綻白絮散生葉如楊

柳葉長而不圓也

 

   *

 

かはやなぎ 青楊《せいやう》 蒲柳《ほりう》

      蒲楊《ほやう》  蒲栘《ほい》

水楊   栘柳《いりう》 雚苻《かんぷ》

     【和名、「加波夜奈木」。】

シユイ ヤン

 

「本綱」に曰はく、『水楊、葉、圓《まろ》く濶(ひろ)くして、尖《とが》り、枝-條《えだ》、短くして、硬《かた》し』。『勁《つよく》韌《しなやか》にして、箭-笴《やがら》と爲すべし』。『二種、有り、一種、皮、正青。一種は、皮、正白≪なる物≫、矢に爲《な》すべし。其の花、柳と同じ。』≪と≫。

『白皮、及び、根』『【苦、平。】』『金瘡《かなさう》の痛《いたみ》、乳の癰腫《ようしゆ》[やぶちゃん注:乳癌。]、痘瘡《たうさう》[やぶちゃん注:天然痘。]を治す。』≪と≫。『【生《なま》にて擂(す)り、瘡《かさ》に貼(つ)ければ、其の熱、火のごとし。再たび、貼≪れば≫、遂《つひ》に平≪する≫なり。】』≪と≫。

 「枕草紙」

    さかしらに

        柳の眉の

     ひろごりて

        春の面《おもて》を

       ふする宿《やど》哉《かな》 淸少納言

△按ずるに、川柳、池・川≪の≫岸≪に≫、之≪れを≫揷≪せば≫、能《よく》、活《いきる》。大木にあらずして、土を保《たもつ》。其《その》花、枝≪に≫附《つき》、螵蛸《おほぢがふぐり》のごとく、小《ちいさ》く、靑緑色。綻《ほころび》て、白≪しろき≫絮《わた》≪を≫散≪らす≫。葉を生《しやう》≪ずると≫、楊柳の葉のごとく≪して≫、長≪くして≫、圓《まろ》からず。

 

[やぶちゃん注:これは、東洋文庫では種名を出さない。調べてみると、これは、

双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属カワヤナギ Salix gilgiana

を指す(諸論文を見るに、異名に「ナガバカワヤナギ」がある)。当初、私は「これではない」と感じた。それは、英文のウィキの同種のページを見ると、“Salix gilgiana is a species of willow native to Japan and Korea.”とあって、原産分布に中国が含まれていないからである(なお、中国の「維基百科」には同種は存在しない)。しかし、幾つかのカワヤナギの記載を調べた結果、福岡県自然環境課の制作になるサイト「福岡県の希少野生生物」の「カワヤナギ」のページを見たところ(大野氏執筆)、「分布(国内)」の項に、『朝鮮半島,中国,ウスリー』とあったので、胸を撫でおろした。

 さて、ウィキの「カワヤナギ」があるが、これは、(トンデモハップン)100の大誤謬があるので、引用しない(そもそも記載自体も貧弱である)。さても、右の「分類」の「種」の和名部を見たまえ!――「ネコヤナギ」――になってるぞッツ!!!――これは、「カワヤナギ」の異名としては、実は、「ネコヤナギ」はあるのだが、やっぱ、ここは、極めてアウトである!!! 因みに、何度か述べたが、私は、嘗つてウィキペディアンであったが、堪忍出来ないことがあって、永遠にオサラバしたので、修正する気は全くない(アカウントも滅茶滅茶なものに変えて去った)。実は参加せずとも、私にも、あなたにも、直せるのだが、それをするのも生理的嫌悪感を感じた不快な体験だったので、放置する。ウィキペディアンの方が、この記事をみたら、この和名は、早急に直したまえ! さもないと、「ウィキペディアは信用すると危ないですよ」と昔の教え子たちが、よく言っていたように、これじゃあ、ネット上の信頼度は無間地獄まで堕ちるぜ!

 閑話休題。取り敢えず、よしゆき氏のサイト「松江の花図鑑」の「カワヤナギ(川柳)の解説を引用する。『落葉小高木』で、『北海道南部〜本州の河原に生える。高さ3〜6m、直径3〜30cmになる。樹皮は褐灰色で縦に割れる。裸材に隆起条はない。新枝は淡灰褐色。灰色の軟毛が密生する。葉は互生。長さ7〜16cm、幅8〜20mmの線形。先端近くのほうが幅が広い。ふちに浅い波状の鋸歯がある。新葉のふちは裏側に巻く。裏面は白緑色で無毛。葉柄は5〜10mm。托葉は小さい。雌雄別株。葉の展開前に開花する。花序は円柱形。雄花序は長さ4〜6cmで無柄。雄しべは2個。花糸はふつう合着しているが、先端が分かれていることもある。腺体は1個。葯は黄色。雌花序は長さ3.5〜5.5cm。子房柄があり、白い毛が密生する。花柱は短い。腺体は1個。苞は倒卵状へら形、上部は黒色、中部はときに紅色、下部は淡黄緑色。両面に白色の長い軟毛がある。果実はさく果。4月に成熟して裂開する。花期は3月』。『冬芽の花芽は褐色で、長さ7〜10mmの卵形。(樹に咲く花)』とある。また、Salix gilgiana 花」のグーグル画像検索もリンクさせておく。ちょっと、良安の描いた「花」なる形が、あんまり一致しないのが、気になるが。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「水楊(ガイド・ナンバー[086-28b]以下)からのパッチワークである。かなりの無茶な継ぎ接ぎなので、可能な限り、『 』で示した。

「枕草紙」「さかしらに柳の眉のひろごりて春の面《おもて》をふする宿《やど》哉《かな》」「淸少納言」「枕草子」の二百八十六段にある和歌。ちょっと長いが、引用する(二十種以上を所持するが、角川文庫の石田穣二訳注の下巻(昭和五五(一九八〇年刊)を参考に漢字を恣意的に正字化した)。かの「香爐峯の雪」の段の次の次である。

   *

 三月ばかり、物忌(ものいみ)しに、とて、かりそめなる所に、人の家に行(い)きたれば、木どもなどの、はかばかしからぬ中に、柳(やなぎ)といひて、例のやうに、なまめかしは、あらず、葉、広く見えて、にくげなるを、

〔清少納言〕「あらぬものなめり。」

といへど、

「かかるも、あり。」

など、いふに、

  さかしらに柳の眉のひろごりて

   春の面(おもて)を伏する宿かな

とこそ、見ゆれ。

 そのころ、また、同じ物忌しに、さやうの所に出でたるに、二日といふ日の晝つ方(かた)、いとつれづれまさりて、ただ今も、まゐりぬべき心地するほどしも、おほせ言(ごと)のあれば、いとうれしくて見る。淺綠(あさみどり)の紙に、宰相(さいしやう)の君[やぶちゃん注:中宮定子附きの上﨟女房のこと。]、いとをかしげに書いたまへり。

 「いかにして過ぎにし方(かた)を過(すぐ)しけむ

   くらしわづらふ昨日今日(きのふけふ)かな」

となむ。私(わたくし)には、

「今日しも 千年(ちとせ)のここちするに 曉(あかつき)には とく」

と、あり。

 この君の、のたまひたらむだに、をかしかるべきに、まして、おほせ言のさまは、おろかならぬここちすれば、

〔清少納言〕雲の上も暮しかねける春の日を

       所がらともながめつるかな

わたくしには、

「今宵(こよひ)のほども、少將[やぶちゃん注:「話しに聴く、なんとかの少将のこと」であるが、誰かも、どのような話かも、学術的に未詳である。]にや、なり侍らむと、すらむ。」

とて、曉に、まゐりたれば、

「昨日の返し、『かねける』、いとにくし。いみじう、そしりき。」

と、おほせらる、いと、わびし。まことに、さることなり。

   *

良安が引用した和歌は、石田氏の訳(短歌のみは脚注にある)で、『生意気にも柳の葉がひろがっていて春の面目丸つぶれの家だこと』とある。

「螵蛸《おほぢがふぐり》」節足動物門昆虫綱カマキリ目 Mantodea のカマキリ類の卵塊のこと。私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 桑螵蛸」の良安の示した和名を転用した。要は、「老人のふぐり(陰嚢)」の意である。]

2024/07/21

携帯は繋がりませんが、正直、私は、何の不都合を感じていません――

新携帯は、今朝より、いうことを聞かなくなり、妻に、会社に持っていって貰ったら、初期化しないとだめだと言われたので、向後、スマホは繋がない(多分、僕が必要としていないので、ずっとかも)。悪しからず。

――しかし――すっきりした。そもそも、殆んど99%――私は妻以外との会話をしていないから――

「疑殘後覺」(抄) 巻七(第六話目) 女房手の出世に京へ上る事 / 「疑殘後覺」(抄)~了

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。「目錄」では、「女房手の出世に京へ上る事」であるのに対し、本文の標題は「女房、手の出世に京へ下る事」になっている。ここは、「目錄」の方を採った。

 なお、本篇は、本書の掉尾に当たる。これを以って、「疑殘後覺」(抄)の電子化注を終わる。]

 

   女房、手の出世に京へ上る事

 中ごろの事なるに、

「信州より。」

とて、みめかたち、世にうつくしき上﨟《じやうらふ》女房、けつこうなる、のり物にのりて、

「日本一の手書きなる。」

に、よりて、みやこへ、出世のために、のぼり給ふ。

[やぶちゃん注:「上﨟女房」身分の高い女官。御匣殿(みくしげどの)・尚侍(ないしのかみ)、及び、二位・三位の典侍(ないしのすけ)、或いは、特別に禁裏から禁色(きんじき)を着ることを許された大臣の娘、又は、孫などを指す。中古以降、隠棲や左遷で地方に流れついた、そうした連中は、多くいた。

「手書き」名書家。]

「はやくのぼり給はで、かなはぬ『上らう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]』ぞ。」

とて、どこともなく、しゆくをくり[やぶちゃん注:ママ。「宿送(しゆくおく)り」。]に、してのぼしけり。

[やぶちゃん注:「しゆくをくり」「宿送(しゆくおく)り」とは、岩波文庫の高田衛氏の脚注に、各『海道のそれぞれの宿場が、それぞれ次の宿場まで責任を持って送り屆ける輪送方法。』とある。]

 やうやう、のぼるほどに、草津につきにけり。

[やぶちゃん注:「草津」現在の滋賀県草津市にあった草津宿(グーグル・マップ・データ)。]

 ある大きなる宿に入《いれ》たてまつりけるに、あるじ、いでてみれども、のり物ともに、座敷へかきこみければ、上らうを見るべきやう、なし。

 あるじ、くわし[やぶちゃん注:「菓子」。]など、見事とゝのへて、御そば近く、まい[やぶちゃん注:ママ。]て、

「なかなかのたび、さこそ、御きうくつ[やぶちゃん注:ママ。「窮屈」。歴史的仮名遣は「きゆうくつ」でよい。]に候はん。御慰みに、なされ候へ。」

とて、御《おん》のり物のそばへ、まいられければ、

「よくこそ、たてまつれ。」[やぶちゃん注:自敬表現。]

とて、のり物、ほそめにあけ給ふ。

 そのひまより、見ければ、としのころは、はたち、なり。

 女らうのようぎ[やぶちゃん注:「容儀」。]、うつくしとも、いはんかたなく、らうたきが、かみは、ながながと、おしさげ、まゆ、ふとう、はかせ[やぶちゃん注:「刷(は)かせ。」]、かずかずのいしやう、七つ、八つ、引(ひき)かさね給ひ、てぶり[やぶちゃん注:素手。]の手を、さしのべ給ふ。

 にほひ、くんじわたりて、見へ[やぶちゃん注:ママ。]にける。

 あるじ、思ひけるは、

『さてもさても、これは如何なる人の、ひめぎみ、やらん。かばかりに、いみじく、あてやかなる上らうも、世におはしけるものかな。あはれ、この人の御手《おて》[やぶちゃん注:筆跡。]を所望して、一ふく、もつならば、子孫のたからなるベし。』

と、思ひて、又、まいり申《まうし》けるは、

「うけたまはれば、御《おん》まへには、御手を、うつくしくあそばすよしを、うけたまはりおよび候。あはれ、一筆、下され候はば、しそんのたからに、つたへ申《まうし》たく候。」

と、申ければ、上らう、のたまひけるは、

「みやこへ、のぼりつかぬうちは、一字も、かゝねども、あるじがこゝろざし、よに、たぐひなければ、ちからなく[やぶちゃん注:仕方ないですから。]、かきて、とらすべし。」

と、のたまへば、

「さてもさても、有《あり》がたき御事《おんこと》にこそ、候へ。」

とて、れうし[やぶちゃん注:「料紙」。]を、とゝのへ、御のりものゝうちへ、さし出《いだ》しければ、しばらくありて、「いせ物がたり」の歌を、二首、あそばして、たまはりけり。

 主、おしいたゞきて、やがて、所の目代《もくだい》[やぶちゃん注:代官。]に、みせ侍りければ、

「さてもさても、見事なる手跡かな。よはくして、つよく、風情《ふぜい》、やはらかにみへ[やぶちゃん注:ママ。]て、墨つき、うつり、いはんかた、なし。たからにこそは、あれ。」

とぞ、ほめたりける。

 さて、この家に、用心のために、大《おほき》なる犬を、こふ[やぶちゃん注:ママ。「飼(か)ふ」の口語化。]たりけるが、こののりものを、つくづく見て、ほゆること、たゞならず。

『いかなる事にや。』

と、あるじ、思ひて、せど[やぶちゃん注:「背戶」。宿の裏口。]へ、追《おひ》いだしけれども、ほゆるほどに、女ばう、の給ひけるは、

「いかに。あるじ。あの犬を、とをく[やぶちゃん注:ママ。]へ、のけたまへ。よに[やぶちゃん注:「世に」。副詞。たいそう。]、おろしくおぼゆるぞや。」

と、仰せければ、

「かしこまり候。」

とて、追《おひ》うしなへ[やぶちゃん注:「失へ」。「追い去れ」。]ども、立《たち》もどり、乘物を、みて、ほゆるほどに、女ばう、けしからず[やぶちゃん注:あるまじきさまであること。]思ひ給ひけるにや、

「あの犬、これに有《ある》ならば、よがた[やぶちゃん注:「餘方」。別の家。]へ、宿をかりかへ候。」

と申させ給へば、ていしゆ、

「それまでも候はず。」

とて、うらの藪へ、つれて行(ゆき)、つなぎてこそ、おきにける。

 是より、女ばうも、御《み》こゝろ、うちつきて[やぶちゃん注:落ち着いて。]こそ、見えにける。

 かくて、夜にいれば、らうそく、たてて、御《おん》とのゐ[やぶちゃん注:「殿居」。夜を通して、守(も)りをすること。]をぞ申ける。

 夜はん斗《ばかり》に、此の上らう、

「せうやう[やぶちゃん注:「小用」。小便。]、あり。」

とて、乘物より、いでたまひて、坪のうち[やぶちゃん注:宿の坪庭。]へ、いでさせ給ふが、なにとしけるやらん、いぬ、ほえいづる事、けしからず。

 ていしゆは、これを、きゝて、

「とかく、この犬めは、ゐ中[やぶちゃん注:ママ。「田舍」。]そだちにて、かゝる、うつくしき上らうを、みなれざるによつて、はたさず、あやしみ、ほゆると、みへ[やぶちゃん注:ママ。]たり。ことに、上らうなれば、いぬを、おそれさせ給ふに、にくきやゆめかな。それ、犬を、せいせよ[やぶちゃん注:「制せよ」。]。」

とて、うちに、めしつかふおのこ[やぶちゃん注:ママ。]を、うらへ、つかはしにける。

 この男《をのこ》、坪の內をさしのぞきて、

『上らうを、一め、みばや。』

と、思ひければ、見へ[やぶちゃん注:ママ。]給はず。

「あな、ふしぎや。」

とて、よくよく、みれども、おはせざりければ、立《たち》かへりて、あるじに、

「上らうは、おはしまさぬ。」

よしを、いひければ、

「いかでか、さるべき。」

とて、御のり物のあたりへ、ちかづき、

「いかに。御つれづれに、おはしますか。なにても[やぶちゃん注:ママ。「何(なに)にても」の脱字か。]、御用あらば、仰《おほせ》られ候へ。」

と申けれども、をと[やぶちゃん注:ママ。]も、せざりければ、

「あな、ふしぎや。」

とて、さしよりて、見ければ、乘物には、なかりけり。

「こは。まことにや、あやしゝ。」

とて、らうそくを、たてゝ、つぼのうちを見まはしけれども、なかりければ、それより、おどろきて、人々、うちより、山里を、かり[やぶちゃん注:「狩り」。]て、たづぬれども、なかりければ、

「さても、ふしぎにおぼゆるものかな。さて、是は、いづれのくに、いかなる所よりか。いで給ふぞ。さきざきを、とへ。」

とて、又、かの、のり物を、もときしかたへ、おしもどして、ひた物、あとをたづぬれども、いづちより、いでゝ、いづかたの人とも、かつて、しれざりければ、人々、めんめんに、

「これは。何としたるまがまがしき事ぞや。ばけものにて。ありけるが、世のすゑのふしぎにこそは、おぼゆれ。」

とて、とまりとまりにて、是を、あやしみけれども、かつて、もとを、わきまヘたるもの、なかりけり。

 このやどに、いぬの、ほゆるを、ことのほかに、この上らう、おそれ、おのゝき給ふが、

「もし、きつねなどにては、なきかや。そうじて[やぶちゃん注:ママ。]、狐は、いぬを、ことのほかに、おそるゝものなるが。」

と、いひければ、又、あるもの、いひけるは、

「さやうのへんげならば、ものかく事、あるべからず。是は、ことのほか、手書《てがき》にて、見事にかき給へるうへは、又、さやうのへんげにても、有《ある》べからず。」

と、いふほどに、

「さあらば、その手を、とりいでゝ、みせ給へ。ものゝ、ふしぎは、はれぬ事。」

とて、とりいださせて、みければ、さも、やふに[やぶちゃん注:ママ。「優(いう)に」。]、美しき手にて、有《ある》しが、悉《ことごとく》、きへ[やぶちゃん注:ママ。]て、䑕《ねづみ》のふん[やぶちゃん注:「糞」。]を、ならべ置《おき》たるごとくに、墨ばかり、つきて、何の形も、なし。さてこそ、狸《たぬき》の變化《へんげ》とは、しりてけり。

[やぶちゃん注:私には、厭な話だ。何故なら、『「想山著聞奇集 卷の四」 「古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」』以来、私は、タヌキの変化を偏愛するからである。]

「疑殘後覺」(抄) 巻七(第六話目) 松重岩之丞鬼を討つ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。「目錄」では、「松重岩鬼をとらゆる事」(「とらゆ」はママ)となっている。]

 

   松重岩之丞、鬼を討つ事

 ある人のいふやうは、

「おそろしき事こそ、あれ。このごろ、鳥羽の「つくりみち」には、日の、くれかゝれば、鬼のいでゝ、ゆきゝのものをとらへて、うちころするもあり、又は、あかはだかに、はがるゝものもあり、とうざ[やぶちゃん注:ママ。「當座(たうざ)」。]に、たゞいり[やぶちゃん注:ママ。「たえいり」(絕入り:失神し。)の誤記であろう。]。さるによりて、日のあるうちに、わうかんのたび人は、はしりまはりて、にげまどふ。」[やぶちゃん注:『鳥羽の「つくりみち」』岩波文庫の高田衛氏の脚注に、『京、羅城門跡からまっすぐに南下する古道の名。鳥羽、伏見等を経由する。』とある。当該ウィキ「鳥羽作道」がある。それによれば、他に「鳥羽造道」の表記がある。『平安遷都以前からの道とする説や鳥羽天皇が鳥羽殿が造営した際に築かれたとする説もあるが、平安京建設時に淀川から物資を運搬するために作られた道であると考えられている』。「徒然草」に『おいて、重明』(しげあきら 延喜六(九〇六)年~天暦八(九五四)年:醍醐天皇第四皇子)『親王が元良親王の元日の奏賀の声が太極殿から鳥羽作道まで響いたことを書き残した故事について記されているため、両親王が活躍していた』十『世紀前半には存在していたとされる(ただし、兼好法師が見たとされる重明親王による元の文章が残っていないために疑問視する意見もある)』。『鳥羽殿造営後は平安京から鳥羽への街道として「鳥羽の西大路」(この時代に平安京の右京は荒廃して朱雀大路は京都市街の西側の道となっていた)と呼ばれた。更に淀付近から淀川水運を利用して東は草津・南は奈良・西は難波方面に出る交通路として用いられたと考えられているが、その後の戦乱で荒廃し、現在では一部が旧大坂街道として残されているものの、多くの地域において経路の跡すら失われている』とあった。「京都市埋蔵文化財研究所」作成になる「32 鳥羽作道」PDF)が地図と各所解説があり、非常によいもので、私は保存した。]

と、いひふらするほどに、京中の人々、是を、きうて[やぶちゃん注:ママ。「きゝて」の誤記。]、

「うつけたる空ごとを、いひちらすものかな。『おに』といふものが、あるものにてあらばこそ、何ものゝいひふらして、かく、いちはやく、いふらん。」[やぶちゃん注:岩波文庫の補正本文では「あるものにてあらばこそ、」を「あるものにてあらばこそ。」としているのは、誤りである。ここは『「こそ」……(已然形)、……の逆接用法』だから、読点でなくてはおかしい。]

と、事おかしげに、とりやはぬ[やぶちゃん注:ママ。岩波もそのままだが、これは「とりあはぬ」であろう。「あ」は崩しがひどいと「や」に誤読し易い。]人もあり。

 又、一はうには、

「さこそ、ぞんずれども、おとゝい[やぶちゃん注:ママ。「一昨日(をとゝひ)」。]も、さいごくより、のぼりたる、れきれきの人、『おに』ゝあひて、荷物をすてゝ、にげたるよしを、からたち[やぶちゃん注:「族(うから/やから)達」の縮約。親族・家人・下人。]の、ものがたり侍る。」

と云(いひ)、

「うたがひなきことにて候。」

よしを、いふ人も、あり。

 又、ある人、儒者の許もとへゆきて、はなすやうは、

「鳥羽の鬼に、あひて、きのふ、やうやう、からき命を、いきて、もどりたる。」

よし、申《まうす》ほどに、

「其《その》鬼のかたちは、いかやうにか、侍る。」

と、とい[やぶちゃん注:ママ。]申《まうし》候得《さうらえ》ば、

「せい、六しやくばかりにして、かしらは、あかきかみを、七のずまで、とりみだし、身には、あかき『もうせん』[やぶちゃん注:「毛氈」。]のやうなるものをきて、『かたな』か、『ほこ』か、そこは、しかとぞんぜぬ打物、ぬいて、追《おひ》かけ候ときは、きも・たましゐ[やぶちゃん注:ママ。]も、なくなり、足、まどひ候ひて→[やぶちゃん注:ママ。]、たふれふす、おそろしさ、なかなか、ことばに、たとへがたき。」

よし、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]かたられける。

[やぶちゃん注:「七のず」岩波文庫の補正本文では、『七の図』で、高田衛氏の脚注に、『上から七番目の脊椎骨のある、背中の半ばあたりの部分。』とあった。とすれば、「ず」は「づ」の誤りである。]

 學者、きゝ給ひて、

「世の中の人、いちかたよりも、かく、いふなり。それ、鬼といふものは、こんぽん、あるものにては、なし。まことの鬼といふは、一年、二年も、食物、とぼしく、やせ、をとろへ[やぶちゃん注:ママ。]、ほねと、かはとに、なり、身もくろく、ひかわつきて[やぶちゃん注:「干乾(ひかわ)盡(つ)きて」。]、かみは、空ざまに、もへ[やぶちゃん注:ママ。「燃え」。]あがりたるを、『餓鬼』といふ。これは、乞食・非人のこうじたる[やぶちゃん注:「困(こう)じたる」。極限まで餓え衰える者。]に多し。『うへ[やぶちゃん注:ママ。]たる鬼』と、かきて、『餓鬼』といふなり。ゑにかき、木につくるやうに、いかめしく、おそろしきものは、いづくにか、あらん。みなみな、ひが事[やぶちゃん注:道理に合わない間違った事柄。]。」

と、いへりけり。

 又、ある人、いはく、

「『おに』といふ物、むかしも、あればこそ。東寺の羅生門にて、『渡邊源五つな』は、おにを、したがヘたるよし、かき、つたへたり。又、延喜の帝の御宇に、都良香《みやこのよしか》と云《いふ》詩人は、東寺の南だいもんを、とをり[やぶちゃん注:ママ。]給ふに、ころは、やよひごろにや、柳のさかり見えて、東風《こち》に、なびきければ、おもしろくおぼえて、

『き はれては 風 新柳の髮を けづる』

と吟じ給へば、

『氷 きへては なみ 舊苔《きうたい》の髭《ひげ》を あらふ』

とぞ、付《つけ》たりける。この下句は、もんのうちより、あかき鬼、いでゝ、付けたるよし、四條の公任《きんたう》、「朗詠」に、のせたり。かゝるたしかなる學言《がくげん》のあれば、なきにも、あらず。」[やぶちゃん注:「東寺の羅生門にて、『渡邊源五つな』は、おにを、したがヘたるよし、かき、つたへたり」私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「羅生門類話」』の本文と私の注で、ガッツリと伝承原話を電子化してある。別電子化のリンク先も多く、総て読むと、最低でも一時間弱はかかるので、御覚悟あれ。「都良香《みやこのよしか》と云《いふ》詩人は、東寺の南だいもんを、とをり[やぶちゃん注:ママ。]給ふに、……」の怪異譚は、私の『小泉八雲 保守主義者 (戸澤正保訳) / その「一」・「二」・「三」・「四」』「三」の訳注と、それに附した私の注を見られたい。「四條の公任《きんたう》」言わずもがな、藤原公任。「朗詠」「和漢朗詠集」。]

などゝ、さまざまに比判[やぶちゃん注:ママ。]しけるところに、爰《ここ》に松重岩之丞とて、中國の人なりし。都に、ゆかりりて、のぼられける。

 又、こゝに、内山勘内とて、七條しゆじやか[やぶちゃん注:ママ。「朱雀(しゆじやく。」]に、心も、がう[やぶちゃん注:「剛」。]にて、ちからのある人、ありけるが、このほど、

「鳥羽の邊に、『おに』の、いできて、あるゝ[やぶちゃん注:「荒るる」。]。」

よし、いひふらするによりて、色々に、ふんべつすれども、なにとも、れうけん[やぶちゃん注:「料簡」。]にをよば[やぶちゃん注:ママ。]ず[やぶちゃん注:妄言として納得出来ずに。]して、ゐたりけるが、あまりのふしぎなれば、

『ゆきて、あるか、なきかの、せうこ[やぶちゃん注:「證據(しやうこ)」。]を、みるべし。十が九つは、たぬきか、きつねの、わざ、なるべし。さりながら、一人行《ゆき》ては、みて、もどりても、人に語らんに、證據なくして、しかと、せず。爰《ここ》に、太郎次と申《まうし》て、せいりき[やぶちゃん注:「勢力」勢いと臂力。]、すくやかに[やぶちゃん注:「健やかに」。]して、ことに相撲《すまひ》などをとるに、ならびなき名人なり。此者に、ひさしくあはず。かれを、さそひて、ゆかばや。』

と、思ゐ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]て、宿へ、ゆきてければ、日も、はや、たそがれどきに成《なり》けるに、女ばうは、おもてを、とりあけてある[やぶちゃん注:家の前を片付けている。]ところへ行《ゆき》て、

「ひさしくこそ候へ。さて、太郎次は、うちにかや。」

と、とへば、女房、

「されば、ちと、ようじやう[やぶちゃん注:ママ。「養生」]御座候て、さるかたへ、まいり[やぶちゃん注:ママ。]へ、まいら[やぶちゃん注:ママ。]れ候。」

と申《まうし》ければ、六ツになる、むすこが、いふやうは、

「とゝは、鳥羽へ、『おに』ゝに、ゆきたまふ。」

と云ふ。

『ふしぎなる事を、いふものかな。』

と、おもへども、かれがおやぢが、鬼になるとは、ゆめにも思ひよりなければ、

『京中が子どもを、すかす[やぶちゃん注:「賺す」。おどす。]には、「鳥羽のおにゝ、かます[やぶちゃん注:「嚙ます」。]べし。ながなき、するな。」などゝて、すかす折《をり》からなれば、子どもの、かく、いふにや。』

と思ゐて、

「あすは、まいり[やぶちゃん注:ママ。]て、ちと、ものゝ、だん合[やぶちゃん注:「談合」。]を、すべし。」

と、いふて、かへりにけり。

 さるほどに、松重は、かゝる共《とも》、不知《しらず》、鳥羽の「つくりみち」をとをり[やぶちゃん注:ママ。]けるに、有《ある》森のこかげより、そのせい[やぶちゃん注:「背(せい)」。]、いかめしきおにの、あかがしら、みだしたるが、

「それなるおのこ[やぶちゃん注:ママ。]、のがすまじ。」

と、とんで、かかるを、見ければ、まなこは、すいしやう[やぶちゃん注:「水晶」。]のごとくにて、鼻は、一きは、高きが、きばを、むきて、かたなを引《ひつ》さげ、かゝる。

 松重は兵法の名人、そのうへ、心の、ごうなる事は、よにたぐひなき、つわものなりければ、少《すこし》も、おどかず、とある木のもとに、二尺五寸[やぶちゃん注:七十五センチメートル。]のかたなを、ぬきて、待《まち》かけたり。

 ほどなく、おに、きたつて、

「なんぢは、あくごう[やぶちゃん注:ママ。「惡業(あくがふ)」。以下同じ。]ふかく、物ごとに、じまんして、『我一人』と、ぞんずるものなれば、たちまち、命を取るべし。」

と云《いふ》。

 松重、いはく、

「『あくごう』とは、なに事ぞ。『じまん』とは、いかなる事ぞ。」

と云。

 鬼、いはく、

「なんじ、いのち、おしくば[やぶちゃん注:ママ。]、たすくべし。いのちのかはりに、たからを、まいらせ[やぶちゃん注:ママ。]よ。」

と云。

 松重。きいて、

「これはきだい[やぶちゃん注:「稀代」。]の、おに、かな。ものごしをきけば、たしかに、人ごゑ、なり。又、『たからを、おこせよ。』といふは、有無《うむ》につけて[やぶちゃん注:どう考えてみても。]、人《ひと》くさし。まことのおにが、たからとて、人のざいほう[やぶちゃん注:ママ。]を、とつて、なにかせん。『なんでう[やぶちゃん注:何が何でも!]、きやつめは、うつてくればや。』と思ひて、まいりそう[やぶちゃん注:ママ。「候」]。」[やぶちゃん注:「なんでう」は、本来は「何(なん)でふ」が正しい。ここは、感動詞で「何をほざくか! とんでもない!」と、相手の言い分を強く否定する用法である。]

と、いふまゝに、うつて、かゝる。

 おには、うけつ、ながいつ[やぶちゃん注:「流(なが)しつ」のイ音便。]、たゝかひしが、松重は、兵法の上手なれば、うで、かたさき、かたがたを、三ヶ所、手をおほせ[やぶちゃん注:ママ。「おはせ」。]たり。

 おには、

『いやいや、きやつは、ことのほか、手者《てしや》[やぶちゃん注:手練れの者。]にて、このぶんならば、きられぬべし。』

とや、思ひけん。

「なんぢ、かやうなる惡人は、いのち、たすけて、長く、ごう[やぶちゃん注:ママ。「業(がふ)」。但し、原文は『こう』であるから、『「業(ごう)」を背負って、永き苦界の現世の永がの年月、則ち、「劫(こう)」を生きさせて苦しい人生を見せてやる!」と啖呵を切った可能性もあるか。]をへさして、みつべし。」

とて。かいぶいて[やぶちゃん注:ママ。岩波文庫の改訂本文では、『傾(かい)ぶいて』とする。松重から受けた複数の傷によって、自身の身体の正立を保てなくなったことを言っているのであろう。]、にげにけるを、松重、

「なんでう、おにどの、いづちを、さして、にげ給ふぞ。やるまじきは、それがしなり。せうぶ[やぶちゃん注:ママ。「勝負(しやうぶ)」。]を、し給へ。」

とて、おつかけ、うしろずね[やぶちゃん注:「後脛」。]を、かたなのむねにて、たたみかけて、なぐれば、鬼が、うつぶさまにぞ、たをれ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 松重、のりかゝつて、ちつとも、はたらかせず、

「ざいしよのものども、いであへ。おにを、したがへたるぞ。」

と、いきを、かぎりに、よばゝりければ、これを、きゝつくるにや、「たいまつ」を、とぼし、つれて、一、二百人、おりあひ[やぶちゃん注:ママ。「折(を)り合(あ)ひ」。]たり。

 さて、とりて、からめてみれば、「めん」[やぶちゃん注:鬼の面。]あり。

 とりて、みれば、人、なり。

「さても、さても、にくき、やつめ、かな。このごろ、せけんを、さはがせて、「よたう」[やぶちゃん注:「夜盜」。]を、なしたる、にくさよ。」

とて、やがて、鳥羽の「つくりみち」に、三日、さらして、ほそ川殿へ申《まうし》ければ、

「さりとては、大きなるてがらをして、よのなかの忩劇《そうげき》を、やめ給ふ、しんべう[やぶちゃん注:ママ。「神妙(しんみやう)」であろう。]さよ。」

とて、かずのほうびを、いだされて、かんじ給ふこと、かぎり、なし。

[やぶちゃん注:「ほそ川殿」不詳。実は、岩波文庫の高田氏の脚注には、『当時の京都町奉行、細川左京亮貞重』とあるのだが、この人物、ネットでは名前が挙がってこない。そもそも京都町奉行は寛文八(一六六八)年に置かれたので、本書の成立である文禄年間(一五九二年~一五九六年)には、未だ置かれていない。不審。

「忩劇」「怱劇」とも書き、「そうけき」とも。ここは「いざこざなどによる世の騒ぎ」を指す。岩波文庫補正本文では『怱劇』となっている。]

「ものしりたちのさげすみ給ふところ、いさゝかも、たがはず。」

と、跡にこそ、おもひあたりける。

 あるが中にて、

「手だてを、なしたる盗人《ぬすびと》。」

とて、きんごく[やぶちゃん注:「禁獄」。]せられにけり。

 むすこが、

「とゝは、おにに、いき給ふ。」

と、いひしを、のちにぞ、思ひあたりける。

 おかしかり[やぶちゃん注:ママ。]し事どもなり。

[やぶちゃん注:内山勘内の友人太郎次が「鬼」の正体だったわけだが、それを、敢えて最後に名を出さななったこの語り手は、息子の気持ちを汲んでいて、ラストに、一抹の人情に哀れを漂わせているところが、なかなか、よい。]

「疑殘後覺」(抄) 巻七(第一話目) 安井四郎左衛門、誤て妻を討事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

   安井四郎左衛門、誤《あやまり》て妻を討《うつ》事

 爰に、江州北郡《きたこほり》に、安井四郎左衛門と云《いふ》人、あり。

[やぶちゃん注:岩波文庫の高田衛氏の脚注に、『現在の滋賀県湖北地方に対する、中世後期の慣習的呼称。浅井』(あざい)『郡、坂田郡などをふくむ。』とあった。問題は、「郡」の読みだが、私は通常、近世は勿論、近代初期までの行政上の「郡」は、一般人の場合は、「こほり」と読まれるのが普通と心得てきている。されど、この場合は、実際の郡名ではない広域呼称であることから、躊躇し、一応、調べた。その結果、国立国会図書館デジタルコレクションで、一件だけだが、確認出来た。大正八(一九一九)年刊の『大日本名所圖會』第一輯第二編「都名所圖會 下卷」(刊行自体は「大日本名所圖會刊行會編」で同会の大正八(一九一九)出版であるが、「都名所圖會」自体は、爆発的人気を博した、今で言うムック本の濫觴を始めた俳諧師秋里籬島の著で、図版は大坂の絵師竹原春朝斎が描き、京都の書林吉野屋から安永九(一七八〇)年に刊行されたものが初版で、リンク先のものは同書の天明六(一七八六)年の再板本が底本である)の「拾遺卷二」の「卷二 左靑龍首」の、ここの「法國寺」の条に、『額(がく)に曰(いは)く、當伽藍(たうがらん)者(は)江州(がうしう)北郡(きたごほり)』(☜左ページ三行目三字目)『淺井(あさい)備前守(びぜんのかみ)息女(そくぢよ)亞相(あしやう)秀賴(ひでより)母公(ぼこう)』(以下略)とルビが振られてあった。なお、さらに言えば、「○○國」で「○○のくに」と読むように、ここも「きたのこほり」と読んでいる可能性も排除出来ない。

 むかしより、このやしきに、きつね、すみけり。

 あるとき、このきつねども、子どもを、つれて、あそびけるを、女《によう》ばう、つくづく、みて、おもひけるは、

『あら、おそろしや、このやしきは、きつねのすみかなるぞや。かれは、よろづに化《け》して、ものの「わざ」を、なすなれば、うたてしき事にこそは、あれ。いかにもして、やしきを、はらはん「はかり事」もがな。』

と、亭主に、かたりければ、四郎左衛門、申《まうし》けるは、

「今更の事ならず。むかしより、ありきたる事なれば、せんかた、なし。さして、あしき業《わざ》をも、いまゝで、したる事、覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。くるしからず。」

と、申されける。

 かくして、月を、すぐす程に、きつねは、この女房、かくいふを、きゝけるにや、

『ねたし。』[やぶちゃん注:「妬(ね)たし」だが、ここは、「憎し」の意。]

と思ゐ[やぶちゃん注:ママ。]て、折《をり》を、うかがひけるが、あるとき、夜半ばかりに、女房は、

「小用あり。」

とて、をき[やぶちゃん注:ママ。]いでゝ、うらへ行《ゆき》にける。

 ほどなく、もどりて、あとを、たてゝ、いねければ、又、

「ほとほと」

と、戸を、たゝきて、

「こゝ、あけ給へ。」

と、いふほどに、安井、おもひけるは、

「女房は、たゞいま、もどりたるが、あやしき事を、いふものかな。」

と、いへば、女ばう、申けるは、

「あれは、狐めが、ばけて、いふものにて候ぞや。よきつゐで[やぶちゃん注:ママ。「良き序(つい)で」。]なれば、うちころしたまへ。」

と、いひければ、安井、

「いかにも。だまれ、うちころさん。」[やぶちゃん注:「だまれ」当初は、叱責の言上げの一種で、「默れ!」かと思ったが、高田氏の脚注に、『「だませ」の古い語型。』とある。されば、意味としては、「騙(だま)しおって!」の意か。]

とて、かたなを、ぬきて、戸をあけ、たゞ一《ひと》うちにぞ、したりける。

 さて、よつて、みければ、わが女ばうを、切りたり。

「こは。いかなる事ぞや。」

とて、なげき、かなしめども、かひぞ、なき。

 さて、內《うち》の女ばうを、みければ、このまぎれに、きつねは、うせて、なかりけり。

 安井は、

「さても、さても、にくき事かな。わがやしきに住《すみ》ながら、いゑ[やぶちゃん注:ママ。]のあるじを、ころさする事、かんにん成《なり》がたし。『むくい』を、みせて、しゝたる女房のけうやう[やぶちゃん注:ママ。「供養」だが、その場合の歴史的仮名遣は「きようやう」である。]にせん。」

とて、里中《さとうち》[やぶちゃん注:「村内の民草」。]を寄せて、四はうを、八重《やへ》に、ひとへに[やぶちゃん注:「偏に」。ただひたすらに。漏らすところなく厳重に。]とりかこみ、さて、やしきを、ことごとく、狩《かり》いだして、一疋も、のこさず、うちころしてぞ、すてたりける。

 「ばかす」と、いふても、かゝるきつねは、まれなり。

「安井がいきどほり、ふかく、『たね』を、たちけるも、道理。」

とぞ、風聞したりける。

「そうじて、人とあらんものは、夜中のさはぎ[やぶちゃん注:この場合は「奇体な変事」の意。]あらば、なに事にても、こゝも[やぶちゃん注:ママ。「こゝろ」(心)の誤字であろう。]を、しづめ、しばらく、事のやうを、きゝさだめて、事を、すべし。かならず、夜中には、狐ならでも、かゝる『あやまり』は、おほし。よくよく、思慮あるべき事。」

とぞ。

 

2024/07/20

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 檉柳

 

Sidareyanagi

[やぶちゃん注:右上方に『三才圖會所ㇾ圖』(「三才圖會」の圖せる所)とキャプションがある。この際、「三才圖會」の原本画像を以下に示し、解説文も電子化しておく。画像はこちら(解説ページ「明代の図像資料」)の「三才圖會データベース」の画像(東京大学東洋文化研究所蔵。清刊本(槐蔭草堂藏板))のものを用いた(トリミングした)。ここと、ここ。特に画像の使用制限は書かれていない。然し乍ら……御覧の通り、確かに枝垂れてはいるけれど、こちらのそれは、原画とは、かなりチャうで……。なお、「桞」は「柳」の異体字である。

   *

 

Sansaizueyanagi

 

Yanagikaisetu

 

   *

 桞

桞生琅邪川澤今𠙚𠙚有之俗所謂楊桞也本經以絮爲

花陳藏噐云華卽初發黄蘃也子乃飛絮也味苦寒無毒

主風水黄疸靣熱黒痂疥惡瘡金瘡葉療心腹内血止痛

實主潰癰逐膿血子汁療渴

   *

部分的に自信がない箇所もかなりあるが、自然勝手流で、訓読を試みておく。

   *

 桞(やなぎ)

桞は、琅邪川(らうがせん)の澤(さは)に生ず。今、𠙚𠙚(しよしよ)に、之れ、有り。俗に、所謂(いはゆ)る、「楊桞(やうりう)」なり。「本經」[やぶちゃん注:「神農本草經」。]、以つて、「絮(じよ)」を「花」と爲(な)す。陳藏噐、云はく、『華(はな)は、卽ち、初發(しよはつ)せる黄(き)の蘃(しべ)なり。子(たね)、乃(すなは)ち、飛ぶ絮(じよ)なり。』と。味、苦、寒、毒、無し。風水をして、黄疸・靣熱(めんねつ)・黒き痂-疥(ひぜん[やぶちゃん注:或いは、「かかい」で、広義の皮膚外傷と各種皮膚病か。])・惡瘡・金瘡(かなさう)を主(つかさど)り、葉、心腹の内血(ないけつ[やぶちゃん注:内出血か。])を療(りやう)じ、痛みを止(と)む。實(み)は、潰癰(くわいよう[やぶちゃん注:潰れた悪性の皮膚潰瘍。])を主り、膿血(うみち)を逐(お)ふ。子(たね)の汁は、渴(かはき)を療ず。

   *]

 

しだりやなき 埀𮈔柳 河柳

 いとやなき 三眠柳 赤楊

檉柳     觀音柳 人柳

       【今云𮈔埀柳

チンリウ    又云糸柳】

 

本綱檉柳時珍曰生水旁小幹弱枝揷之昜生赤皮細葉

如𮈔婀娜可愛得雨則埀埀如𮈔【雨師當作雨𮈔】一年三次作花

花穗長三四寸水紅色如蓼花色

 青柳の糸よりかくる春しもそ亂て花のほころびける貫之

[やぶちゃん注:短歌の最終句は「ほころびにける」の脱字。訓読では訂した。]

△按檉柳卽𮈔埀柳也木似柳而枝倍靭埀葉纖於柳而

 不如柏檉之葉細刺者也其花作穗長三四寸似栗花

 而淡白色也其木皮似楊柳而淺青色肌濃不可謂皮

 赤又謂花似蓼花而水紅色者並不然也蓋單名檉者

 則無呂乃木也【見于香木類下】名檉柳者則𮈔柳也然本草綱

 目所說二物紛紜記于左

爾雅翼云天將雨檉先知之起氣以應又負霜雪不凋乃

 木之聖者也故字從聖

陸機詩疏云生水旁皮赤如絳枝葉如松

[やぶちゃん字注:「詩經」の動植物の注釈書である「毛詩草木鳥獸蟲魚疏」を書いたのは「陸機」ではなく、「陸璣」が正しい。「隋書」の「經籍志」では、三国の呉の「陸機」の作としてしまっているので(当該ウィキを参照されたい)、良安の誤認ではないが、訓読では訂しておく。]

沈烱賦云檉似柏而香

 以上皆是無呂乃木也𮈔埀柳冬凋春生葉其木皮不

 赤色葉亦不似松及柏檜之軰也而柳山林人家皆多

[やぶちゃん注:「軰」は「輩」の異体字。]

 有之不足論者也然泥檉字漫爲集解矣李氏之愽識

[やぶちゃん注:「愽」は「博」の異体字。]

 尙有不三省之失况於管見乎

 

   *

 

しだりやなぎ 埀𮈔柳《すいしりう》   河柳《かりう》

 いとやなぎ 三眠柳《さんみんりう》  赤楊《せきやう》

檉柳     觀音柳《くわんのんりう》 人柳《じんりう》

       【今、云ふ、「𮈔埀柳(しだれ《やなぎ》)。

チンリウ    又、云《いふ》、「糸柳《いとやなぎ》」。】

[やぶちゃん注:「𮈔埀柳(しだれ《やなぎ》)」は確かに良安が「シタレ」と前の二字にルビしている。]

 

「本綱」≪の≫「檉柳《せいりう》」≪にて≫、時珍が曰はく[やぶちゃん注:厳密には、冒頭部は、「集解」の中の「陸璣詩疏」からの引用である。]、≪檉柳は≫『水の旁《かたはら》に生ず。小さき幹、弱き枝、之れを揷して、生じ昜《やす》し。赤き皮≪にして≫、細き葉≪は≫、𮈔《いと》のごとし。婀-娜(たをやか)にして、愛すべし。雨を得れば、則ち、埀埀《すいすい》として、𮈔のごとし』≪と≫【「雨師」≪とあるは≫、當(まさ)に「雨𮈔」と作《な》すべし。】[やぶちゃん注:以上の割注は、良安が時珍の記載に反論したものである。]。『一年に三次、花を作る。花の穗、長さ、三、四寸。水-紅-色(うす《くれなゐ》いろ)、蓼(たで)の花の色のごとし。』≪と≫。

 靑柳の

   糸よりかくる

  春しもぞ

     亂(みだれ)て花の

       ほころびにける 貫之

△按ずるに、檉柳《せいりう》は、卽ち、𮈔埀柳《しだれやなぎ》なり。木、柳に似て、枝、倍(ますます)、靭(しな)へ、埀葉(たれ《ば》)は、柳《やなぎ》より纖(ほそ)し。而《しかれ》ども、柏檉(むろのき)之の葉の細《ほそき》刺《とげ》なる者の如《しか》ならざるなり。其の花、穗を作り、長さ、三、四寸。栗の花に似て、淡白色なり。其の木≪の≫皮、楊柳《やうりう》に似て、淺青色。肌、濃(こまや)かなり。皮、赤しとは、謂ふべからず[やぶちゃん注:「『赤い』とは言えない。先の「本草綱目」の引用内容に合致しないことを指摘しているのである。]。又、『花、蓼《たで》の花に似て、水紅色(うすくれなゐ《いろ》)と謂ふは、並《ならび》に然《しか》らざるなり。蓋し、單に「檉《せい》」と名《なの》る者は、則ち、「無呂乃木《むろのき》」なり【「香木類」の下《もと》を見よ。】。「檉柳」と名のる者は、則ち、「𮈔柳《いとやなぎ》」なり。然るに、「本草綱目」に說《とく》所の二物《にぶつ》、紛紜《ふんうん》たり[やぶちゃん注:混乱してごちゃごちゃになってしまっている。]。左に記《しる》す。

「爾雅翼」に云はく、『天、將に雨《あめふ》らんとする時[やぶちゃん注:「時」は送り仮名(左下)にある。]、檉、先づ、之れを知りて、氣を起《おこ》し、以《もつて》、應《おう》ず。又、霜・雪を負《おう》て≪も≫、凋《しぼ》は《✕→ま》ず。乃《すなはち》、「木の聖なる者」なり。故《ゆゑ》、字、「聖」に從ふ。』と。

陸璣が「詩≪經≫」≪が≫「疏」に云はく、『水の旁《かたはら》に生ず。皮、赤きこと、絳(もみ)のごとし。枝・葉、松のごとし。』≪と≫。

沈烱《しんけい》が賦《ふ》に云はく、『檉は、柏(かえ)に似て、香《かんば》し。』≪と≫。

以上、皆、是れ、「無呂乃木」なり。𮈔埀柳《しだれやなぎ》、冬、凋み、春、葉を生ず。其の木の皮、赤色《せきしよく》ならず、葉≪も≫亦、松、及び、柏《かしは》・檜《ひのき》の軰《やから》に似ざるなり。而(しか)も、柳は、山林・人家、皆、多く、之れ、有りて、論ずるに足《たら》ざる者なり。然《しか》るに、「檉」の字に泥(なづ)んで、漫(みだり)に「集解」を爲《な》す。李氏の愽識《はくしき》すら、尙を[やぶちゃん注:ママ。]、三省せざるの失(し《つ》)、有り。况んや、管見に於いて、をや。

 

[やぶちゃん注:遂に、良安は、日中の漢字の指す種が異なることに思いに至らぬ自身の見識の狭さを棚に上げて、李時珍を、正面切って、愚かにも批判してしまうという暴挙に出てしまっている。この「檉柳」(せいりゅう)とは、ヤナギ科 Salicaceaeでさえない、

双子葉植物綱ナデシコ目ギョリュウ(御柳)科ギョリュウ属ギョリュウ Tamarix chinensis

なのである。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『モンゴルから中国北部にかけての乾燥地域が原産地で、日本には江戸時代中期に伝わった』。『ギョリュウ属の学名はタマリクス( Tamarix )であるが、日本では英語名のタマリスク(Tamarisk)でも呼ばれる。和名では別名としてサツキギョリュウが挙げられる。中国名(漢名)は檉柳(ていりゅう)で、一年に数度』、『花が咲くことから三春柳の名もある。ほかに、紅柳などの別名もある』。『本種の標準名は Tamarix chinensis 。中井猛之進が報告した Tamarix tenuissima は本種のシノニムであるとする見解があるが、別種とする見解もある』。『ギョリュウ属は、地中海周辺からアジアにかけての乾燥地帯に分布する。ギョリュウ属の種はたがいに似ているために分類は困難とされるが』、七十五『種ほどに分かれている。水湿地でよく育つ種であるが、乾燥地でも育ち、塩分や寒さにも強い』。『葉は小さい鱗片状で針葉樹のように見える。春と秋に枝先に桃色の』一ミリメートル『ほどの小さい花をたくさん咲かせる。果実は長さ数』ミリメートル『の蒴果で、種子は細かく房状の毛が生え』、『風で飛ぶ。砂漠など乾燥地でも』。『根を長く伸ばして水分を強く吸収する』。『花や樹冠の美しさから観賞用とされ、切花とされたり庭園樹として栽植されたりする。塩分に強いことから海岸の防風林として用いられたり、乾燥にも耐えることから』、『砂漠地帯での防砂や緑化に用いられたりする』。『ギョリュウ属の材は硬いことから』、『古代エジプトではチャリオットの本体部分などに使われていた』。「旧約聖書」の「創世記」第』二十一『章において、アブラハムがベエル・シェバに「エシェル」eshel という樹木を植えて神に祈るくだりがある。この木はギョリュウ属の樹木とされ、聖書の日本語翻訳では「柳」とされた例もあるが(新改訳)、「ぎょりゅう」(口語訳、新共同訳)・「タマリスク」(新改訳』二〇一七年『)として訳出されている』「出エジプト記」には、『荒野で飢えたイスラエルの民に』、『神が降らせた食物「マナ」が登場するが、マナを合理的に解釈しようとする諸説の中には、ギョリュウ属との関連を推測するものがある。たとえば、ギョリュウ属の樹木の樹液を吸ったカイガラムシ等の昆虫が分泌する甘い液(甘露)とする説などである』。『また、薬用として利尿・解毒や風邪に効果があるとされる』。『日本には江戸時代中期』の『享保年間』(一七一六年~一七三六年)『あるいは寛保年間』(一七四一年~一七四四年)『に伝わった。はしかの薬として伝えられたとも、観賞用として伝えられたともいう』とある。「維基百科」の「檉柳」によれば、異名を『垂絲柳・観音柳・三春柳・西河柳・山川柳』を挙げ、『黄河・長江流域をはじめ、広東省・広西チワン族自治区・雲南省などの平野や砂地の、塩性アルカリ性の土質に植生し、塩性土壌地域に於ける重要な植林樹種である』とする。また、『薬理学的研究によると、この製品は体温を調節し、皮膚の血管を拡張するため、発汗と解熱効果があるものの、中脳と脊髄を麻痺させる可能性があるため、過剰に経口摂取すると、血圧が低下する可能性があ』り、『呼吸困難となり、最終的には、神経中枢麻痺を起こし、虚脱状態に至る』ともあった。なお、東洋文庫訳で、解説本文に最初に出る「檉柳」に割注で、『(ヤナギ科ギョリュウ)』とするヤナギ科という部分は、完全アウトの誤りである。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「檉柳」(ガイド・ナンバー[086-27b]以下)からのパッチワークである。但し、良安は、時珍への(というより、時珍が引用した部分の認識)を、批判し易くするために、そこらたらじゅうの部分を、悲しいまでに、継ぎ接ぎしているのが、見て取れる。そもそも、冒頭で、

「本綱」≪の≫「檉柳《せいりう》」≪にて≫、時珍が曰はく』

と起筆しているのは、「水族部プロジェクト」その他で行った本書の引用の書き出しとしては、一回も見たことがない特異点なのだ! この筆圧そのものに、「反論してやるぞ!」という、執拗(しゅうね)き決意が現われているのでは? と、私は、初っ端から強く感じたのであった。

『【「雨師」≪とあるは≫、當(まさ)に「雨𮈔」と作《な》すべし。】』という「雨師」批判は、良安の時珍攻撃の初っ端の掟破りの割注によるガツンコのツッコミ批評であるが、この「雨師」、「檉柳」の「釋名」に、別名の一つとして四番目にあるのだが、それは時珍が命名したものではなく、後に出る陸璣の「詩經疏」から、「釋名」の四番目に、時珍が引用したものなのである。

「蓼(たで)の花」この「蓼」は、

ナデシコ目タデ科 Polygonaceae、或いは、旧タデ属 Polygonum でやめておいた方が無難

かと思う。本邦では、単に「蓼」と言った場合、狭義には(私は、最初のイヌタデを想起するが)、

タデ科Polygonoideaeミチヤナギ亜科 Persicarieae 連 Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ  Persicaria longiseta

或いは、より一般的には、

同属ヤナギタデ Persicaria hydropiper

を指すのであるが、「維基百科」を見ると、タデ科は「蓼科 Polygonaceae」で問題ないのだが、タデ属(但し、現在はタデ属はなくなり、現在は別名の八属に分れている。しかし、それを問題にし出すと、中国のずっと過去の種同定には、ますます辿りつき難くなってしまうのでタデ属で採った)を見ると、「萹蓄属」とあり(但し、別に「蓼属」ともする)、また、本邦のヤナギタデは「水蓼」とあったからである(日中辞典も同じ。因みに、イヌタデ属は「長鬃蓼」「馬蓼」である)。花の色が「水--色(うす《くれなゐ》いろ)」という点だけで、本邦の上記二種を考えるなら、ちょっと悩むが、私の好きなイヌタデは薄くない紅紫色を帯び、ヤナギタデは淡紅色であるから、後者に軍配が上がる。

「靑柳の糸よりかくる春しもぞ亂(みだれ)て花ほころびにける」「貫之」は「古今和歌集」の「卷第一 春歌上」の紀貫之の「歌たてまつれとおほせられし時に、よみてたてまつれる」の前書のある二首目(二十六番)である。「靑柳」は、青々とした葉をつけたヤナギのことを指す。「糸かくる」「亂(みだれ)て花ほころびにける」は、明らかに中国の漢詩類に詠まれる「柳絮」であり、本邦では、実景を見る機会は、まず、当時はあり得ないので、漢詩に由来する想起場面に過ぎず、私はこうした机上の技巧歌は、最も嫌悪するものである。

「檉柳《せいりう》は、卽ち、𮈔埀柳《しだれやなぎ》なり」くどいですがね! 良安先生! 「檉柳《せいりう》」は双子葉植物綱ナデシコ目ギョリュウ(御柳)科ギョリュウ属ギョリュウ Tamarix chinensis で、「𮈔埀柳《しだれやなぎ》」はヤナギ科ヤナギ属ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica で、ゼンゼン、ちゃいまんねん! 冒頭のバトルから、マチガッテまんねん!!! 言っとくと、盛んに出る「いとやなぎ」という呼称はシダレヤナギの異名である。

「柏檉(むろのき)」「万葉集」以来の古い樹名であるが、現行では、この「むろ」は、「杜松(ねず:別名「鼠刺(ねずみさし)」、或いは、「這杜松(はいねず)」、又は、「伊吹」とされる。順に学名を示すと、

裸子植物植物綱マツ綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ亜科ビャクシン(ネズミサシ)属 Juniperus 節ネズ Juniperus rigida

と同属の、

ハイネズ Juniperus conferta

イブキ変種イブキJuniperus chinensis var. chinensis

である。「万葉集」に載るものは、詠まれた対象のは、明らかに瀬戸内海沿岸に植生する大木であると思われることから、最後のイブキに比定する説が、ウィキの「ネズ」には、あった。しかし、私は「万葉集」での植物比定ではないから、並列である。しかも、ここで良安は「葉の細《ほそき》刺《とげ》なる者」を有する種が「柏檉(むろのき)」であると言っているので、私は、葉が痛くて、尚且つ、良安がいた大坂周辺で、普通に見かけるものとなると、海岸の砂地に多いハイネズよりも、ネズに軍配が上がると考えている。イブキの針葉は発現が常にあるわけではなく、以上の二種と並べると、針葉が刺さって「痛い」という印象を私は持っていないので、同定範囲外である。

「爾雅翼」中国最古の類語辞典・語釈辞典・訓詁学書として知られる「爾雅」(漢字は形・意味・音の三要素から成るが、その意味に重点をおいて書かれたもので、著者は諸説あり、未詳。全三巻。紀元前二〇〇年頃の成立。以後の中国で最重視され、訓詁学・考証学の元となった。後世の辞典類に与えた影響も大きい書物である)の不足を補うために、南宋の羅願(一一三六年~一一八四年)が書いたもので、草・木・鳥・獣・虫・魚に関する語を集め、それに説明を加えた、「爾雅」の篇立てに倣って分類・解説してあり、謂わば、「爾雅」中の動植物専門の補填辞典。書名は「爾雅を補佐する」の意である。当該部は「中國哲學書電子化計劃」のここで、電子化物が視認出来る。こちらのものは、しっかり纏ってあるので、以下にコピー・ペーストして示す。

   *

檉河柳郭璞以為河旁赤莖小楊也其皮正赤如絳而葉細如絲婀娜可愛天之將雨檉先起氣以應之故一名雨師而字從聖字說曰知雨而應與於天道木性雖仁聖矣猶未離夫木也小木既聖矣仁不足以名之音赬則赤之貞也神降而為赤云檉非獨能知雨亦能負霜雪大寒不彫有異餘柳蓋莊子以松柏獨受命於地冬夏青青比舜之受命於天檉之從聖亦以此歟詩皇矣云作之屏之其菑其翳修之平之其灌其栵啓之辟之其檉其椐攘之剔之其檿其柘蓋文王之養才於山林日就繁茂故其始而屏除之也始於已死之菑翳而及於厖雜之灌栵乂及於檉椐之小材又不得已而及於檿柘之良木以明草木逾茂則始之所愛者不能並育以漸去焉故其卒至於柞棫斯抜松柏斯兊也然則檉亦良木矣漢書鄯善國多檉柳段成式云赤白檉出涼州大者為炭復入灰汁可以煮銅南都賦注檉似柏而香今檉中有脂號檉乳

   *

「絳(もみ)」深紅色を指す語。

「沈烱《しんけい》が賦《ふ》」「沈烱」は生没年不詳の、南朝梁から陳にかけての文章家。詳しくは当該ウィキを見られたい。「賦」は漢文の文体の一種。対句を多用し、句末で韻を踏むもの。詩ではないので、注意。

「柏(かえ)」この良安のルビはするべきではなかったことは、もう、言うまでもない。「かえ」という訓は、本邦のヒノキ・サワラ・コノテガシワの古称であるからである。中国語の「柏」は本プロジェクト冒頭の「柏」で述べた通りで、中国と日本では、全く明後日の種群を指すからである。根っこで、この致命的誤謬が複数あるため、この錯誤は元気な亡霊どものように、何度も蘇ってくるのである。特に、ここは、李時珍をコテンパンにやっつけている(つもりになっている)最中であり、ダメ押しの、大誤謬なのだ!!! 最後の、内心、得意になっている良安が、惨く醜いと言わざるを得ない!!!

「疑殘後覺」(抄) 巻六(第七話目) 秀包懇靈つかせ給ふ事【「懇靈」はママ。】

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。「目錄」では、標題は「秀包懇靈つかせ給ふ事」(「懇靈」はママ)である。これは、本文でも以下の通り同じである。しかし、流石に、これでは、読めないので、本文標題では、特異的に下に【✕→怨靈】として挿入しておいた。

 「秀包」は「ひでかね」と読み、織豊時代の武将で、後に秀吉の寵臣として「羽柴」の称を許された小早川秀包(永禄一〇(一五六七)年~慶長六(一六〇一)年)。毛利元就の子であったが、天正一〇(一五八二)年、毛利輝元と秀吉の和睦により、人質として大坂に赴いた。天正一一(一五八三)年、兄小早川隆景の養子となり、同十五年には筑後久留米城主に抜擢され、後、「久留米侍従」と呼ばれた。「関ケ原の戦い」では西軍に属し、所領を失ったが、毛利輝元から長門国内に所領を与えられている。この頃、小早川秀秋の裏切りへの謗りを避けるため、毛利姓に復し、大徳寺で剃髪、玄済道叱と称した。彼は、大坂から帰国する途上、結核を発症、長門赤間関の宮元二郎の館で療養していたが、翌慶長六年三月に喀血、三十五で病没した(以上は複数の辞書その他を使用した)。当該ウィキの「人物」によれば、『毛利一族の中では目立たない人物であるが、隆景が秀包を養子としたのは、その父の武勇を兄の吉川元春と並び』、『最も受け継いでいたためだと言われている。秀包は』、『その期待を裏切る事なく、毛利氏の一族として朝鮮に渡り、立花宗茂とも並ぶ抜群の武勇を誇り、小早川の名跡を汚すことなく活躍した』。『容儀端正の美少年にして勇猛壮健と評され』、『鉄砲術に長けていたとされ、毛利秀包略伝には「秀包銃ヲ善クス其銃ヲ雨夜手拍子ト云フ」と記されている』とあった。]

 

   秀包、懇【✕→怨】靈、つかせ給ふ事

 こゝに、筑後國に「馬が嶽《たけ》」とて、夜晝、もゆる嶽《たけ》あり。

[やぶちゃん注:「馬が嶽」岩波文庫の高田衛氏の脚注に、『現福岡県行橋』(ゆくはし)『市内。花崗岩を主とする怪異な形をした岩山。ただし火山ではなく、「夜晝もゆる……」は誤聞。』とある。現在の行橋市大谷(おおたに)にある「馬ヶ岳」(うあまがたけ)。標高二百十四メートルの低山。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 この所に、客僧[やぶちゃん注:行脚僧。]の有《あり》て、よろづおこなひども、しけるが、或《ある》時、いさゝかの事を、いひあがりて、他領の者と口論しけるが、事の是非をも糾明し給はず、この僧を刑罰し給ふ[やぶちゃん注:この主語は「秀包」である。]ときに、僧のいはく、

「凡人を罪におとすは、理非をせめて、至極したるとき、其の罪を害すれば、自業偈果《じがふげくわ》の理《ことわり》によつて、うらみなし。理不盡にて害する事、其のうらみ、深重なり。をんてき[やぶちゃん注:「怨敵」。]となつて鬱痕[やぶちゃん注:「痕」には、原本に右傍注で『恨カ』とある。]をのぶべし」と云ひて、うせにけり。

[やぶちゃん注:「至極したるとき」誰がどう見ても道理に適っていて『もっともである』と納得すること。

「自業偈果」「偈果」は見かけない熟語であるが、高田氏の脚注に『「自業自得」と同じ。

』とある。]

 其後、十四、五日ありて、御小性衆《おこしやうしゆ》、二、三人、めされて、

「それがしが刀箱《かたなばこ》を、もちて、きたれ。」

と、仰せらるゝほどに、かしこまつて、二箱《ふたはこ》、もちてまいり[やぶちゃん注:ママ。]ければ、二尺三寸の刀を、

「すらり」

と、ぬき給ひて、「めさき」にある小性を、

「覺へたるか。」

と、の給ひて、うち給ふほどに、小性、こゝろへて、刀箱の「ふた」をもつて、刀をさゝへて、三人ながら、にげちらしけり。

 其の後、侍從どの[やぶちゃん注:秀包。]、きつて、まはらせ給ふほどに、さぶらひ衆《しゆ》、出《いで》あひて、四方八方の戸を、たてつめて、「ざしき」に、とりこめ、

「ささ、これは、如何《いかが》すべきぞ。」

と、談合、まちまちなり。

 とのは、うちにて、の給ひけるは、

「我を、おのれら、害する罪は、なの事ぞや。にくきやつばらをば、いちいちに、とりころして、ながく、うらみを、のぶべきものを。」

とぞ、の給ひにける。

「さては。これは、馬嶽《むまがたけ》の客僧の、いひしごとくに、つき[やぶちゃん注:「憑き」。]たるぞや。まづ、殿を、いかにもして、とらへて、たち・かたなを、うばひ、けがを、したまはぬやうにしたき事にこそ。」

とて、いろいろに「ひやうぎ」しけれども、

「殿に、けがのなきやうに。」

と、存《ぞんず》るによつて、何とも、すべき「手だて」を、まふけ[やぶちゃん注:ママ。「設(まう)け」。]ず。

 おのおの、なんぎにおよぶところに、こゝに、田良广摩彌介[やぶちゃん注:原本のママ。岩波文庫補正本文では、『多良摩(たらま)彌介』とされてある。後文で「たらま彌介」と出るので、それで正しい。読み全体は「たらまやすけ」と読んでおく。]とて、剛强の侍ありしが、申《まうし》けるは、

「所詮をあんずるに、殿のくたびれて、ときどき、ね入《いり》給ふ間《あひだ》に、板敷を、そろそろ、打《うち》はなして、「たゝみ」を、下より、はねのけて、いつものごとく、座敷中を、「たち」をつかひ、とびまはり給ふところを、「あし」を、とつて、引《ひか》すゆ[やぶちゃん注:「据ゆ」。]べし。ときに、刀にて、「えんのした」を、つかるべし。引《ひき》をとす[やぶちゃん注:ママ。]と、そのまゝ、「あし」を、くゝつて、「えん」のつか[やぶちゃん注:「緣の支(つか)」で「縁の下の柱」。]に、くゝりつくべし。とかくするうちに、人々、戸を、うちやぶりて、「たち」・「かたな」を、とり給へ。」

と、いふほどに、

「これこそ、しかるべき事なれ。」

とて、その用意をして、たらま彌介は、「えんのした」へぞ、入《いり》にける。

 さて、板敷を、

「そろそろ」

打《うち》はなして、あひまつところに、あんのごとく、又、「かたな」引《ひき》ぬいて、しやうじ・から紙を、たてよこに、きりくだき給ふところを、「えんのした」より、彌介は、弓手《ゆんで》[やぶちゃん注:左。]の「あしくび」を、とつて、「えんの下」へ、引《ひき》すへたり。

 とるといなや、「ほそ引《びき》」を、ひつかけ、板敷の「つかばしら」に、くゝりつけて、

「人々、いれや。」

と、よばゝりければ、

「我、おとらじ。」

と、うちやぶり、入《いり》て、刀・わきざし、うばい[やぶちゃん注:ママ。]とり、殿を、とらへて、さて、一間所《ひとまどころ》に入置《いれおき》、よる・ひる、とりまき、「ばん」をぞ、したりける。

 そのゝち、

「馬がたけの僧をば、神にいはひて、うやまふべし。」

と、さまざま、「こんぼん」[やぶちゃん注:「懇望」。切に望むこと。後注参照。]し給ひければ、これにて、納受《なうじゆ》したりけん、五十日計《ばかり》ありて、ほんぶくし給へりける。

 秀吉公、きこしめして、

「さうそく[やぶちゃん注:「早速」。]、快氣のよし。珍重なち。しかれども家老のものども、常に油斷つかまつるべからず。予がまへゝの出仕は、先《まづ》、五、三年も、くるしからず。こゝろやすくぞんじて、養生し給へ。」

との御諚《ごぢやう》[やぶちゃん注:主君の仰せ。]にて、それより、出仕は、なかりけり。

 おそろしかりし事どもなり。

[やぶちゃん注:「こんぼん」小学館「日本国語大辞典」に「こんぼん」の読みで立項し、『「こんぼう(懇望)のした語』とし、初出例を『*かた言―三「懇望(こんばう)」を こんぼん」』として示す。この「かた言」は、慶安三(一六五〇)年に板行された、一種の俳諧で用いる語彙の正誤・訛(なまり)等を解説したもの。書名は「片言( かたこと)なほし」「仮朶言( かたこと )」ともする。作者は知られた江戸前期の俳人で、「貞門七俳人」の一人に数えられる論客でもあった安原貞室(やすはらていしつ 慶長一五(一六一〇)年~延宝元(一六七三)年)である。国立国会図書館デジタルコレクションの「片言付補遺物類稱呼 浪花聞書 丹波通辞」(『日本古典全集』昭六(一九三一)年刊)の、ここ(左ページ最終行)と、ここ(左ページ最下段後ろから四つ前)の二箇所で当該部を確認出来る。

2024/07/19

「疑殘後覺」(抄) 巻六(第一話目) 於和州竒代變化の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。「目錄」では、標題は「和州におゐて竒代變化の物事」(「おゐて」はママ)である。内容から見て、「變化」は「へんげ」である。取り敢えず、歴史的仮名遣その他を訂して、ここで、両標題を勘案して、

「和州(わしう)に於(お)いて竒代變化(きだいへんげ)の物(もの)の事(こと)」

と訓じておくこととする。「竒代」は「希代・稀代」に同じで、ここは、「奇怪千万」の意。]

 

   於和州竒代變化の事

 和州「かづさこほり」に、「伊勢福どの」とて、世、擧《あげ》て、まうづる事あり。

[やぶちゃん注:『和州「かづさこほり」』「和州上總郡」であろうが、こんな旧郡名は聴いたことがない。岩波文庫の高田衛氏の脚注でも、『大和国にこの地名なし。添上(そういがみ)郡をあて字で総上郡と記したさいの誤写か。添上郡は現在の奈良市およびその周辺部の古称。』とあった。ウィキの「添上郡」を見られたい。そこでは現代仮名遣で「そえかみぐん」とするが、「歴史」の「古代」の項で、『もとは「曾布(そふ)」あるいは「層富(そほ)」という地名であったが、これに「添(そふ)」の字が当てられ、2つに分けて添上郡・添下郡となった。9代開化天皇の春日率川宮が奈良市率川にあったと伝える。郡名は佐保川に由来する。奈良山丘陵南斜面の東側が「佐保」、西側が「佐紀」であり、古代のヤマト(磯城郡・十市郡を中心とする一帯)の北に位置する』とあった。なお、「和名類聚鈔」の「卷第五」の「國郡部第十二」の「畿内郡第六十」・「大和國」には、『添上(そふのかみ)【「曾不乃加美」。】』とあった。]

 此《この》來由を、たづぬるに、「かづさこほり」に、太郎左衞門と申す百姓、ありけり。一人の娘を、もつ。

 先年、十七歳のとし、あたり近き林にいでゝ、「せんだく[やぶちゃん注:「洗濯」。古くは濁音であった。]」をしけるに、俄《にはか》に、いゑ[やぶちゃん注:ママ。]にかへりていふやうは、

「我は、神明《しんめい》なり。はやく、屋のうちを、きよめ、『しやうじん』[やぶちゃん注:「精進」。]を『けつさい』[やぶちゃん注:「潔齋」。]に、せよ。三明六通《さんみやうろくつう》を得て、芥(ケシ)毛頭《もうとう》のこさず、三界《さんがい》一らんに、するなり。なになにでも、たづねたき事あらば、まいる[やぶちゃん注:ママ。]べし。ことには、病《やまひ》にをかさ[やぶちゃん注:ママ。]れて、うれうる[やぶちゃん注:ママ。]ものあらば、たちまち平癒さすべし。」

と、口《くち》ばしるによつて、人々、大《おほき》に驚き、「おや」どもを、はじめとして、

「これは。ひとへに、神明の、のりうつり給ふにこそあれ。」

とて、わがいゑ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]のほとりに、いゑを、つくりて、おきにける。

[やぶちゃん注:「三明六通《さんみやうろくつう》」「三明」は、過去・現在・未来に関わる智慧で、「六通」は、それに「天耳通(てんにつう:六道衆生の声を聞くこと)、「他心通(たしんつう:六道衆生の心中を知ること)、「神足通(じんそくつう:種々の神変を現ずること)の三つを加えたもの(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「芥(ケシ)毛頭《もうとう》のこさず」高田氏の脚注に、極小の『芥』(けし)『ひとつぶを見おとすことなく、の意。』とある。

「三界《さんがい》一らん」「三界」は仏教の世界観で、生きとし生けるものが生死流転する、苦しみ多き「迷い」の生存領域を、「欲界」・「色界(しきかい)」・「無色界(むしきかい)」の三種に分類したものを指す。「欲界」は最も下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む領域である。ここには地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六種の生存領域(六趣・六道)があり、この世界の神々を「六欲天」という。「色界」は前記の三欲を離れた生きものの住む清らかな領域を指し、絶妙な物質(色)よりなる世界であるため、この名があり、「四禅天」に大別される。「無色界」は最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界である。ここの最高処を「有頂天」(非想非非想処)と称する(小学館「日本大百科全書」に拠った)。ここで言っているのは、それら仏教真理に於ける「全世界」の意。「一らん」は「一覽」で、それらの時空間を総て超越して見渡すことが出来ることを言う。実は、底本のここには、この「一らん」の右にママ傍注が附されているのだが、この注自体が、何を以って疑問としているのか、私には正直、よく判らない。]

 さるほどに、世に、この事、かくれなければ、しよこくの大みやう・小みやう、京・大坂・堺をいはず、きせん、ぐんじゆ[やぶちゃん注:「群衆」。]する事、なゝめならず。

 まづ御《おん》まへに、座とう[やぶちゃん注:「座頭」。]、十人も、廿人も、かしこまりゐて、申《まうす》やうは、

「我は、『そんじやうそのくに』より、うけたまはりおよびて、はるばると、參りたり。ねがはくは、この兩がんを、明《あけ》てたまはり候へ。」[やぶちゃん注:「そんじやうそのくに」高田氏の脚注に『「そんじやう」は、事物、場所などについて、具体的に名をあげず、それを示す接頭語』とされ、「そんじやうそのくに」『は「なにがしの国」の意。』とある。所謂、語り手が、意識的に特定の国名を伏字にしたというだけのことである。]

と申《まうし》ければ、「伊勢福どの」、きゝたまひて、

「これへ、近く、寄れ。」

と、のたまひて、よびよせ、めのうちを見給ひて、

「やすき事、いやして、とらせん。」

とて、「こがたな」を、もつて、目の内を、さんざんにきりて、「にくち」[やぶちゃん注:「肉血」。]を、いだし、さて、御符《ごふ》を、もみて、押《おし》こみ、そのゝち、扇を、ひろげて、

「これを、なにぞ。」

と、のたまふ。

 ざとうの、いはく、

「あふぎにて候。」

と申《まうす》。

「ゑ[やぶちゃん注:「繪」。]は、なにぞ。」

と、問へば、

「あるひは[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、人形《ひとがた》[やぶちゃん注:人物。]、あるひは花・とり、山・はやし。」など、こたふ。

「一段、よし。はやく、かへれ。」

と、あるほどに、

「ありがたし。」

とて、つきてきたる杖どもを、御まへに、すてゝ、かへる。

 其のつえ[やぶちゃん注:ママ。]は、山のごとくに、つみあげたり。

 その外、「こしぬけ」・「みゝつぶれ」・「せむし」・「せんき」・「中風《ちゆうぶ》」などゝて、なげき、かなしみ、きたれるものどもをば、みなみな、たちわり[やぶちゃん注:患部を切開し。]、御ふう[やぶちゃん注:ママ。岩波文庫は本文補正して、『御符』(ルビなし)とする。]を、おしこみければ、立所《たちどころ》に、いえて、かへりけるほどに、よの中の人、きゝつたへに、

「神變竒妙。」

と、有《あり》がたがりしも、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]なり。

[やぶちゃん注:「こしぬけ」「腰拔」。足が不自由で立てない人。所謂、下半身不随。古語の差別用語で「ゐざり」(躄:「躄(いざ)る」の連用形を名詞化したもの)。

「みゝつぶれ」「耳潰れ」。聾者(ろうしゃ)。聴力障碍者。同前で「つんぼ」。

「せむし」漢字表記は「傴僂」「背蟲」。一般には、背骨が後方に盛り上がり、弓状に湾曲する病気、及び、それに罹患した人。く現行では、「佝僂(痀瘻)病」(くるびょう)で、ビタミンD欠乏や、何らかの代謝異常によって発症した骨の石灰化障害疾患。典型的な病態は乳幼児の骨格異常で、小児期の病態を「くる病」と呼び、成長して骨端線閉鎖が完了した後の病態を「骨軟化症」と呼んで、区別している。「背蟲」は、昔、「背に虫がいるためになる」と思われていたところからの名とされる。他に卑称で「くぐせ」「くつま」「せぐつ」等とも呼んだ。

「せんき」「疝氣」。大腸・小腸・生殖器などの下腹部の内臓が痛む疾患を広く指す。

「中風《ちゆうぶ》」歴史的仮名遣では「ちゆうぶう」「ちゆうふう」「ちゆうぶ」とも読む。脳卒中発作の後に現われる半身不随のこと。運動神経の大脳皮質寄りの下行路の部分に脳血管障害が起きたために発生する症状。脳出血や脳梗塞によることが多い。「中氣」も同じ。]

 備前中納言どのゝ北の御方、例ならず、なやみ給ふほどに、御つぼね[やぶちゃん注:「御局」。大名の奥方に直に仕える老女。]、きゝおよび給ひて、騎馬・のり物、つゞけて、いみじくしてまいり[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]給ひ[やぶちゃん注:なみなみではない仕儀で訪ねてきたことを言う。]、御つぼね、御まへにむかひ給ひて、

「ちと申《まうし》あげたき御事《おんこと》の候ひて、これまでまいり候。」

と、のたまへば、「伊勢福どの」、聞《きき》給ひて、

「仰《おほせ》までもなし。御《み》こゝろのうち、申して、きかせん。御身の主君は、大名にてまします備前中納言どのと申す。御ようの事は、北の御《おん》かた、御なやみを、たづね給ふ御《ご》さん[やぶちゃん注:「御算」。ここは「手だて」の意であろう。]にてまします。この十一月には、しかも、わか君、いできたまふ。なに事もなく、めでたし。ちがう[やぶちゃん注:ママ。]たるか、いかが。」

と、の給ふほどに、御つぼねも、御もとのさぶらひたちも、「した」を、まきて、とかう、物も、いはれず。身の毛よだちてぞ、見えにける。

[やぶちゃん注:「備前中納言どの」本書の作者の識語は文禄五年三月(グレゴリオ暦一五九六年)であるが、高田氏の脚注に、『文禄期の備前岡山藩主は権中納言宇喜多秀家。』とある。史実に従うなら、この「奥方」は正室の前田利家の四女で、豊臣秀吉の養女となった豪姫(天正二(一五七四)年~寛永一一(一六三四)年)で、「わか君」は、謂いからして、秀家の嫡男宇喜多秀高(天正一九(一五九一)年~慶安元(一六四八)年)である。また、ウィキの「豪姫」には、文禄四(一五九五)年、『病弱で出産の度に大病にかかっていた豪姫だが、狐が憑いたのが原因だと言われ、養父』『秀吉は』十『月』二十『日、石田三成と増田長盛に命じて狐狩の文書を出した』。『この時は、内侍所御神楽が奏され、実父の利家も名刀三池伝太の威力で狐を落としたという』と、極めて興味深い事実が記されている。これは、恐らく、本話の以下を読んで頂ければ、これ、本篇の重要な根っこに相当する事実であるように思われる。

 そのゝち、御さん、たいらかにありしかば、

「まことに、ありがたし。」

とて、御禮のために、「金ぺい」[やぶちゃん注:「金幣」。高田氏の脚注に、『金色の幣帛(へいはく)。神前に置く聖具の一つ。』とある。]を一對、「すゞし」に「ぬいはく」[やぶちゃん注:「生衣の縫箔」。同前で、「すゞし」に『「生衣、ススシノキヌ」(『名義抄』)。軽く薄い絹布。』とあり、「縫箔」に『絹布に刺繡し、所々に金銀の箔を摺りつけたもの。貴婦人の礼服に用いる。』とある。]の小そで一かさね、まいらせ給ふ。

 また赤井善之丞と申《まうす》人、あるとき、まいり給ひて、申されけるは、

「うけたまはり及びて、これまで、まいり候。武運長久にして奉公無事に、つかまつり候やうに、御符を給はり候へ。」

と、申されければ、「伊勢ふく」、きゝたまひて、

「それこそ安き事なれども、御《ご》へんは『しゝ』[やぶちゃん注:「鹿(しし)」。]が近ひ[やぶちゃん注:ママ。]人なれば、來年、おはし候へ。當年は、かなふまじ。」

と、のたまふほどに、

『はつ。』

と、おもひ、身のけ、よだちて、かへりける。

 こぞ[やぶちゃん注:「去年(こぞ)」。]の冬、鹿《しし》を、くい[やぶちゃん注:ママ。]けるほどに、かく。いへり。

 

かくて、日々に、じはんじやうおはしけるほどに、宮居を、おびただしく造宮《ざうぐう》おはしまして、かたはらに、病人など、「こもり所」を、こしらへたり。

 しよはう[やぶちゃん注:「諸方」。]より、「ぬいはく」の「いるひ[やぶちゃん注:ママ。「衣類(いるゐ)」。]」を、まいらせければ、そのまゝ、「こがたな」にて、たちくだき、

「まほり[やぶちゃん注:ママ。「守(まも)り」。御守り。]にして、子どもに、かけさせよ。『とうそう』[やぶちゃん注:ママ。「痘瘡(とうさう)」。天然痘。]を一世のあいだ[やぶちゃん注:ママ。]、のがるべし。」

とて、しよにんに、是を、ほどこしけり。

 あるとき、參宮[やぶちゃん注:伊勢神宮参詣。]し給ふに、そのてい[やぶちゃん注:「態(てい)」。]、おびたゞしくて、道すがら、諸人、御ふう[やぶちゃん注:ママ。]を、こひたてまつり、海道に、市《いち》をぞ、なしにける。

 かくて、月日、ふるほどに、すでに、三とせも立《たち》けるに、この太郎左衞門、思ひけるは、

『ふしぎなる事かな。この「伊勢ふく」は、每夜、あかつき[やぶちゃん注:誤りではない。「曉」は「曙」の前の太陽光の回折も起こっていない完全に真っ暗な時間帯を指すから、一般庶民にとっては、所謂、既に翌日になっているが、闇である時間帯はざっくり言って「夜」なのである。]ごとに、もり[やぶちゃん注:「森」。]へ、いでて、百をけ[やぶちゃん注:「桶」。]の「ごり」[やぶちゃん注:「垢離」。水垢離。]を、かく。「あとを、かまひて[やぶちゃん注:ママ。「構へて」。呼応の副詞で「決して(~ない)」。]、見る事、なかれ。」と、せいする[やぶちゃん注:「制する」。]によりて、いまゝで、みず。なにとやらん、あやしければ、こよひは、つけて[やぶちゃん注:後をつけて。]、みばや。』

と思ゐ[やぶちゃん注:ママ。]て、まちをるところに、又、いつものごとく、あかつき、いでゝ行《ゆき》ければ、太郎左衞門、あとより、みへがくれ[やぶちゃん注:ママ。「見え隱れ」。]にゆき見ければ、森のうちヘ、いりぬ。

 さて、ほかより[やぶちゃん注:感づかれないように、遠回りに回って、別な方角から。]、忍びよりて、くわしく[やぶちゃん注:ママ。]みければ、狐ども、一、二百ばかりもあるらんとおぼへ[やぶちゃん注:ママ。]て、一しよ[やぶちゃん注:「一所」。]にかたまり、うなづきあひて、ゐたり。

 太郎さゑもん、これを見て、大《おほき》におどろき、それより、かえりて、

『扨《さて》こそ。このものは、狐のつきて、なすわざとこそ。いまゝで、かく、とも、しらざるよ。』

と、思ひ、

「このあかつき、かへらんところを、うつて、すてん。」

とて、「なぎなた」を、かまへて、いつもゆくみちに、相《あひ》まちけるが、又、いでゝ、森より、いゑにかへるをみれば、あたまのはげたる「ふるぎつね」の、かへるほどに、「なぎなた」にて、たゞ、一たちにぞ、のせたりける[やぶちゃん注:岩波文庫補正原文では、『除(のせ)たりける』とするものの、流石に脚注では、『「除」は「のぞく」で、殺すこと。「のせ」の表記(原文)は異例。』とする。]。

「さては、きつね、しとめたり。」

とて、たちよりてみければ、むすめの「いせふくどの」をぞ、がいしけり。

「こは、いかにしつる事ぞや。」

とて、千悔《せんくわい》、すれども、かひぞ、なき。

[やぶちゃん注:「千悔」非常に後悔すること。]

 かくて、三年《みとせ》、過《すぎ》ければ、そのあとかたもなく、雪のきえたるやうに、うせにけり。

 ことごとく、かたわ物・病人とみえしは、皆々、狐にてぞ、侍りける。

 又、まことの病人、ゆきければ、

「是は、過去より、『ゐんぐわ』の道理に「こくせつ」[やぶちゃん注:ママ。意味不明。岩波文庫では本文を『曲折』とした上で、脚注に『原文「こくせつ」。意によって漢字を当てた。本来の形を押し曲げられ、の意。』とある。]せられて、わが手に、あまれば。」

とて、もどしぬ。

「をよそ[やぶちゃん注:ママ。]、かかる『きつね』は、むかしの『玉ものまへ』このかたに、うけたまはりおよばず。」

とて、世の中、竒代のおもひを、なせり。

 さりながら、かれが得させし「まもり」、かけたる子どもは、「はうそう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]」したるもの、一人も、なし。

 きゝをよび[やぶちゃん注:ママ。]て、もたたざる人は、あなたへ、こなたへ、かり、とゝのへて、ぬぐひまはせば、たとひ[やぶちゃん注:ママ。]、すれども、かろくして、一人も、けがをせぬこそ、ふしぎなれ。

「よのすゑとは、いへども、かゝる事こそ、奇代なれ。」

と、世、こぞりて、風聞せり。

[やぶちゃん注:「玉ものまへ」「玉藻の前」。鳥羽上皇の寵を得たとされる伝説上の美女で、大陸から飛び来った金毛九尾の狐が変じたもの、陰陽師に見破られ、那須の殺生石になったという伝説の妖狐。御伽草子「玉藻の草紙」・謡曲「殺生石」、浄瑠璃・歌舞伎・合巻(ごうかん)に広く脚色された。詳しくはウィキの「玉藻の前」がよい。

「ぬぐひまはせば」「その御符を、持ち廻りで、貸し渡してゆき、御符で、疱瘡に発疹の出来かけた顔や身体を拭っては、次の家へ、送ってやれば、」の意。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 柳

 

Youryu

 

やなぎ  小楊  楊柳

     【和名之太里柳

      今唯云夜奈

      木】

      釋氏呼曰

       尼俱律陀木

 

本綱楊樹枝硬楊起 柳樹枝弱而埀流葢一類二種而

今猶倂稱楊柳此樹縱横倒順揷之皆生春初生柔荑卽

開黃蕊花至春晚葉長成其葉狹長而青綠枝條長軟其

花中結細黒子蕊落而絮出如白絨因風而飛其子着衣

物能生蟲入池沼卽化爲浮萍古者春取楡柳之火其嫩

芽可作飮湯

柳絮【苦寒】 吐血咯血服之佳金瘡出血封之卽止又可

[やぶちゃん字注:「咯」は「喀」の異体字。]

 以桿氊代羊毛爲茵褥柔軟性凉宜與小兒臥尤佳古

[やぶちゃん字注:「氊」は「氈」の異体字。]

 人以絮爲花謂花如雪者皆誤矣

柳枝 去風消腫止痛作浴湯膏藥牙齒藥又其嫩枝削

 爲牙枝滌齒最妙凡諸卒腫急痛以酒煮楊柳白皮暖

 熨之卽止 夫木 玉ほこの道のなはてのさし柳早や森になれ立ちもやらるゝ光俊

[やぶちゃん注:この和歌の「なはて」は「ながて」の、また、「やらるる」は「やどらむ」の誤りであるので、訓読では、訂した。]

△按柳極昜生昜長陶朱公所謂種柳千株可足柴炭者

 是也凡煉膏藥用柳木箆或作爼板及蒸甑亦皆以無

 毒也

 

   *

 

やなぎ  小楊《せうやう》  楊柳《やうりう》

     【和名、「之太里柳《しだりやなぎ》」。

      今、唯《ただ》、云ふ、「夜奈木《やなぎ》」。】

      釋氏、呼んで、「尼俱律陀木《にぐりつだぼ

      く》」と曰ふ。

 

「本綱」に曰はく、『楊樹《やうじゆ》は、枝、硬くして、楊《やう》≪は≫、起《きす》る。』≪と≫。『柳樹《りうじゆ》は、枝、弱くして、埀れ、流る。葢し、一類≪にして≫二種なり。而《しか》も、今、猶《な》を[やぶちゃん注:ママ。]、倂《あはせ》て、「楊柳」と稱す。此の樹、縱横(たてよこ)、倒(さかさ)ま、順(まさま)に、之れを揷(さ)すに、皆、生《しやう》ず。春の初《はじめ、》柔《やはらかき》荑《つばな》を生じ、卽ち、黃《き》なる蕊花《ずいくわ》[やぶちゃん注:雌蕊と雄蕊の総称。「花蕊」(かずい)に同じ。]を開く。春《はる》≪の≫晚《くれ》に至《いたり》て、葉、長成《ちやうせい》す。其の葉、狹《せば》く長《ながく》して、青綠《あをみど》り。枝條《しでう》、長≪く≫、軟《やはなか》なり。其の花の中に細《こまやか》なる黒≪き≫子《たね》を結ぶ。蕊《しべ》、落ちて、絮(わた)、出《いづ》ること、白き絨(けをり)[やぶちゃん注:毛糸状のもの。]のごとく、風に因《よつ》て、飛ぶ。其の子、衣物《きもの》に着《つき》て、能く、蟲《むし》を生ず。池沼《ちしやう》に入れば、卽ち、化《くわ》し、浮萍(うきくさ)と爲《なる》。古《いにし》へは、春、楡《にれ》・柳《やなぎ》の火を取≪れり≫。其の嫩芽(わかめ)、飮湯《いんたう》と作《つく》るべし。』≪と≫。

『柳絮《りうじよ》【苦、寒。】』、『吐血・咯血《かつけつ》、之れを服して、佳《よ》し。金瘡≪の≫出血、之れを封じて、卽ち止《や》む。又、以≪つて≫、氊《けおりもの》に桿(う)ち、羊毛に代《かへ》て、茵-褥(しとね)と爲《な》し、柔-軟《やはらか》にして、性、凉《すず》≪やかにして≫、宜《よろ》しく、小兒と與(とも)に、臥《ふ》して、尤≪も≫佳なるべし。古人《こじん》、絮を以つて、「花《はな》」と爲《な》して、謂「花、雪のごとし。」と≪する≫は、皆、誤れり。』≪と≫。

『柳枝《れうし》』、『風《かぜ》[やぶちゃん注:風邪。]を去り、腫《はれ》を消し、痛《いたみ》を止む。浴湯《よくたう》・膏藥・牙齒の藥と作《な》す。又、其の嫩枝《わかえだ》、削《けづり》て、牙-枝(やうじ)と爲す。齒を滌《すす》≪ぐに≫、最も妙なり。凡そ、諸卒腫[やぶちゃん注:突如、発症した腫れ物。]・急痛、酒を以つて、楊柳の白≪き≫皮を煮《に》≪て≫、暖めて、之れを熨(の)せ《✕→(の)して貼れ》ば、卽ち、止む。』≪と≫。

 「夫木」

   玉ぼこの

      道のながての

    さし柳

      早や森になれ

          立ちもやどらむ 光俊

△按ずるに、柳、極めて、生《しやう》じ昜《やす》く、長《ちやう》じ昜し。陶朱公が、所謂《いはゆ》る、「柳を種《うゑ》ること、千株なれば、柴炭《さいたん》[やぶちゃん注:薪(たきぎ)と炭(すみ)。諸燃料。]に足《た》るべし。」と云ふは[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、是れなり。凡そ、膏藥を煉《ね》るに、柳-木《やなぎ》の箆(へら)を用ふ、或いは、爼板(まないた)、及び、蒸-甑(こしき)を作る≪と≫云《いふ》も亦、皆、毒、無《なき》を以《もつて》なり。

 

[やぶちゃん注:この場合、「楊柳」(ようりゅう)を比定するのが、最も問題がない。則ち、

双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属 Salix

である。当該ウィキを引くと、日中の種の微妙な違いが、判り易く認識出来る(注記号はカットした。また、引用文中の太字・下線は私が振った)。『ヤナギ(柳、栁、楊、英語: Willow)は、ヤナギ科ヤナギ属の樹木の総称』で、「風見草」「遊び草」と『呼ばれることがある。世界に約』三百五十『種あり、主に北半球に分布する。日本では、ヤナギと言えば』、『一般にシダレヤナギ』(ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica 当該ウィキによれば(同前の処置をした)、『シダレヤナギの中国名は「垂柳」といい、ヤナギの中でも枝が垂れるヤナギを「枝が垂れないヤナギを「としている』。なお、シダレヤナギの『学名の種小名 babylonica(バビロニカ)は「バビロンの」の意味であるが、原産は中国である。バビロンにあったという説は』、『植物学者のほとんどは否定しており、中国産のものが』、『バビロン付近に移されて、その標本に基づいてカール・フォン・リンネ(Carl von Linné 一七〇七年~一七七八年:言わずと知れたスウェーデンの博物学者にして「分類学の父」)が命名したと考えられている。また、旧約聖書(詩編)百三十七の『バビロン捕囚』『に書かれているバビロンのヤナギを、間違って』、『シダレヤナギに充てたという説もある』とあった』『を指すことが多い』が、『ここではヤナギ属全般について記す』。『樹木の中で最も特色のある属のひとつで、湿潤から乾燥まで、高温から低温まで、幅広い環境条件に適応し、種類が極めて多いのが特色である。主に温帯に生育し、寒帯にもある。高山やツンドラでは、ごく背の低い、地を這うような樹木となる。日本では水辺に生育する種が多いが、山地に生育するものも少なくない』。『種類が多いため、形態的な差異も多様である。落葉性の木本であり、高木から低木、ごく背が低く、這うものまである。高木性のものはさらに直立性のものと』、『枝垂れ性のものがあり、灌木性のものは低地性のものと高山性のものに区別される』。『葉は互生、まれに対生。托葉を持ち、葉柄は短い。葉身は単葉で線形、披針形、卵形など変化が多い』。『雌雄異株で、花は尾状花序、いわゆる「ヤナギの猫」と形容される小さい花が集まった穂になるのが特徴で、枯れるときには花序全体がぽろりと落ちる。ただし、外見的には雄花の花序も雌花の花序もさほど変わらない。雄花は雄しべが数本、雌花は雌しべがあるだけで、花弁はない。代わりに小さい苞や腺体というものがあり、これらに綿毛を生じて、穂全体が綿毛に包まれたように見えるものが多い。すべて虫媒花、ただし』、『ケショウヤナギ』( Salix arbutifolia )は、『この限りではない』。『冬芽は』一『枚のカバーのような鱗片に包まれ、これがすっぽりと取れたり、片方に割れ目を生じてはずれたりする特徴がある。これは、本来は』二『枚の鱗片であったものが』、『融合したものと考えられる。果実は蒴果で、種子は小さく柳絮(りゅうじょ)と呼ばれ、綿毛を持っており』、『風に乗って散布される』。『中国において四~五月頃の風物詩となっており、古くから漢詩等に詠まれる柳絮だが、近年では、大気汚染や火災の誘発、アレルゲンになるという理由で、公害の一種として認識されている』。『日本においては、目立つほど綿毛を形成しない種が多い。しかし、日本においても意図的に移入された大陸品種の柳があり、柳絮を飛ばす様子を見ることができる。特に北海道において移入種のヤナギが多く、柳絮の舞う様が見られる』。『ヤナギの漢字表記には「柳」と「楊」があるが、枝が垂れ下がる種類(シダレヤナギやウンリュウヤナギ Salix matsudana var. tortuosa など)には「柳」の字を当てる一方、枝が立ち上がる種類(ネコヤナギ Salix gracilistyla やイヌコリヤナギなど)には「楊」の字を当てる。これらは実は、既に古く「万葉集」でも、区別されている』。『日本では、ヤナギといえば、街路樹、公園樹のシダレヤナギが代表的であるが、生け花では』、『幹がくねったウンリュウヤナギや』、『冬芽から顔を出す花穂が銀白色の毛で目立つネコヤナギがよく知られている。柳の葉といえば』、『一般的にシダレヤナギの細長いものが連想されるが、円形ないし卵円形の葉を持つ種もある。マルバヤナギ(アカメヤナギ)』( Salix chaenomeloides )『が』、『その代表で、野生で普通に里山にあり、都市部の公園にも紛れ込んでいる』。『実際には、一般の人々が考えるより』、『ヤナギの種類は多く、しかも身近に分布しているものである。やや自然の残った河原であれば、必ず何等かのヤナギが生育し、山地や高原にも生育する種がある。それらはネコヤナギやシダレヤナギとは』、『一見』、『とても異なった姿をしており、結構な大木になるものもある。さらには高山やツンドラでは、地を這うような草より小さいヤナギも存在するが、綿毛状の花穂や綿毛をもつ種子などの特徴は共通している』。『ただし、その同定は極めて困難である。日本には実に三十種を軽く越えるヤナギ属の種がある。これらは全て雌雄異株である。花が春に咲き、その後で葉が伸びて来るもの、葉と花が同時に生じるもの、展葉後に開花するものがある。同定のためには雄花の特徴、雌花の特徴、葉の特徴を知る必要がある。しかも、自然界でも雑種が簡単にできるらしいのである』。以下、「主な種」の項があるが、その右の [表示] をクリックされたい。『ヤナギは水分の多い土壌を好み、よく川岸や湿地などに、生えている。自然状態の河川敷では、河畔林として大規模に生育していることがある。これは出水時に上流の河川敷から流木化したものが下流で堆積し、自然の茎伏せの状態で一斉に生育するためである』。『川の侵食を防ぐため川岸に植林される。オーストラリア南部でも入植時に護岸目的で植林されたが、侵略的外来種(国家的に深刻な雑草(英語版))として認定され、在来の樹木への置き換えが進んでいる。繁殖力もさることながら、川の流れを阻害したり、秋には葉を大量に落とし、葉が分解されることで水質を悪化させ環境を激変させることが、オーストラリア政府の関心をひいている』。『空海が中国を訪れていた時代には、長安では』、『旅立つ人に柳の枝を折って手渡し』て、『送る習慣があった。この文化は、漢詩などにも広く詠まれ、王維の有名な送別詩』「送元二使安西」『においても背景になっている』

   *

 送元二使安西

渭城朝雨浥輕塵

客舍靑靑柳色新

勸君更盡一杯酒

西出陽關無故人

  元二(げんじ)の安西に使ひするを送る

 渭城の朝雨 輕塵を浥(うるほ)す

 客舍(かくしや)青青 柳色(りうしよく)新たなり

 君に勸む 更に盡くせ 一杯の酒

 西のかた 陽關を出づれば 故人 無からん

   *

この承句「客舍靑靑 柳色新たなり」に『ついて、勝部孝三は、「柳」と「留」(どちらも音はリウ)が通じることから、柳の枝を環にしたものを渡すことが、当時』、『中国において、旅人への餞の慣習であったと解説している。「還」と「環」(どちらも音はホワン)が通じて、また帰ってくることを願う意味が込められているわけである』。『歯磨き用の歯木として用いられた。多くの種が歯木として使用されたが、中国や日本では楊柳(カワヤナギ)』(これは前出のネコヤナギの異名なので注意)『の枝から作ったことから、楊枝(ようじ)と呼ばれた。そこから歯を掃除するための爪枝や、歯ブラシとしての房枝となった』。『英語の「WEEPING WILLOW」は泣いているやなぎと訳せる。イスラエル人は、柳を竪琴につるし、故郷のパレスチナの山々を思い出しながら』、『自分たちの受難を嘆いたという(バビロン捕囚、旧約聖書・詩編』百三十七『)。そこからこの名前になった。またシダレヤナギの学名Salix babylonicaと、コトカケヤナギ』(ヤナギ科ヤマナラシ属(或いはハコヤナギ属) Populus euphratica :中央アジアから中東・北アフリカまでの乾燥地帯に多く植生する)『の名もこれにちなんでいる』。『柳は解熱鎮痛薬として古くから用いられてきた歴史がある。シュメール時代の粘土板には疼痛の薬として記述され、エジプト人はヤナギの葉から作られたポーション』(potion:液状で服用する水薬)『を痛み止めとして使用した。日本でも「柳で作った楊枝を使うと歯がうずかない」と言われ』、『沈痛作用について伝承されていた』。十九『世紀には生理活性物質のサリシン』(Salicin:すべてのヤナギの樹皮で産生する抗炎症性のグルコシド(Glucoside:グルコース由来の配糖体))『が柳から分離され、より薬効が高いサリチル酸』(salicylic acid:ベータヒドロキシ酸(Beta hydroxycarboxylic acid)の一種の植物ホルモン。消炎鎮痛作用や皮膚の角質軟化作用がある)『を得る方法が発見されている。その後』、『アスピリン』(正式にはアセチルサリチル酸(acetylsalicylic acid)。代表的な解熱鎮痛剤の一つで、非ステロイド性抗炎症薬の代名詞とも言うべき医薬品。ドイツの「バイエル(Bayer)社」が名付けた商標名「アスピリン」(ドイツ語:Aspirin)がよく知られたため、「日本薬局方」では正式名称が「アスピリン」となっている)『も合成された。現在では、サリシンは体内でサリチル酸に代謝されることがわかっている。また、葉には多量のビタミンCが含まれている』。『植栽木として、川や池の周りに植えられた実績があり、先人が考えた水害防止対策といえる。これは柳が湿潤を好み、強靭な』、『しかも』、『よく張った根を持つこと、また』、『倒れて埋没しても再び発芽してくる逞しい生命力に注目したことによる。時代劇に出てくるお堀端の「しだれ柳」の楚々とした風情は、怪談ばなしに、つきものとなった』。『古く奈良時代以前から』「奈伎良(なぎら)」『とも呼ばれた』。『柳の枝を生糸で編んで作った箱を柳筥(やないばこ)と言い』、『神道では重要な神具である。柳筥に神鏡を納めたり、また』、『柳筥に短冊を乗せたりもするもので、奈良時代から皇室や神社で使用され続けている』。挿し木で容易に増えることから、治山などの土留工、伏工ではヤナギの木杭や止め釘を用い、緑化を進める基礎とすることがある』とある。「維基百科」の「柳树」(=「柳屬」)では、驚くべき数の種群が羅列されてあり、「文化」の項には、軍営の周囲の障壁とされた「軍事象徴」と、古代の、世を逃れて隠棲した「隠士象徴」、そして、上記日本語版で言及された「離別象徵」が示されてある。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「(ガイド・ナンバー[086-23a]以下)からのパッチワークである。但し、検索する場合は、「柳」「楊」ではなく、「桞」であるので、注意されたい。

 なお、この後、七項は「~柳」「~楊」等(異名含む)が続く。

「釋氏」仏教徒。

「尼俱律陀木《にぐりつだぼく》」「大蔵経データベース」で検索したが、複数の仏典で確認出来るものの、その検索する際には、「尼俱律陀木」ではゼロなので、「尼俱律陀」で検索されたい

「楊《やう》≪は≫、起《きす》る』以上で見た通り、中国では、枝垂れずに、すっくと立ち上る種群を「楊」と言うのと、一致する内容である。

「此の樹、縱横(たてよこ)、倒(さかさ)ま、順(まさま)に、之れを揷(さ)すに、皆、生《しやう》ず」「このヤナギ類の樹木は、その枝を切り取り、それを、縦でも、横でも、また、その切った枝の元の樹の上下をわざと逆さまにしても、また、上下をその通りにして、土に植えても、孰れも、総て、ちゃんと元の樹と同一のものが生えてくる。」の意。

「荑《つばな》」この漢字は音「テイ・ダイ」で、漢語で「新芽」の意。ここでは、あまり見慣れない漢語なので、東洋文庫訳の和訓を採って、読みを振ったが、この「つばな」は狭義には、単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindric を指すので、注意が必要だ。同種は、初夏に、赤褐色の花穂を出し、後に白い綿毛の体を示す。私の好きな少年期の原風景である。

「其の子、衣物《きもの》に着《つき》て、能く、蟲《むし》を生ず。池沼《ちしやう》に入れば、卽ち、化《くわ》し、浮萍(うきくさ)と爲《なる》」これは、ありがちな旧時代の「化生」(けしょう)説であり、採るに値しない。

「楡」時珍の記載であるから、バラ目ニレ科ニレ属 Ulmus どまりである。

「古《いにし》へは、春、楡《にれ》・柳《やなぎ》の火を取≪れり≫」東洋文庫訳では、そのままで、注も何も、ない。中国の民俗を知らない読者には、不親切、これ、極まりない。これは、「楡柳(ゆりう)の火(ひ)」の意味である。小学館「日本国語大辞典」によれば、『楡、柳の枝にともした火。特に古く、中国で寒食(冬至後』の百五『日目)の日、楡、柳でつけた火を取り、群臣に賜い、これを各戸に伝えた風習をいう』とある。

「飮湯《いんたう》」若芽を湯に入れて飲むことであろう。煎じるのではあるまい。

「柳絮《りうじよ》」漢詩で知られるものは、北宋第一の詩人蘇軾の七絶、

   *

 和孔密州五言絕句 東欄梨花

梨花淡白柳深靑

柳絮飛時花滿城

惆悵東欄一株雪

人生看得幾淸明

  孔密州に和す五言絕句 東欄の梨花

 梨花 淡白にして 柳(やなぎ) 深靑たり

 柳絮 飛ぶ時 花 城(じやう)に滿つ

 惆悵(ちうちやう)す 東欄の一株(ひとかぶ)の雪(ゆき)に

 人生 看得(かんとく)す 幾(いく)淸明(せいめい)

   *

あたりか。誌題の前のそれは、密州の知州(知事)であった孔宗翰の詩に和しての七言絶句」の意。転句の「雪」は梨の花の隠喩。「淸明」「淸明節」。三月節。二十四節気の一つで、旧暦の二月後半から三月前半、新暦では四月五、六日頃に相当する。万物が清々しく明るく美しい「生」の始まりを象徴し、さまざまな花が咲き競う花見のシーズンである。

 但し、私は何故か、大学生の時に読んだ、中唐の韓愈の五絶、

   *

  柳巷

柳巷還飛絮

春餘幾許時

吏人休報事

公作送春詩

  柳巷(りうかう)

 柳巷 還(ま)た 飛絮(ひじよ)

 春の餘(なごり) 幾許(いくばく)の時ぞ

 吏人(りじん) 事を報ずるを休(や)めよ

 公 春を送るの詩を作らん

   *

を思い出す。「公」は自称。「我輩」。私の中の鮮烈な「飛絮」の映像は、この起句に尽きるのである。

「宜《よろ》しく、小兒と與(とも)に、臥《ふ》して、尤≪も≫佳なるべし」東洋文庫訳では、『小児をねかせるのに大へん佳』(よ)『い』とあるのだが、どうも、この訳、微かに気に入らない。ここで、良安が「與」に「トモニ」という訓点をわざわざ附したところを――ちゃんと――意を汲んで――意訳すべきであると感じるのである。則ち、

   *

毛織物のようにした柳絮を褥(しとね)とする。それは、母親の子への愛の仕事である。而して、そのように母が、幼い子どもへの労わりの思いを込めて作ったそれは、柔らかで、しかも涼しく、母が、幼な子とともに、横になって、寝かしつけるのには、最も、よいものである。

   *

である。少なくとも、私は、白文の文字列から、そう読んだ。

「夫木」「玉ぼこの道のながてのさし柳早や森になれ立ちもやどらむ」「光俊」既注の「夫木和歌抄」に載る藤原光俊の一首で、「卷三 春三」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で00777)。「玉ぼこの」「玉鉾の」は「道」の枕詞。

「陶朱公」東洋文庫の後注に、『春秋時代の越王勾践の臣であった范蠡が、越王のもとを去ったのちの変名。貨殖の才に長けていたという。』とある。私の好きな人物である。当該ウィキを参照されたい。

「蒸-甑(こしき)」甑(こしき)。穀物を蒸す土器。形は鉢、又は、甕(かめ)状で、底に穴があり、簀の子を嵌めて。米などを入れ、湯沸しの上に載せて蒸す。本邦では、古墳時代中期に朝鮮系の須恵器の一つとして出現しており、後に土師器(はじき)の器種として普及したが、この頃のものは、角形の取手をつけたものが多い。東南アジア・中国にもみられる(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]

2024/07/18

「疑殘後覺」(抄) 巻四(第六話目) 八彥盗賊を討事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

巻四(第六話目)

   八彥、盗賊を討《うつ》事

 中ごろ、越州に「八彥の近光」と云《いふ》人ありけり。

[やぶちゃん注:「越州」越前・越中・越後の総称であるが、岩波文庫の高田衛氏の脚注では、『ここでは越後国。いまの新潟県にあたる。』とされる。同文庫の補正本文では、「八彥」を『弥彦の近光』と表記し、同じくこれに脚注して、『不詳。ただし弥彦は越後の地名で、この土地の豪族として設定されている。』とあって、高田氏は、現在の新潟県西蒲原郡弥彦村(やひこむら)に比定しておられることが判る。ここには、知られた越後一宮彌彦神社がある(孰れもグーグル・マップ・データ)。]

 此人、父「治部大夫」といふをば、とうぞく[やぶちゃん注:ママ。]のために、うたせ給へり。

 「石根《いはね》のとひゑもん」とて、「がうたう」を所作として、世をわたりけるが、そのよ[やぶちゃん注:「餘」。]、同類數百人《すひやくにん》、したがへて、方々を、まはりて、うちとり・はぎとりしけるほどに、あるとき、治部大夫、他所へうち越え、夜に人て山中を通りけるに、をりあひて、さんざんに討ち合ひ、たぜいなれば、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]討《うち》とられ給へり。

[やぶちゃん注:「石根《いはね》のとひゑもん」岩波文庫は『岩根の土肥右衞門』と補正しつつ(されば、この「とひ」は「とい」の誤りとなる。以下出る「とひ」は同じ)、『不詳。』とされる。

「をりあひて」同前で『遭遇して。』と注する。]

 されば、近光、

「いかにもして、この『いはね』をうつて、父の教養にほうぜん。」

と、あけくれ、はかり事を、めぐらされけれども、

「まづ、一所に、さだまらず、そのうへ、用心、よのつね、ならず。與同を、うちしたがへて、かりにも、よそめを、ふせてある。」

と、きくなれば、なにゝたよりて、ちかづくべきやう、なし。

 さればとて、

「かれを、うたで、亡父の鬱念を、むなしくせんも、くちおし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、あるとき、一間所《ひとまどころ》にいつて[やぶちゃん注:「入つて」。岩波文庫は『行つて』とするが、私は採らない。]、つらつら、手だてを、あんずるところに、爰《ここ》に、この「りやうない」に、その、とし月をふりたる、狐、ありけるが、はたちばかりの女房と、げんじて、こつぜんと、きたり、申《まうす》やうは、

「いかに。君は、ひとりと、ふかく、御心に、もの思はせ給ふ事の、あはれさよ。」[やぶちゃん注:高田氏は脚注で、『「ひっそりと」の古形表記。』とされるのだが、「言海」「広辞苑」、及び、所持する複数の古語辞典を見ても、そのような用法はなく、小学館「日本国語大辞典」には『「ひとりで」に同じ』とあり、使用例は江戸前期の浮世草子であるから、『古形表記』ではない。私は、それを支持する。「悶々としてただ一人の心の内で」の意とする。]

と申《まうし》ければ、近光、見給ひて、

「なんぢは、なにものぞ。」

と申させ給へば、

「さん候。みづからは、何をか、つつみまいらせん。この御りやうないに、いく年を、へたる狐にて候が、君の父のかたきをうたん事を、あけくれ、工夫おはします御《み》こゝろのうち、ことに、あはれにぞんじ侍る。まことに、かれを討たせ給はん事は、『たしやうくわうごう』は、ふるとも、かなひ給ふべからず。されども、我は『つうりき』[やぶちゃん注:「通力」。]を得て侍れば、かれがあさ夕の有樣を、日ごとにぞんじ侍る。いたづらに御こゝろをついやし給はんより、みづから[やぶちゃん注:話主の狐自身を指す。]を、たのみ給へ。このみたち[やぶちゃん注:「御館」。]の地にて、子どもを、あまた、まふけ[やぶちゃん注:ママ。]候へば、御父の御事をば、『氏《うぢ》のあるじ』と、おもひたてまつるに、なさけなくも、ほろぼし侍る[やぶちゃん注:「ほろぼされ給ふ」でないと、しっくりこない。]。そのにくみ[やぶちゃん注:「憎み」。「憎しみ」。]は、畜類ながらも、いかばかりとか、おぼしめす。かれを、うしなひて、おやのけうやう[やぶちゃん注:「供養」か。「父母に孝養をする」の意。但し、だとすると、歴史的仮名遣は「きようやう」である。]にせんと思食《おぼしめし》候はゞ、みづから、あんなひ[やぶちゃん注:ママ。]、仕《つかまつ》らん。」[

とぞ、申《まうし》ける。

[やぶちゃん注:妖狐の語りであるから、通常の人の言葉と異なった言い方をすることは、電子化した多くの怪奇談集で、しばしば、体験してはいる。しかし、本書のように、ひらがなが多く、普通の場面の人の台詞や地の文にも、盛んに歴史的仮名遣の誤用があることから、とてものことに、まともに躓かずに読むことが、出来難いと判断し、今回はテツテ的にダメ出し注を出した。

「たしやうくわうごう」の歴史的仮名遣は「たしやうくわうごふ」の誤りで、「多生曠劫」である。仏語で、「何度も、生まれ変わり、死に変わりする、久遠の時間」を言う。]

 近光、大きにえつき[やぶちゃん注:「悅喜」。]をし給ひて、

「かゝる喜びこそ、候はね。そのぎ[やぶちゃん注:「儀」。]ならば、うつべき手だてを、はからひて、きかせよ。」

と、の給へば、

「さん候。此《この》とひゑもんは、常に白拍子《しらびうし》を好み候へば、みづからを、『上方《かみがた》より、くだりたる、しらびやうしの、めいじん。』と、ふうぶんしたまへば、さもあらば、かれが聞きをよび[やぶちゃん注:ママ。]て、人を、たのみ、よび候べし。」

と、いひければ、ちかみつ、

「一段《いちだん》[やぶちゃん注:当時の口語の形容動詞の語幹の用法。「それは! また格別!」の意。]、しかるべし。さて、よびてのちは、いかん。」

と、あれば、

「よき時分を、みすかして、みづから、たよりを、すべし。そのとき、あやしき田夫《でんぷ》にまぎれて、支度して、おはせよ。」

と申《まうし》ければ、

「さても、さても、有《あり》がたきこゝろざしかな。この世ならず、おもふぞ。」

とて、かたく、ちぎりてぞ、かへりにける。

 さるほどに、此きつねは、あるくれがたに、ようがん、うつくしき美女となつて、下女、ひとり、うちつれてぞ、きたりける。

 あたらしどの[やぶちゃん注:「新殿」。新しく設えた舞殿であろう。]に移したまひて、さてむらむら、さはさはへ[やぶちゃん注:「村々、澤々へ」。高田氏の脚注で、『ここでは「沢」は村に對して、山あいに住む人々の集落地をさす』とある。]、

「都がたよりも、しらびやうしの、この所へ、きたりたり。のぞみならんものは、よびて、見物すべし。」

と、流布し給へば、あんのごとく、岩根は、きゝて、「峠の向丸」がもとへ、[やぶちゃん注:この「峠の向丸」は悪党岩根の配下の者の通称であろう。「たうげのむかうまる」と訓じておく。]

「かゝる事を、聞く。こよひ、このもの、よびて、これにて、見ばや。」

と、いひければ、

「さらば、そのびて、よび候はん。」

とて、白拍子をぞ、よびよせける。

 岩根は郎從《らうじゆう》等《ら》、十よ人《にん》、ぐして、上座にすはりて、この「女ばう」をみるに、なかなか、かたち、うつくしき事、いはんかた、なし。

「さすがに、みやこあたりを、めぐりたるものなればにや、かばかり、じんじやうに[やぶちゃん注:「尋常に」。「品位があって」。]、やさしくは、あるらん。」

と、みれども、みれども、目かれ、せず[やぶちゃん注:「目離れ」で、見飽きしない。]。

 かくて。舞をはじめけるに、おもしろさ、いはんかた、なし。

 そのゝち、夜もすがら、さけを、すすめけるに、興ある事、身にしむ斗《ばかり》に、ありがたくぞ、思ひにけり。

「そのゝち、人を、まいらす[やぶちゃん注:ママ。]べし。身が『もと』[やぶちゃん注:「元」。]へをはし[やぶちゃん注:ママ。]候へ。」

と、いふて[やぶちゃん注:ママ。]、かへりけり。

 しらびやうしは、もとより、かれがもとへ、ゆくべき、「はかり事」なれば、向丸がもとにゐたりけり。

 あくる夜に入《いり》て、むかひ、をこし[やぶちゃん注:ママ。「寄越し」であろう。]ければ、下女、うちつれて、ゆきぬ。

 はるばる、深山へ、いりて、大きなる「いはほ」のうろ[やぶちゃん注:「洞」。]のうち、二十けんばかりあるうちにぞ、入りたりける。

[やぶちゃん注:このロケーションは、明らかに彌彦神社の後背の神域たる弥彦山(標高六百三十四メートル)である(グーグル・マップ・データ航空写真)。良寛所縁の地でもある。]

 しらびようし[やぶちゃん注:ママ。誤っている箇所はママである。]、申《まうし》けるは、

「これは。思ひもよらぬ『しんこく』[やぶちゃん注:「深谷」。]にすませ給ふものかな。あれ、ものすごく、うたてしき所に、こそ。」

と、申ければ、

「さ、おぼしめし候はん。それがしはよのつねのもの、ならず。よを、きらふものにて侍るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、かゝる所を、もとめて、まかりある。さりながら、何にても、不ふそくは、あらせ候まじ。」

とて、「ちさう」を、つかまつり、もてなす事、かぎりなし。

 かくて、日をふるほどに、十日ばかり、ありければ、

「たこくより、用の事、あり。」

とて、よびに、人、來りければ、岩根、申しけるは、

「明後日は、かへり申《まうし》候はん。そのほどは、つれづれなりとも、のこしおくものどもを、『とぎ』とし給ひて、まちたまへ。」

とて、いでにけり。

 かかる𨻶《すき》に、しらびようしは、下女を、よびて、耳をひき、

「しかじか。」

いひ付《つけ》て、近光がたへぞ、こしにける[やぶちゃん注:「寄越(よこ)しける」の脱字か。]。

 「せつな」が間に來たりて、申しけるは、

「明後日、もどり候はんまゝ、『したく』、あやしき『でんぷ』に、かはりて、おはし候へ。」

と申ければ、

「心得候。」

とて、日のくるゝをぞ、まち給ひにける。

[やぶちゃん注:「せつな」は無論、「刹那」。下女も妖狐であるから、韋駄天のように走れるのである。]

 さるほどに、ちぎりし日にも成《なり》しかば、近光は、蓑笠を、き給ひ、下には重代の打物[やぶちゃん注:先祖から代々伝わっている名刀。日本刀では、田夫に相応しくないから、短刀か、ごく短い脇差であろう。]を、さして、手には、「まさかり」をもち給ひ、おとらぬ「つわもの」を、おなじやうに、こしらへて、三人《みたり》連れて、山中へぞ、入《いり》給ふ。

 しかれども、いづちを、どなたヘとも、方⻆[やぶちゃん注:「角」の異体字。]をわきまへかね、しばし、やすらふところに、一《ひとつ》の「くつね」は[やぶちゃん注:総てママ。]、來りて、近光を、まねきければ、心得給ひて、かれがゆくやうに、おはしけるほどに、程なく、付《つき》給ひける。

 そのとき、狐、申《まうす》やうは、

「かれが住みけるところには、わかきものども、四、五人、留守を、つかまつり侍るあひだ、この所に待《まち》給へ。」

と、申しければ、

「こころへ[やぶちゃん注:ママ。]侍る。」

とて、岸《きし》[やぶちゃん注:「崖」の意。]のねがたにぞ、まち給ひにける。

 去《さる》ほどに、とひゑもんは、かへりきたりて、

「いかに、つれづれに、おはし候はん。」

と、いへば、

「まことに。御かへりをまちつくし侍るぞや。」

と、いとけう[やぶちゃん注:ママ。幼い様子で。]ありてぞ、申されける。

 そのとき、しらびやうしは、「つう」[やぶちゃん注:「通」。通力。]をもつて、かれが玉しい[やぶちゃん注:魂。]を、かすめける。[やぶちゃん注:惑わした。後でその効果が判る。]

 かくて、申《まうす》やうは、

「みづから、是《ここ》に、ながなが侍るによりて、宿より、あやしみをなして、方々を、たづね申し侍るよしを、ふしぎにも夢に見はんべるまゝ、里へ返りて、そのゝち、まいり[やぶちゃん注:ママ。]候はん。」

と、いヘば、

「いかでか、もどし候はん。この所を、人に深く隱し申《まうし》候へば、御身を戾し候ひては、世の中の人、知りまいらせ[やぶちゃん注:ママ。]候はんまゝ、叶ふまじ。」

と、いひければ、しらびようし、

「かゝる、なんぎなる事を仰《おほせ》らるゝものかな。いかでか、人に、洩らし候べき。なれども、さほど、きづかひを、なしたまはゞ、尋ぬるものゝ、むかふの岸かたまで、まいり[やぶちゃん注:ママ。]候まゝ、あれにて、逢ひ申たく候ほどに、やらせ給へ。」

と、いへば、岩根は、

「さほどにおぼしめし候はゞ、それがし、御供、申さん。」

とて、さきに、たつてぞ、あゆみける。

 ほどなく、近光の待《まち》かけ給ふところへぞ、ゆきにける。

 されば、岩根は、魂《たましひ》を、ぬかれけるにや、この三人の人々を、「ようがんびれい」の「女ばう」とみて、云《いふ》やうは、

「女郞《めらう》たちは、むかひのために、來たり給ふか。あやしや。」

と、いひければ、近光は、やがて、心得給ひ、

『さては。まなこの、くらみけるにや。』

と、さとつて、物かげへ、まいり[やぶちゃん注:ママ。]て、蓑笠、ひんぬいて、「うちもの」、ぬきざまに、たゞ、一うちにぞ、し給ひける。

 近光のうれしさ、天にものぼる心地ぞ、し給ひにける。

 さて、かへり給ひて、人數《にんず》を、よせ、かの殘黨を、ことごとく、めしとり、父の「けうやう」にぞ、し給ひにける。

 さて、ちかみつは、

「この狐の『とく』[やぶちゃん注:「德」。]によらずば、いかでか、このよにて、かれをほろぼすべき。此《この》「をん」[やぶちゃん注:ママ。「恩(おん)」。]、はうずるに、物、なく、しやするに、所、なし。」

とて、いそぎ、「ほこら」にいはゝせ給ひて、宮守《みやもり》をつけて、いねう[やぶちゃん注:意味不明。岩波文庫原文は『いたう』である。]、「かつがう」[やぶちゃん注:「渴仰」。]し給ひける。

「ためしなき事。」

とぞ、申《まうし》ける。

 

2024/07/17

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 榎

Enoki

[やぶちゃん注:右下方にある二枚は、成葉であろうが、画像を拡大すると、実のようなものが視認出来るので、成果の描写と私には見える。]

 

ゑのき   榎

      【和名衣】

【音價】

      榎楸共桐之

      屬見于前今

      云衣乃木可

      謂櫸之属

[やぶちゃん注:「ゑのき」はママ。歴史的仮名遣は「えのき」でよい。訓読での補正はしない。]

 

△按榎木山林多有之封彊植之髙者五六𠀋可合抱其

 葉似櫸而團大微光澤嫩葉可茹四月著小花蒼色狀

 如雀屎附生葉靣不開而凋落故視之者鮮枝梢結子

 大如豆生青熟褐色味甘小兒食之有早晚二種椋鳥

 鵯鳥喜食之

子【甘平】 治咽喉腫痛及骨鯁

[やぶちゃん注:「鯁」は原本では、「グリフウィキ」の異体字のこれだが、表示出来ないので正字とした。]

 其材皮青白色無麁皮身白木理宻而硬然不堪爲柱

 伐可爲砧礩最宜薪相傳云其火氣益人身又生於榎

 木茸名奈女須々岐【一名衣乃木太介】詳芝栭類

 

   *

 

ゑのき   榎《えのき》

      【和名、「衣《え》」。】

【音「價」。】

      榎・楸《ひさぎ》、共に桐の

      屬なり。前に見ゆ。今、云

      ふ、「衣乃木《えのき》」は、

      「櫸《くぬぎ》の属」と謂

      ふべし。

 

△按ずるに、榎の木は、山林に、多く、之れ、有り。「封彊(いちりづか)」[やぶちゃん注:「一里塚」。]に、之れを植う。髙き者、五、六𠀋。合-抱(ひとかかへ)ばかり。其の葉、櫸(けやき)に似て、團《まろく》大《なり》。微《やや》、光澤≪ありて≫、嫩葉《わかば》、茹《ゆでく》ふべし。四月、小花を著《つ》く。蒼色。狀《かたち》、雀《すずめ》の屎《くそ》のごとく、生葉《せいば》の靣《おもて》に附く。開かずして、凋(しぼ)み落つ。故≪に≫、之れを視る者、鮮(すくな)し。枝の梢、子《み》を結ぶ。大いさ、豆のごとく、生《わかき》は、青く、熟さば、褐色。味、甘。小兒、之れを食ふ。「早《わせ》」・「晚《おくて》」の二種、有り。椋鳥(むくどり)・鵯鳥(ひよ《どり》)、喜んで、之れを食ふ。

子《み》【甘、平。】 咽-喉《のど》≪の≫腫《はれ》・痛《いたみ》、及び、骨(ほね)の鯁(たち)たるを、治す。

 其の材、皮、青白色。麁皮《あらかは》、無く、身、白く、木理(きめ)、宻(こまや)かにして、硬し。然れども、柱に爲るに堪へず。伐《きり》て、砧-礩(あてぎ)[やぶちゃん注:この「礩」は、「器物の脚」或いは「物を断ち切ったり、砧を打つ際に用いる作業用の台」を指す。]と爲すべし。≪又、≫最も、薪《たきぎ》に宜《よろ》し。相ひ傳へて云はく、『其の火氣、人身に益《えき》あり。』≪と≫。又、榎木より生ずる茸《きのこ》を「奈女須々岐《なめすすき》」と名づく【一名、「衣乃木太介《えのきだけ》」。】。「芝栭(しじ)類」に詳《つまびらか》なり。

 

[やぶちゃん注:「榎」は、

双子葉植物綱バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名では、ナガバエノキ、マルバエノキ』がある。『和名「エノキ」の由来については諸説あり』、

・『縁起の良い木を意味する「嘉樹(ヨノキ)」が転じてエノキとなった』。

・『秋にできる朱色の実は野鳥などが好んで食べることから、「餌の木」からエノキとなった』。

・『枝が多いことから枝の木(エノキ)と呼ばれるようになった』。

『などの説がある』。なお、『鍬などの農機具の柄に使われたからという説があるが、奈良時代から平安時代初期には、エノキの「エ」はア行のエ』。『柄(え)や』、『それと同源の語とされる「エ」はヤ行のエ』、『で表記されており、両者はもともと発音が異なっていたことが明らかなので、同源説は成り立たない』という反論もあるらしい。『漢字の「榎(エノキまたはカ)」は夏に日陰を作る樹を意味する和製漢字で』、『音読みは「カ」。「榎」は、中国渡来の漢字ではなく、日本の国字の一つである』(事実である)。『日本、朝鮮半島、中国中部に分布する』。『日本国内では本州、四国、九州の低地に分布する』。『山地や山野の明るい場所に生え、自然分布以外では人里にもよく植えられ、公園、河原などによく生えている。大きな緑陰を作るため、ケヤキやムクノキなどとともに各地の一里塚や神社仏閣に植栽され、その巨木が今日でも見られる』。『落葉広葉樹の高木で、高さは』五~三十『メートル』、『幹の直径は』二~二・五メートル『ほどに達する。ケヤキ』(双子葉植物綱バラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata )『やムクノキ』(バラ目アサ科ムクノキ属ムクノキ Aphananthe aspera )『よりも枝が横に大きく広がって丸い樹形になる傾向があり、全体として大きな緑陰をつくる。枝が多く、枝ぶりは曲がりくねっている。根元で数本に分かれていることもある。樹皮は灰白色から灰黒色で厚く、見た目はほぼ滑らかであるが、表面を触るとざらざらしている。老木になると、いぼ状のものが多数つき、枝の痕が一定間隔で並ぶことが多い。一年枝は淡紫褐色で毛が生えており、その基部には古い芽鱗や副芽が残っている』。『葉は互生し、葉身は長さ』四~十『センチメートル』『の卵形または楕円形から長楕円形で、先は尾状にのびて左右非対称。葉の質は厚く、葉縁の上半分には鋸歯があり、下部は全縁である。先端まで葉脈が発達しておらず、丸みを帯びている。秋には黄葉し、虫食いや斑点があるものが多い。比較的濃い黄色に色づき、暖かい都市部でもよく色づく。落葉すると褐色になる』。『開花時期は』四~五月で、『風媒花で』ありm『芽生えと同時期に、葉の根元に小さな花を咲かせ、花色は淡黄褐色である。雌雄同株で、雄花と両生花があり、雄花は本年枝の基部に数個つき、両性花は本年枝の上部の葉腋に』一~三『個』、『つく』。『雄花は雄蕊が』四『個、両性花は雄蕊』四『個と』、『雌蕊』一『個がつく』。『果期は秋』十月頃で、『黄葉した葉の後ろに、直径』五~八『ミリメートル』『の卵状球形の果実をつける』。『果実は核果で、熟すと橙褐色や赤褐色になり、冬でも枝に残ることがある。果実は食べることができ、味は甘くておいしい。果実は小鳥、特にムクドリ』(スズメ目ムクドリ科ムクドリ属ムクドリ Sturnus cineraceus 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 椋鳥(むくどり) (ムクドリ)」を参照)『が好んで食べて、種子が散布される』。『冬芽は互生し、小さな円錐形や広卵形または偏平なやや三角形で毛があり、暗赤褐色をした』二~五『枚の芽鱗が、瓦状に重なるようにして覆われている。冬芽の基部の両側にはふつう副芽(平行予備芽)があり、一番外側の芽鱗に隠れている。枝先には仮頂芽がつき、側芽は枝に伏せるようにつく。冬芽のそばに葉痕があり杔葉が残っている。葉痕は半円形で、維管束痕は』三『個ある。冬場の枝先は枯れていることが多い』。『オオムラサキをはじめ、ゴマダラチョウ、テングチョウ、ヒオドシチョウ、エノキハムシ、タマムシ、ホシアシブトハバチ、エノキトガリタマバエ、エノキワタアブラムシなど多くの昆虫の餌、食樹である。特に、日本の国蝶オオムラサキの幼虫の食樹としてよく知られている』。『葉が似ている植物に』、『同じニレ科』Ulmaceae『のハルニレ』(ニレ属ハルニレ変種ハルニレ Ulmus davidiana var. japonica )『やアキニレ』(ニレ属アキニレ Ulmus parvifolia )『があり、同様に黄色く紅葉する。エノキは葉の先半分に鋸歯があるのが特徴であるが、ハルニレやアキニレの鋸歯は全周につく。ハルニレは北海道を初めとする山地に多く見られ、葉の幅は先に近い方で最大になり、鋸歯は粗く大小の』二『重になる。アキニレは西日本の暖地に分布し、鋸歯は角張り、紅葉は黄色が中心だが』、『赤色になることもある』。『建築用材、家具材、道具材、薪炭などに使われる。木材の質はやや堅く、風合いがある。辺材と心材の境が明瞭でない。風合いが似ていることから、ケヤキの代用ともされる』。『江戸時代には街道の一里塚の目標樹として植えられ』、『一里塚のエノキは、徳川秀忠が街道整備に際して植えるように命じたといわれている』(☜)。『また、一里塚に植える木にマツが多いのを見た織田信長が、余の木(よのき:違う樹種の意)を一里塚に植えるよう命じ、家来がこれに応じる形で植えられたのがエノキとなったという説もある』(☜)。『エノキにまつわる伝説や風習は数多くあるが、その一つ江戸王子稲荷神社』(ここ。グーグル・マップ・データ)『のエノキには、毎年の大晦日に関八州(関東諸国)のキツネが集まり、農民はその狐火を見て翌年の豊凶を占ったといわれている』。『エノキは「縁の木」に通じることから、縁結び、あるいは「縁退き」の意味で縁切りの木としても知られる。古くから神社の境内などにも植えられ、中には御神木として大切にされたものもあるが、その一方では、首くくり榎など縁起が良くないと見られることもある。地方によっては、材に使うのではなく』、『墓標の代わりに墓の印として植えられた』。『野生の木も各地にたくさん見られ、地名や人名に用いられる例も多い』とある。

「楸《ひさぎ》」先行する「楸」で、私は、シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属(唐楸)トウキササゲ Catalpa bungei 、或いは、広義に、民間で、キササゲ属 Catalpa の複数の種を総称する語と考えていると述べた。但し、これは時珍の言う場合の限定であって、本邦では、別に、キントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワ Mallotus japonicus の古名でもある。しかし、見た目の通性からは、私は、前者とする。

『「櫸《くぬぎ》の属」と謂ふべし』良安先生、ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属クヌギ Quercus acutissima とは、何の所縁も御座んせん!

「封彊(いちりづか)」mira47氏のブログ「山森★浪漫」の「エノキが一里塚に植えられたわけは……」によれば、『我が町を通る日光御成街道の一里塚にはエノキが植えられています』。『エノキは漢字では木偏に夏で「榎」と書きますが、大きく広がった枝は木陰を提供し、夏の旅人には、まさに救いの木だったのでしょう』。『また、エノキは根張りがよいため、塚を固め崩れにくくするそうで、その点でも、一里塚にはまさにうってつけの樹種だったのです』とあった。

『「早《わせ》」・「晚《おくて》」の二種、有り』前で引用したハルニレとアキニレであろう。

「椋鳥(むくどり)」スズメ目ムクドリ科ムクドリ属ムクドリ Sturnus cineraceus 。博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 椋鳥(むくどり) (ムクドリ)」を参照。

「鵯鳥(ひよ《どり》)」スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis 「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵯(ひえどり・ひよどり) (ヒヨドリ)」を参照。

「榎木より生ずる茸《きのこ》を「奈女須々岐《なめすすき》」と名づく【一名、「衣乃木太介《えのきだけ》」。】」菌界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ目タマバリタケ科エノキタケ属エノキタケ(榎茸)Flammulina velutipes 。私の「諸國百物語卷之五 十二 萬吉太夫ばけ物の師匠になる事」が面白いので、お読みあれ。

「芝栭(しじ)類」茸(キノコ)類、本書の卷第百一の「榎蕈」。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部をリンクさせておく。]

「疑殘後覺」(抄) 巻四(第二話目) 果進居士が事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

巻四(第二話目)

  果進居士が事

 中頃、果進居士といふ術法《じゆつはふ》[やぶちゃん注:幻術・妖術・外法(げほう)の意。]を行《おこなふ》者あり。

 上方へと、こゝろざして、「つくし」[やぶちゃん注:「筑紫」。]より、のぼりけるが、日をへて伏見に、きたりぬ。

 をりふし、日能大夫[やぶちゃん注:不詳。]、勸進能をしけるが、見物のきせん、芝ゐの内外に充滿せり。

[やぶちゃん注:「芝ゐ」「芝居」であるが、ここは「の内外」とあるので、実際に演じられている芝居ではなく、芝居小屋である。岩波文庫の高田氏の脚注には、『舞台に對する見物席。または、舞台、見物席を合せて言う。』とされる。]

 果進居士も、

『見物せばや。』

と思ひて、うちへ、いりて見けるに、なかなか、上下《うへした》の見物人は、尺地も、すかさず、立込みたり。

 くわしんこじ、まぢかくよつて、見るべき所もなければ、

『爰《ここ》は、ひとつ、芝居をさはがせて後《のち》、入らん。』

と思ひて、諸人のうしろに立《たち》て、「おとがい」[やぶちゃん注:ママ。「頤(おとがひ)」。下顎。以下同じ。]を、

「そろりそろり」

と、ひねりければ[やぶちゃん注:指先で撫でたところが。]、みるうちに、「かほ」のなり、大きになるほどに、人々、是をみて、

「こゝなる人の顏は、ふしぎなる事かな。いままでは、何事もなかりしが、みるうちに、ほそながくなる事の、ふしぎさよ。」

と、おそろしくも、をかしくも、これを、たちかゝりてみるほどに、くわしんこじは、少《すこし》、かたはらへしりぞきけるが、芝居中《しばゐぢゆう》は、うへ下、もちかへして、入れかはり、たちかはり、見るほどに、のちには、「かほ」。二尺ばかり、ながくなりてければ、人々、

「『げはうがしら』[やぶちゃん注:「外法頭」。]と云ふものは、これなるべし。是を見ぬ人やあるべき。すゑの世の物がたりに、せよや。」

とて、おしあひ、へしあひ、たちかゝるほどに、能の役者も、樂屋をあけてぞ、見物しける。

[やぶちゃん注:「外法頭」ここは、頭部を伸縮させる外法を指す。なお、参考までに言っておくと、ウィキの「外法」によれば、狭義には、『人の髑髏を使った妖術とされることもあり、これに使われる髑髏を外法頭(げほうあたま、げほうがしら)と呼ぶ』とある。半可通の者が、それを知ったかぶりして、勝手に、かく呼んだものである。]

 こじは、

『いまは、よき時分。』

と思ひければ、かきくれて、うせにけり。

 見る人、

「こはいかに。きたい・ふしぎのばけものかな。」

と、舌のさきを卷きて、あやしみける。

 さて、果進居士は、芝居、ことごとく、あきたるによつて、舞臺さきのよきところへ、あみがさ、引《ひき》こみて、座を、とりて、見物、おもふさまにぞ、したりけり。

 又、中國、「ひろしま」といふ所に、久しく居住したりけり。

 そのあひだ、ある商人《あきんど》の金銀を、かりて、事をとゝのへけるが、のぼりさまに、一せんも、返弁せず、しのびて、京へ、きたりけるが、このあき人《んど》、

「にくき居士かな。いづちへか、にげうせたるらん。」

と、くやめども、かひなくして、うち過《すぎ》けるが、あるとき、商買のために京へ上りけるが、鳥羽の邊にて、此くわしんこじに、十もんじに[やぶちゃん注:十字路で。]、行《ゆき》あふ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

 あきんど、そのまゝ、こじをとらへて、

「さても、久しき居士かな。それにつけて、御身は、ずいぶん、それがし、ちそう[やぶちゃん注:「馳走」。]に思ひて[やぶちゃん注:「世話をしてやろう思って」。]、きんぎん、其外《そのほか》、ひかへ[やぶちゃん注:ここは、やや普通でない用法で、「何くれとなく援助し」の意。]候ふて、とかくと、いたはり侍りし『かひ』もなく、夜ぬけにして、上り給ふこと、さりとては、とゞかぬ御心中にて有《ある》ものかな。」

と、はぢしめければ、くわしんこじ、

『何とも面目なく。』

や思ひけん、この人を見つけぬるより、又、おとがいを、

「そろりそろり」

と撫でければ、

顏、よこ、ふとりて、まなこ、まろくなり、はな、きわめて[やぶちゃん注:ママ。]たかく、むかふ齒[やぶちゃん注:これは恐らく「上下の歯」を指すのであろう。]、一ばい、大きに見えわたりければ、このあきんども、

『これは。』

と思ひけるが、居士、申《まうし》けるは、

「なにと仰《おほせ》候や。それがしは、かつて、御身は、ぞんぜぬ人にて候が、まさしき「ちかづき」のやうに仰候は、おぼつかなし。」

と、申しければ、あきんど、はじめは、

『くわしんこじ。』

と、たゞしく思ひしが、みるほど、各別の人[やぶちゃん注:全く違う人。]なれば、

『さては。見あやまりたる。』

と思ひて、

「まことに、そつじ[やぶちゃん注:「卒爾」。]なる事を申《まうし》侍るものかな。『我らが、ぞんじたる人か。』と、おもひて、見あやまりしが、ゆるし候へ。」

と、申《まうし》て、通りにける。

 後に、人々、風聞して、

「これは、何よりも、ならひたき『じゆつ』なり。」

とぞ、わらひにける。

 又、あるとき、戸田の出羽[やぶちゃん注:不詳。]と申す兵法者、「無雙」のきこえ、ありけるが、もとへ[やぶちゃん注:果進居士の「元へ」。]、ゆきて、ちかづきになりぬ。

 さて、いろいろ、さまざま、物がたりを、しけるほどに、居士、申けるは、

「それがしも、兵法を、少《すこし》、心がけ申候。さのみ、ふかき事もぞんぜねども、よのつねの人に仕負《しまけ》候はんとは、おもはず。」

と、云《いふ》。

 戸田、きゝ給ひて、

「それは。竒特なる事にて候[やぶちゃん注:すばらしいことで御座る。]。そのぎ[やぶちゃん注:「儀」。]ならば、ちと、御身の太刀すぢが、見申《みまうし》たく候。」

と申されければ、居士、

「さあらば。」

とて、木刀をとつて、たちあひ、

「やつ。」

と、いふと、思へば、「こびん」を、

「ちやう」

と打つ。

[やぶちゃん注:「小鬢」。「こ」は「少ない・小さい」ことを指す接頭語。頭の左右側面の髪。特に「顳=顬(こめかみ)」の辺りを指す。ここは後者の左右を、電光石火で瞬時に「パン! パン!」と軽く打ったものと採りたい。]

 出羽は、夢のごとくにて、更に、たちすぢも、覺えざるなり。

「今一度。」

と、いへば、

「心得たる。」

とて、また、うつに、右のごとし。

 戸田は、

「さりとては御《ご》へんの太刀は、兵法の上には、はなれて、『じゆつだう』[やぶちゃん注:「術道」]を、おこなふによつて、各別の法なり。」

と、うちわらひにける。[やぶちゃん注:「ける」は余韻・余情を示す連体中止法。]

 其後《そののち》、申されけるは[やぶちゃん注:主語は「戸田の出羽」。]、

「なにと。御へんには、八《はつ》ぱうより、立ちかかつて、うつときにも、身には、あたるまじきか。」

と、とい[やぶちゃん注:ママ。]ければ、

「思ひもよらぬ事。」[やぶちゃん注:これは一種のパラドキシャルな反語的謂いであって、「想定さえしたことは御座らねども、凡そ、それが出来ぬとは存ぜぬよ。」といった感じであろう。]

と云ふ。

「さあらば。」

とて、十二疊敷のざしきへ、弟子ども、七人、わが身ともに、八人、くわしんこじを、中におきて、座敷の四方《しはう》の戸をたてゝ、うちけるに、

「やつ。」

と云《いふ》と思へば、こじは、くれに見えず[やぶちゃん注:岩波文庫本文では『塊(くれ)に見えず』と表記補正をしてあり、高田氏の脚注に『物体としての形が見えない。』とある。]、

「こは、いかに。」

と、人々、あきれて、

「くわしんこじ、くわしんこじ、」

と、よびければ、

「やつ。」

と、いふ。

「いづくにか、あるらん。」

と、いへば、

「こゝにある。」

と、云《いふ》。

 座敷中《ぢゆう》には、「ちり」もなきによつて、

「さあらば、『えんの下』に、かゞみゐるならん。證據のために、みん。」

とて、たゝみを、あげて、くわしく見けるに、なにも、なし。

「くわしんこじ。」

と、よべば、こたふる。

「さりとては。きだい・ふしぎとも、いふばかりなし。」

と、人々、あきれはてて、ゐければ、まん中へいでゝ、

「なにと、尋ね給ふぞや。」

と、いふ。

 人々、

「さりとては。とかう、いふばかり、なし。」

と、かほを、まもりゐたり。

「かゝるうへは、たとへば、百人、千人、よりたりとも、かなふ事に、あらず。」

と、いひて、うらやみにける。

[やぶちゃん注:「きだい」原本は『きたい』だが、「奇體」では、以下の「不思議」と相性が悪いので、岩波文庫本文通り、「希代」(きたい/きだい)で採る。

 さて、一般には、この怪しい妖術師は、専ら、「果心居士」の表記で知られる。私は非常に好きな怪人物であり、多くの記事を電子化している。中でも、オリジナルでマニアックな注を附したものを三つ、古い記事から並べて、終わりとする。

   *

『柴田宵曲 妖異博物館 「果心居士」』(注のオリジナル電子化のものに画像有り)

『柴田宵曲 妖異博物館 「飯綱の法」』

★「小泉八雲 果心居士 (田部隆次譯)」(原作は果心居士を世界に知らしめた名文)

『小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (15) 主觀的怪異を取扱つた物語』

   *]

「疑殘後覺」(抄) 巻三(第五話目) 小坊主宮仕の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

巻三(第四話目)

   小坊主、宮仕《みやづかへ》の事

 あるとき、信玄公へ、

「やんごとなき人の子なり。」

とて、年十五、六さいなる、「ようがんびれい」の若衆《わかしゆ》を、つれてまいり[やぶちゃん注:ママ。]、

「めし使つかはれ候はゞや。」

と申上《まうしあげ》ければ、信玄、御らんずるに、世にたぐひなき、うつくしきかたちなれば、めしおき給ひて、やがて、かしらを、そり、ほうし[やぶちゃん注:ママ。「法師(ほふし)」。以下同じ。]になして、茶堂重阿彌[やぶちゃん注:不詳。]にあづけ給ふ。

[やぶちゃん注:「茶堂」ママ。「茶道(さだう)」。岩波文庫の高田衛氏の脚注に、『茶道を以て仕える戦国大名の側近衆。伽の衆でもあった。』とある。]

 かくて、「御《おん》こしもと」にて、めしつかはるゝに、信玄公の御《み》こゝろを、かさねて、さとり、物ごとに[やぶちゃん注:「每に」。]、さきへ、ととのへて置《おく》やうにしけるほどに、御意《ぎよい》にいる事、たぐひなし。

[やぶちゃん注:「かさねて」同前で、『ここでは「兼て」と同意。あらかじめ。』とある。]

 かくて、二とせあまり、みやづかへけるが、ある夜、信玄公、この小ぼうしを、めされて、「ちや」を御前にて、ひかさせ給ふときに、御陣のうちに、「わかさぶらひ」の、十人ばかり、よりあひ、ものがたりするこゑして、あげくには、かうろんし、後には、さんざんに、きりあふをと[やぶちゃん注:ママ。「音(おと)」。以下同じ]のしければ、小ぼうし申《まうし》けるは、

「御つぼの内にて、若さぶらひ衆《しゆ》、かうろん[やぶちゃん注:ママ。「口論(こうろん)」。]つかまつり、たゞいま、うちあひ候。」[やぶちゃん注:「つぼ」屋敷内にある坪(壺)庭。ここは、それなりに広い中庭であろう。]

と申ければ、信玄、きこしめして、いとさはぎ給はず、

「たれたれにて、あるやらん。」

と仰《おほせ》ければ、

「いづれにて候やらん、きゝなれぬこゑにて侍る。」

と申《まうす》。

「にくきやつばら[やぶちゃん注:「奴輩」。]かな。予が庭前にて、なにものなれば、かゝるらうぜき[やぶちゃん注:「狼籍」]を、つかまつるらん。いちいちに、討《うち》はたすべき。」

と仰られければ、小ばうし、「ちや」を、ひきさして、

「づん」[やぶちゃん注:原本は「つん」。岩波文庫も「づん」。]

と起つて、ゑん[やぶちゃん注:「緣」側。]の、まへなる「しやうじ」を、

「さらり」

と、あけて、庭を、

「急《きつ》」

度《と》と見、たちもどつて申《まうす》やうは、

「十人ばかり、打うちみだれて、きりあひ申候。御ようじん候へ。」

とて、次の間に、たておきたる「御なぎなた」を、とつて、まいらせ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、信玄公、仰《おほせ》られけるは、

「なぎなたを、さしをき、弓を參らせよ。」

と仰らるゝほどに、かしこまつて、「七所どう《ななどころどう》の弓」に、矢を、そへて、たてまつりける。

[やぶちゃん注:「「七所どうの弓」七所籐の弓。高田氏の脚注に、『弓の彎曲部の七か所に籐を卷いた强弓。』とある。]

 信玄公、ひつくわへ[やぶちゃん注:ママ。意味は「矢を引きつがえ」である。銜えたのではない。]、よつぴいて、はなし給へば、

「どつ」

といふ、こゑ、して、ことごとく、退散して、なにの、をとも、せざりけり。

 そのとき、仰らるゝは、

「あな、ふしぎや。これは、ひとへに、天狗の所爲《しよゐ》なるべし。予が、あけくれ、弓箭《きうぜん》のはかり事のみ、工夫《くふう》するによつて、胸中を、つもらんがために[やぶちゃん注:高田氏の脚注に、『見すかそうとして。』とある。]、かゝる業《わざ》をなして、驚かすかと見えたり。まつたく、人には、あるまじ。」

と仰られければ、

「御意。もつともに候。」

とて、その夜《よ》、かきくれて見えずなりにけり。

 信玄公、

「さては。魔の所行、うたがひ、なし。油斷有るべき事ならず。」

とぞ、おぼしける。

 

2024/07/16

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 櫸

 

Sinasawagurumi

 

けやき    櫸柳 鬼柳

       【今介夜木】

【音拒】 【倭名抄訓久奴

       木者非也】

キユイ

[やぶちゃん注:「櫸」は「欅」の異体字。原本では、「グリフウィキ」のこれ((つくり)の下部の横画が、三本ではなく、二本のもの)であるが、表示出来ないので、最も近い「櫸」を使用した。]

 

本綱欅樹最大者髙五六𠀋合二三人抱其葉謂柳非柳

謂槐非槐其實如楡錢之狀其材紅紫作箱案之類甚佳

嫩皮取以緣栲栳及箕唇土人采其葉爲甜茶

木皮【苦大寒】 治時行頭痛療水氣斷痢安胎止姙婦腹痛

△按櫸生深山中形狀如上說其大者十五六𠀋其材帶

 紅紫色麁理堅實而凡堂城之柱牮用之經歳不蚟或

 作盌𣾰䰍爲飮食噐最上品作案几及階梯之板皆佳

 也伹不宜水濕耳出於四國西國𠙚𠙚日向之產爲良

 陶弘景曰皮似槐而葉如櫟檞者卽久奴木矣源順𢴃

 此以櫸爲久奴木訛也櫸有三種眞櫸石櫸槻櫸也其

 材有少異

石櫸   木理麁於眞櫸甚堅硬匠人勞于鐁錐

槻【和名豆木乃木】 木理麁似硬不硬不良材唐韻曰堪作弓

 俗曰槻櫸蓋檀弓槻弓古者多用弓乎

  夫木關守か弓にきるてふ槻の木のつきせぬ戀に我おとろへぬ顯季


 はだつ

 波太豆  波太豆毛利

△按其材似櫸今多用澤胡桃或波太豆爲板僞櫸

  六帖我戀はみやまにおふるはたつもりつもりにけらし

                     あふよしもなく

[やぶちゃん注:最後の一首の終句は「あふよしもなし」の誤り。訓読では訂しておいた。]

 

   *

 

けやき      櫸柳《きよりう》 鬼柳

         【今、「介夜木《けやき》」。】

【音「拒」】  【「倭名抄」、「久奴木」と

          訓《くん》ずるは、非なり。】

キユイ

[やぶちゃん注:「櫸」は「欅」の異体字。原本では、「グリフウィキ」のこれ((つくり)の下部の横画が、三本ではなく、二本のもの)であるが、表示出来ないので、最も近い「櫸」を使用した。]

 

「本綱」に曰はく、『櫸樹《きよじゆ》、最も大なる者、髙さ、五、六𠀋。二・三人抱《がかへ》、合《あふ》べし。其の葉、「柳《やなぎ》」と≪似ると≫謂ひて、柳に非ず、「槐《えんじゆ》」と≪似ると≫謂ひて、槐に非ず。其の實《み》、楡(にれ)の錢(み)の狀《かたち》ごとし。其の材、紅紫にて、箱・案(つくへ[やぶちゃん注:ママ。])の類に作るに、甚だ、佳なり。嫩《わかくやはらか》なる皮、取りて、以つて、栲栳《かうらう》[やぶちゃん注:東洋文庫割注に『(竹や柳を曲げて作った器)』とある。]、及び、箕《みの》≪の≫唇《くち》の緣(ふち)にす。土人、其の葉を采りて、甜茶(あま《ちや》)と爲《な》す。』≪と≫。

『木皮【苦、大寒。】 時-行《はやり》頭痛を治し、水氣《すいき》を療ず。痢を斷《たち》、胎《たい》を安《やすん》じ、姙婦の腹痛を止む。』≪と≫。

△按ずるに、櫸《けやき》は、深山の中に生ず。形狀、上の說のごとし。其の大なる者、十五、六𠀋。其の材、紅紫色を帶び、麁《あらき》理《きめ》≪は≫、堅實にして、凡そ、堂・城の柱・牮(うし[やぶちゃん注:ママ。この漢字は「支える柱」「つっかえ棒」=「つっぱり」の意であるから、私は「つつぱり」と訓じたく思う。])≪に≫之れを用ひて、歳《とし》を經て、蚟(むしい)らず。或いは、盌(わん)[やぶちゃん注:「椀」に同じ。]に作る。𣾰《うるし》を䰍(ぬ)りて、飮食の噐《うつは》と爲≪して≫、最も上品≪たり≫。案-几《つくえ》、及び、階-梯《はしご》の板に作≪るも≫、皆、佳《よ》し。伹《ただし》、水濕《すいしつ》、宜《よろ》しからざるのみ。四國・西國、𠙚𠙚《しよしよ》より出づる。日向《ひうが》の產、良《りやう》と爲す。陶弘景曰はく、『皮、槐に似て、葉、櫟-檞(とち)のごとし。』と云ふ[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]は、卽ち、「久奴木《くぬぎ》」か。源順《みなものとのしたごう》、此れに𢴃《よ》りて、「櫸(けやき)」を以つて、「久奴木」と爲《す》るは、訛《あやまり》なり。櫸、三種、有り。「眞櫸(まけやき)」・「石櫸《いしけやき》」・「槻櫸《つきけやき》」なり。其の材、少異《しやうい》有り。

石櫸 木理(きめ)、眞櫸より麁《あら》く、甚だ、堅硬≪たり≫。匠-人《だいく》、鐁《やりがんな》・錐《きり》≪を使ふに≫勞《らう》す。

槻(つき)【和名「豆木乃木《つきのき》」。】 木理、麁く、硬《かたき》に似て、硬からず。良材ならず。「唐韻」に曰はく、『弓(ゆみ)≪を≫作るに堪《たへ》たり。』≪と≫云≪ひ≫[やぶちゃん注:「云」は送り仮名位置にかなり大きめに打たれている。但し、中近堂版では、「云」はない。]、俗、「槻櫸(つきけやき)」と曰《い》ふ。蓋し、「檀弓(まゆみ)」・「槻弓(つきゆみ)」≪てふ語、あれば≫、古-者(いにしへ)、多《おほく》、弓に用ひしにや。

 「夫木」

   關守が

     弓にきるてふ

    槻《つき》の木の

       つきせぬ戀に

        我《われ》おとろへぬ 顯季


 はだつ

 波太豆  波太豆毛利《はだつもり》

△按ずるに、其の材、櫸(けやき)に似≪る≫。今、多《おほく》、「澤胡桃(《さは》ぐるみ)」、或いは、「波太豆《はたつ》」≪の材を≫用ひて、板と爲し、櫸に僞《いつは》る。

  「六帖」

    我《わが》戀は

       みやまにおふる

      はたつもり

          つもりにけらし

           あふよしもなし

 

[やぶちゃん注:これは、久々に――完全アウト――である(附録の「波太豆(はだつ)」を除く)。時珍の「櫸」と、良安が考え、我々もそれと考えるところの

「ケヤキ」ではない――全く分類学上も遙かに異な縁も所縁もない完全な別種――

なのである。繰り返す。ここで時珍が記している「櫸」は、現代の日本人の誰もが、それと考え、良安もそれと誤認している、

双子葉植物綱バラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata

ではなく、

――★現代中国語では、ケヤキを「榉树」(繁体字「欅樹」)とし、別名でも「櫸木」と書きはするが、時珍の時代のそれは、「ケヤキ」ではないのである)――

現代の中文名を、

枫杨(繁体字「楓楊」

とし、別名は、

「水麻柳」及び「柳」(繁体字「欅柳」)

である、中国中南部原産の落葉高木である、

◎双子葉植物綱マンサク亜綱クルミ目クルミ科サワグルミ属シナサワグルミ Pterocarya stenoptera

を指すのである。ネット上の記載は、殆んどが、極めて貧困である。私の最も信頼する「跡見群芳譜」の「しなさわぐるみ(支那沢胡桃)」で、別名(東洋文庫訳は「本草綱目」引用部分の本文の初出「欅」の箇所に『欅(きょ)』とし、割注して『(クルミ科カンポウフウ)』とするのだが、異名で出しているのはいただけない)「カンボウフウ」の漢字表記が漸く判った。「嵌寶楓」である別名を記載していない多くの学術的な植物記載をした方々よ、ちゃんと漢字表記を添えるべし! それが判らないのなら、安易に異名・別名を列挙するべきではないと私は思うのである。だって、一体、どれだけの日本人が「かんぼうふう」という字から正確な漢字名を想起出来るか、考えてみれば判ることだそれによれば、『漢語別名』を他に(カタカナの半角は全角にした)、

水麻柳(スイマリュウ,shuimaliu

麻柳

蜈蚣柳(ゴコウリュウ,wugongliu

元寶楓(ゲンホウフウ,yuanbaofeng

大葉柳(タイヨウリュウ,dayeliu

欅柳

嵌寶楓

馬尿騒

とあり、『臺灣・華東・河南・陝西・兩湖・兩廣・四川・貴州・雲南に分布』するとし、大切な一言、『葉は有毒』がある。『中国では、あるいは日本でも、各地で街路樹とする』とあり、『中国では、枝・葉を薬用にする』ともあった。なお、さらに調べたところ、

本邦に移入されたのは、明治時代とする(次のリンク先)ので、良安は知るべくもない種

であった。さても、恐らく、学術上の完璧に近い記載は、MOMO氏のサイト『「野山の草花・木々の花」植物検索図鑑』の同種のページである(画像も八枚ある)。以下に引用する。『中国原産で、公園樹や街路樹として植栽される落葉高木』。『樹高は』二十五~三十メートル、『幹径』は一メートルに『達する。樹皮は灰褐色で縦に深く裂けて剥がれる。葉は互生。長さ』二十~三十センチメートルの『の偶数羽状複葉。葉軸には』、普通、『ヌルデのような翼がある。小葉は』五~十『対』、『付き、長さ』四~十センチメートルの『長楕円形で無柄。先端は鈍く、基部は左右不相称。縁には先端が内側に曲がる鋸歯がある。雌雄同株。花期は晩春。雄花序も雌花序も垂れ下がり、小さな花が多数付く。雄花序は黄緑色で、長さ』五~七センチメートル。『雄花の苞は披針形で、上部の両側に小苞が付き、先端にやや赤味を帯びた花被片が』一『個付く。雄蕊は苞の下面に付く。雌花序は長さ』五~八センチメートル。『雌花の花柱は』二『裂して反り返り、柱頭は紅色で小さな突起が多い』。『花期は』五『月』。『果実は堅果。果穂は長さ』二十~三十センチメートル。『堅果には小苞が発達した翼があり』、七~八『月に熟す。翼はサワグルミ』(サワグルミ属サワグルミ Pterocarya rhoifolia )『に比べ細長く、長さ約』二センチメートルで、『堅果は径』六~七センチメートル。『サワグルミとの差異で特徴的なものは』、『葉軸に翼があることで、サワグルミには翼がない』。『明治時代初期に渡来した』とある。当該日本語のウィキは貧しくて見るに堪えない。原産地の「維基百科」も、この程度で失望だったが、一つ、そこに安徽省での地方名として「蜈蚣柳」(「むかでやなぎ」だ!)とあるのは、同種の若い果実の多数ぶら下がった写真を見ると、これ! 私には、ナットクだった!

 なお、当然の如く、良安は評で、ケヤキとして記載してしまっているので、当該ウィキを引かざるを得ない(注記号はカットした)。本邦では『ツキ(槻)ともいう。日本では代表的な広葉樹の一つで、枝ぶりが整った樹形が好まれて植栽や街路樹にも使われる。材は建築材として良材で、寺社建築によく使われる』。『和名「ケヤキ」の由来は、「ケヤ」は古語で「すばらしい」という意味があり、「けやしの木」が転訛したものだといわれる。中国名は「櫸樹」』。『朝鮮半島、中国、台湾と日本に分布し、日本では本州、四国、九州に分布する。山野に生え、丘陵から山地、平地まで自生する』。『自然分布の他に、人の手によって街路や公園、人家のまわりにも植えられたものもよく見られる。日本では特に関東平野に多く見られ、屋敷林に使われることが多い。北海道には自然分布はないが、函館や札幌などの都市部で、庭園樹や公園樹として植えられたものもある』(私は勤務した横浜翠嵐高等学校の大木が最も印象に残る)。『落葉広葉樹の高木で、高さ』十五~二十五『メートル』『になり、大きなものでは幹径』三メートル、『高さ』三十~五十メートル『ほどの個体もある。開けた場所に生える個体は、枝が扇状に大きく斜めに広がり、独特の美しい樹形になる。樹皮は灰白色から灰褐色で、若木のうちは滑らかで横長の皮目があるが、老木になるとモザイク状や鱗片状、あるいは大きく反り返って剥がれるなど、剥がれ方は一様ではなく、幹の表面はまだら模様になる。一年枝は褐色で無毛、ジグザグ状に伸びて皮目がある』。『花期は』四~五『月ごろ。開花は目立たないが、葉が出る前に本年枝に数個ずつ薄い黄緑色の花が咲く。雌雄同株で雌雄異花。本年枝の下部に数個ずつ雄花が、上部の葉腋に』一~三『個の雌花がつき、雄花と雌花をつけた短い枝を「着果短枝」という。花後に長枝が伸びて、本葉が出る』。『葉は互生し、葉身は長さ』三~十『センチメートル』『 の卵形から卵状披針形で、葉縁にある鋸歯は曲線的に葉先に向かう特徴的な形であり、鋸歯の先端は尖る。葉の正面はざらつく。春の新緑や秋の紅葉(黄葉)が美しい樹木でもある。都市部ではあまり鮮やかに紅葉せず黄褐色から褐色になって落葉してしまうが、寒冷地では個体によって色が異なり、黄色・橙色・赤色など色鮮やかに紅葉する。若木や徒長枝の葉は大きく、赤色に紅葉する傾向が強い。紅葉は褐色を帯びるのが比較的早く、落ち葉もすぐに褐色になる』。『果期は』十『月。果実は長さ約』五『ミリメートル』『の平たい球形をした痩果で、秋に暗褐色に熟す。小枝についた葉が翼となって、果実がついたまま長さ』十~十五センチメートルの『小枝ごと木から離れ、風に乗って遠く運ばれて分布を広げる』。『冬芽は互生し、小さな卵形で暗褐色の』八~十『枚の芽鱗に包まれており、横に副芽を付けることがある。枝先には仮頂芽がつき、側芽は枝に沿わずに開出してつく。冬芽の横には、しばしば副芽がつく。冬芽のわきにある葉痕は半円形で、維管束痕が』三『個ある』。『葉の裏と柄に短毛の密生する変種をメゲヤキ』(漢字表記不詳: Zelkova serrata f. stipulacea )『という』とあるが、一説に、このメゲヤキは、中国固有種であるトウゲヤキ Zelkova schneideriana (中文名「大叶榉树」)と同一種とする見解がある(則ち、それなら、外来種ということになる)。『箒を逆さにしたような樹形が美しく、街路樹や公園樹としてよく親しまれ、防火や防風の目的で庭木などとしてもよく植えられる。特に関東地方での利用が多い。巨木が国や地方自治体の天然記念物になっていることがある。朝鮮半島では、ケヤキの春の若葉を茹でて食べることもあり、餅にも入れられる』。『日本の材としては、ジャパニーズ・ウイスキーの樽に使われることで有名なミズナラ』(ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属ミズナラ Quercus crispula var. crispula )『とともに、導管を塞ぐ「チロース」』(tylose・tylosis)『と呼ばれる物質が発達しており、水を通さない。そのため、材は狂いが少なく湿気に強いのが特徴で、幅広い用途に使われる。木目が美しく、磨くと著しい光沢を生じる。堅くて摩耗に強いので、家具・建具等の指物に使われる。日本家屋の建築用材としても古くから多用され、神社仏閣などにも用いられた。ケヤキ材からは仏像も作られる。現在は高価となり、なかなか庶民の住宅には使えなくなっている』。『寺社建築に盛んに使われるようになったのは、縦引き鋸が使われ出した室町時代以降のことである。ヒノキやスギは縦に割って使うことができたが、ケヤキの材はかたく、割るのは困難であったためである。材の強度は、ヒノキとは反対に伐採後から次第に低下していくといわれ、薬師寺東塔に使われたケヤキ材は』千二百『年を経過していて、破断状態にあったという。広葉樹、特にケヤキは道管が環状に並んで』、『年輪がはっきりと見える板となり、年輪幅が広い方がかたくて、重い良材となる』。『チロースが発達しているので、伐採後も長い間導管内に水分が閉じ込められたままになる。そのため、伐採してから、乾燥し枯れるまでの間、右に左にと、大きく反っていくので、何年も寝かせないと使えない。特に大黒柱に大木を使った場合、家を動かすほど反ることがあるので大工泣かせの木材である。また、中心部の赤身といわれる部分が主に使われ、周囲の白太は捨てられるので、よほど太い原木でないと立派な柱は取れない』。昭和一五(一九四〇)年、『戦時色の強まった日本では、用材生産統制規則により特定の樹種について用途指定を実施。ケヤキ材の使用用途については軍需、内地使用の船舶、車両用に限られることとなった』とある。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「(ガイド・ナンバー[086-21b]以下)からのパッチワークである。但し、検索する場合は、

「欅」

ではなく、

「櫸」

の異体字を用いているので、注意されたい。

「柳《やなぎ》」中国語では、ヤナギの中でも枝が垂れる種群を「柳」、枝が垂れない種群を「楊」と称している。名にし負うお馴染みのヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica は中国原産である。

「槐《えんじゆ》」バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。先行する「槐」を参照されたい。

「嫩《わかくやはらか》なる」読みは東洋文庫のルビを参考にした。

「箕《みの》≪の≫唇《くち》の緣(ふち)」日本のケースだが、ウィキの「箕」によれば、『先端部の強度を高め滑らかな表面にするために桜皮を編み込んだものもある』(愛知県豊田市の例)とあった。

「甜茶(あま《ちや》)と爲《な》す」現在も中国で行われている。中文の「百度百科」の「枫杨茶」を見られたい。画像もある。

「時-行《はやり》頭痛」読みは東洋文庫のルビを採った。

を治し、水氣《すいき》を療ず。痢を斷《たち》、胎《たい》を安《やすん》じ、姙婦の腹痛を止む。』≪と≫。

「蚟(むしい)らず」虫が食い込んで食害することがない。

「䰍(ぬ)りて」この漢字は、音「キュウ」で、「漆・赤黒い漆」或いは「漆を塗る」の意。

「陶弘景曰はく、『皮、槐に似て、葉、櫟-檞(とち)のごとし。』と云ふは、卽ち、「久奴木《くぬぎ》」か」「本草綱目」の「櫸」の「集解」の冒頭で『弘景曰櫸樹山中處處有之皮似檀槐葉如櫟槲人多識之』とあるのを引用したもの(「漢籍リポジトリ」のそれとは表字が異なるが、同一種である)。従って、対象植物が異種であるから、無効である。さらに、「櫟-檞」「櫟槲」を良安は「トチ」としているが、この「櫟-檞」「櫟槲」は、

ムクロジ目ムクロジ科トチノキ(栃の木・橡の木)属トチノキ Aesculus turbinata

ではなく、

ブナ目ブナ科コナラ属ナラガシワ(檞櫟)Quercus aliena

である。更に良安は、「久奴木《くぬぎ》」を候補種として挙げているが、これまた、ナラガシワと同属であるが、異種の、

コナラ亜属クヌギ Quercus acutissima

なのであり、彼は、致命的に多重錯誤に堕ちてしまっているのである。最早、植物百科事典の項としては、シッチャカメッチャカのレッド・カードで、退場するしかないヒドさに至ってしまっているのである。なお、東洋文庫訳では、梁の武帝に抜擢された医師・科学者にして道教の茅山派の開祖でもあった陶弘景(四五六年~五三六年)の引用元は、「名醫別錄」(「神農本草經」の薬三六五種に、漢・魏以来の名医が用いた薬三百六十五種を加えた漢方書。全三巻)とする。

『源順《みなものとのしたごう》、此れに𢴃《よ》りて、「櫸(けやき)」を以つて、「久奴木」と爲《す》るは、訛《あやまり》なり。』漢字表記に問題があるが、順の「和名類聚鈔」の「卷第二十」の「草木部第三十二」の「木類第二百四十八」にある(国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年の板本のここの左丁の最後)、

   *

釣樟(クヌギ) 「本草」に云はく、『釣樟、一名は「鳥樟」【音「章」。和名「久沼木」。】』。

   *

とあるのを指す。「本草」は「本草和名」で、深根輔仁(ふかねのすけひと)の撰になる日本現存最古の薬物辞典(本草書)。「輔仁本草」(ほにんほんぞう)などの異名がある。当該ウィキによれば、『本書は醍醐天皇に侍医・権医博士として仕えた深根輔仁により』、『延喜』一八(九一八)年に『に編纂された。唐の』「新修本草」(高宗が蘇敬らに書かせた中国最古の勅撰本本草書。陶弘景の「神農本草經集注」(しんのうほんぞうきょうしっちゅう)を増訂したもの)を『範に取り、その他漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記している。当時の学問水準』の限界のため、『比定の誤りなどが見られるが、平安初期以前の薬物の和名を』、『ことごとく記載しており』、且つ、『来歴も明らかで、本拠地である中国にも無い』所謂、『逸文が大量に含まれ、散逸医学文献の旧態を知る上で』も、『また』、『中国伝統医学の源を探る上でも貴重な資料である』。本書は、後の『丹波康頼の』知られた「医心方」にも『引用されるなど』、『後世の医学・博物学に影響を与えた。また、平安時代前期の国語学史の研究の上でも貴重な資料である』。後、永らく、『不明になっていたが、江戸幕府の医家多紀元簡が紅葉山文庫より上下』二『巻全』十八『編の古写本を発見し』、『再び世に伝えられるようになった。多紀元簡により発見された古写本の現時点の所在は不明であるが、多紀が寛政』八(一七九六)年に『校訂を行って刊行し』、六『年後に民間にも出された版本が存在する他、古写本を影写した森立之の蔵本が台湾の国立故宮博物院に現存する』とある。さて。にしても、ここで良安が『訛《あやまり》なり』とブチ挙げているのは、全体の良安自身の大訛(あやまり)を知ってしまったからには、寧ろ、哀れとさえ感じられるのである。

『櫸、三種、有り。「眞櫸(まけやき)」・「石櫸《いしけやき》」・「槻櫸《つきけやき》」なり。其の材、少異《しやうい》有り』ウィキの「ケヤキ属」を見ても、本邦にケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata の別種・亜種・江戸時代当時の品種のものは見当たらない。個人サイトの「一枚板比較」の「ケヤキ(欅)の一枚板」に、『欅(ケヤキ)は、日本を代表するニレ科ニレ属の広葉樹です。欅(ケヤキ)は海外でも人気がある樹種で、海外では「ジャバニーズゼルコバ」』(Japanese zelkova)『の名で親しまれています。日本の気候は、世界でも稀な四季があるため、ケヤキに美しい杢目が出やすいという特徴がある点も海外からも人気の樹種である理由の一つです。ケヤキの杢目には、最高峰である如輪杢をはじめ、玉杢などの種類がよく出ます。また、ケヤキには青ケヤキと赤ケヤキがあります。欅(ケヤキ)の心材は、オレンジに近い褐色で、辺材は黄色に近い褐色をしています』。『欅(ケヤキ)には、青ケヤキと赤ケヤキがあります。青ケヤキは、年輪幅が大きく若い木なのに対して、赤ケヤキは、年輪幅が小さい樹齢が高い木になります』とあり、以下、豊富な写真で、「欅(ケヤキ)の杢目の種類」項が続くので見られたい。但し、されば、私は、この「三種」というのは、木材にした際の材質上の個体の別に過ぎないのだと思ったのだが、さにあらずで、

「眞櫸」はケヤキ

であろうが、

「石櫸」は、これ、ケヤキとは同じニレ科Ulmaceaeの、ニレ属アキニレ Ulmus parvifolia の異名

なのであった。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、別名は『イシゲヤキ(石欅)』『カワラゲヤキ(河原欅)』が挙げられており、『東アジアから東南アジアに分布し、河原など水辺や湿ったところに生えることが多い。秋に花が咲き、晩秋に黄葉と実がなるのが特徴。性質は強健で、公園樹や街路樹として植栽もされる』。『和名「アキニレ」は「秋楡」と書き、これは初秋に花が咲き、晩秋に実がつくという生態的特徴からきているといわれる。「ニレ」の語源は、樹皮を剥がすとヌルヌルし、それを意味する古語「ぬれ」が転訛したものとされる。別名』『イシゲヤキやカワラゲヤキ』は、『形態的特徴、特に樹形や樹皮の様子がケヤキ( Zelkova serrata )に似ていること、イシ、カワラは木材が石のように硬いこと、生息地として河原を好むことからきている』とあった。『英名は樹皮の特徴をつかんだ lacebark elm(滑らかな樹皮のニレ)や分布地に因む Chinese elm(中国のニレ)、中国名は「榔楡」』である。『学名の種小名 parvifolia は「小さい葉」の意味で、ニレ属としては葉が小さめであることに由来する』。『中国大陸の広い範囲と朝鮮半島、インドシナ半島、日本、台湾に分布。日本では東海地方以西の本州、四国、九州で主に西日本に分布する。比較的水辺を好み谷の斜面下部や川沿いなどの肥沃湿潤な土地でよく見られる』。『落葉広葉樹の高木で、樹高』十三~十五『メートル』『直径』六十センチメートル『程度に達する。最高樹高』三十メートルを『超えるハルニレ』(春楡)『( Ulmus davidana var. japonica )』(単に「ニレ」と言った場合は、学術的には、この「ハルニレ」を指す)『に比べると小型で、葉も小さい。樹皮は灰褐色で小さな皮目があり、ハルニレのように縦に深く割れず平滑で、同じ科のケヤキ( Zelkova serrata、ニレ科ケヤキ属)の樹皮のようにまだらに剥がれる。樹皮が剥がれ落ちた跡は、灰緑色や淡橙色が混じり、特徴的な外観をもつ。別名のイシゲヤキ、カワラゲヤキはこれらの樹皮の特徴が語源である。一年枝は赤褐色で短毛があり、ニレ科共通でジグザグ状に伸びる(仮軸分枝)』。『葉は互生し、葉身は長さ』二~六『センチメートル』『弱と小さめで』、『倒卵型から長楕円形、普通の葉基部は左右非対称、葉縁には鋸歯があり二重鋸歯と呼ばれるタイプであるが、本種の葉は普通の鋸歯に見えることがしばしばある。ハルニレと比べると葉は小さい。秋には黄葉し、黄色や赤褐色に染まって、実が熟すころには落葉する。葉が地上に落ちると』、『やがて』、『褐色に変化する』。『開花時期は』九『月ごろ』で、『本年枝の葉腋から、淡黄色の両性花を束生する。花粉は風によって散布する風媒花である。花の咲く時期に特徴があり、ハルニレのように春に開花する種類が多いニレ属の中でも』、『珍しい秋開花の種で、和名の由来にもなっている。このような秋に開花する種は日本のニレ属で本種が唯一、世界的に見ても』、『本種の他にアメリカ南部に』二『種が知られるのみである』。『果期は』十一『月。果実は翼果で、長さ』七~十三『ミリメートル』『の楕円形の実は』、『晩秋には淡褐色に熟す。翼果は冬でも残ることがある』。『冬芽は卵形で小さく』、四、五『枚の芽鱗に包まれており』、『やや毛がある。横に副芽をつけることもある。枝先には仮頂芽をつけ、側芽は枝に互生する。花芽は一年枝につく。葉痕は半円形で、維管束痕が』三『個』、『つく』。『他のニレ類と』ともに『街路樹などに利用される。強健な性質で、日本では北海道南部まで植栽できる。ニレの並木は特に欧米で盛んであるが、欧米のニレはアジアから侵入したニレ立枯病』(黴(かび)の一種である真核生物ドメイン菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱ディアポルテ亜綱 Diaporthomycetidaeオフィオストマ目 Ophiostomatalesオフィオストマ科オフィオストマ属の内、現在は三種( Ophiostoma ulmi Ophiostoma himal-ulmiOphiostoma novo-ulmi )が原因菌として判っている)『に弱く』、『大量枯死が問題化している。本種は』、『この病気に対して特に高い抵抗性を見せるために、在来ニレの代替種として、もしくは抵抗性雑種の親木として利用されることがある。ただし、ファイトプラズマ』(細菌ドメインテネリクテス門Tenericutesモリクテス綱Mollicutesアコレプラズマ目Acholeplasmatalesアコレプラズマ科Acholeplasmataceaeファイトプラズマ属 Phytoplasma )『を病原とし』、『葉の黄化と萎縮を特長とするelm yellow病(和名未定)には比較的弱いとされる』。『日本の他のニレ属共通で』、『樹皮を結って縄にしたり、内樹皮を叩いて潰して接着剤として使ったという』とあった。一方、

「槻櫸《つきけやき》」については、ケヤキの別名

であるから、これは、前に示した個体の材質上の違いに過ぎないことが判った。而して、良安が大上段に振り被って挙げている「槻(つき)」=「豆木乃木《つきのき》」も、同じくケヤキであって、異なる種ではないことが判明した。

「匠-人《だいく》」東洋文庫訳のルビを採った。

「鐁《やりがんな》」「槍鉋」とも書き、「やりかんな」とも訓ずる。反った槍の穂先のような刃に、長い柄を付けた鉋で、突き摺るようにして、木材を削る。室町時代に現在知られる鉋(=台鉋)が現れるまで広く用いられ、今日では桶・簞笥作りで使う「前鉋」(まえがんな)が、この一種である。私も見たことがないものだったので、グーグル画像検索「やりがんな」をリンクさせておく。

「唐韻」唐代に孫愐(そんめん)によって編纂された「切韻」(隋の文帝の六〇一年の序がある、陸法言によって作られた韻書。唐の科挙の作詩のために広く読まれた。初版では百九十三韻の韻目が立てられてあった)の修訂本。七五一年に成ったとされるが、七三三年という説もある。参照した当該ウィキによれば、『早くに散佚し』、『現在に伝わらないが、宋代に』「唐韻」を『更に修訂した』「大宋重修広韻」が『編まれている』。『清の卞永誉』(べんえいよ)の「式古堂書畫彙考」に『引く』中唐末期の『元和年間』(八〇六年八月~八二〇年十二月)の「唐韻」の『写本の序文と各巻韻数の記載によると、全』五『巻、韻目は』百九十五『韻であったとされる。この数は王仁昫』(おうじんく)の「刊謬補缺切韻」に『等しいが、韻の配列や内容まで等しかったかどうかはわからない』。『蒋斧旧蔵本』の「唐韻」『残巻(去声の一部と入声が残る)が現存するが、韻の数が卞永誉の言うところとは』、『かなり異なっており、元の孫愐本からどの程度の改訂を経ているのかは』、『よくわからない。ほかに敦煌残巻』『も残る』。「説文解字」の『大徐本に引く反切は』「唐韻」に依っており、かの「康熙字典」が、「唐韻」の『反切として引いているものも』、「説文解字」大徐本の『反切である』とある。

「檀弓(まゆみ)」これで、ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus var. sieboldianus の樹種を指す。当該ウィキによれば、『材質が強い上によくしなるため、古来より弓の材料として知られ、名前の由来になった』。『この木で作られた弓のことや、単なる弓の美称も真弓という』とある。

「夫木」「關守が弓にきるてふ槻《つき》の木のつきせぬ戀に我《われ》おとろへぬ」「顯季」既注の「夫木和歌抄」に載る藤原顕季の一首で、「卷二十九 雜十一」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で14017)。

「はだつ」「波太豆《はたつ/あけび》」「波太豆毛利《はだつもり》」今一つ信頼している植物サイト「GKZ 植物事典」のアケビのページに、「古名」の項に「ハタツ(波太豆)」とあった。だが……しかし……アケビ科Lardizabaloideae 亜科Lardizabaleae連アケビ属アケビ Akebia quinata は、蔓性落葉低木だ。良安は「其の材、櫸(けやき)に似≪る≫」と言ってるから、これは、違うのだ! さらに調べるうちに、これは、次の和歌から、「はたつもり」=「畑つ守」で、これは植物名で(以下の和歌では「積もり」を導いたに過ぎない)、

ツツジ目リョウブ(令法)科リョウブ属リョウブ Clethra barbinervis

であることが判った。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『リョウブ科 Clethraceaeの落葉小高木で』、『北海道から九州、中国、台湾までの山林に分布している。夏に長い総状花序に白い小花をたくさん咲かせる。若葉は山菜とされ、庭木としても植えられる。別名、ミヤマリョウブ、チャボリョウブ、リョウボ(良母)、サルダメシ、古名でハタツモリ。中国名は髭脈榿葉樹』。『高さは』七~九『メートル』『になる。樹皮は表面が縦長な形に薄く剥げ落ちて、茶褐色と灰褐色のまだら模様で、滑らかな木肌になる。樹皮がサルスベリ(ミソハギ科)のように剥げ落ちるので、「サルスベリ」と呼ぶ地方もある。若木の樹皮は灰褐色。一年枝は細く、枝先で星状毛が残る。樹皮はナツツバキにも似る』。『葉は長さ』十『センチメートル』、『幅』三センチメートル『ほどの楕円形から倒披針形で、先が尖り、葉縁には細かい鋸歯がある。葉の形はサクラに似ている。葉の幅は葉先に近い方で最大になる。表面にはつやがなく、無毛または微毛を生じる。葉は枝先にらせん状に互生するが、枝先にまとまる傾向が強い。新葉は』、『やや赤味を帯びる。秋には紅葉し、日光の当たり具合によって、黄色、橙色、赤色、赤褐色などいろいろな色になり、日当たりのよい葉は鮮やかな橙色から赤色になる。落ち葉は褐色に変わりやすく、乾くとすぐに縮れる』。『花期は真夏』(六~九月で『枝先に長さ』十五センチメートル『くらいの総状花序を数本出して、多数の白い小花をつけ、元の方から咲いていく。花弁は白く』五『裂する。果実は蒴果で』三『つに割れる。球形の果実は、秋に褐色に熟す。葉が散ったあと、冬でも長い果序がぶら下がってよく残る』。『冬芽は側芽は互生するが』、『小さくて』、殆んど『発達せず、頂芽は円錐形で芽鱗が傘状に開いて落ち、毛に覆われた裸芽になる。葉痕は三角形や心形で、枝先に集まる。維管束痕は』一『個』、『つく』。『北海道南部から本州、四国、九州、済州島、中国、台湾に分布する。低地や山地、丘陵の雑木林の中や、斜面などに自生する。日当たりのよい山地の尾根筋や林縁に多い。平地から温帯域まで広く見られるが、森林を構成する樹種というより、パイオニア的傾向が強い。庭木としても植えられている』。『リョウブ属には数十種あり、アジアとアメリカ大陸の熱帯・温帯に分布する』。『家具材や建材、庭木などに用いられる』(☜)。『春に枝の先にかたまってつく若芽は山菜になり』、『食用にする。採取時期は、暖地が』四『月、寒冷地は』四~五『月ごろが適期とされる。若芽は茹でて水にさらし、細かく刻んだものを薄い塩味をつけて、炊いた米飯に混ぜ込んでつくる「令法飯」などの材料にする。そのほか、おひたし、和え物、煮びたし、汁の実にしたり、生のまま天ぷらにする。昔は飢饉のときの救荒植物として利用されたといわれる。ただし、一度に多く食べ過ぎると』、『下痢を起こす場合がある』。『また』、五『年に一度しか採取できないが』、『ハチミツが市場に出ることも』あり、『結晶化せず、香り高い』。『令法という名は、救荒植物として育て蓄えることを法で決められたからといわれるが、花序の形から「竜尾」がなまったとの説もある。ハタツモリは畑つ守などの字が当てられるが、語源ははっきりしない』とある。

「六帖」「我《わが》戀はみやまにおふるはたつもりつもりにけらしあふよしもなし」「古今和歌六帖」のこと。既出既注。日文研の「和歌データベース」の「古今和歌六帖」で確認した。「第六 木」のガイド・ナンバー「04317」である。]

2024/07/15

「疑殘後覺」(抄) 巻三(第三話目) 人玉の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

巻三(第八話目)

   人玉《ひとだま》の事

 いかさま[やぶちゃん注:副詞で「全く以って・確かに・本当に・実際」などで、意味があるというよりも、語りの発語として「さてもまた」と言った感じであろう。]、人の一念によつて、「しんい」[やぶちゃん注:「瞋恚」。仏教で三毒十悪の一つとする「自分の心に逆らうものを憎み怒ること」。]のほむらと云《いふ》ものは、有るに儀定たる[やぶちゃん注:ならわしとして確かに存在するものとされていること。]由、僧俗ともに、その說、おほし。

 しかれども、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]目に見たる事のなき内は、うたがひ、おほかりし。「がんぜん」にこれを見しより、後生《ごしやう》を、ふかく、大事に、おもひよりしなり。

 これとひとつ事に思ひしは、人每《ひとごと》に人玉といふものゝ有《ある》よしを、れきれきの人、歷然のやうにの給へども、しかと、うけがたく候ひしか[やぶちゃん注:「確かに存在するとは、受け入れがたく感じている者もあるであろうかとは思われる。」。]。

 北《ほく》こくの人、申されしは、越中の大津の城とやらむを、佐々内藏介《さつさくらのすけ》、せめ申されしに、城にも、つよく、ふせぐといへども、多勢のよせて[やぶちゃん注:「寄せて」ではなく、「寄せて」と私は採る。]、手痛くせめ申さるるゝほどに、城中、弱りて、すでに、はや、

「明日は打死《うちじに》せん。」

と、おゐおゐ[やぶちゃん注:ママ。後半は底本では踊り字「〱」。「追ひ追ひ」。]、「いとまごひ」しければ、女・わらんべ、なきかなしむ事、たぐひなし。まことにあはれに見えはんべりし。

 かゝるほどに、すでに、はや、日もくれかゝりぬれば、城中より「てんもく」[やぶちゃん注:天目茶碗。口径は十一~二十一センチメートルだが、通常は十三センチメートル前後が多い。掌に載る大きさである。]ほどなるひかり玉、いくらといふ、數《かず》かぎりもなく、とびいでけるほどに、よせしゆ[やぶちゃん注:「寄せ衆」。]、これをみて、

「すはや、城中は、「しによういゐ」[やぶちゃん注:ママ。「死に用意」。]しけるぞや。あの人玉のいづる事を、みよ。」

とて、われもわれも、と見物したりけり。

 かゝるによりて、

「『かうさん』して、城をわたし、一命をなだめ候やうに。」

と、さまざま、あつかひをいれられければ[やぶちゃん注:降伏開城についての種々の条件交渉を示してきたので。]、内藏介、此《この》義にどうじて[やぶちゃん注:「同じて」。同意して。]、事、とゝのふたり。

「さては。」

とて、上下《かみしも》、よろこぶ事、かぎりなし。

 かくて、その日も暮れければ、きのふ、とびし人玉、又、ことごとく、いづよりかは、いでけん、城中、さして、とび、もどりけり。

 これをみる人、いく千といふ、かずをしらず。

 ふしぎなることども也。

[やぶちゃん注:「越中の大津の城とやらむを、佐々内藏介《さつさくらのすけ》、せめ申されし」「大津の城」「大津」は「魚津」の誤り。現在の富山県魚津市内にあった平城。「小津城」の別名があったので、それを誤認したか。講談社「日本の城がわかる事典」によれば、建武二(一三三五)年に、『椎名孫八入道によって築城されたと伝えられている。室町時代の越中国守護の畠山氏に仕え、越中の東半分を勢力下に収めた守護代の椎名氏の居城・松倉城の支城となった。戦国時代、椎名康胤は越中国西部を領有する半国守護代の神保氏の攻勢により苦境に立った際、越後の上杉謙信の傘下に入ることで危機を逃れた。その後、康胤は謙信から離反して越中の一向一揆衆と手を結び、甲斐の武田信玄に与した。このため、椎名氏は謙信に攻められて越中から追放され、魚津城には謙信の部将河田長親が城代として入城した。その後、越前と加賀を制圧した織田信長の軍勢が越中に侵攻し』、天正一〇(一五八二)年には、『越後の前線拠点となった魚津城を舞台に』、『柴田勝家率いる織田方の大軍との間に激戦が繰り広げられた』(「魚津城の戦い」)。『攻城戦が始まって間もなく城は落ちたが』「本能寺の変」が『起こり、信長が討ち死にしたことから』、『織田軍は撤退し、上杉勢により』、『奪回された。翌』天正一一(一五八三)年、『魚津城は態勢を立て直した佐々成政』(ここに出る「佐々内藏介」(天文五(一五三六)年~天正一六(一五八八)年:安土桃山時代の武将。尾張出身。織田信長に仕え、朝倉義景攻略や石山本願寺の一向一揆へ攻撃を行い、越中富山を与えられた。しかし「本能寺の変」後は、豊臣秀吉と対抗し、「小牧・長久手の戦い」で降伏した。秀吉の「九州征伐」後、肥後の領主となったが、秀吉に、失政による肥後一揆の責任を咎められ、切腹を命じられた。なお、彼の通称は「内藏介」ではなく、「内藏助」である)『により』、『再び包囲され、須田満親は降伏して開城。上杉氏による魚津城の支配は終わり、富山城を居城とする成政の持ち城となった。その後、成政は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と対立して、秀吉に攻められ、越中における基盤を失い、肥後国(熊本県)に国替えとなった。成政が去った後、魚津城は前田氏の持ち城となり、青山吉次などが城代をつとめたが、元和の一国一城令により廃城となったとみられている。しかし、加賀藩は城を破却することなく、松倉城同様、米蔵や武器庫として利用し、城郭としての機能を存続させた。城跡には、明治の初めごろまでは堀や土塁などが残されていたが、現在、遺構はほとんど失われてしまっている。城跡は大町小学校(本丸跡)や裁判所などの敷地となっている』とある。魚津城跡はここ(グーグル・マップ・データ)。]

2024/07/14

「疑殘後覺」(抄) 巻二(第八話目) 亡魂水を所望する事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

巻二(第八話目)

  亡魂、水を所望する事

 備州谷野《やの》と云《いふ》所に、介市太夫《かいいちたいふ》と申すもの、夜念佛《よねぶつ/よねんぶつ》に「さんまい」を、まはる事あり。

[やぶちゃん注:「備州谷野」岩波文庫の高田氏の脚注に、『備後甲奴(こうぬ)郡矢野郷。現広島県上下町付近』とある。現在の広島県府中市上下町(じょうげちょう)矢野(グーグル・マップ・データ航空写真)。かなり、山深い地区である。

「夜念佛」夜に念仏を唱えて回向すること。

「さんまい」「三昧」。墓場。]

 そうじてゐ中[やぶちゃん注:「田舍」。]には、「念佛の行」と申《まうし》て、うちにては、さのみ申さず、宵より、夜のあくるまで、「さんまひ[やぶちゃん注:ママ。]」を、かね[やぶちゃん注:「鉦」。]、うちたゝきて、念ぶつして、とをり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 あるとき、谷野の「さんまい」を、石濱勘左衞門といふ人、ようの事、有《あり》て、夜中過《すぎ》にとをり[やぶちゃん注:ママ。]けるに、石塔、又、「そとば」[やぶちゃん注:「卒塔婆」。]のかげより、年の比《ころ》、はたちばかりにもあるらんとみゆる、「女ばう」の、身には、しろき「かたびら」を、きて、あたまは、をどろ[やぶちゃん注:ママ。「棘(おどろ)」。草木・棘(茨(いばら)が乱れ茂っているいるさま。ミミクリーでまさに「亂れ髪」のことをも言う。]のごとく、みだしたるが、

「この石塔に、あふて、ねがわくは、水を、一くち、たび[やぶちゃん注:「賜び」]候へ。」

とぞ、こい[やぶちゃん注:ママ。「乞ひ」。]にける。

 勘左衞門は、これを見て、

「なんでう、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]は、まよひもの[やぶちゃん注:「迷いひ者」。ここでは、「亡靈」「幽靈」の意。]ゝ人を、たぶらかさんとて、きたるにこそ。」[やぶちゃん注:「なんでう」本来は「何(なん)でふ」が正しい。ここは、感動詞で「何をほざくか! とんでもない!」と、相手の言い分を強く否定する用法である。]

とて、かたな、ひんぬいて、うちければ、物にてもなく、うせたりける。

 それより、あしばやに、そこを、のきて、やどにかへりてより、ふるひつきて、わづらふほどに、はじめは、「おこり」[やぶちゃん注:「瘧」。マラリア。]のやうにありしが、後《のち》、次第におもく成《なり》て、百日をへて、うせたりける。

 この事を、介市太夫は、きゝて、

「さらば。」

とて、かね、うち、くびにかけて、よひより、かの「さんまい」へぞ、ゆきにける。

[やぶちゃん注:「かね、うち、くびにかけて」意味は判るが、言い方として、しっくりこない。「鉦、首に懸けて、打ち」と語る(書く)つもりが、ヅレを生じたものと思われる。]

 あんのごとく、くだんの「女ばう」、いでゝ、いふやうは、

「いかに。ありがたき御念佛《おんねんぶつ》のこゝろざしに侍るものかな。それにつきて、たのみ申《まうし》たき事の候。我、しゝたるきざみに[やぶちゃん注:臨終のその折に。]、あたりに出家も候はず。又、道心[やぶちゃん注:ここは、僧ではないが、仏道に帰依する人の意であろう。]もなきによりて、かみをすらず[やぶちゃん注:「剃(す)らず」。]、そのまゝ『めいど』へ、おもむきしによりて、ながき『ざいごう[やぶちゃん注:ママ。「罪業(ざいごふ)」。]』となりて、うかむ『よ[やぶちゃん注:「世」。]』候はねば、御けちゑん[やぶちゃん注:ママ。「結緣」。ここは「仏教徒による確かな供養」と同義。]に、このかみを、すりてたび候はゞ、『ぶつくわ[やぶちゃん注:「佛果」。ここは「成佛」と同義。]にいたらん事、うたがひなし」

とぞ、申《まふし》ける。

 介市、これをきゝて、

「それこそ、ふびんのしだいなり。やすきことなれども、これに、『かみすり』[やぶちゃん注:「剃刀」。]、なければ、あすのよ、きたりて、すりをろして、えさすべし。」

と申ければ、

「あら、ありがたし。其儀ならば、のど、かはき申《まうし》候まゝ、水を、一口、たび候へ。」

と、いへば、

「こころへ[やぶちゃん注:ママ。]たる。」

とて、はるばる、谷へ行《ゆき》て、「たゝきがね」に、すくふて、亡魂にぞ、あたへける。

 のみて、よろこぶ事、かぎりなし。

 さて、うちわかれて、宿《やど》にかへり、さぶらひしゆ[やぶちゃん注:「侍衆」。]に申しけるは、

「かやうなるふしぎこそ候はね。夕《ゆふ》さり[やぶちゃん注:明日の「夕方」の意。]、まいり[やぶちゃん注:ママ。]て、かみをすり申候あひだ、まつだい[やぶちゃん注:「末代」。]の物語に、よそながら、御けんぶつ、あれ。」

と、かたりければ、

「これこそ、おもしろき物がたりなれ。」

とて、さぶらひしゆ、

「われも、われも、」

と、ゆきて、こゝかしこに、かくれ、ゐにけり。

 さて、介市太夫は、夕べの時分よりも、おそく、ゆきて、念佛しければ、あんのごとく、「女ばう」は、いでむかひけり。

 介市は、これをみて、

「さあらば、是《これ》にて、するべし。」

とて、さて、かしらを、とらへて、念佛を申《まうし》、すゝむる、すゝむる、そろり、そろりと、するほどに、「しのゝめ」も、やうやう、しらみわたり、よこ雲も引《ひき》ければ、人々、四方八方より、たちかゝり、これをみるに、夜は、ほのぼのと、明《あけ》わたりけり。

 さて、介市太夫は、かみをする、かみをする、と、思へば、二尺ばかり有《あり》ける五輪のかしらに、つたかづらのはい[やぶちゃん注:ママ。]まとはり、苔《こけ》の「むしろ」[やぶちゃん注:「莚」。五輪塔の空輪以下を苔がびっしりと覆っていたことを言ったもの。]たるにてぞ、ありける。

 この「かづら」を、よ、ひとよ、「かみすり」にて、すりおとせしなり。

 人人《ひとびと》、

「あるべき事にこそ。」

とて、たけき武士《もののふ》も、これをみて、菩提心ぞ、深くなりにける。

 是にて、成佛しけるにや、かさねて、この「さむまひ[やぶちゃん注:ママ。]」へ、ゆきけれども、そのゝちは、いでざりけり。

[やぶちゃん注:武士らの登場からみて、この介市太夫なる人物は、相応の武将の屋敷に雇われている仏教徒であったことが判る。この話、私は、その場にいたような錯覚を起こした。素敵な怪奇談、というより、往生譚である。]

「疑殘後覺」(抄) 始動 / 巻二(第七話目) 岩岸平次郎蛇を殺す事

[やぶちゃん注:「疑殘後覺」(ぎざんこうかく)は、所持する当該書を抄録する岩波文庫「江戸怪談集(上)」(高田衛編・校注・一九八九年刊)の高田氏の解説によれば、十六世紀末『当時の伽の者によって筆録された』『雑談集』(世間話集)で、『戦国武将をめぐる挿話や、戦陣の間に行われた世間話のありようをうかがうにふさわしい資料として貴重』なもので、『写本』で『全七巻七冊』で全八十五話から成る。『編著者』は『識語』に『愚軒』とあり、そこに「文祿五年暮春吉辰」(「吉辰」は「きつしん」で、「辰の日」ではなく、単に「吉日」の意であるので、これが正しいとすれば、豊臣政権最初の改元年であった文禄の五年三月(グレゴリオ暦で一五九六年三月二十九日から四月二十七日。なお、「文禄」は、この文禄五年十月二十七日(グレゴリオ暦一五九六年十二月十六日)に「慶長」に改元されている)の間に識されたことになるが、当該ウィキによれば、『実際の成立年代は』、『やや下るものと見られている』とあり、『それぞれの話は』、『登場人物が語る「咄」として語られており、内容も怪談・奇談・笑話・風俗話と多岐にわたる』。『実在の人物も多く登場するが、関東・東北・九州の大名は』、『一切』、『登場』せず、『豊臣秀吉に関しては』、『絶賛に近い形で紹介されるが、織田信長については酷評されている』とある。戻って、高田氏は、『原本の成立の時期は、ほぼこの時期』、『文禄年間(一五九二―九六)と考えて妥当と思われる』とされ、『著者愚軒については不詳だが、豊臣秀次側近衆にかかわりのある』「伽の者」『のひとりでああったかとも思われる』と述べておられ、この書は、所謂、「怪奇談集」ではなく、『収録された怪談も、まだ怪談として自立しているのではなく、あくまでも世間話の一端として行われたものであった。近世期』の『怪談集』『以前の〈怪談〉の姿を見るべく、あえて本巻に収録した』とある。

 さて、私は「怪奇談」以外の本書の諸篇を電子化するつもりは、全くない。そもそもこの時代の歴史には、殆んど興味がない上に、秀吉は大嫌いだからでもある。そこで、私は、岩波文庫が採用抄録した「疑殘後覺」からの十二篇を電子化することとした。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの『續史籍集覽』第七冊(近藤瓶城(へいじょう 天保三(一八三二)年~明治三四(一九〇一)年:漢学者で『史籍集覽』の刊行者)編・昭和五(一九三〇)年近藤出版部刊。リンク先は巻第一巻の「目錄」冒頭)を視認して電子化注することとした。なお、時間を節約するため、上記岩波文庫版の本文をOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴くこととし、その高田氏の脚注も参考にさせて貰うこととした。ここに御礼申し上げる。

 なお、各標題には通し番号がないので、整理するために、標題の前に、私が丸括弧で「巻二(第七話目)」というふうに添えておいた。

 本底本は戦前のもの乍ら、漢字の一部は新字体相当のものが、かなりある。と言うより、漢字表記が極めて少ない。それは忠実に示した。無論、「ひらがな」であるために却って読み難くなっている箇所には、割注で、漢字表記(正字)を示す割注を入れた。また、濁点は全く打たれていないが、これは、余りにも読み難いので、私の判断で濁点を附した。この時代、半濁音「゜」は一般的には殆んど使用していないが、現代の読者のため、半濁音と断定したものには附した。但し、「は」は「ハ」で記されてあるが、「は」で起こした。

 本書は、歴史的仮名遣の誤りが、甚だ多い。逐一、ママ注記を入れるが、各話で同一の単語誤用がある場合は、「以下同じ」と入れて、省略した。

 底本には句読点が、一切、ないため、甚だ読み難いので、私の独断で句読点を打ち、字下げ・改行・改段落・記号を自由に追加してある。

 読み(ルビ)は、ごく一部にしか、附されていない。原本のものはそのままに( )で挿入したが、私が必要と感じたところには、《 》で読みを添えた。

 踊り字「〱」「〲」は、生理的に嫌いなので、正字表現或いは「々」とした。

 以下の初回の篇は、原書の「巻第二」の「岩岸平次郎虵を殺す事」(同巻の「目錄」では「蛇」は「虵」となっている)で、ここからである。]

 

巻二(第七話目)

  岩岸平次郎、蛇を殺す事

 美濃國へ、「岩成《いはなり》」かた[やぶちゃん注:「方」。]より、用の事、ありて、くだりけるが、山中、ふかくいりて、やうやう、山をうち越え、平の[やぶちゃん注:「平野(ひらの)」。一般名詞。]に、いでけるに、谷のかたはらより、「まむし」の、きたりて、なごりもなく、とびかゝるほどに、「わきざし」を引《ひき》ぬいて、ほそくびを、

「ちやう。」

と切り、きりすまして、なにの事もなく、そろそろと、ゆくほどに、岩村といふ在所に付(つき)にける。

[やぶちゃん注:「岩成」岩波文庫で高田氏は『備後国深津郡岩成郷。現』広島県『福山市内』とされる。この辺りなのだが(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)、ちょっと「美濃國」とは距離が離れ過ぎていて、私には、気になる。と言っても、江戸以前に遡る「岩成」或いは「石成」の地名は、ピンとくるものも、ないのだが。一瞬、愛知県春日井市岩成台(いわなりだい)を考えたが、「ひなたGPS」で見ると、戦前の地名には「岩成」の影も形もないので、違う。

「なごりなく」「名殘もなく」。高田氏の脚注に、『容赦なく、いきなり、の意』とある。

「岩村」岐阜県恵那市岩村町(いわむらちょう)。]

 こゝにて、客僧[やぶちゃん注:ここは修行僧の意。]の、あとより來けるが、いふやうは、

「なふなふ、それへ、おはします旅人、御身は、今日《けふ》、殺生《せつしやう》を、し給ふか。」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「なふなふ」「なうなう」が正しい。感動詞「なう」を重ねた「呼びかけ」の言葉。「もしもし」。平安中期には既にあった語である。]

あらそう[やぶちゃん注:ママ。]べきにあらざれば、

「なかなか。道に蛇のありて、我をさゝん[やぶちゃん注:「刺さん」。蛇が「咬む」ことを「刺す」と称するのは、ごく一般的な表現である。]とするほどに、たちまちに、いのちを、とどめて候。」

と申《まうす》。

「げにも。さあると、みへて候。御身のいのちは、こよひのほどと、おぼしめせ。あけなば、いのちを、とられたまふべき。」[やぶちゃん注:最後は詠嘆の連体中止法。]

と、いへり。

 平次郎、大《おほい》に、おどろき、

「それは、何として、死ぬべき。」

と、いふ。

 客僧の、いはく、

「あまり、いたはしく候へば、御命《おいのち》を救ふて、まいらせん。」

と、いふ。

平次郎、

「それは。かたじけなし。」と云《いふ》。

「さあらば、『やど』へ、つき給へ。宿《やど》にて、事を行ひはんべらん[やぶちゃん注:ママ。]。」

と申せば、

「もつとも。」

とて、打《うち》ぐして、岩村の宿へぞ、付《つき》にける。

 やがて、きやく僧は、行ひをして、そのゝち、いふやうは、

「これの、汲みをく[やぶちゃん注:ママ。]水桶《みづをけ》を、たれ人《ぴと》も、いらひ給ふな。あした、あけて、底を見給へ。いさゝかも、こよひ、この水を、のみたまはゞ、たちまち、うせたまはん。」

と、いふほどに、

「かしこまる。」

とて、おきにける。

[やぶちゃん注:「行ひをして」ある修法(しゅほう)を執り行い。

「たれ人《ぴと》も、いらひ給ふな」「貴殿は勿論のこと、その外の人であろうと、誰(たれ)も、この水槽に触れたり、弄(もてあそ)んだりさせては、なりませぬぞ!」。]

 さて、夜あけて見ければ、水桶のそこに、へびのあたま、め[やぶちゃん注:「眼」。]を、見いだしながら[やぶちゃん注:眼球を飛び出させた状態で。]、しして、ゐたりけり。

「これは。さても、ふしぎなる事かな。」

と、いへば、きやく僧、

「さればこそ。昨日《きのふ》、御身のあゆみ給ふあとより、このくび、ひたもの[やぶちゃん注:副詞。「無暗に」。]、とひて[やぶちゃん注:「跡(と)ひて」。跡(あと)を追って。]、つけてゆくほどに、さてこそ、それがし、蹟ひしなり」といふほどに、「さてもふしぎなる事かな。御かげによりて、いのち、ひろひ申す。この水は、さだめて、どくすい[やぶちゃん注:「毒水」。]にて候はん。」

と、いへば、客さう、

「『をけ』ともに、谷へ、すて給へ。」

と、あるほどに、

「かしこまる。」

とて、ふかき「ふち」へぞ、ながしにける。

 かならず、「しう心[やぶちゃん注:ママ。「執心(しふしん)」。]」ふかき、「どくはみ」[やぶちゃん注:「毒蛇(どくはみ)」]なれば、かやうの事は、よく聞《きき》おくべき事なり。

 このあたま、はい[やぶちゃん注:ママ。「灰(はひ)」。]にやきて、ちらせしなり。

 おそろしき事どもなり。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 訶黎勒

 

Mirobarannoki

[やぶちゃん注:上部に種子三個体が描かれてある。]

 

かり ろく 訶子《かし》

 

訶黎勒

 

ヲヽリイレツ

 

本綱訶子生西域今嶺南皆有而廣州最盛樹似木槵而

花白子形似巵子橄欖青黃色皮肉相着七八月實熟時

收之以六路者爲佳六路者卽六稜也【或多或少者是𮦀路勒也】皆圓

[やぶちゃん注:「𮦀」は「雜」の異体字。]

而露文【或八路至十三路者號榔精勒濇不堪用】未熟時風飄墮者謂之

隨風子

嶺南風俗有佳客至則用新摘訶子五枚甘草一寸破之

水煎若新茶賞之今亦貴此湯然煎之不必盡如昔時之

法也

訶子【苦酸温】 止腸澼久泄赤白痢消痰下氣化食實大腸

 伹同烏梅五倍子用則收斂同橘皮厚朴用則下氣同

 人參用則能補肺治咳嗽【伹欬嗽未久者不可驟用之爾】

[やぶちゃん注:割注の「欬」は「咳」の異体字。]

 

   *

 

かり ろく 訶子《かし》

 

訶黎勒

 

ヲヽリイレツ

 

「本綱」に曰はく、『訶子《かし》は、西域に生《しやう》ず。今、嶺南、皆、有りて、廣州、最も盛《さかん》なり。樹、木槵(つぶのき)に似て、花、白し。子《み》≪の≫形、巵子(くちなし)・橄欖《かんらん》に似、青黃色。皮・肉、相《あひ》、着く。七、八月、實、熟する時、之れを、收《をさむ》。六路の者を以つて、佳なりと爲す。六路とは、卽ち、六つ稜(かど)なり【或いは、≪それより≫多き、或いは、少き者、是れ、「𮦀路勒《ざつろろく》」なり。】。皆、圓《まろ》くして、文《もん》を露はす【或いは、八路≪より≫十三路に至る者、「榔精勒《らうせいろく》」と號す。濇《しぶく》≪して≫、用ひるに堪へず。】。未だ熟せざる時、風に飄《ただよひ》て、墮《おつ》る者、之れを、「隨風子」と謂ふ。』≪と≫。

『嶺南の風俗に、「佳客、至ること有れば、則ち、新たに、『訶子』五枚を摘(むし)り、用ひ、「甘草」一寸≪とともに≫、之れを破りて、水≪にて≫煎じ、「新茶」のごとく、之れを賞(もてな)す。」≪と≫。今、亦、此の湯、貴《たふと》ぶ。然≪れども≫、之れを煎≪ずる法(はう)は≫、必≪ずしも≫盡《ことごと》く、昔時《せきじ》の法のごとくならざるなり。』≪と≫。

『訶子【苦、酸。温。】 腸澼《ちやうへき》・久泄《きうせつ》・赤白痢《せきはくり》を止め、痰《たん》を消し、氣を下《くだ》し、食を化《くわ》し、大腸を實《じつ》す。伹《ただし》、「烏梅《うばい》」・「五-倍-子《ふし》」と同じく用ひれば、則ち、收斂《しうれん》す。「橘皮《きつぴ》」・「厚朴《かうぼく》」と同じく用ふれば、則ち、氣を下す。「人參」と同じく用ふれば、則ち、能《よく》、肺を補して、咳-嗽《がいそう/せき》を治す【伹し、欬嗽《がいそう/せき》の、未だ、久しからざる者、之れを、驟《にはかにし》て用ふるべからざるのみ。】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「訶黎勒」「かりろく」「訶子《かし》」は、

双子葉植物綱フトモモ目シクンシ科 Combretaceae(中文名「使君子」)モモタマナ属ミロバランノキ(英語:myrobalan/中文名:「訶子」) Terminalia chebula 、及び、その果実と、その生薬名

を指す。「維基百科」の「訶子」(画像もある)を見ると、『元来はアラビア語』(ラテン文字転写)『Halilehで、この語は「本草綱目」の解釈に拠れば、サンスクリット語で「天主が持ち来れるもの」の意である』というようなことが書いてあるようだ。分布は、『ベトナム・ラオス・カンボジア・タイ・ミャンマー・マレーシア・ネパール・インド、及び中国の雲南省に分布する。標高八百~千八百四十メートルの高地の疎林に植生する』とあり、『高さ三十メートルになり、灰黒色から灰色の樹皮を持ち、葉は互生、又は、ほぼ対生で、楕円形から長楕円形を成し、腋窩又は末端に穂状花序があり、円錐花序を形成することもある。硬い核果は、卵形、或いは、楕円形を成し、青色で、無毛。成熟すると、濃い茶色に変わる。開花期は五月、結実期は七月~九月』とある。而して、この実は、『一般的に使用される漢方薬、及び、チベットの生薬剤であり、腸を収斂させ、肺を引き締め、咳を和らげる効果があり、一般的に使用される処方としては、「有真人養臟湯」等などがある』とする。なお、変種の微毛訶子 Terminalia chebula var. tomentella が、『ミャンマーと雲南省に分布する』ともあるので、これも比定種に入れる必要がある。因みに、日本語の同種のウィキは存在しない。しっかりした邦文のページは、「国際農林水産業研究センター JIRCAS)」公式サイト内の「タイ地域野菜データベース」の「Terminalia chebula Retz. (Combretaceae)」のページであろう。それによれば(以下はタイでの個体群の総説であることに注意)、『中型、高さは最大』二十五メートル、『見た目が様々な落葉樹』で、『幹は通常は短く』、『円筒形、長さ』五~十メートル。『樹冠は円形、枝は広がる。樹皮は通常は縦方向の亀裂が生じており、木質の鱗片を持つ。小枝は錆色の絨毛またはほぼ無毛』。葉は『互生葉または対生葉、単葉、薄く』、『革質、卵形または楕円状倒卵形、』七~十二センチメートル『×』四~六・五センチメートル、『基部は円形、葉先は鈍形からやや鋭形、全縁、葉裏は短毛。葉柄の長さは最大』二センチメートル、『葉身の基部に腺が』二『本』ある。花序は『穂状花序が腋生』し、『長さ』五~七センチメートル、『単一花序または稀に穂状円錐花序』。花は『直径約』四ミリメートル、『黄色がかった白色』で、『不快な匂いを放つ』。萼は五裂し、花冠は『なし』。雄蕊は十本で、『伸び出ている』。子房は『下位』にあり、一『室』のみ。果実は、『倒卵形または長楕円状楕円形の核果』で、『長さ』は二・五~五センチメートルで、『大よそ』五『角形』を成す。『成熟すると』、『黄色からオレンジ色がかった褐色』に変じ、『無毛』とある。伝統薬の薬効としては、『喉の痛み, 腎機能低下』の改善が挙げられ、「機能性」の項には、『抗酸化活性』・『肝保護作用』・『神経保護作用』・癌『細胞株に対する細胞毒性』・『抗糖尿病活性』・『抗炎症作用』とある。『機能性成分』は『フラボノイド』・『タンニン』・『フェノール酸』とする。以下、『標高千五百メートル『までの落葉混交林に分布』し、『粘土質から砂質まで』、『様々な土壌で育つ。種子播種により繁殖する。種子休眠は核(stone)を長時間発酵させるか、または胚を損傷させることなく核の広がった端部を切り取り、その後』、『冷水に』三十六『時間さらすことで打』ち『破』ることが『できる。果実は雨期の終わりに収穫される』。『鮮な果実は生で、または保存食として「サモー チェー イム(果実のシロップ漬け)」に利用される。乾燥した果肉に含まれるタンニンの量は平均して』三十~三十二『%である』とあった。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「訶黎勒」(ガイド・ナンバー[086-18a]以下)からのパッチワークである。

「西域に生ず」東洋文庫の後注で、『訶子は南方の植物である。『新註校定国訳本草綱目』(春陽堂)の木島正夫氏の注によれば、「その產地は中國南部、ベトナム、タイ、ラオス、ビルマ、インドなど南方地域であり……」とある。すれば』、『ここの西域に産するは』、『誤りであろう。『本草綱目』の訶黎勒の項にも西域の文字はない。伝写の際の誤りであろうか。』と述べておられる。

「木槵(つぶのき)」双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ Sapindus mukorossi 先行する「無患子」を参照。

「巵子(くちなし)」リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides の異名漢字表記。その強い芳香は邪気を除けるともされ、庭の鬼門方向に植えるとよいともされ、「くちなし」は「祟りなし」の語呂を連想をさせるからとも言う。真言密教系の修法では、供物として捧げる「五木」(梔子・木犀・松・梅花・榧(かや:裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera )の五種の一つ。

「橄欖《かんらん》」ムクロジ目カンラン科カンラン属 カンラン  Canarium album ウィキの「カンラン科」によれば、『インドシナの原産で、江戸時代に日本に渡来し、種子島などで栽培され、果実を生食に、また、タネも食用にしたり油を搾ったりする。それらの利用法がオリーブ』(シソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea )『に似ているため、オリーブのことを漢字で「橄欖」と当てることがあるが、全く別科の植物である。これは幕末に同じものだと間違って認識され、誤訳が定着してしまったものである』とある。

「嶺南」中国の南部の南嶺山脈(「五嶺」)よりも南の地方を指す古くからの広域地方名。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当する。部分的に「華南」と重なっている。地方域は参照したウィキの「嶺南(中国)」にある地図を見られたい。

「甘草」マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza当該ウィキによれば、『漢方薬に広範囲にわたって用いられる生薬であり、日本国内で発売されている漢方薬の約』七『割に用いられている』とある。

「腸澼《ちやうへき》」東洋文庫の割注に『不節制による腹痛下痢』とある。

「久泄《きうせつ》」同前で『慢性下痢』とある。

「赤白痢《せきはくり》」前項「没石子」の最終注参照。

「烏梅《うばい》」東洋文庫の割注に『半熟の梅の実を採り』、『煙で黒くいぶしたもの』とある。

「五-倍-子《ふし》」東洋文庫の後注で、『塩麩子(ぬるで)の木の葉に寄生した細虫が、中に入ってつくった小毬(虫部卵生類參照のこと)。』とある。「塩麩子(ぬるで)」はムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis である。私は既に「和漢三才圖會」の「蟲部」は、ブログのこちらで、総て、電子化注してある。従って、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 五倍子 附 百藥煎」を参照されたい。

「橘皮《きつぴ》」(キッピ)は、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana や、ミカン属ウンシュウミカン Citrus unshiu などの成熟果実の果皮を乾燥したもので、漢方では、理気・健脾・化痰の効能があり、消化不良による腹の張りや、吐き気、痰多くして胸が苦しい際に用いられる。

「厚朴《かうぼく》」時珍の言うそれは、モチノキ(黐の木)目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis である。これに同定比定した私の考証は、先行する「厚朴」の冒頭注を、必ず、参照されたい。

「人參」言わずもがなであるが、所謂、「朝鮮人蔘」(ちょうせんにんじん)、標準和名は「御種人蔘」(おたねにんじん)、セリ目ウコギ(五加木)科トチバニンジン(栃葉人参)属オタネニンジン Panax ginseng である。]

2024/07/13

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 没石子

 

Motusekisi

[やぶちゃん注:上部に、虫瘤(むしこぶ:後注参照)が、三個体、描かれてある。]

 

もしくし   無食子

       黑石子

没石子    麻荼澤

 

モツ シツ ツウ

 

本綱没石子生波斯及大食國呼稱摩澤樹樹髙六七𠀋

圍八九尺葉似桃而長三月開花白色心微紅子圓如彈

丸初青熟乃黃白蟲蝕成孔其樹一年生拔屢子大如指

長三寸上有叚中仁如栗黃可敢次年則生無食子間年

[やぶちゃん注:「叚」は「本草綱目」では(「漢籍リポジトリ」のこちらの「無食子」の項の「集解」の一節。ガイド・ナンバー[086-17a]の七行目後半を見よ)、「股」である。東洋文庫訳では、『段』として右傍注でママ注記を打ち、割注で『(段)』とする。「叚」では意味がとれないので、「股」で訓読する。

互生也異產如此大明一統志云出三佛齋國没石子樹

如樟開花結實如中國茅栗

子【苦温】治赤白痢益血和氣安神烏髭髮凡合他藥染鬚

 造墨家亦用之【凡使勿犯銅鐵並被火驚】

 

   *

 

もしくし   無食子《むしよくし》

       黑石子《こくせきし》

没石子    麻荼澤《まとたく》

 

モツ シツ ツウ

 

「本綱」に曰はく、『没石子《もつせきし》[やぶちゃん注:私は標題にある「もしくし」という読みをここで使用することに激しい違和感がある。この読みは、恐らく「没石子」の「没」に、異名の「無食子」の「食子」を繋げた「没食子(もつしよくし)」の音を、「もっしょく」に転じ、その音の中の「促音」と「拗音」をカットした縮約であろうと考えているからである。則ち、この「没石子」の読みとしては、正しくないと考えるからである。実際に、ネットで手に入れた、本邦の信頼出来る漢方の方剤で採録している漢字と読み方の一覧表でも、「没石子丸」は「モツセキシガン」と読まれているからである。但し、注で示すが、漢方での名前は「ショクモクシ」(植物名ではなく、ブナ科ナラ属の若枝のつけ根に蜂の一種が寄生して生じた虫瘤(むしこぶ)を乾燥したもの)ではある。だからと言って、当時の日本の本草家や医師が、この漢字文字列で、普通に「シヨクモクシ」と読んでいたというのは、何となく嘘臭いとしか思えないからである。]波斯(パルシヤ)[やぶちゃん注:ペルシャ。]、及び、大食國(だしよくこく)[やぶちゃん注:アラビアやトルコ等のイスラム教徒の国家群。]に生《しやう》ず。呼びて、「摩澤樹《またくじゆ》」と稱す、樹の髙さ、六、七𠀋、圍《めぐり》、八、九尺。葉、桃に似て、長し。三月、花を開き、白色≪なり≫。心《しん》≪は≫、微《やや》紅≪なり≫。子《たね》、圓《まろく》して、彈丸のごとし。初め、青く、熟せば、乃《すなはち》、黃白≪たり≫。蟲、蝕《むしばみ》、孔《あな》を成《な》≪せり≫。其の樹、一年は、「拔屢子《ばつるし》」を生ず。大いさ、指のごとく、長さ、三寸。上に股、有り、中の仁《たね》、栗のごとく黃にして、敢《く》ふべし。次の年は、則ち、「無食子」を生ず。年を間(へだ)て≪て≫、互《たがひ》に生ず。≪「拔屢子《ばつるし》」と「無食子」と、≫異產《いさん》≪すること≫、此くのごとし。「大明一統志」に云はく、『三佛齋(さぶさい)國に出づる。没石子の樹、樟(くす)のごとく、花を開き、實を結ぶ。中國の茅-栗(しばぐり)のごとし。』≪と≫。

『子《み》【苦、温、】赤白痢《せきはくり》を治す。血を益し、氣を和《なごま》せ、神《しん》[やぶちゃん注:「神經」。]を安《やすんじ》、髭《ひげ》・髮《かみ》を烏《くろ》くす。凡そ、他藥と合《あはせ》、鬚《ひげ》を染《そ》む。造-墨-家(すみや)にも、亦、之れを用ふ【凡そ、使ふに、勿銅鐵≪にて≫犯し、並びに、火に驚かせること、勿《な》かれ。】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、解説本文の中で、『没石子(ブナ科モッショクシ)』としてあるが、ブナ科に和名「モッショクシ」などという種は存在しないから、この割注はアウトである。既に割注で述べた如く、これは、諸辞書を総合すると、「もっしょくし」「ぼっしょくし」と読み、「食べられない果実」の意であって、植物名ではなく、

小アジア産のブナ目ブナ科ブナ属 Fagus ・同ブナ科 Fagaceaeのコナラ亜科コナラ属コナラ属 Quercusのカシ類・同コナラ属コナラ亜属 Quercus の内で落葉性の広葉樹の総称であるナラ類の若枝に、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目タマバチ上科タマバチ科タマバチ属のタイプ種であるインクタマバチ Cynips gallaetinctoriae が、産卵の際、刺すことによって生ずる虫癭(ちゅうえい:虫瘤)

を指す漢語であり、直径は約二センチメートルセンチほどの球状を呈し、タンニン酸やインクの原料となる

とあった。遂に「和漢三才圖會」の木本類の項目に植物ではないものが、登場した最初である。しかし、まあ、個人ブログらしい「iroai.jp」の「染色における没食子(もっしょくし)」――ドン!――と掲げられている四つの巨大な実と見紛う画像(「Wikimedia Commons」のもの)を見るなら、こりゃ、何かの樹の実だと思うことは、止むを得ないとは思うね。ご覧あれ。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「無食子(ガイド・ナンバー[086-17a]以下)からのパッチワークである。

「大明一統志」複数回既出既注だが、再掲すると、明の全域と朝貢国について記述した地理書。全九十巻。李賢らの奉勅撰。明代の地理書には先の一四五六年に陳循らが編纂した「寰宇(かんう)通志」があったが、天順帝は命じて重編させ、一四六一年に本書が完成した。但し、記載は、必ずしも正確でなく、誤りも多い。「維基文庫」の同書の「卷九」の「三佛国【在占城国南五日程其朝自广以达于京を見ると、「土産」の項に(表記に手を加えた)、

   *

没石子【樹如樟开花結實如中国茅栗】

   *

とあった。「茅-栗(しばぐり)」はブナ目ブナ科クリ属モーパングリ Castanea seguinii のことである。「維基百科」の「茅栗」によれば、『別名を「野栗子」(江蘇省・浙江省)、「毛栗」(南京・湖南省)、「毛板栗」(湖北省)としても知られ、中国の固有種である。中国本土の武陵山脈南斜面以北から大別山脈以南に広く分布し、標高四百メートルから二千メートルの丘陵地や山腹の低木に植生する』とある。

「赤白痢《せきはくり》」東洋文庫の後注に、『温熱の毒のため、腸内に気が滞り、また腸壁が傷つけられ、ときには白く、ときには赤い血』に『膿のまじった下痢をする症』状とある。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十四 ねずみのふくを取報來り死事 / 「善惡報はなし」正規表現オリジナル注~了

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。本篇は、第二参考底本は最初の四行分のみが視認出来る他は、それ以降は下部が大幅に破損してしまっているため、第一参考底本を参考に電子化するしかなかった。なお、本篇を以って、「善惡報はなし」は終っている。]

 

 㐧十四 ねずみのふくを取《とり》、報(むくい)來り、死(しぬる)事

〇都とうじの邊(へん)にて、さる農人(のうにん)、はたを、うちけるに、土手(どて)より、ねずみ、一つ、出《いで》て、錢(ぜに)を一文(《いち》もん)、をきて[やぶちゃん注:ママ。「置きて」。以下同じ。]、もとのあなへ、かへりぬ。

 其次(《その》つぎ)に、また、一つ、出て、みぎのごとく、錢を、をきて、かへりぬ。

 䑕(ねづみ)、五、六十も出《いで》て、次㐧次㐧《しだいしだい》、ならぶる。

 此男、ふしぎに思ひ、見る所に、

「ひた」

と持《もち》て出《いづ》る。

『いかさま、とらばや。』

と、おもひ、やがて、かきよせ、皆、取《とり》てけり。

 又、ねずみ、出《いで》て、錢の、なき事を、ふしぎさうにして、かへり、一つのねずみ、ちいさき「つぼ」を、一つ、くわへ[やぶちゃん注:ママ。「啣(くは)へ」。]出《いで》て、をのれと[やぶちゃん注:ママ。]、手を、「つぼ」の中へ、さし入《いれ》て、かへる。

 次㐧次㐧[やぶちゃん注:後半は原書では、踊り字「〱」。]、出《いで》て、手をさし入て、かへる。

 此男、つくづく、みて、

『ふしぎをする事かな。』

と、おもひ、

『いか成《なる》事か、しつらん。』

と、おもひ、をのが[やぶちゃん注:ママ。]手を、さし入てみるに、別の事なく、それより、家に、かへりしが、其ゆび、何(どこ)ともなく、次㐧に、くさり入《いり》て、四、五日の中《うち》に、手くびより、くさり、おちけり。

 家(か)しよく、ならずして、後には、乞食と也《なり》[やぶちゃん注:漢字はママ。]、終《つひ》に、としへて、かつゑ、死《しに》けり。

「扨《さて》は。鼠の『むくひ』なり。」

と、人、口〻《くちぐち》に、いひあへり。

                 萬屋庄兵衞【開板】

[やぶちゃん注:最後の「【開板】」は二行割注で、第一参考底本では、右から左に横書になっており、全体が、下二字上げインデントである。

「家(か)しよく」「家職」(=家業:この場合は農耕)を考えるが、私は「稼穡」(穀物を植えることと収穫すること。 則ち、農業)の方が、しっくりくるように感じられた。本書では、漢字の当て字も稀にあり、多くの漢字とすべき部分が、読者の便を考えて、ひらがなにしてある箇所が甚だ多いから、「稼穡」でもよいと考えている。

 なお、第一参考底本の吉田幸一氏の巻末の本書の解題のここ(右ページ)によれば、本書が『諸国咄的怪異小説であ』り、ロケーションは、東は『常陸、下総、下野』、北陸は『能登、佐渡』、西は『備州、石見、九州の筑後にまで及んでゐる』ことから、不詳の作者について、『仏教的な因果応報譚であることゝ併せて、諸国』『遍歴の経験をもつた僧侶の著述であらう』と推定され、『各はなしは聞書の形式をとり、その敍述の方法といひ、内容といひ』、『正三』(しょうさん)『道人の聞書たる「因果物語」と似てゐる。或ひは』(ママ)『「因果物語」を模した作品と言つても過言でないと思ふ』と述べておられることを附記しておく。因みに、そこで吉田氏が示された、鈴木正三「因果物語」は、片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版を底本として、このブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で、既に二〇二二年十月に全電子化注を終えているので、未読の方は、どうぞ。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十三 同行六人ゆどの山ぜんじやうの事幷内一人犬と成事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の「ぜんじやう」(「禪定(せんぢやう)」:ここは、「修験道に於いて、白山・立山などの高い霊山に登って行う修行」を指す)はママ。]

 

 㐧十三 同行(どうぎやう)六人、ゆどの山(さん)、ぜんじやうの事幷《ならびに》内《うち》、一人、犬と成《なる》事

○寬文元年[やぶちゃん注:一六六一年。]の事成《なる》に、「あふみ」のもの、三人、丹波(たんば)のもの、二人、「かわち」のもの、一人、以上、六人、同道(どうだう)にて、ゆどの山へ、あがりける。

[やぶちゃん注:「ゆどの山」湯殿山。現在の山形県鶴岡市、及び、同県西村山郡西川町にある、標高千五百メートルの山。月山・羽黒山とともに「出羽三山」の一つとして修験道の霊場である。ここ(国土地理院図。「出羽三山」を南北(南に湯殿山と月山、北に羽黒山)に入れた)。]

 元來(もとより)、「れいげん」あらたなる[やぶちゃん注:「あらたかなる」に同じ。]山なれば、いづれも淸淨(しやうじやう)けつさい[やぶちゃん注:「潔齋」。]なり。

 いづれも、をよそ[やぶちゃん注:ママ。]、坂(さか)、過半(かはん)あがると、おぼしき内に、江州(がうしう)のものゝうち、一人、かつて、見えず。

 をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、ふしぎの思ひを、なしける所に、いづくともなく、白き犬、一つ、來りて、さきだつて、ゆく。

 何《いづ》れも、山を、めぐるに、此犬も、ともにはなれずして、

「ひた」

と、付《つき》まとひて、行く。

 扨《さて》、「大日御はうぜん」[やぶちゃん注:湯殿山の別当寺であった両部大日如来を祀った湯殿山大日坊。明治になって、おぞましき廃仏毀釈の結果、湯殿山は没収され、さらに焼き討ちで焼失、昭和一一(一九三六)年に規模を縮小して移転している。その現在地の東南東直近の、この第十二代景行天皇の皇子であった御諸別皇子(みもろわけのおうじ)の陵墓に植えた県指定天然記念物の樹齢千八百年の老杉「皇壇(おうだん)の杉」(グーグル・マップ・データ)のある位置にあった。]に參りて、それより下向(げかう)しけるにも、かの犬、離れず。

 いづれも、一人、見えざる事を、いよいよ、ふしぎにおもふ所に、くだんの犬、人の、物いふごとく、いひて、

「かたがたは、一人、見えざる事を、『ふしん』し給ふ事、もつとも也。其《その》見えざるは、我《われ》也。はづかしながらかたり參らせん。我、親に不孝の『つみ』、あり。其《その》『いしゆ』[やぶちゃん注:「意趣」。]は、親、ぞんしやう[やぶちゃん注:「存生」。]の時、さまざまの『なんぎ』[やぶちゃん注:「難儀」。]にあはする事、たびたびなり。されば、いつしやう[やぶちゃん注:「一生」。]の内、一日もやすからしめず。よろづにさからひ、こゝろに、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、親とおもふ事も、なく、ある時はあつかう[やぶちゃん注:「惡口」。]し、『いつまで、ながらへありけるぞ、はやくさり給へかし。』と、おもひ、かくのごとくの『ねんりよ』[やぶちゃん注:「念慮」。]、ふかくして、其むくひによりて、今、此《この》山にて、犬と、なりたり。我身の事は、身よりいだせる『とが』[やぶちゃん注:「咎」。]なれば、せんかた、なし。されども、心にかかる事は、故鄕(こきやう)にありつる妻子(さいし)の、なげかん事、ふびんに候。『われは、業力(ごうりき[やぶちゃん注:ママ。])の犬となりて、山に、ひとり、とゞまる也。我《わが》あと、ねんごろに、とふて、くれよ。』と、かたりて、たべ。なごり、おしく[やぶちゃん注:ママ。]候。」

と云ひて、きなるなみだ[やぶちゃん注:「黃なる淚」。嘆き悲しんで流す涙。多く、獣の涙に言う語で、既に南北朝期の「太平記」に用例がある。]を、

「はらはら」

と流して、猶、山深く、入《いり》にける。

 いづれも、あはれにおもひ、皆、なみだをぞ、ながしける。じせつ[やぶちゃん注:「時節」。その時の彼の境涯の有様。]とは申《まうし》ながら、こきやうにて、「いぬ」ともならずして、此の山に詣でて、「いぬ」となりける事こそ、ふしぎなれ。

 さればこそ、「しやうじやうけんご」の御山へ、不孝(ふかう)むざん[やぶちゃん注:「無慚」。]のともがらが、さんげ[やぶちゃん注:「懺悔」。]の心もなき身として、「ぜんぢやう」するこそ、もつたいなし。かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、世の、みせしめに、やがて、むくひの犬と、なさしめ給ふ。

 あさましき次㐧ならずや。をそるべし、をそるべし[やぶちゃん注:ママ。後半は原本では踊り字「〱」。]。

 此のはなし、少しも、僞(いつは)りなき、よし。

[やぶちゃん注:この一篇、ロケーションもさりながら、私は、最後の道話を除いて、モノクロームの強いリアルな映像を見るような、静謐乍ら、強い印象を与える傑作と思う。個人的には、これが全話柄の内の白眉と言えると感じた。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十二 わきざし衣類をはぎ取うりあらはれ死罪にあふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の読み「いるい」はママ。]

 

 㐧十二 わきざし・衣類(いるい)をはぎ取《とり》、うり、あらはれ、死罪(しざい)に、あふ事

○三河の人、遠江(とをとをみ)へ、ゆきけり。

 兩国(りやうごく)のさかい[やぶちゃん注:ママ。]にて、ある「ばかもの」ありて、此男を、をし[やぶちゃん注:ママ。]ふせて、きる物[やぶちゃん注:「着る物」。]・「わきざし」まで、はぎ取て、すぐに、三河へゆき、さる「ふるてや」[やぶちゃん注:「古手屋」。古着や古道具を売買する店。]へ、はいりて、此二《ふた》いろを、うりけり。

 亭主、出合《いであひ》、きる物・わきざしを見て、

『是は。まさしく、我子の「わきざし」・きる物なり。さては。かれが、はぎ取《とり》て、きたるらん。』

と、おもひ、

「其方は、いか成《なる》人にて、いづくへ、とをり[やぶちゃん注:ママ。]給ふ。」

と、とへば、

「それがしは、是より、はるか、をんごくのものにて候が、國本(くにもと)へ、かへるべき「ろせん」[やぶちゃん注:「路錢」。]に、さしつまり、是を、うる也。」

と、こたへける。

 ていしゆ、きゝて、

「もつとも。さも、あるらん。かふて参らせん。きる物の事は、べちに、めきゝも、いらず候。わきざしは、我ら、ぞんぜぬ事なれば、人に見せて、其後、きわめ申さん。是に、しばらく待《まち》給へ。」

とて、さけを、いだし、すゝめなどし、すかさゞるやうに、もてなし、扨《さて》、亭主は、となりへ、ゆき、

「しかじかの事あり。」

と、かたれば、

「さらば。」

とて、何《いづ》れも「ちゐん」かた[やぶちゃん注:ママ。「知音(ちいん)方」。]、彼是(かれこれ)、四、五人ばかり、來りて、まづ、此ものを、かこみをき[やぶちゃん注:ママ。]て、さまざま、せんぎしけるに、此もの、

「しさい、なき。」

よしを、たつて、あらそひける。

「さらば。」

とて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、奉行所ヘ、うつたヘける。

 奉行所にて、いろいろ、がうもん[やぶちゃん注:「拷問」。]にあひ、やがて、白狀しける。

「さては。僞(いつは)りもなき、とがにん也。」

とて、其まゝ、死罪に、おこなはれける。

 かやうなるむくひは、世に、おほき事也。其衣類・わきざし、他所へも持(もち)てゆかずして、なんぞや、其ぬしのもとへ、持参する事は、是、いふばかりなき天罸なり。をそるべし、をそるべし[やぶちゃん注:ママ。原本は後半は踊り字「〱」。]。

 是は、「とをとをみ」の人の、はなし也。

[やぶちゃん注:本文には、書かれていないが、古手屋の主人の子の安否が記されておらず、主人も、生存を頼みとするなら、奉行所に突き出す前に、それをこそ、糺すであろうに、それが行われておらず、奉行所も詮議一決で死罪としているところから、この息子は殺されているものと推測される。本書は、全体に、そうした肝心のリアルな人情・感情表現の部分に、欠落があるものが、先行する話に於いても、かなり目立つ。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十一 妄㚑とくみあふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

  㐧十一 妄㚑(まうれい)と、くみあふ事

○近年(きんねん)、「あふみ」在所(ざいしよ)、其人の名も失念しける。

 邪見のものにて、其さとのものどもは、いふに及(およば)ず、りんがう[やぶちゃん注:「隣鄕」。]のものまでも、にくみそねむ下人に、左介と申《まうす》もの、あり。

 四、五才の比より、飼(かい[やぶちゃん注:ママ。主家(恐らく先代の主人だろう)が養っていたことを言う。])をきたるものなり。

 ある時、此佐助、すこしの、あやまりあるを、主人、ふくりう[やぶちゃん注:「腹立」。]のあまりに、まくらを、もつて、なげうちけるに、あたるとひとしく、聲をも、たでず、死(しに)けり。

[やぶちゃん注:「まくら」。状況から見て、完全な「木枕」であろう。籾殻などを布で包んだ円筒状のものを木製の台の上に乗せたものもあるが、基部のそれは、固い安定の良い相応の大きさの木材で出来ていたから、直近から投げ、頭部を直撃すれば、打ち所によっては、死んでも、おかしくはない。]

 其後、此下人、口おしく[やぶちゃん注:ママ。]や、おもひけん、よなよな、來(きたつ)て、せむる事、たへがたし。

 主人、あまり、「めいわく」し、いろいろ、「きたう」し、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、「やふだ」[やぶちゃん注:「屋札」。岩波文庫の高田氏の脚注に、『戸口や窓にはる御符』とある。]を、をし[やぶちゃん注:ママ。「貼(お)し」。]けるに、是に、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]てや、四、五日も、來らず。

 ある夜、用ありて、うらへ、出《いで》ければ、何ともしれず、うしろより、

「ひた」

と、だく[やぶちゃん注:「抱く」。]。

「あつ。」

と、おもひ、ふりかへりて、引《ひつ》くみ、

「どう」

と、おちて、其まゝ、絕入(たへいり[やぶちゃん注:ママ。])けり。

 下部のものが、此おとを聞《きき》て、やがて、火をたてゝ、見ければ、主人、石を、一つ、いだきて、ふしける。

「こは、いか成《なる》ありさまや。」

と、ひきたて見ければ、息、たへけり[やぶちゃん注:古典では、先の「絕入(たえいる)」ともに、まず、気絶・失神止まりの様態を指す。ここも、それ。]。

 をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、おどろき、いしやを、よび、さまざましければ、やうやう、いき、つきけり。

 其後、六十日ほどして、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]死(しに)けり。

「さては。左助が妄㚑、きたりて、とりころしける。」

と、人、くちぐちに、いひて、のしりけり。

 此はなしは、寬文四年の事也。

[やぶちゃん注:「寬文四年」閏五月があったので、グレゴリオ暦で一六六四年一月二十八日から一六六五年二月十四日まで。]

2024/07/12

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十一 妄㚑とくみあふ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

  第十一 妄㚑(まうれい)とくみあふ事

○近年(きんねん)、「あふみ」在所(ざいしよ)、其人の名も失念しける。

 邪見のものにて、其さとのものどもは、いふに及(およば)ず、りんがう[やぶちゃん注:「隣鄕」。]のものまでも、にくみそねむ下人に、左介と申《まうす》もの、あり。

 四、五才の比より、飼(かい[やぶちゃん注:ママ。主人が養っていたことを言う。])をきたるものなり。

 ある時、此佐助、すこしの、あやまりあるを、主人、ふくりう[やぶちゃん注:「腹立」。]のあまりに、まくらを、もつて、なげうちけるに、あたるとひとしく、聲をも、たでず、死(しに)けり。

[やぶちゃん注:「まくら」。状況から見て、完全な「木枕」であろう。籾殻などを布で包んだ円筒状のものを木製の台の上に乗せたものもあるが、基部のそれは、固い安定の良い相応の大きさの木材で出来ていたから、直近から投げ、頭部を直撃すれば、打ち所によっては、死んでも、おかしくはない。]

 其後、此下人、口おしく[やぶちゃん注:ママ。]や、おもひけん、よなよな、來(きたつ)て、せむる事、たへがたし。

 主人、あまり、めいわくし、いろいろ、「きたう」し、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、「やふだ」[やぶちゃん注:「屋札」。岩波文庫の高田氏の脚注に、『戸口や窓にはる御符』とある。]を、をし[やぶちゃん注:ママ。「貼(お)し」。]けるに、是に、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]てや、四、五日も、來らず。

 ある夜、用ありて、うらへ、出《いで》ければ、何ともしれず、うしろより、

「ひた」

と、だく[やぶちゃん注:「抱く」。]。

「あつ。」

と、おもひ、ふりかへりて、引《ひつ》くみ、

「どう」

と、おちて、其まゝ、絕入(たへいり[やぶちゃん注:ママ。])けり。

 下部のものが、此おとを聞《きき》て、やがて、火をたてゝ、見ければ、主人、石を、一つ、いだきて、ふしける。

「こは、いか成《なる》ありさまや。」

と、ひきたて見ければ、息、たへけり[やぶちゃん注:古典では、まず、気絶・失神止まりの様態を指す。ここも、それ]。

 をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、おどろき、いしやを、よび、さまざましければ、やうやう、いき、つきけり。

 其後、六十日ほどして、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]死(しに)けり。

「さては。左助が妄㚑、きたりて、とりころしける。」

と、人、くちぐちに、いひて、のしりけり。

 此はなしは、寬文四年の事也。

[やぶちゃん注:「寬文四年」閏五月があったので、グレゴリオ暦で一六六四年一月二十八日から一六六五年二月十四日まで。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十 いせ參宮の者をはぎ天罸の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧十 いせ參宮の者をはぎ天罸の事

○明曆[やぶちゃん注:一六五五年~一六五八年。]の比、「はりま」の「ひめぢ」より、十四、五成《なり》むすめ、しのびて、たゞ一人、さんぐうしけるが、ちいさき「かねぶくろ」を、とりいだして、みちすがら、ひた物、ぜにを、かいける。

[やぶちゃん注:『明曆の比、「はりま」の「ひめぢ」より、十四、五成《なり》むすめ、しのびて、たゞ一人、さんぐうしける』これは「抜け参り」と呼ばれるものである。後には、「御蔭参り」と呼ばれるようになった、幕末の「ええじゃないか」と同じ、一種の集団ヒステリーとまでは言えないが、爆発的な多数の人間が、主家や親に断りを入れずに、伊勢参宮をするという、宗教的な突発的信仰行動である。梗概はウィキの「お蔭参り」が読み易いが、私は『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「松坂友人書中御陰參りの事」』以下で、詳細に記しているので、ご存知ない向きは、是非、読まれたい。後には、犬や豚が単独で参詣するという、驚くべき事実もあったのである。私の「譚海 卷之八 房州の犬伊勢參宮の事」や、「耳囊 卷之九 奇豕の事」を見られたい。

「かいける」「掛(懸)く」(「かい」は「かき」のイ音便ととる)には、「複数のものを数えて加える」の意があるから、「数えていた」という意であろう。]

 「つち山の九郞次郞」といふもの、京都へのぼり、下りに、「みなくち」の邊(へん)にて、此むすめの、かねぶくろを見て、[やぶちゃん注:「つち山」後の文で判るが、地名で、現在の滋賀県甲賀市土山地区である。以下の水口の南西方の広域である。「みなくち」現在の滋賀県甲賀市水口町(みなくちちょう:孰れもグーグル・マップ・データ)。]

『何とぞして、とらん。』

と、おもふ心、付て、それより、道づれに成《なり》て、わらんべの事なれば、みちすがら、さまざまの事を、いひをどし、すかしなどして、ゆくほどに、我家、ちかく成《など》ほどにて、此男、申やう、

「こなたは、わらんべ一人の事なれば、むさとしたる宿(やど)にとまり給はゞ、かならず、はがれ[やぶちゃん注:所謂、「身包み剥がれる」ことを指す。]給はん。さなくば、ころして、其かねを、とるべし。我、みちづれしたるこそ、さいはい[やぶちゃん注:ママ。]なれ。つち山にては、我らが所に、御やどめされ候へ。余人(よじん)に宿をかり給はゞ、心もとなく候。」

と、

「ひた」

と、をどし[やぶちゃん注:ママ。]て、つゐに、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]が家に、とまらせけり。

 扨《さて》、かれ[やぶちゃん注:娘。]がもちけるかねを、うかゞひ、よく、ねいりたる時分に、さがし出し、とりて、わづか、ぜに、一貫ばかりのあたい程、のこしをけ[やぶちゃん注:ママ。]り。

[やぶちゃん注:「ぜに、一貫」正規には一貫は銭一千文であるが、江戸時代には、実際には九百六十文が一貫とされた。現在の二千四百円程度に当たる。]

 むすめ、よあけ、おきて、かねぶくろを、みれば かね、わづかあり。

『こは、いかゞ。』

と、おもひ、ていしゆにむかひ、

「しかぐかの事候。こよい[やぶちゃん注:ママ。]の事なれば、よも、よそへは、ゆかじ。わづかのこり候やう、ふしぎにおぼえ候。何と候や。」

「此方には、しらず候。もし、みちにても、おとし、給はぬか。よく、おぼえ給へ。」

と、いへば、此むすめ、さめざめと、なきくどきけるは、

「うらめしの事かな。此かねなくしては、さんぐうする事、ならず。又、國本《くにもと》へ、かへらん事も成《なる》まじければ、とやせん、かくや、」

と、あんじ、

「何とぞして、此かねの、出るやうにして、給はれ。」

と、なき、くどきければ、亭主、大きに、いかつて、いふやう、

「なんぢがかねのなき事を、我、しるべきやう、なし。はやはや、いでされ。」

と、大(だい)のまなこを、いからして、おどしければ、此いきをい[やぶちゃん注:ママ。]に、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]、なくなく、そこを、たち出《いで》てけり。

[やぶちゃん注:以上の経緯を見るに、この宿の主人は、確かに「つち山の九郞次郞」の親族か姻族の経営になるものであり、しかも、この主人もまた、「つち山の九郞次郞」の同じ穴の貉、「グル」であることが判明するのである。]

[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ、第二参考底本はここ。]

 其後、此男、大ぶんのかねを、ぬすみ取《とり》て、是を、もとでとして、「あふみ」の「かづら河《がは》」へ、ゆき、大ぢしんにあふ[やぶちゃん注:ママ。]て、山ぞこへ、うちうめられて、古鄕(こきやう)へ、また二度(《ふた》たび)とも、かへらざりける。

 あらた成《なる》かな[やぶちゃん注:霊験あらたかなる。]太神宮(だいじんぐう)へ、さんけいするものゝ、ろせん[やぶちゃん注:「路錢」。]を、ぬすみし天ばつにて、おもひよらざる、かつら河の山下のつちとぞ、なりにけり。

 古(いにしへ)、今(いま)に、いたるまで、參宮者の物を、盗(ぬすみ)、ばつをうるもの、おほし。

 をそれ[やぶちゃん注:ママ。]、つゝしむべき事也。

 是は、これ、ひとゝせ、道中にて、もつぱら、人ごとに、いひあへり。

[やぶちゃん注:『「あふみ」の「かづら河《がは》」』近江と言っているので、原文の「かつら河」は「葛川」と採れる。琵琶湖の西岸の、この滋賀県大津市の南北の葛川地区である(グーグル・マップ・データ)。調べてみると、明暦が終わって(明暦四年七月二十三日(グレゴリオ暦一六五八年八月二十一日)、万治を経た、寛文二年五月一日(一六六二年六月十六日)巳の刻から午の刻(午前九時から午後一時頃)、琵琶湖西岸の花折断層北部と若狭湾沿岸の日向断層を震源とする、二つの連動する地震が発生している。マグニチュード七・五前後と推定されるこの地震で、震源の近江国・若狭国を中心に、京都・大坂まで広域が被災した。参考にした「滋賀県文化財保護協会」公式サイト内の「ヨミモノ シバブン シンブン」の「新近江名所圖会 第198回 江戸時代の大地震―寛文地震とその痕跡-大津市葛川町居町・葛川梅ノ木町」(「葛川」の地名に注目!!!)によれば(北原治氏の記事)、『とくに琵琶湖岸の軟弱地盤に立地した膳所城では多くの石垣が崩れ、櫓や門などが破損・崩落し、再建にあたっては本丸と二の丸の間の堀を埋めて新たな本丸とするなど、縄張りそのものを変更しなければならないほどの大きな被害を受けました。また、現在の大津市浜大津一帯にあった幕府の大津蔵屋敷ではすべての蔵が破損したほか、彦根城でも』五百から六百『間の石垣が崩れるなどの被害が知られています』。『しかし、こうした琵琶湖周辺の被害は、震源付近の安曇川上流部の被災状況に比べれば』、『ずっと軽微なものといえるかもしれません。高島市朽木にあった旗本朽木氏の陣屋が倒壊し、元領主の朽木宣綱を圧死させた激震は大規模な山崩れ「町居崩れ」を引き起こし』、二『つの村を消し去っていたからです』。『かつて、大津市葛川明王院の北約』一・五キロメートル『の安曇川沿いには榎村と町居村のという』二『つの村がありました。これらの村は地震にともなう奈良岳の崩壊によって、一瞬にして土砂に埋まったのです。これにより両村の』五百六十『名もの村人が生き埋めになって死亡しました。町居村では』三百『人の村人のうち、生き残った者がたったの』三十七『名であったと伝わっています』。『村を襲った大量の土砂は』、『安曇川の流れを堰き止めて天然ダムを造り、新たな災害を発生させました。崩れた土砂は安曇川の流れを完全に堰き止め、湛水面積』四十八『万』平方メートルにも『及ぶ、巨大な天然ダムを出現させたのです。これにより』、『隣村の坊村は集落の大部分が水没しました』。「明王院文書」に『よると、葛川明王院の境内まで水位が達し、坊村の屋敷などが残らず』、『流失したと記されています。地元の言い伝えによると、明王院の本堂(重要文化財)の石段が下から三段目まで水没したとされます』。『さらに、恐れていたことが起こってしまします』十四『日後の』六『月』三十『日午前』九『時頃、最大湛水量』五百九十『万』立方メートルに『達した天然ダムが崩壊したのです。その結果、朽木谷などの安曇川下流域が洪水に襲われました。高島市朽木岩瀬にある志子淵(しこぶち)神社は、この時の洪水によって社殿を流されたため、現在の場所に移ったと伝わっています』。『寛文地震の被害状況を今に伝える「町居崩れ」跡は大津市葛川梅ノ木町にあります。江若交通町居バス停から国道』三百六十五『号線を北に』八百メートル『ほど進むと』、『道の東側に山頂付近から山の斜面をえぐるような大きな谷地形があります。これが「イオウハゲ」と呼ばれる「町居崩れ跡」です。崩壊長約』七百メートル『・最大幅』六百五十メートル『比高』三百六十メートル『・推定崩落土砂量』二四〇〇『万』立方メートルに『及ぶ大規模な山崩れの痕跡が現在も確認できます』。『また、この対岸には、高さ』百メートル『ほどの低い丘陵が川へ向かって伸びていますが、この小山は崩落した土砂が谷を堰き止めて造った天然ダムの一部です』。『ここから川の上流に目を転じて、はるか遠くに見える家並みが』、『当時』、『水没した葛川坊村ですが、天然ダムは坊村を越えて、さらに上流の中村付近まで達しました。現地で災害の痕跡を見ていただければ、当時起こった寛文地震の被害の大きさを理解できると思います』。『被災した町居村は災害の後、生き残った』三十七『名の村人により、現在の地へ移転して再建されました。旧村は集落のはずれにある観音寺の北側であったと伝わっています。なお、観音寺には、旧村跡から掘り出された宝篋印塔が移築されています』とあり、現在の被災地の跡地の写真が載るので、是非、見られたい。これは、寛文末年から四年後に実際発生した激甚地震とその後に続いた大災害である。この怪奇談、多くの読者は、さっと読んで、そんな悲惨な地震が、事実、あったことを検証しようとは、あまり思わないだろう。私のマニアックな癖で、調べてみて、愕然とした。江戸時代の、この地震を知っている庶民は、この一篇を読んで、恐れ戦いたことは、間違いない。本書の開板は元禄一〇(一六九七)年以前と推定されているから、この災害から三十五年以内の刊行である(因みに、この作者は不詳だが、関西の人間であったであろうことが、感じられるのである)。――則ち――この話は、当時の恐るべき悲惨極まりない現実のカタストロフを交えた「都市伝説」となっている――のである!!!

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 木欒子

 

Mokugenji

[やぶちゃん注:二図が上下にあり、右手上方に、上の図のキャプション「今云菩提樹葉」(今、云ふ「菩提樹」の葉)、右手下方に下の図のキャプション「三才圖會所ㇾ圖」(「三才圖會」の圖せる所)とある。この際、「三才圖會」の原本画像を以下に示し、解説文も電子化しておく。画像はこちら(解説ページ「明代の図像資料」)の「三才圖會データベース」の画像(東京大学東洋文化研究所蔵。清刊本(槐蔭草堂藏板))のものを用いた(トリミングした)。ここと、ここ。特に画像の使用制限は書かれていない。

 

Ranka1

 

Ranka2

 

   *

 欒華

欒華生漢中川谷今南方及都下園圃中或有枝葉似木

※而薄細花黄似槐而稍長大子殻似酸漿其中有實如

熟豌豆圓黒而堅堪爲数珠五月採其花亦可染黄味苦

寒無毒主目痛淚出傷背消目腫

[やぶちゃん注:「※」=「(へん)「木」+(つくり){《上》「共」+《下》「土」}。以下の「本草綱目」と対照させると(時珍の引用は「別錄」。前漢の成帝の治世の時、数名の学者の協力を得て、宮廷の秘府の蔵書の校定に従事した劉向(りゅうきょう)が、一つの書物毎に、篇目を個条書きにし、内容を掻い摘んで作成した書籍解題である)、この漢字、「槐」を指すように読める。]

   *

読めない字があり、部分的に自信がない箇所もかなりあるが、自然勝手流で、訓読を試みておく。

   *

 欒華(らんくわ)

欒華は、漢中の川谷(せんこく)に生ず。今、南方、及び、都下の園圃(ゑんぽ)の中にあり。或いは、枝葉、有り、木※に似て、薄く、細し。花、黄なり。槐(えんじゆ)に似て、稍(やや)、長し。大いなる子(み)の殻(から)、酸漿(ほおづき)に似、其の中に、實(たね)、有り。熟したる豌豆(えんどう)のごとし。圓(まろ)く、黒にて、堅し。数珠(じゆず)と爲(な)すに、堪へたり。五月、其の花を採り、亦、黄に染むべし。味、苦(く)、寒。毒、無し。目の痛みて、淚、出でて、背(うら)に傷(きず)せるを、主(つかさど)り、目の腫(はれ)を消す。

   *]

 

むくろじ  欒華

     【和名無久礼混迩之

        俗云無久呂之】

木欒子

      附

       菩提樹

モツロワン ツウ

 

本綱此樹生山中園圃間或有之葉似木槿而薄細其花

黃似槐而稍長大子殻似酸漿其中有實如熟豌豆圓黑

堅硬謂之木欒子堪爲數珠其花五六月可收以染黃甚

鮮明未見入藥

華【苦寒】 治目痛腫合黃連作煎療目赤爛

△按

木欒子【無患子之一類異種】別有菩提樹者葉似椋又似桑葉

 而厚靣深翠背淺青三四月將花時別出莖生新葉以

 蔽其莖黃青色微似菠薐草葉抽於其半腹莖稍開花

[やぶちゃん注:「稍」は「梢」の誤記か誤植である。訓点では訂した。]

 四五朶黃色而小甚香芬花散結實中子如豌豆成簇

 一房二十粒許淡黒色用爲數珠蓋葉與子之樣大竒

飜譯名義集云菩提樹卽畢鉢羅樹也昔佛在世髙數百

尺屢經殘伐猶髙四五丈𠀋佛坐其下成等正覺因謂之菩

提樹焉莖幹黃白枝葉青翠冬夏不凋光鮮無變毎至涅

槃之日葉皆凋落須之故

 此菩提樹者異品而非今菩提樹乎形狀大異

 

   *

 

むくろじ  欒華

     【和名、「無久礼混迩之《むくろじし》」。

        俗、云ふ、「無久呂之《むくろじ》」。】

木欒子

      附《つけた》り。

      「菩提樹《ぼだいじゆ》」。

モツロワン ツウ

 

「本綱」に曰はく、『此の樹、山中に生ず』≪るも≫、『園圃≪にも≫、間《まま》、或≪いは、≫之れ、有り』。『葉、木槿(むくげ)に似て、薄細《うすくこまやか》なり。其の花、黃にして、槐《えんじゆ》に似て、稍《やや》、長大なり。子《み》≪の≫殻、酸漿《ほうづき》に似、其の中に、實《たね》、有り、熟≪せる≫豌豆《ゑんどう》のごとく、圓《まろ》く、黑く、堅硬なり』。『之れを「木欒子《もくらんじ》」と謂ふ』。『數珠《じゆず》に爲るに堪へたり』。其の花、『五、六月に收《をさ》むべし。以つて、黃を染めば、甚だ、鮮-明(あざや)かなり』。『未だ藥に入≪るるを≫見ず。』≪と≫。

『華《はな》【苦、寒。】』『目の』、『腫れ』・『痛を』『治す』。『黃連《わうれん》と』『合《あは》して、煎《いり》作《なして》、目≪の≫赤《あかく》爛(たゞるゝ)を療ず。』≪と≫。

△按ずるに、木欒子《むくろじ》【「無患子《つぶ》」の一類≪にして≫異種なり。】、別に「菩提樹」と云ふ者[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、有り。葉、「椋(むく)」に似、又、「桑《くは》」の葉に似て、厚く、靣《おもて》、深翠(《ふか》みどり)、背《うら》、淺≪き≫青。三、四月、將に花(はなさか)んとする時、別≪に≫、莖を出《いだ》し、新葉を生じて、以つて、其の莖を蔽(をほ[やぶちゃん注:ママ。])ふ。黃青色、微《ちと》、菠薐草(はうれんさう)の葉に似て、其の半腹《なかはら》を抽(つきぬ)いて、莖の梢に、花を開く。四、五朶《ふさ》≪ありて≫、黃色にして、小さく、甚だ香-芬(かんば)しく、花、散りて、實を結ぶ。中の子《たね》、豌豆(えんどう)のごとく、簇《むれ》を成《なし》、一房、二十粒許《ばかり》。淡(うす)黒色なり。用ひて、數珠と爲す。蓋し、葉と子《たね》の樣(ありさま)、大《おほい》に、竒(めづら)し。

「飜譯名義集」に云はく、『菩提樹は、卽ち、「畢鉢羅樹《ぴつばらじゆ》」なり。昔、佛《ブツダ》、在世≪の時≫、髙さ、數百尺、屢(しばしば)[やぶちゃん注:原本では踊り字「〱」のみがある。]、殘伐《ざんばつ》を經て、猶《なほ》、髙さ四、五𠀋《たり》。佛、其下に坐して、「成等正覺(じやうとうしやうがく)」ある[やぶちゃん注:ママ。]。因りて、之れを「菩提樹」と謂≪へり≫。莖・幹、黃白、枝・葉、青翠。冬・夏、凋(しぼ)まず、光《かがやき》、鮮(あざや)かに、變ずること、無し。『涅槃《ねはん》の日』に至る毎《ごと》に、葉、皆、凋落《しぼみお》ち、須-之(しばらくあり)て、故(もとの)に復(かへ)る。』≪と≫。

 此の菩提樹は、異品にして、今の「菩提樹」に非ざるか。形狀、大いに、異《い》なり。

 

[やぶちゃん注:この「木欒子」は、日中で異なる。それを、良安は認識しておらず、致命的なミスとして、冒頭の和訓に「むくろじ」とやらかしてしましているように見えるが、さにあらず! 後で、彼は自身の評で、『「無患子《つぶ》」の一類≪にして≫異種なり』と言っているからである。中国では、「木欒子」は、前の「無患子」で注した通り、

双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科モクゲンジ属モクゲンジ Koelreuteria paniculata

である。本邦で、新潟県・茨城県以西の本州・四国・九州の低地・山地に自生し、庭木としても植えられ、しばしば寺や神社にも植えられているところの、それは、ムクロジ科 Sapindaceaeの異属異種である、

ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ Sapindus mukorossi

である。これは、良安の意識の中で、前の「無患子」を「ムクロジ」であろうと踏んでいるために、かく、「異種」と言えたのである。さらに言えば、ここで別の異名として、「菩提樹」というトンデモ異名が出現していることに、強い違和感を覚え、「木欒子」は、まず、これは、「菩提樹」(アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana 正しくは、良安の言っている、この「菩提樹」は、「本草綱目」にはこの三字熟語では掲載されていない(後の引用参照)。あるのは、前の「無患子」の「釋名」に中に『菩提子』と出るだけである。しかも、これは『釋家取爲數珠故謂之菩提子』と出るのであって、「菩提樹の種(たね)」の意ではなく、仏教徒が数珠にするから、「仏陀に所縁の種」と言っているだけで、真正の狭義のインドの「菩提樹」という木を、実は、指していないのである。それは、後の「菩提樹」の注で示す)ではないという、傍系の別個検証に力を入れ込んだに過ぎない。さらに言っておくと、小学館「日本大百科全書」の「モクゲンジ」を引く(読みはカットした)。『落葉高木。オオモクゲンジともいう。高さ約』十『メートルに達する。葉は互生し、奇数羽状複葉。小葉は卵形で先はとがり、不ぞろいの深く切れ込む鋸歯がある。夏、枝先に円錐花序をつくり、小さな黄色花を多数開く。萼片は』五『枚で』、『大きさは不等、花弁は』四『枚、雄しべは』八『本、雌しべは』一『本。蒴果は三角状卵形で長さ』四~五『センチメートル、果皮は薄く』、三『片に裂け、球形で径約』七『ミリメートルの黒色で堅い種子を出す。日本の一部の地域に野生するが、多くは栽培されたものが逸出したと考えられる。朝鮮半島、中国北部および東北部に分布する。名は、ムクロジ(ムクロジ科の別植物)の中国名である木患子を誤ってモクゲンジにあてたため、木患子の日本語読みであるモクゲンジになったという。種子を数珠に使用する』(最後の太字下線は私が附した)とあり、近代の植物学者でさえ、和名命名の際、トンデモ命名をしてしまっていたことが判明するのである。良安を馬鹿には出来ない。

 続いて、同種の「維基百科」の「欒樹」を見ると、別名を『燈籠樹・黑葉樹』とし、『風化した石灰岩によって生成されたカルシウム・ベースの土壌に植生する。耐寒性は、ない』。『中国固有種で、黄河流域及び長江流域の下流域に分布し』、中国北部最大の水系である『海河流域以北では稀で、珪素』(Si)『を主成分とする酸性赤土地域では生育出来ない』。本種は『春に発芽し、秋に早く落葉するため、毎年、成長期間が短く、樹形が捩じれており、あまり成熟することが樹木である。種子は幾つかの小型家電製品や、工業用油を搾るのに使用可能である。但し、景観には優れた木である』。『初夏に小さな黄色い花を咲かせ、花が散ると、木が黄金色になるため、花が咲いた後には英語で「金雨樹」』(goldenrain tree)『と呼ばれている』。『皮質蒴果』(さくか:果実のうち、乾燥して裂けて種子を放出する裂開果の中の一形式。果皮が乾燥して、基部から上に向って裂けるものを指す)で、『小さな黒い球形の種子が入っている。円錐形の蒴果は中空で、中国の提灯に似ているため、「提灯の木」とも呼ばれる』。本種の『花は黄色染料として利用される』、この樹の『葉は緑色であるが、白い布を一緒に煮ると、黒く染まることから、俗に「烏葉子樹」とも呼ばれ、葉は黒色染料として利用される』と言った内容記載がある。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「欒華(ガイド・ナンバー[086-16b]以下)からのパッチワークである。短い記載なのだが、良安が、如何にテツテ的継ぎ接ぎをしているかということを、訓読では、明示してみた。本文は以下である(多少、手を加えた)。

   *

欒華【本經下品】

集解【别録曰欒華生漢中川谷五月采恭曰此樹葉似木槿而薄細花黄似槐而稍長大子殻似酸漿其中有實如熟豌豆圓黒堅硬堪爲數珠者是也五月六月花可収南人以染黄甚鮮眀又以療目赤爛頌曰今南方及汴中園圃間或有之宗奭曰長安山中亦有之其子謂之木欒子携至京都爲數珠未見入藥】

 氣味苦寒無毒之才曰决明爲之使主治目痛淚出傷眥消目腫本經合黄連作煎療目赤爛【蘇㳟】

   *

「木槿(むくげ)」中文で言うこれは、本邦のアオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus ではない。フヨウ属は中文名で「木槿屬」であるから、Hibiscus属レベルに留まり、種を断定することは出来ない。委しい私の考証は、先行する「莢蒾」を見られたい。

「槐《えんじゆ》」バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。先行する「槐」を参照されたい。

「酸漿《ほうづき》」ナス目ナス科ホオズキ属ホオズキ変種ホオヅキ Alkekengi officinarum var. franchetii 。日中同種。「維基百科」の同種「掛金燈」では、学名を Physalis alkekengi var. francheti とするが、これはシノニムである。

「豌豆《ゑんどう》」マメ目マメ科マメ亜科エンドウ属エンドウ Pisum sativum 。日中同種。

「黃連《わうれん》」キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica の髭根を殆んど除いた根茎を乾燥させたもの。

「菩提樹」アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana これについての不審は、ウィキの「ボダイジュ」を引くと、氷解する(注記号はカットした)。『別名はコバノシナノキ。中国原産』(☜:ブッダの菩提を樹下で得たその木だとしたら、ゼッタイ的におかしいでしょ?)『で、中国名は南京椴。日本では寺院などに植えられる』。『落葉広葉樹の高木。高さは』三十『メートル』『にもなる。樹皮は暗灰色から暗茶褐色で、縦に浅く裂ける。若木の樹皮は滑らかで、小枝には密に細毛がある。葉は広卵形で、裏面と葉柄には毛がある。花期は』六『月頃で、葉の付け根から花序を出して、芳香がある淡黄色の花を下向きに咲かせる』。『冬芽は薄茶色の短毛があり、オオバボダイジュ(学名:  Tilia maximowicziana )よりもやや小さい。枝先には仮頂芽がつき側芽よりも大きく、長さ』五『リメートル』『ほどの卵球形で芽鱗』二『枚に包まれる。側芽は枝に互生する。葉痕は円形で、維管束痕が』三『個つき、葉痕の両脇に托葉痕がある』。『日本へは』、十二『世紀に渡来したといわれ、臨済宗の開祖明菴栄西が中国から持ち帰ったと伝えられる。日本では各地の仏教寺院によく植えられている』。『釈迦は菩提樹の下で悟りを開いたとして知られるが、釈迦の菩提樹は本種ではなく』、『クワ科』Moraceaeの『インドボダイジュ』(印度菩提樹:バラ目クワ科イチジク属インドボダイジュ Ficus religiosa )『という別の種である。中国では熱帯産のインドボタイジュの生育には適さないため、葉の形が似ているシナノキ科の本種を菩提樹としたと言われる』(太字は私が附した)。『また』、『フランツ・シューベルトの歌曲集』「冬の旅」第五曲の「菩提樹」(‘ Der Lindenbaum ’)に『歌われる菩提樹は』、『本種ではなく』、『近縁のセイヨウシナノキ』『である』とあるのである。ブッダが菩提を得たそれは――「ボダイジュ」でなく――全然、明後日の――完全な目タクソンで異なる異種――「インドボダイジュ」――なのである。

「椋(むく)」バラ目アサ科ムクノキ属ムクノキ Aphananthe aspera

「桑《くは》」バラ目クワ科クワ属 Morus の数多い種の総称。

「菠薐草(はうれんさう)」ナデシコ目ヒユ科アカザ亜科ホウレンソウ属ホウレンソウ Spinacia oleracea

「飜譯名義集」宋代の梵漢辞典。全七巻の他、全二十巻本もある。南宋の法雲の編。一一四三年成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類し、字義と出典を記したもの。「大蔵経データベース」で確認したところ、このまことしやかな引用は、継ぎ接ぎ得意の良安が造り上げたものであって、同一の文章はどこにもない。「菩提樹」は二回、「畢鉢羅」も二回出るが、この内容を語っている箇所は前後にもない。非常に長い内容のものを、良安流パッチワークで、正直、デッチアゲと言われてもしゃあないものである。ちょっと、ガックりきたわ。或いは、二十巻本にあるのかなぁ? 調べられんわ。悪しからず。因みに、この内容は、かの玄奘三蔵の「大唐西域記」を元にして書かれたものである。

「殘伐《ざんばつ》」現在の「造林学」用語では、最初の伐採時に、少数の立木を母樹として残し、そこからの天然下の種によって更新を図る伐採法を指し、稚樹の定着後。残された木は伐採される、とあった。

「成等正覺(じやうとうしやうがく)」修行者である菩薩が、仏の悟りである等正覚を成就すること。迷いを去って、完全な悟りを開くことを言う。

「涅槃《ねはん》の日」一般にブッダ入滅日は、南伝仏教でインド暦の二番目の月が「ヴァイシャーカ月の満月の日」と定められていることから、一般的に二月十五日とされている。因みに、その日は、私の誕生日である。]

2024/07/11

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧九 女金銀をひろいぬしにかへす事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の「ひろい」はママ。]

 

 㐧九 女、金銀を、ひろい、ぬしに、かへす事

○「するが」の「ふちう」に、さる人、下女を、一人、つかひけり。

[やぶちゃん注:駿河国の旧国府がおかれた場所で、現在の静岡市葵区の静岡中心市街地にほぼ相当する(グーグル・マップ・データ)。]

 武州より、ある人、京都へ上り、木佛(もくぶつ)を、一たい、あんぢ[やぶちゃん注:ママ。]、さる寺へ、「きしん」申《まうす》べきために、のぼり、「するが」の「ふちう」に、一宿(《いつ》しゆく)しける。

 金子(きんす)五十兩、さいふに入《いれ》、立《たち》ざまに、うちわすれ、出《いで》て、京へつきて、かのふくろを、もとむるに、なかりけり。

「こは、いかに。」

と、おどろきて、

「はるばる、のぼりたる『かひ』も、なき事かな。此かね、なくては、『大ぐはん』の望(のぞみ)、かなひがたし。いかゞすべき。」

と、あんじ、わづらひける。

『正《まさ》しく、「ふちう」の宿(やど)にて、おとしつる。』

と、たしかに、おぼゆ。

『引《ひき》かへし、くだりたりとも、とても、くれまじ。しよせん、くだらぬは、しかじ。」

と、おもひ、

「とかく、佛《ほとけ》の御緣(えん)、うすき、いはれならん。」

と、ふかく、なげきしが、されども、當所(たうしよ)のやどに、くだんのとをり[やぶちゃん注:ママ。]を、具(つぶさ)に、かたりければ、宿(やど)の、いはく、

「心やすかれ。それがし、御望(《おん》のぞみ)を、かなへ參らせん。金銀、なくとも、あんぢ[やぶちゃん注:ママ。これは用法としては、おかしい。「安(やすん)じ」で、「安心して」の意であろう。]給へ。」

と申ける。

 此人、いよいよ、よろこび、やがて、おもふまゝに、つくり奉りて、其まゝ、もりて[やぶちゃん注:大切に所持して。]、くだりける。

 又、「ふちう」の宿(やど)へ、よりて、何んとなく、をと[やぶちゃん注:ママ。「音」。]を、すまして、きく所に、なにの「しさい」も、なくして、やゝありて、下女、ぜんを持《もち》て出《いで》、ひそかに、よりて、申やう、

「こなたには、御のぼりの折《をり》から、何にても、わすれ給ひたる物や、ある。」

と問(とふ)。

 此人、

「されば。此はしらの折《をれ》くぎに、ふくろを、一つ、かけをき[やぶちゃん注:ママ。]、とらずして、上り、京都にて、おもひ付《つき》、はるばるの道なれば、かへりて、とふべきやうも、自由(じゆう)ならず、うち過《すぎ》ぬ。」

と、申ければ、下女、かの、ふくろを、取出《とりいだ》して、

「此事にてや、あるらん。」

と、申せば、此人、

「扨《さて》も。ありがたき心ざしなり。」

とて、四、五兩、とりいだし、下女に、くれける。

 下女の、いはく、

「をろか[やぶちゃん注:ママ。]の人の心や。此かねを、すこしにても、うくる心のあらば、何事にか、此ふくを参らすべき。すこしも、申《まうし》うくる事、おもひも、よらず。まして、ほとけ、ざうりうの、かねなり。」

とて、とるべき気色(けしき)あらざれば、此人、

『扨は。世の中の「けんじん」とは、かやうのものをや、いふやらん。此女は、世に、また、たぐひなきものかな。』

と、おもひ、宿(やど)のあるじに、此下女(げぢよ)を、もらい[やぶちゃん注:ママ。]、武州へ、ぐして、くだり、我子に引合(ひきあはせ)ける。

 此女、來りてより、家、とみ、さかヘ、はんじやうする事、なゝめならず。

 さてこそは、『正直は、一たんの「ゑこ」[やぶちゃん注:ママ。「依怙」。たまたまの一時の頼り。]にあらず。つゐに[やぶちゃん注:ママ。]は、天の「あはれみ」を、うくる。』と、いふは、是なるべし。

 世に、人、おほしといふとも、「むよく」のものは、まれならん。一たんのよくを、はなるれば、「一しやう」のたのしみを、うくる。『げんせ、あんをむ、ごしやう、ぜんしよ。』也。

[やぶちゃん注:「げんせ、あんをむ、ごしやう、ぜんしよ。」「現世安穩後生善處」。「法華經」の「藥草喩品(やくさうゆほん)」から。『「法華経」を信ずる人は、現世(げんせ)では、安穏(あんのん)に生きることができ、後生(ごしょう)では、よい世界に生まれるということ。』。]

 おほくは、一たんの「よく」に、まよひ、現當(げんたう)二世(《に》せ)ともに、大《おほ》ぞんを、うる事、「がんぜん」の「きやうがい」なり。たれか、是を、あらそはん。はづベし、はづべし。

[やぶちゃん注:「現當(げんたう)二世(《に》せ)」現在世(げんざいせ)と当来世(とうらいせ)の二つの世。この世と、あの世。「現當兩益(げんたうりやうやく)」(現世の利益と当来(来世)の利益)の意にも用いる。単に「現當」「現未」とも言う。]

 此物がたりは、「あべ河」より、元三(げんさん)と申《まうす》人、上りて、はなされけり。近年(きんねん)の事也。

 

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧八 女の一念來て夫の身を引そひて取てかへる事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の「引そひて」は、岩波文庫の高田氏の脚注に、『引き削いで。ひっかいて。』とある。されば、「ひつそひて」の読みの方がいいのかとも思ったが、岩波版本文では、『引きそひて』と補正しておられるので、「ひき」と読んでおいた。但し、エンディングの肝心のシーンのそれは、送り仮名は「かいて[やぶちゃん注:ママ。]」なので、快く、「ふつかいて」と読んでおいた。]

 

 㐧八 女の一念、來《きたつ》て、夫(をつと)の身を、引《ひき》そひて、取《とり》てかへる事

○丹刕(たんしう)の田邊に、さる商人(あきびと)あり。

 每年(まいねん)、「えちぜん」の「ふくい[やぶちゃん注:ママ。]」へくだり、半年(はんねん)ばかりづゝ、ゐては、上りけり。

[やぶちゃん注:「丹刕(たんしう)の田邊」高田氏の脚注に、『京都府舞鶴市中心部の古名。』とある。ウィキの「舞鶴市」によれば、『元来』、『この地域は「田辺」と呼ばれていたが、明治時代に山城(現・京田辺市)や紀伊(現・和歌山県田辺市)にある同名の地名との重複を避けるため、田辺城の雅称である「舞鶴城」より「舞鶴」の名称が取られた』。『田辺城が「舞鶴城」の別名を得たのは、城型が南北に長く、東の白鳥峠から眺めるとあたかも鶴が舞っている姿のように見えるからであるとされている』とあった。

『「えちぜん」の「ふくい」』現在の福井県福井市。]

 ある時、「たなべ」にある妻(つま)を、見がぎりすてゝ、「ふく井(ゐ)」に居住(ゐぢう)しける。

 何《いづ》れも、常に遊ぶ、「ちいん」[やぶちゃん注:「知音」。親友。]がた、うちよりて、さる女房を、ひきあはせけり。

 此男(をとこ)、此女に、ほだされ、国元(くにもと)の事を、露(つゆ)もおもひいだす事、なくして、うちすぎぬ。

 しかるに、「たなべ」にありける女房、夫、ひさしく、のぼらず、剩(あまつさへ)、「たより」だにも、なければ、

「とや、し給ふ、かくや、しつらん、」

と、あんじ、わづらふ所に、ある人、來りていふやう、

「其方は、「ふくゐ」のやうすは、いまだ、きゝ給はぬか。すぎつるはるのころ、さるかたより、にあはしき妻(つま)を、もちたれけるよし、ほのかに、きゝつる。しからば、たよりなきこそ、どうり[やぶちゃん注:ママ。]也。」

と申《まうし》ける。

 女房、此のよし、つくづく、きゝ、大きにおどろき、

「かく、あるべきとは、おもひもよらず。『今日(けふ)は、おとづれ[やぶちゃん注:「書信」。]、あらん、あすは、たよりを、きかん。』と、あけくれ、おもひ、くらしける、心のほどの、をろかさ[やぶちゃん注:ママ。]よ。さても、世中《よのなか》に、女の身ほど、はかなき物は、なし。たとい[やぶちゃん注:ママ。]、『ふくゐ』に、とゞまるとも、それは、夫(をつと)のある事也。さりながら、我は、かほどまで、すてられんとは、夢にも、知らず。あら、口おし[やぶちゃん注:ママ。]や、はらたち[やぶちゃん注:「腹立ち」。]や、」

と、おきふし[やぶちゃん注:「起き臥し」。]ごとに、「しんい」[やぶちゃん注:「瞋恚」。怒り怨むこと。]の「ほむら」[やぶちゃん注:「焰(ほむら)」。]をこがしける。

 いちねんの𢙣鬼(あくき)となり、「ふくゐ」へ、ゆき、よなよな、夫を、せめける。

 おそろしといふも、をろか[やぶちゃん注:ママ。]なり。

 かの㚑(れう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])の來らんとては、大きに「やなり」して、いづくともなく、きたつて、夫のまへに、ひざまづき、ちのなみだを、ながし、ひたもの、うらみを、いひては、つく「いき」をみれば、まさしく、ほのほをはきけり。

 夫、せんかたなくて、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、みこ・山ぶすをよびて、いのりするといへども、かつて、其《その》しるし、なし。

 ある「ちしき」のいはく、[やぶちゃん注:「ちしき」。「知識」。善知識。徳の高い僧。]

「さやうに㚑(れう)の來《きた》るには、「きやうかたびら」を、きて、ふし給はゞ、別の「しさい」、あるまじ。とてもの事に、それがし、かきて參らせむ。」

とて、そくじに、あそばし、たびけり。

 日《ひ》、くるれば、かの「かたびら」を取《とり》て、うちかづき、ふしける。

 㚑(れう)、來《きたり》ては、この「かたびら」にをそれ[やぶちゃん注:ママ。]て、ちかづかずして、とをく[やぶちゃん注:ママ。]ひかへて、たゞ、うらめしげに、うちながめて、また、

「はらはら」

と、なきて、かへる。

 

Ikiriyo

[やぶちゃん注:第一参考底本はここ、第二参考底本はここ後者の妻の生霊(いきりょう:彼女は生きている(亡くなったという語りは、どこにもない)から、この「妄㚑」は生霊である)の頭の上に烏帽子のような形があるもの、及び、彼女の持ち物のような太刀・長刀(なぎなた)、吹き出す(垂れるほうではない)血糊は、総て、落書であるので、注意されたい。彼女は、一般に死者を示す例の額の三角の巾、「天冠」(てんかん・てんがん:地方により「頭巾」(ずきん)」「額烏帽子」(ひたいえぼし)「髪隠し」等とも呼ぶ)をつけているが、だからと言って、彼女が死霊(しりょう)であるわけではない。謂わば、生きている彼女が、夫を怨んで、自らの霊を引き出し、夫の元へ、恨みを成就するためには、自ら、生きながら、「天冠」を装着することで、それを行使することが出来ると言えるのだ、と私は思うのである。なお、第二参考底本では、この「天冠」に明確に「シ」の字が書かれてあるのだが、これは、私は落書小僧(実際には、今までの落書の上手さや、書き放題の落書の内容が、相応に本文から離れて、ちょっと憎く――時にはセクシャルな内容かとも思われるものがあった――書けているのを考えると、青年の可能性が高いと考えている)の書いたものと考えている。但し、岩波版でも、中央に有意な「●」があるように見え、第一参考底本のそれでも、「●」はあるように見える。但し、「シ」ではないと思う。そもそも、ここに何かを書くこと自体、まず、私は見たことがない。絵師は、謂わば、この彼女が、実体ではなく、生霊であることを示すためのサーヴィスで、「天冠」を書いてしまったのではないかと思っている。或いは、絵師は出来上がったものを眺めて、死霊に見えてしまうことに気づき、敢えて、中央に「●」を打って差別化したと、解釈出来ようか、とも思われた。

 

 夫、

『うれしき事。』

に、おもひしが、ある時、ゆだんして、ふしたるうへに、そと、置きて[やぶちゃん注:着ずに、ちょっと体にひっかけておいたままで。]、よねんなく、ねけるが、件(くだん)の㚑(れう)、きたつて、「うらみ」、かずかず、いひ、

「あら、にくや、」

といふこゑ、耳に、つきとをり[やぶちゃん注:ママ。]て、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

「はつ。」

と、おもひて、見れば、あたりに、血、ながれけり。

「こは、いかに。」

と、いひて、我身を見れば、ゆんで[やぶちゃん注:左手。]のもゝ[やぶちゃん注:「腿」。]を引《ひつ》かいて、ゆきぬ。

 はじめの程は何(なん)ともなかりしが、次㐧に、いたみ、出《いで》て、いくほどなくして、死(しに)けり。

 『にくし。』と思ふ一念、來(きた)りて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、をつとを、殺しけり。

「此はなし、僞(いつは)りなき。」

よし、「大せいもん」[やぶちゃん注:「大誓文」。既出既注。]にて、「ふくゐ」の人の、かたりける。

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧七 なさけふかき老母果報の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧七 なさけふかき老母、果報の事

○洛陽(らくやう)[やぶちゃん注:京都。]に、七十あまりの老母、あり。

 つねに、しもべのものどもに、なさけ、ふかくして、かん天のあさ、さむき時は、二度(《に》ど)、つかふべき事あれば、一度、つかふ。三ども、つかはんとおもふ時には、二度、つかひ、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、下人の内、一人にても、わづらへば、手づから、何にても、こしらへ、くはせ、萬事(ばんじ)に、じひぶかくましましけり。

 ある時、子息のいはく、

「かく、さむき時なるに、なにとて、みづから、ひえくるしび給ふ事、もつたいなし。向後《かうご》、さやうのわざを、なし給ふ、いはれ、なし。かならず、やめ給へ。」

と、いさめられければ、老母、こたへて、いはく、

「いや、下人も、みな、人の子なり。あさ、さむき時なれば、はらを、あたゝさせて、其くらうを、ゆるめん。」

との、事也。

 子の、いはく、

「老母、としおひ給ひて、かく、いやしきわざを、いとなみ給ふ事、さかさまなる『おこなひ』なるべし。其上《そのうへ》、かん天[やぶちゃん注:「寒天」。]に、あさ、とく、ひえ給ふ事、くらう[やぶちゃん注:「苦勞」。]も、いかばかり。感冒(かんぼう)の病(やまひ)も、はかりがたし。たゞ、ねがはくは、やめ給ヘ。」

と申されければ、老母、こたへて、

「つとめて[やぶちゃん注:これは副詞で、「決して・ゆめゆめ・强ひて」の意。]、是をなすに、あらず。我、たのしぶところなれば、かんき[やぶちゃん注:「寒氣」。]を、くらうにも、おぼえず。もし、しゐて[やぶちゃん注:ママ。]やめなば、我心、やすかるべからず。」

とて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、やめず。

 とし、九十二まで、目も、よくして、たつしやなり。

 男子(なんし)・女子(によし)、共に、八人、もてり。

 男子(なんじ[やぶちゃん注:ママ。])四人は、人の「つかさ」をして、ふつき[やぶちゃん注:「富貴」。]・はんじやうなり。

 女三人は、大名・かうけ[やぶちゃん注:「高家」。]の妻と、なれり。

 老母のたのしみ、あげて、かぞへがたし。

 つねに、情(なさけ)あれば、果報も、またまた、同じ。

 つみを、おこなひては、つみに、おちゐる[やぶちゃん注:ママ。]。善を、みては、すゝみ、あくを、みては、しりぞく。

 此ことはり[やぶちゃん注:ママ。]を、よく、わきまへずんば、口おしかる[やぶちゃん注:ママ。]べし。

 

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧六 下人生きながら土にうづむ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧六 下人、生きながら、土に、うづむ事

 下野の国[やぶちゃん注:現在の栃木県。]に、さる人、一人の下人を、つかひけり。

 しかれば、此《この》下人、すこしの、しそこなひ、ありて、牢人《らうにん》しけり。

 ある人、來りていはく、

「うけたまはれば、其方《そのはう》は、大きなる『むふん別者』にて、あり。すこしのあやまりは、たが身のうへにも、ある事也。其上(《その》うへ)、『をん』をみて、『をん』を知らぬは、木石(ぼくせき)にもひとしかるべし。其身、さやうに立身(りつしん)し給ふも、且(かつ)は、かれが『をん』ならずや。たとひ、まんまんの事[やぶちゃん注:我が儘なこと。この場合は、主人のそれを指す。]、ありとも、まづ、此度(《この》たび)は、かへし、つかはれよ。もし、ないないの一義(いちぎ)[やぶちゃん注:旧主家の内の事で、外部に知られては、困る事柄を指す。]、他所へ聞えなば、身のうへ、大事成《なる》べし。しかれば、かれを、あしくする事は、あるまじき事也。」

と、たつて申《まうし》ければ、此人、此ことはり[やぶちゃん注:ママ。「斷」「理」或いは「道理」の意であるから、「ことわり」が正しい。]におれて、やがて、よびかへしけり。

 下人、かへりて、四、五日ほどして、主人へ申《まうす》やう、

「それがしには、五七日《ごひちにち》[やぶちゃん注:三十五日間。]、御いとまを給はり候へ。在所(ざいしよ)へ、參りたく候。」

と。

 主人、聞《きき》て、

『さては。きやつ[やぶちゃん注:「彼奴」。]は、とても、奉公、せまじ。』

と思ひ、いとまを取《とる》と心へ[やぶちゃん注:ママ。「心得」。]、

『もし、いとまをくれなば、又、余人(よじん)を主(しゆ)に取《とり》、つゐに[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]は、日比《ひごろ》の大事[やぶちゃん注:内々にしており、外へ洩れては、甚だ不味い事柄。]を、かたるべし。さもあらば、後《のち》には、主君へ、もれなん時は、我《わが》一命(いちめい)は、なく成《なる》べし。しよせん、きやつが、ある內は、むつかしし。ころさばや。』

と、おもひ、やがて、かれを、めして、「うら」に、三間(げん)[やぶちゃん注:五・四五メートル。]ばかりの「あな」を、ほらせ、よき時分(じぶん)に、かの下人を、うしろより、

「はた」

と、つきおとし、うへより、土(つち)を、はね込み[やぶちゃん注:「撥ね込み」。]、なんなく、「つち」にうづみけり。

 今は、心、やすし。たれ、はゞかる者の、あらざれば、「うちとけがほ」に見えけるが、其後《そののち》、かの、うづまれし男、よるよる[やぶちゃん注:「夜夜」。]、來(たたり)て、せめける。

 あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、みこ・やまぶしを、めして、いのらするといへども、やまず。

 かくする事、三十二日目に、つゐに、妄㚑(まうれい)に、とりころされける。

 きく人ごとに、

「下人のむくひなり。」

と、いひあへり。

 此《この》物がたりは、寬文貳年四月七日の事也。

 名(な)も、ところも、くはしくは、しるさず。

[やぶちゃん注:「寬文貳年四月七日」主人が、とり殺された日時であろう。グレゴリオ暦では、一六六二年五月二十四日に当たる。逆算すると、下人の妄霊の出現は、旧暦三月六日(グレゴリオ暦四月二十四日)となる。]

2024/07/10

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 無患子

 

Mukuroji

[やぶちゃん注:右手下方に、種子三個の拡大図が添えられてある。]

 

つぶ    桓  噤婁

      木患子

無患子 肥珠子

      菩提子

     鬼見愁 油珠子

[やぶちゃん字注:「桓」は(つくり)の中部と下部が「且」となっているが、このような異体字はないので、正字とした。「婁」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、「婁」とした。]

 

本綱菩提子生髙山中樹髙大枝葉皆如椿葉對生【或曰葉似

欅柳葉】五六月開白花結實大如彈丸狀如銀杏及苦楝子

生青熟黃也老則文皺黃時肥如油煠之形其蔕下有二

小子相粘承之實中一核堅黑正圓如珠釋子取爲念珠

殻中有仁如榛子仁【味辛䐈】可炒食相傳以此木爲噐用以

厭鬼魅俗名爲鬼見愁【昔有神巫曰瑶㲘能符劾百鬼得鬼則以此木爲棒棒殺之】

子皮【卽核外肉也微苦有小毒】 治喉痙硏納喉中立開澣垢靣䵟

△按無患子【俗云無久呂之今俗云豆布】其樹膚似山茶花木葉似椿

 及𣾰葉凡一椏十二三葉對生開小白花其子殻黃皺

 蔕下二小子及中黑核之形色皆如上所說其黑核頂

 有微白毛俗名呼豆布其小者爲念珠大者童女用代

 錢或𮢶一孔植小羽以小板鼓上之則頡頑以爲遊戱

 稱之羽子正月弄之也取鬼見愁之義乎其子皮煎汁

 洗衣能去垢又漬水以管吹則泡脹起以爲戱【俗云奢盆】

 無久呂之卽木欒子畧也誤爲無患子之名乎

 

   *

 

つぶ    桓《くわん》  噤婁《きんろう》

      木患子《ぼくくわんし》

無患子 肥珠子《ひしゆし》

      菩提子《ぼだいし》

     鬼見愁《きけんしう》 油珠子《ゆしゆし》

 

「本綱」に曰はく、『菩提子、髙山の中に生ず。樹髙、大にして、枝・葉、皆、椿(ヒヤンチユン)の葉のごとく、對生≪す≫【或いは曰はく、「葉、欅(けやき)・柳の葉に似る。」≪と≫。[やぶちゃん注:この良安の訓読は誤りである。ここは分離せずに「欅柳(きよりう)」であって、中国では、現在は、双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属コゴメヤナギ Salix dolichostyla ssp. serissifolia を指す。但し、これより、四つ後の「欅(けやき)」に異名として「欅柳」と出るのであるが、「本草綱目」の「欅」はバラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata ではなく、東洋文庫訳割注には、『(クルミ科カンポウフウ)』とあり、これは、異名で、中国原産のマンサク亜綱クルミ目クルミ科サワグルミ属シナサワグルミ Pterocarya stenoptera を指すらしい。その項で、考証する。]】。五、六月、白花を開き、實《み》を結ぶ。大いさ、彈丸のごとく、狀《かたち》銀杏、及び、苦-楝(あふち)の子(み)のごとし。生《わかき》は青く、熟せば、黃なり。老いる時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、文《もん》、皺(しは)す。黃なる時、肥えて、油煠(あぶらげ)の形のごとし。其の蔕《へた》の下、二≪つの≫小≪さき≫子≪み≫、有り、相《あひ》粘《ねん》じて、之れを承《う》く、實の中に、一つ、核《たね》あり、堅く黑くして、正圓なること、珠《たま》のごとし。釋子《しやくし》[やぶちゃん注:仏教徒。]、取りて、念珠と爲す。殻の中、仁《じん》、有り、榛(はしばみ)≪の≫子《み》≪の≫仁のごとし【味、辛、≪氣は≫䐈《シヨク》[やぶちゃん注:「䐈」は、音「シヨク(ショク)」で、「粘る・粘つく・べとつく」の意。]。】。炒りて食すべし。相《あひ》傳ふ、「此の木を以つて、噐《うつは》≪の≫用と爲せば、以つて、鬼魅を厭《おさへつける》。」≪と≫。≪故に≫、俗、名づけて、「鬼見愁《きけんしう》」と爲す【『昔、神巫《かんなぎ》、有り、「瑶㲘(《やう》く)」と曰《い》≪へり≫。能く、百鬼を符劾《ふがい》す[やぶちゃん注:霊的な御符を以って責めること。]。鬼《き》を得れば、則ち、此の木を以つて、棒と爲し、棒もて、之れを殺す。』≪と≫。】。』≪と≫。

子皮《しひ/たねのかは》【卽ち、核《たね》の外《そと》≪の≫肉なり。微《やや》、苦、小毒、有り。】。』『喉《のど》≪の≫痙《しびれ》を治す。硏《けん》して、喉の中に納《いる》≪れば≫、立《たち》どころに、開く。垢《あか》を澣(あら)へば、靣䵟(をもくさ[やぶちゃん注:ママ。「靣(=「面」)䵟」(音「メンカン」)は顔のシミを言う語。])を去る。』≪と≫。

△按ずるに、無患子【俗に云ふ、「無久呂之《むくろじ》」。今、俗、云ふ、「豆布《つぶ》」。】は、其の樹膚《きはだ》、「山-茶-花(つばき)の木」に似、葉、椿(ヒヤンチユン)、及び、𣾰《うるし》の葉に似る。凡そ、一≪つの≫椏《きのまた》≪に≫、十二、三葉《やう》、對生《たいせい》す。小白花《しやうはくくわ》を開く。其の子《み》≪の≫殻《から》、黃《き》≪の≫皺《しは》≪ありて≫、蔕《へた》≪の≫下の二≪つの≫小≪とさき≫子《み》、及び中の黑≪き≫核《たね》の、形・色、皆、上に說《と》く所《ところ》のごとし。其の黑き核≪の≫頂《いただき》≪には≫、微白《ややしろき》毛、有り。俗に呼んで、「豆布《つぶ》」と名づく。其の小さき者は、念珠と爲し、大なる者は、童女、用ひて、錢《ぜに》に代《か》ふ[やぶちゃん注:遊び(商売遊びか)の際の銭の代わりにする。]。或いは、一≪つの≫孔《あな》を𮢶(ほ)り、小さき羽《はね》を植へて[やぶちゃん注:ママ。]、小さき板を以つて、之れを、鼓(う)ち上《あぐ》れば、則ち、頡-頑(とびあがり、とびあがり)、以つて、遊戱(たはぶれ)と爲す。之れを、「羽子(はご)」と稱す。正月、之れを、弄(もてあそ)ぶは《✕→「は」は不要。》なり。「鬼見愁」の義を取るか。其の子《たね》の皮、汁≪に≫煎じて、衣を洗へば、能く、垢を去る。又、水に漬けて、管《くだ》を以つて、吹けば、則ち、泡《あは》、脹《ふく》れ起≪こり≫、以つて、戱《たはむれ》と爲す【俗に云ふ、「奢盆《シヤボン》」。】。「無久呂之」は、卽ち、「木欒子(もくれんじ)」の畧なり。誤りて、「無-患(つぶ)≪の≫子《み》」の名と爲るか。

 

[やぶちゃん注:総標題の「無患子」と良安がチョイスした時珍の記載について言えば、日中共通で、

双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ Sapindus mukorossi

である。良安も、久しぶりに、本邦のムクロジと「本草綱目」の記載内容が一致するのに、甚だ安心したようで、彼自身の評も、とても余裕が感じられる自由な記載となっている。これは、ここまでの木本類の、日中の比定種が異なる鬱々とした森林のルング・ワンダリングの中では、特異点と言えるだろう。しかし乍ら、細かいことが気になる悪い癖のある杉下右京みたような御仁は、「ここで異名に『菩提子《ぼだいし》』を挙げているのは問題がある。」とツッコむかも知れない。但し、因みに、それは多くの読者がチラと頭を過ったであろうところの、

――「菩提樹」が、現代中国語の一解説によれば、アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana を意味しているから――ではない。

私が考えているのは、日中辞典で「菩提子」を引くと、あるものでは、

――ムクロジの、比較的、近縁種である「木患子」=モクゲンジ属モクゲンジ Koelreuteria paniculata を意味すると載るから――である。

無論、「本草綱目」の「無患子」の「釋名」の頭で「桓」「木患子」「噤婁」「肥珠子」「油珠子」「菩提子」「鬼見愁」と順に七つのムクロジの漢名を掲げており、しかも、この「菩提子」の他、「木患子」「肥珠子」「油珠子」の四つは、そもそもが、この「本草綱目」で正式に掲げられた異名なんだわさ(博物学的には、自分が正式命名したというのは、自分で自分に勲章を与える感じなんだろうが、本草学の中では、同一種に複数の名があるのは、混乱を招く元であり、よろしくない)。だから、良安に責任はないわけだ。しかも、時珍は他に、「集解」の中で、良安が引いた、「釋家取爲數珠故謂之菩提子」で使用しているだけなのである。従って、これは、確かにムクロジを指しているのである。――と言うかさ、実は、次の項の「木欒子(もくろじ)」つーのがさ、モクゲンジなんよ。――右京さんよ……。ウィキの「ムクロジ」を引く(注記号はカットした)。『東アジアから東南アジア・インドの温帯域に分布し、日本では寺社に植栽された巨木も見られる』。十『枚前後の偶数の小葉を持つ大型の羽状複葉で、秋は黄色に紅葉する。果実は石鹸代わりになり、soapberryとも呼ばれる。種子は羽根つきの羽根の玉に使われる』。『和名「ムクロジ」の由来は、実や種子に薬効があることから、中国名(漢名)で「無患子」といい、それを日本語で「ムクロシ」の読みを当てて、それが転訛したとされる。別名、ムク、シマムクロジ、ムニンムクロジ、セッケンノキともよばれる』。『ムクロジは』一七八八『年にドイツのヨーゼフ・ゲルトナー』(Joseph Gärtner 一七三二年~一七九一年:植物学者・医師)の「植物の果実と種子について」( De Fructibus et Seminibus Plantarum )で、『 Sapindus mukorossi という学名が与えられたが、種小名 mukorossi は日本語の俗称、つまりまさに「ムクロジ」の名に基づいたものであると考えられる。その後』、『ポルトガルの』イエズス会宣教師で、古生物学者・医師・植物学者であった『ジョアン・デ・ルーレイロが』、一七九〇『年に』「コーチシナ植物誌」( Flora Cochinchinensis )で記載した Sapindus abruptus 、イギリスのウィリアム・ロクスバラ』(William Roxburgh 一七五一年~一八一五年:スコットランドの医師・植物学者で、長年、インドの植物や気象の研究を行ったことで知られる)が、『ベンガル地方で見つけ』、『報告した Sapindus detergens 、ヒマラヤ地域やネパール、シレットに見られた Sapindus acuminatus 』、一九三五『年に日本の』『津山尚』(つやまたかし 明治四三(一九一〇)年~平成一二(二〇〇〇)年:植物学者)が『小笠原諸島母島の旧北村付近で採取された標本を基に『植物学雑誌』上で記載した Sapindus boninensis は、後にいずれも S. mukorossi のシノニムとして扱われるようになった』。『インドから東アジアの温帯およびインドシナにかけて分布し、具体的にはネパール、インド(旧ジャンムー・カシミール州、ヒマーチャル・プラデーシュ州、ウッタラーカンド州、アッサム州を含む)、ミャンマー、タイ、ラオス、ベトナム、中華人民共和国(海南省、南中央部、南東部)、台湾、朝鮮、日本(南西諸島、小笠原諸島、火山列島を含む)に自生し、パキスタンやジョージアにも持ち込まれている』。『日本では新潟県・茨城県以西の本州、四国、九州で見られる。低、あるいは山地に自生する。日本では、庭木にも植えられ、しばしば寺や神社に植えられている』。『落葉広葉樹の高木で、樹高は』七~十五『メートル』『ほどになり、中には』二十メートルを『超える巨木になる。樹形は逆円錐形になる。雌雄同株。樹皮は黄褐色で平滑、老木になると』、『裂けて』、『大きく剥がれる。一年枝は、太くて無毛、皮目が目立つ』。『葉は互生し』、四十~七十『センチメートル』『の偶数羽状複葉で、小葉は』八~十六『枚』、『つき、先端の小葉はない。小葉は長さ』七~十五センチメートル、『広披針形で全縁。葉軸に対して』、『小葉は完全な対生ではなく、多少』、『ずれてつく。晩秋になると葉は黄葉する。鮮やかな黄色から、次第に色濃くなって、葉が散るころには縮れながら』、『褐色が強くなる。枯れ葉も黄色を帯びた明るい褐色で、目立つ。ムクロジ目』Sapindales『の樹木は紅葉が鮮やかなものが多い』。『花期は』六『月ごろで、花は淡緑色で、枝先に』三十センチメートル『程度の大きな円錐花序となって』、『多数』、『咲く。花は直径』四~五ミリメートルで、『雄花には』八~十『個の長い雄蕊、雌花には短い雄蕊と雌蕊がある。花穂はほとんどが雄花である』。『果期は』十~十一『月ごろで、果実は直径』二センチメートルの『球形で、液果様で黄褐色に熟して、落葉後でも』一『月ごろまで残っている。果実のなかに黒くて大きな球状の種子を』一『個』、『含む』。『冬に落葉すると、葉痕の面は蝋質感があり、中央がやや色づいていて、維管束痕が』三『個あることから、笑った顔や猿の顔のようにも見える』(よしゆき氏のサイト「松江の花図鑑」の「ムクロジ(無患子)」のページがよい。多数の写真がある。猿顔のそれは「▼2011年3月5日 冬芽 城山公園」にある。拡大可能。ホンマ、猿やで!)『冬芽は葉痕に比べるとかなり小さい円錐形で、副芽を下に付ける。仮頂芽は側芽より小さく、芽鱗は』四『枚』、『つく』。『果皮はサポニンを含み、サポニンには水に溶かすと泡立つ成分があり、サイカチ同様』、『石鹸代わりに用いられる。種子は』、『かたく、数珠や羽根突きの羽根の元にある黒い玉の材料にされる』。『ムクロジの黒い果実の皮を、漢方薬では延命皮と称している。女性用避妊具として利用された』とある。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の四項目にある「無患子(ガイド・ナンバー[086-15a]以下)からのパッチワーク。

「椿(ヒヤンチユン)」ツバキではないので、要注意。双子葉植物綱ムクロジ目センダン科 Toona 属チャンチン Toona sinensis である。委しくは、先行する「椿(ちやんちゆん)」を、必ず、参照されたい。

「苦-楝(あふち)」中国では、狭義には、双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属トウセンダン  Melia toosendan を指す。本邦のセンダン Melia azedarach var. subtripinnata も含めてよい。先行する「楝」を参照のこと。

「油煠(あぶらげ)」の「煠」は、音「ヨウ・ チョウ・ソウ・ ジョウ」(現代仮名遣)で、意味は「やく・油で炒める・水で茹でる」の意。良安は現代の「油揚げ」の意で読みを振っているようである。

「『昔、神巫《かんなぎ》、有り、「瑶㲘(《やう》く)」と曰《い》≪へり≫。能く、百鬼を符劾《ふがい》す。鬼《き》を得れば、則ち、此の木を以つて、棒と爲し、棒もて、之れを殺す。』とあるのは、唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した「酉陽雜俎」(二十巻・続集十巻・八六〇年頃成立)の「續集」の「卷十 支植下」からである。原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、当該部の電子化されてある。私は、同書を東洋文庫版の今村与志雄訳注で所持する。当該部の訳を、まず、引用する。

   《引用開始》

 無患木は、焼くと、たいへん、香りがよく、悪気よけになる。一名、噤婁(きんろう)といい、一名、桓(かん)という。

 むかし、瑶(よう)※[やぶちゃん注:「月」(へん)+「毛」(つくり)。]という不思議な力をそなえた巫(みこ)がいた。符(ふだ)をつかって百鬼を退治し、魑魅(ちみ)を捕虜にして、無患木でこれを撃ち殺した。世人は、きそってこの木を取って、道具をつくり、それでもって鬼を追いはらった。そこで無患木という。

   《引用終了》

そして、「無患木」と「瑶(よう)※」について、今村氏の注が附されてある。前者では、同じくムクロジに比定同定され、「本草綱目」の異名も並べておられ、最後に『俗に鬼見愁というのは、道教の分野で禳解方に用いるからであり、仏教界で取って数珠にするから菩提子という』とある。この「禳解方」(じやうかいはう)とは、さまざまな災厄や魑魅魍魎から守るための厄払いの道教の術式を言う。而して、大切な部分なので、「瑶(よう)※」の注は全文を示す。

   《引用開始》

 案ずるに、晋の崔豹(さいひょう)の『古今注』下によると、「むかし、宝毦(じ)という名の不思議な力をそなえた巫(みこ)がいて、符でもって百鬼を退治した。鬼をつかまえると、この木で棒をつくり、鬼をなぐり殺した。世人はこの木は鬼たちにこわがられていると伝え、競ってこの木を取って器具をつくり、邪鬼をはらった。だから無患という」(『古今注・中華古今注・蘇氏演義』一九五六年四月、商務印書館刊、上海)。この条は、後唐の馬縞(こう)の集『中華古今注』下(左氏『百川学海』甲集)に収め、それでは、巫の名を「珤(ほう)※[やぶちゃん注:先の引用の字と同じ。以下も同じ。]」としている。巫の名が、時代によってかわって伝えられていたのであろう。『酉陽雑俎』の「瑶※」は、そのことを裏書きしている。

   《引用終了》

とあった。さて、良安も、今村先生も、一貫して「みこ」と読みを附しているので、この「神巫《かんなぎ》」は女性のそれであり(そもそも本邦では男性のシャーマンは「覡(げき)」と区別される)、所謂、「巫女」(ふじょ)であったことが確定出来るのである。

「山-茶-花(つばき)の木」ここは、本邦の椿(つばき=藪椿:ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica )でよい。少なくとも、中国語で「ツバキ」は「山茶花」「日本椿花」などと表記され、言っておくと、ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属サザンカ Camellia sasanqua は、日本固有種で、ご覧の通り、ツバキの仲間であって、両者は、よく似ており、判別は素人には難しい。花の散り方がツバキは丸ごと、ポトッと落ちるに対して、サザンカはパラパラと一枚ずつ落ちる。通常のツバキは香りがないのに対し、サザンカは香り豊かである。最後に、実の違いがある。椿の実はツルツルしているが、サザンカのそれは毛があり、ツバキは子房に毛がないのに対し、サザンカのそれには、毛があるのである。

「𣾰《うるし》」ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum 。先行する「𣾰」を参照されたい。

「奢盆《シヤボン》」シャボン・サボン。石鹸。スペイン語の「jabón」(音写すると、「ハボン(ヌ)」に近い)の古い発音からか。

「木欒子(もくれんじ)」割注したが、次項を俟たれたい。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧五 女房下女をあしくして手のゆびことごとく虵になる事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧五 女房、下女を、あしくして、手のゆび、ことごとく虵(へび)になる事

○紀州三原(みはら)といふ所に、さる夫婦、ありけり。

[やぶちゃん注:「紀州三原(みはら)」不詳。実は、岩波文庫の高田衛先生の脚注には、『現在の和歌山県田辺町の古名』と書かれてあるのだが、今回、それを見て、『え!?! そうなんだ?』と最初はびっくりした。なぜなら、私は、田辺所縁の「智の巨人」南方熊楠の著作を幾つか、ブログ・カテゴリ「南方熊楠」他で電子化注しているのだが、「紀州俗傳」等でも、「三原」という旧地名は、全く出てこないからだった。而して、ネットで調べてみたが、現在の田辺市が、古く「三原」と呼ばれていたという事実は、全く検索に掛ってこないのだ。国立国会図書館デジタルコレクションの「和歌山縣田邊町誌」(田邊町誌編纂委員会編・昭和四六(一九七一)年多屋孫書店刊。但し、扉のヘッドを見れば、判る通り、これは昭和五年に編纂が行われた原書の戦後の再刊物である)も調べたが、地名の変遷記載には、「三原」は、一ヶ所も、ない、のだ。私は、結果して、同書の「一〇、地名」を管見し、「みはら」という発音に似たものがないかどうかも、調べた。しかし、ない。高田先生は、如何なる資料に基づいて、この明確な注を附されたのだろう? 私は読書の中で、十代後半より、先生の書物には、かなり親しんでいるのだが、お訊ねする伝手も、ない。されば、「不詳」とせざるを得ないのである。

 下女を、一人、つかひけり。

 此の下女、みめかたち、すこし、よかりけり。

 夫(をつと)、つねづね、かれに、なさけらしきふり、ありけるを、此《この》女房、大きにねたみ、そねみ、男、他行《たぎやう》しけるあとにては、いろいろ、なんだいを、いひかけては、かしらのかみを、つかみ、ふせては、やがて、やずり[やぶちゃん注:不詳。岩波文庫でも高田衛氏は、『脱字か。不詳。』とされる。「ひきずり」辺りか?]、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、かなはざる手わざを、させ、ゑせざれば、五つの手の指を、「かなづち」をもつて、うちひしぎ、時ならず、「せいし」[やぶちゃん注:「誓紙」。夫にこの仕打ちを語らないという誓約文書である。]をかゝする事、度〻(たびたび)に及べり。

 たびかさなれば、程なく、わづらひ付《つき》、つゐに[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]死《しし》けり。

 女房、

「今は、こゝろやすし。心にかゝるもの、なければ、みち、ひろし。」

とて、よろこびあへる[やぶちゃん注:独りで、何度も、繰り返し、喜んだのである。]事、かぎりなし。

 

Yubihebi

[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ、第二参考底本はここ。後者は、落書、多数で、何故か、女房の顔を潰してあるが、指先が蛇に変じた様子が、最もはっきり見える。]

 

 ある時、此女房、指を、わづらひいだし、さまざま、れうじ[やぶちゃん注:ママ。「療治(れうぢ)」。]するに、次㐧次㐧に、あしくなりて、後(のち)には、ゆびのさき、ことごとく虵《へび》のごとくなりて、くちを、あき、

「へらへら」

と、「した」のやう成《なる》物を出《いだ》し、ともに、

「ひた」

と、まつはり、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]、くひあひ、其《その》くはれけるゆびの、いたむ事、五躰(ごたい)しんぶん[やぶちゃん注:「身分」。五体(頭・首・胸・手・足。また、頭・両手・両足。漢方では、筋・血脈・肌肉(きにく)・骨・皮とする)全身の節々。]も、さけ、はなるゝかとおぼえて、くるしき事、いふばかり、なし。

「あら、くるしや、かなしや、」

といふ事、五十日ばかり、なやみて、つゐに、死(しゝ)けり。

 むくひ、しなじな、世におほしといへども、かやうの因果は、「ぜんだいみもん」、ためしなき事也。

 未來[やぶちゃん注:来世。]はうたひもなき「じやどう」[やぶちゃん注:ママ。「虵道(じやだう)」。蛇の住む世界の意だが、「邪道」に掛けているのであろう。]ならん。

 是は、わかやまの、「入(にう)かい」と申《まうす》房主(ばうず)[やぶちゃん注:「坊主」に同じ。]の、かたられける。

 

2024/07/09

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧四 鰐れうしのくびを取事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。「鰐」は無論、サメのこと。推定種は後注で。]

 

 㐧四 鰐(わに)、れうしのくびを取《とる》事

○能登うらに、三郞大夫といふ猟師あり。

 つねに、親に「ふかうのもの」にて、れうに、いでゝ、「うを」を、とらざれば、ふくりうして[やぶちゃん注:ママ。「腹立(ふくりふ)して」。]、かへりては、親に、つらくあたり、ある時は、つえ[やぶちゃん注:ママ。]をもつて、おやを、うちなやます事、度々(たびたび)に及べり。

 食物(しよくもつ)に付《つき》ても、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]は、たくさんにくひて、親には、おしみ[やぶちゃん注:ママ。]、時〻《ときどき》には、くれず。

 ある時、れうに出《いで》ける。ころしも、六月中旬の事なるに、ねむたくして、ことに、小舟(せうせん)の事なれば、ふなばたに、うちもたれ、かうべを、水ぎはまで、さげて、よねんなく、ねけるに、かの鰐といふうを、うきあがつて、れうしの首(くび)を、

「ふつ」

と、くひ切《きり》て、しづみけり。

 舟中(せんちう)は、只(たゞ)一人の事なれば、しる人も、なし。

 もとより、ぬし、なければ、此ふね、ゆられゆくを、とも[やぶちゃん注:「友」。]猟師の、見付(み《つけ》)て、家に、かへり、妻子(さいし)に、

「かく。」

と、かたる。

 妻子、大きに、おどろき、此しだいを、目代(もくだい)へ、ありのまゝに、申《まうし》あぐる。

 奉行、うらのものどもを、めして、「けんだん」[やぶちゃん注:「検斷」。]あるに、しるしなくして、其ぶんにて、うちすぎぬ。

 四、五日ありて、さる人、「わに」を、つりけるが、其大きさ、五ひろばかりも、あるらん。はまベに、つりあげて、はらを、あげて[やぶちゃん注:ママ。「開けて」。]、見ければ、くだんのれうしの首(くび)、有《あり》。

「扨こそ、鰐のくひける。」

と、しれり。

 日比(ひごろ)、親に、ふかうのともがらなるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、おもい[やぶちゃん注:ママ。]ざる「いぬ死(じ)に」[やぶちゃん注:多分、「死」の読みの「じ」は有意に上の方にあることから、「じに」と彫るところを、落したものと推定される。]、あへり。

 因果のどをり[やぶちゃん注:ママ。「道理(だうり)」。]、かくのごとし。

 此はなしは、加賀衆《かがしゆ》の、かたりける。

 寬永中ごろの事也。

[やぶちゃん注:「五ひろ」「尋」(ひろ)は、両手を左右に広げた際の幅を基準とする身体尺。当該ウィキによれば、『学術上や換算上など抽象的単位としては』一『尋を』六『尺(約』一・八『メートル)とすることが多いが、網の製造や綱の製作などの具体例では』一『尋を』五『尺(約』一・五『メートル)とする傾向がある』とあり、昔のそれは、当時の一般人の身長から後者を採るべきかと思う。それで換算すると、約七・五メートルになる。「人食いザメ」としてよく知られる大型のサメは、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias で、当該ウィキによれば、『現在』、『広く』言われている、実際の『最大全長は』六~六・四メートル『である』が、『推定値ながら、台湾沖やオーストラリア沖などで、切り落とされた頭部の大きさなどから』、『全長』七『メートル以上、体重』二トン五百『キログラム以上と推定される個体が捕獲されたことがある』とあるので、事実なら、本種としておこう。

「寬永中ごろ」寛永は二十一年十二月十六日(グレゴリオ暦一六四五年一月一三日)までであるから、寛永八年(正月元旦は同じく一六三一年二月一日)から寛永十四年(同じく一六三八年二月十三日まで)が相当する。事実ならね。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧三 一じやうばう執心の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

  第三 一じやうばう、執心(しうしん)の事

○寬永年中に、佐渡の國「はも」といふ所に、「いちじやうばう」と申《まうし》て、ありける。

[やぶちゃん注:「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。徳川家光の治世。

『佐渡の國「はも」』現在の佐渡市羽茂(はもち)地区(グーグル・マップ・データ)であろう。小佐渡の沢崎鼻や宿根木のある半島の、中間部分に当たる。]

 せんざい[やぶちゃん注:「前栽」。]に柹(かき)の木を、うへて、とし比(ごろ)、是を、あひ[やぶちゃん注:ママ。]しけるが、「むじやうへんめつ」[やぶちゃん注:「無常變滅」。]のならい[やぶちゃん注:ママ。]とて、死(しゝ)けり。

 ある時、弟子の房主(ばうしゆ)、此木を、

「きりて、たきゞに、せん。」

とて、きりてけり。

 扨《さて》、わりて、見るに、中に、くろく、文字(もんじ)、あり。

 ふしぎにおもひ、よく見れば、

「いちじやう房」

といふ、文字、なり。

 あやしくおもひ、なから[やぶちゃん注:「半ら」。木の真ん中の辺り。]、

「ひた」

と、わりけるに、わるごとに、文字、ありけり。

「是は。いか成《なる》事ぞ。」

と、いふに、

「房主、ぞんじやう[やぶちゃん注:「存生」。]の時、おしく[やぶちゃん注:ママ。「惜(を)しく」。]おもひ、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、其心、さいごまで、おもひつめて、死《しし》けり。其執心、木の中に、とゞまりける。」

と、きく人ごとに、申《まうし》あへり。

 あさましき心也《なり》。

 是《これ》は、近年の事也。

 山科の人、佐渡に、久しく、すみ、上《のぼ》りて、かたられける。

[やぶちゃん注:実は、佐渡市羽茂(はもち)地区の羽茂大崎(はもちおおさき)に、嘗つてあった法乗坊(歴史的仮名遣では「はふじやうばう」)という寺の跡地に、大木の「江戸彼岸」の桜(双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属シダレザクラ変種・品種エドヒガンCerasus itosakura var. itosakura f. ascendens :日本に自生する十種、或いは、十一種あるサクラ属の基本野生種の一つ)の大木があることで有名である。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「さど観光ナビ」の「法乗坊のエドヒガン」に、『法乗坊跡地で茅葺屋根の建物に寄り添うように枝を拡げています。樹齢は』二百五十年から二百六十『年と伝わり、根元周り』六・九メートル、『樹高』二十一メートル、『枝張りは東西南北ともに』二十六メートルに『およびます。地元の人々からは「法乗坊の種蒔き桜」と呼ばれ、農作業の目安として親しまれています』とある。作者は、この事実を知っていたと思われ、本話に柿として転用したのであろう。私は佐渡好きで、三度、行っているが、この桜は見ていない。四度目は、是非、見たく思っている。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 肥皂莢

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ひさうけう

 

肥皂莢

 

 

本綱肥皂莢生髙山中其樹髙大葉如檀及皂莢葉五六

月開白花結莢長三四寸狀如雲實之莢肥厚多肉內有

黑子數顆大如指頭不正圓其色如𣾰而甚堅中有白仁

如栗煨熟可食十月采莢氣味【辛温微毒】 治風濕下痢便血瘡癬腫毒【相感志言肥皂莢水死金魚辟馬螘麩見之則不就亦物性然耳】

 

   *

 

ひさうけう

 

肥皂莢

 

 

「本綱」に曰はく、『肥皂莢、髙山の中に生ず。其の樹、髙く、大≪なり≫。葉、檀(まゆみ)、及び、皂莢(さいかし[やぶちゃん注:ママ。前項でも標題で「さいかし」とする。])の葉のごとし。五、六月、白花を開き、莢≪さや≫を結ぶ。長さ、三、四寸。狀《かたち》、「雲實《うんじつ》」の莢のごとく、肥厚して、肉、多し。內《うち》に、黑≪き≫子《たね》、數顆《すうくわ》、有り。大いさ、指の頭のごとく≪して≫、正圓《せいゑん》ならず。其の色、𣾰《うるし》のごとくして、甚だ、堅し。中に、白≪き≫仁《じん》、有≪りて≫、栗のごとし、煨《うづみやき》し、熟して[やぶちゃん注:十分に灰の中に埋み焼きにして。]、食ふべし。十月、莢を采る』≪と≫。『氣味【辛、温。微毒。】 風濕《ふうしつ》[やぶちゃん注:リウマチ。]・下痢・便血・瘡《かさ》・癬《くさ》[やぶちゃん注:湿疹。]・腫毒を治す【「相感志」に言はく、『「肥皂莢水《ひさうけうすい》」は金魚を死≪なせ≫、馬螘《バギ/おほあり》[やぶちゃん注:大蟻。]を辟《さ》く。麩《むぎこ》、之れに見《まみ》≪えても≫、就《つ》かず[やぶちゃん注:付着しない。]。則ち、亦、物性の然《しかれ》るのみ。』≪と≫】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、「本草綱目」本文中に最初に出る「肥皂莢」に割注して、『(マメ科シャボンサイカチ)』とあるが、これは、正規の和名ではない。当該種は、

マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科 Caesalpinioideaeギムノクラドゥス(中文名:肥皂莢)属 Gymnocladus 肥皂莢(中文名)Gymnocladus chinensis

である。正式和名はないと思われる(ある植物の百科事典を標榜するサイトでは、この学名を添えながら、トンデモ種同定をしていて、スイセンの一種としているのには、空いた口が塞がらなかった。致命的キズ物であるので、当該サイトと当該記事は伏せる。学名で検索すると、頭に出るから、すぐ判ってしまうが。また、ある学術資料(クレジット一九九二年附)では、このギムノクラドゥス(肥皂莢)属を『アメリカサイカチ属』とするのを見つけたが、これが、もし正式和属名とならば、甚だ、おかしいと思う。同属は五種であるが、アメリカの中西部・北部産の種は一種のみであり、残りの他の四種(本種を含む)は、中国中部・中国南東部(広西)・インド・ベトナム・ミャンマーだからで(英文ウィキの「 Gymnocladus を参照した)、謂わば、「洋頭東區肉」になっちまうからである)。閑話休題。以上を確定出来るデータは、「維基百科」の「肥皂莢」で、同種の英文ウィキには、俗名を“soap tree or Chinese coffeetree”とする。「石鹸(シャボン)の木」・「中国の珈琲(コーヒー)の木」である。そこには、『中国中部原産』とし、『葉は大きな二回羽状の複葉で、最初は紫色、後に緑色に変化する』と書かれてある。なお、東洋文庫訳の『シャボンサイカチ』もいただけない。言うまでもなく、素人は容易にサイカチ属 Gleditsia の一種と間違えるからである。この「肥皂莢」の前項が「皂莢」とくりゃあ、猶更だ! 私のような素人は、東洋文庫を読んで、『シャボンサイカチ』を百パー、サイカチ属だと思うね。当時(私は初版で所持しているが、刊行は一九九〇年で、三十四年前だ)、調べても、本種の日本語記載は、殆んど、出てこなかっただろうからね。今だって、信用し得たのは、私がネットの植物譜で最も信頼するサイト「跡見群芳譜」の「まめ(豆)」だけだったもの。二箇所に現われる。部分引用しておく。学名は斜体になっていないのは、ママである。

   《引用開始》

シロップ属 Guilandina(鷹葉刺屬)世界の熱帯・亜熱帯に約19種

   シロップ G. bonduc(Caesalpina bonduc;刺果蘇木・臺灣雲實・老虎心)

   G. dioica(Gymnocladus dioica;北美肥皂莢)

   ハスノミカズラ G. major(Caesalpina major, C.globulorum, C.jayabo)

   G. minax(Caesalpina minax, C.morsei;

      喙莢鷹葉刺・喙莢雲實・南蛇簕・蓮子簕・石蓮簕・苦石蓮)

      『中国本草図録』Ⅰ/0115

      『中薬志Ⅱ』105-106 『全国中草葯匯編』上/582 『(修訂)中葯志』III/550-551

   Q. nuga(Caesalpina crista;華南雲實)

Gymnocladus(肥皂莢屬)

   G. chinensis(肥皂莢) 『全国中草葯匯編』下/385

   《引用終了》

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の項目にある「皂莢」(ガイド・ナンバー[086-14a]以下)からのパッチワーク。

「檀(まゆみ)」双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus Blume var. sieboldianus 。先行する「檀」を参照。

「皂莢(さいかし)」ここは中国のそれであるから、双子葉植物綱マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ属トウサイカチ(唐皂莢)Gleditsia sinensis で、本邦の「さいかし」=「さいかち」は、サイカチ属サイカチ Gleditsia japonica となる。前項「皂莢」参照。

「雲實《うんじつ》」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ジャケツイバラ属ジャケツイバラ Biancaea decapetala の別称。当該ウィキを見られたい。本種は有毒植物とされるが、同ウィキには、『有毒植物』とのみあるだけで、具体記載がないのは、マズいね。昔から、海藻・海草類でお世話になっている鈴木雅大氏の素敵なサイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」の同種のページに、『毒性成分は不明ですが』、『果実に毒があり』、『誤食すると中毒を起こすそうです。』とあった。

「相感志」「相感志」は「物類相感志」で、元は宋の蘇軾が書いた百科事典であるが、それを、彼の弟子かと思われる賛寧が撰した「東坡先生集物類相感志」であるらしい。

『「肥皂莢水《ひさうけうすい》」は金魚を死≪なせ≫、馬螘《バギ/おほあり》[やぶちゃん注:大蟻。]を辟《さ》く。麩《むぎこ》、之れに見《まみ》≪えても≫、就《つ》かず』サイカチと同じで、この種もサポニン(saponin)を多く含む。サポニンは、動物類の、特に魚類系には、広汎に有意な毒性を持つ(それを防衛武器として持っているのが、有名なナマコ類である)。麦粉が附着しないのも、その界面活性作用による。近代まで、よく用いられた漁法「毒揉み」には、サポニンを含む植物が、山椒や胡桃(くるみ)に次いで、よく用いられた。そうさな、脱線だが、「毒揉み」と言えば、『「想山著聞奇集 卷の參」 「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」』が忘れられんね。未読の方は、是非。お薦めである。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 目錄・㐧二 我子をすいふろに入ていり殺事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。「すいふろ」は「水風呂」。]

 

  第二 我子(わがこ)を「すいふろ」に入《いれ》て、いり殺(ころす)事

○去(さる)さぶらい、子を、二人、もちける。

 兄は、十一、次は、八つになりける。

 或時、父、

「つよく、せつかん、せん。」

とて、すいふろを、こしらへさせ、二人の子どもを入(いれ)、上(うへ)に、ふたを、し、大き成《なる》石(いし)を、をき[やぶちゃん注:ママ。]、我《われ》と下知して、ゆのしたを、ひた物[やぶちゃん注:副詞。「無暗に」。]、たかせ、ほどなく、二人ともに、いりころしけり。

 二人の子もりが、是を、みて、大きに、かなしめども、親(おや)のしはざなれば、せんかたなし。

 扨《さて》、主人、下人を、めして、いはく、

「なんぢら、此事を、ずいぶん、他言(たごん)する事、なかれ。もし、外《そと》より、しれなば、一〻《いちいち》[やぶちゃん注:ことごとく。]、曲事(くせごと)なり[やぶちゃん注:「処罰ものだ!」の意。]。」

と申付《まうしつく》る。

 下〻(したした)も、我子を、よしなき事に、ころすほどの主人なるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、後日(ごにち)を、をそれて[やぶちゃん注:ママ。]、みな、口を、とぢけり。

 しかれども、「天しる、地しる。」なれば、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]は、主君へ、もれ聞《きこ》へ[やぶちゃん注:ママ。]、主君の、いはく、

「もつとも、我子なれば、せつかんするも、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]也。しかしながら、せつかんの品(しな)[やぶちゃん注:程度。レベル。]こそ、おほけれ。ことに、一人ならず、二人の子を、いりころすといふ事、前代未聞、めづらしきせつかんの仕樣(しやう)ならずや。たゞし、本性(ほんしやう)のものゝ、なすわざに、あらず。扨《さて》は、狂氣(きやうき)のものなりと、おぼゆ。しかれば、さやうのものに、大分(だいぶん)のふちをくれ、何かせん。いそぎ、出《いだ》さるべし。」[やぶちゃん注:「本性」第二参考底本では、『木性』であるが(ルビは『ほんしやう』)、誤刻であるので、第一参考底本を採用した。]

と、仰付《おほせつけ》られたり。

 さて郡内(ぐんない)のうちは、申《まうす》に及《およば》ず、きんごく[やぶちゃん注:「近國」。]までも、せかれ、二度(ふたゝび)、奉公ならずして、ある山ざとヘ、引《ひき》こもりけり。

[やぶちゃん注:「せかれ」不詳。「急かれ」「塞(堰)かれ」「背かれ」などを考えたが、ぴったりくる意味が見当たらない。第二参考底本で、別な判読も試みたが、しっくりくるものはない。]

 されども付《つき》したがふものとては、二人の「子もり女」ばかりなり。

 あさましき次㐧也。

 後(のち)には、二人の女、心を合《あはせ》、主人一人、すてをき[やぶちゃん注:ママ。]、ちりぢりに、おちうせぬ。

「かなしきかな、一《いつ》しん[やぶちゃん注:「一身」。]と成《なり》て、たれを、たのむべき便(たより)もなく、後には、乞食(こつじき)となりて、因果をさらしける。」

と、申《まうし》つたゆ[やぶちゃん注:ママ。]。

 されば、世にすむともがらは、かりにも、法(はふ)にもれたる事を、せまじき物かな。主(しゆ)あるものは、其主のとがめ、あり。あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、民・百姓(たみひやうくしやう)は、地頭(ぢとう)・奉行といふものありて、是より、罪をたゞす。それぞれのわかち、あれば、とかく、わがまゝを、ふるまふ事もならず。もし、又、内證(ないせう[やぶちゃん注:ママ。])にて、「とが」を行へば、人しれず、天ばつを、うくる。何事も、𢙣事(あくじ)は、内外(ないげ)ともに、よくよく、つゝしむべき事也。

[やぶちゃん注:「地頭」江戸時代、地方知行地(じかたちぎょうち)を持っていた、幕府の旗本や、私藩の給人(きゅうにん)の通称。小領主。また、一地域の領主の俗称。]

2024/07/08

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 目錄・㐧一 酒屋伊勢としごもりの事幷太神宮ぢごくを見せしめ給ふ事

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 目錄・㐧一 酒屋伊勢としごもりの事幷太神宮

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

善惡報はなし 五之目錄

 

㐧 一 酒屋(さかや)伊勢(いせ)としごもりの事幷《ならびに》太神宮(だいじんぐう)

    夢中(むちう)に地獄(ぢごく)を見(み)せ給ふ事

㐧 二 我子(わがこ)をすいふろに入(いれ)いりころす事

㐧 三 一乘坊(いちぜうばう)執心(しうしん)の事

[やぶちゃん注:読みの「ぜう」はママ。「じよう」のままでよい。]

㐧 四 鰐(わに)に猟師(れうし)首(くび)をとらるゝ事

㐧 五 女房下女(げぢよ)をあしくして手(て)のゆびことご

    く虵(へび)に成《なる》事

㐧 六 下人(げにん)生(いき)ながら土(つち)にうづまるゝ事

㐧 七 情(なさけ)ふかき老母(らうぼ)果報(くわはう)の事

㐧 八 女の一念(ねん)來(きたつ)て夫(をつと)の身(み)をそぎ取《とる》事

㐧 九 女金銀(きんぎん)をひろゐしにかへす事

[やぶちゃん注:「ひろゐ」はママ。]

㐧 十 參宮(さんぐう)の女をはぎ天罸(てんばつ)の事

第十一 妄㚑(まうれい)とくむ事

[やぶちゃん注:「くむ」は「組む」で、「取っ組み合いをする」の意。]

第十二 衣類(いるい)わきざしをはぎ取《とり》うりあらはるゝ事

第十三 同行(どうぎやう)六人ゆどの山(さん)禪定(ぜんぢやう)の事

    一人犬(いぬ)となる事

第十四 䑕(ねずみ)のふくをとり報(むくい)來りて死(しぬる)事

 

 

善惡報はなし卷五

 㐧一 酒屋、伊勢參宮の事太神宮、ぢごくを見せしめ給ふ事

○洛陽に、さる酒屋、いせへ、「としごもり」しけるが、其夜(《その》よ)、太神宮、ゆめのうら[やぶちゃん注:「中」に同じ。]に御つげましまして、いはく、

「なんぢ、是まで參る心ざし、實(まこと)にゝたれども、なんぢは大き成《なる》、つみ、あり。しさいは、さけに、水(みづ)を、まぜて、うり、または、うしろぐらき、あたいをとる事、非道にあらずや。もし、「ゑしんさんげ」[やぶちゃん注:「𢌞心懺悔」。「𢌞心」は「仏教の教えを信じて心を誠の善へと向け換えること」。]して、今より、しんじつのおもひに、ちうして、れんちよく[やぶちゃん注:「廉直」。]に、をこなふ[やぶちゃん注:ママ。]に、をゐて[やぶちゃん注:ママ。]は、めでたかるべし。とてもの事になんぢに未來生所(みらいのしやうじよ)を、みせん。いざ、我に付《つき》て、來《きた》るべし。」

と、の給ふ。

[やぶちゃん注:「としごもり」「年籠り」。大晦日の夜に社寺に参籠し、新しい年を迎えることを言う。]

 

[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ、第二参考底本はここ。太神宮の服装は唐服で違和感があり、さらに、後者では、前者では判らない太神宮の頭頂部の飾りが、何んと! 五輪塔であることが、判る!

 

 かしこまつて、ゆく時、大き成《なる》もりのうちへ、ゆくに、何かはしらず、大の男二人、大き成《なる》かまを、すへて、たき[やぶちゃん注:「焚き」。]ける。

 酒屋、とふていはく、

「是は、何と申《まうす》いはれありて、かやうに、かまを、すへ、たき給ふや。」

二人の男(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])、こたへて、いはく、

「さればこそ。是は大ぢごくのうち也。また、此かまをたく事、別のしさいに、あらず。此所ヘは、『ゑんぶだい』[やぶちゃん注:「閻浮提」。仏教で「人間世界・現世」と同義。]にて、酒を、つくり、水を、まぜて、うり、あたい[やぶちゃん注:ママ。]を、よくに、とる者、『しやば』[やぶちゃん注:「娑婆」。]のえん、つきて後、此所《ここ》へ來り、此かまの中に入、たごう[やぶちゃん注:ママ。「多刧(たごふ)」。極めて長い時間。永劫に同じ。]の間、かしやく[やぶちゃん注:「呵責」。]する。」

と、こたへける。

 此人、つくづくと、きゝて、

『扨は。我事(《わが》こと)也(なり)。』

と、おもひ、をそろしき[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]事、かぎりなくて、そこを、いそぎ、はしり出《いで》、

『神前に、かヘる。』

と、おもへば、夢、さめぬ。

 をそろしき事、身のけもよだつて、おぼえけり。

 さてしもあらざれば[やぶちゃん注:「「然てしも有らず」。連語。副詞「さて」+副助詞「しも」(強調)+ラ変動詞「あり」未然形+打消の助動詞「ず」で、「そのままにしておくわけには、とても、いかない」「かくしてばかりでは、とても、いられない」の意。]、とくとく、下向(げかう)し、家に、かヘり、妻子に、夢のつげ、一〻《いちいち》、かたり、 兄弟・しんるい[やぶちゃん注:ママ。]には、ふかく、かくし、後には、

「此商買(しやうばい)しかるべからず。」[やぶちゃん注:古くは「商賣」は、かくも書いた。]

とて、よなる[やぶちゃん注:「他(よ)なる」。別な。]商買を、しける。

「今生(このじやう)は、とても、かくても、一たんの[やぶちゃん注:ただ仮初の。]いとなみなり。未來[やぶちゃん注:来世。]こそ、をそろしけれ。ありがたくも、太神宮、御つげ、ましまさずば、此どんよくの業力(がういき[やぶちゃん注:ママ。])ふかき我らが、何として、さんげの心に、ぢうす[やぶちゃん注:「住す」。]べきや。夢中に、ぢごくを見せしめ給ふ、しからずば、いよいよ、罪惡、ぢんぢう[やぶちゃん注:ママ。「甚重(じんぢゆう)」。]にして、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、かの、かまのうちに、おち入《いり》、ごくねつの、ほのほに、身《み》を、こがさん物を。かたじけなくも、御じひの御つげをかうぶる事、よろこびの中の、よろこび、こうがう[やぶちゃん注:「曠劫」か。]の大慶(たいけい)、何事か、是《これ》に、しかんや。」

と。いよいよ、しん[やぶちゃん注:「信」。]を、はげましける。

 是は、近年の事なれば わざと其名を、しるさず。

「『いせとしごもり』は、寬文三年極月(ごくげつ)下旬の事なり。」

と、きこゆ。

[やぶちゃん注:「寬文三年極月(ごくげつ)下旬」グレゴリオ暦では一六六四年一月十八日から、同一月二十七日(寛文四年元旦)に当たる。但し、主人公が自宅へ帰ったのは、元日の未明であろう。]

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷四 㐧八 妄霊來てかたきをたゝき殺事 / 卷四~了

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

 㐧八 妄霊(まうれい)來(きたつ)てかたきをたゝき殺(ころす)事

○爰(こゝ)に瀨助(せすけ)と申《まうす》もの、あり。國(くに)・所(ところ)、失念しける。

 かれが女房、みめかたち、たぐひなき美女の聞えありけり。

 さる代官、なひなひ[やぶちゃん注:ママ。「内〻」。]、見をき[やぶちゃん注:ママ。]て、ほしくおもひぬれども、みち[やぶちゃん注:方途。]なければ、せんかたなくて、ありけるが、つくづくとおもひ出《いだ》して、かれがかたへ行く、みこ[やぶちゃん注:「巫女」。]をたのみ、なかだちさせて、文《ふみ》をつかはしければ、瀨助、かたく、せいしけるにより、中〻、手にだにもとららざれば、

「とやあらん、かくやあらん、」

と、日を、をくり[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 折ふし、瀨助、少し、法(はう)を、そむきける事、ありしを、わきより、うつたへけり。

 其《その》罪(つみ)の「ひやうぢやう」[やぶちゃん注:「評定」。]ありしを、此代官、きゝつけて、

『さいはい[やぶちゃん注:ママ。「幸(さひはひ)」。]の折がらなり。』

と思ひ、かろき「とが」を、おもくいひなして、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、西国へ、ながさるゝ道にて、はかなくなりけり。

 代官、いよいよ、

『嬉しき事。』

に思ひ、扨《さて》は、ねがふ所のみち、ひろくなりて、女の母に、金銀、おほく、とらせ、やがて、うばひとりて、けり。

 此女も、つねづね、瀨助。つよくあたる事を、ふそくに思ひしが、今はふせぐ[やぶちゃん注:「防ぐ」。遮り留める。]ものもなく、代官にしたがひ、「かいらうどうけつ」[やぶちゃん注:「偕老同穴」。]のちぎり、あさからざりしが、此女、代官の家に行きし日より、瀨助がおもかげの、かたはらにあるやうに見えて、心ぐるしき事、かぎりなし。

 女、夫(をつと)の代官に、

「かく。」

といへば、ある山ぶしをよび、さまざま、いのり、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、神明(しんめい)に「きたう」しけれども、其《その》しるしなく、ある夕ぐれに、瀨助、來《きたつ》て、「つえ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]」をもつて、代官を、うしろより、うちける。

 代官、

『あつ。』

と思ひ、ねぢかへりて[やぶちゃん注:「捩ぢ返りて」。]見ければ、瀨助、正(まさ)しく、杖をもつて、かさねて、又、うたんとするを、やがて、代官、とびかかつて、くまんとすれば、其まゝ、きへ[やぶちゃん注:ママ。]て、うせぬ。

 かく、する事、度〻(たびたび)に及びければ、ほどなく、わづらひつき、いくほどなくして、「だいくわん」、死《しに》けり。

「瀨助、つえをもつて、うちけるあと、代官のせなかに、死期(しご)まで、黑く、みへ[やぶちゃん注:ママ。]ける。」

と、申《まうし》あへり。

 其後《そののち》、女房も、いかほどなくして、死《しに》けり。

 「ざんげん」[やぶちゃん注:「讒言」。]をもつて、人を罪におちいらしめしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、ほどなく、其むくひ、來りて、剩(あまつさへ)二人ながら、取《とり》ころされけり。

 「ゐんが」[やぶちゃん注:ママ。「因果(いんぐわ)」。]の程こそ、をそろし[やぶちゃん注:ママ。]けれ。

 是は、

「寬文九年秋のころの事也。」

と、うけたまはる。

[やぶちゃん注:「死期(しご)」岩波文庫の高田衛氏の脚注には、『ここでは死後のこと。』と注されておられるが、敢えてこう言うべき理由は、私は、ない、と思う。そもそも「死期」には、「死に際」までで、「死後」の意はなく、また、葬儀の際の遺体の背中を見たとするシーンの追体験なんぞよりも、臨終を迎えるその時まで、ずっと、背に黒ずんだ傷痕があって、そのために苦しみ続けた代官のシークエンスを想起させるリアルな映像こそが、因果応報の有様を伝えて、申し分のない残酷さの駄目押しとなっていると考えるからである。

「寬文九年秋のころ」グレゴリオ暦では、一六六九年七月二十八日から十月二十四日に相当する。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 皂莢