「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 椶櫚
しゆろ 栟櫚 棕【俗字】
【和名種魯】
椶櫚
[やぶちゃん注:「櫚」の字はここでは、(つくり)の「呂」の中央の一画が左で繋がっている字体であるが、表示出来ないので、通常の「櫚」とした。]
本綱椶櫚樹最難長初生葉時如白及葉髙二三尺則木
端數葉如扇髙一二𠀋則葉亦大而如車輪萃樹杪上聳
四散岐裂其莖三稜四時不凋其幹正直無枝近葉𠙚有
皮褁之毎長一層卽爲一節幹身赤黑皆筯絡宜爲鍾杵
其皮有𮈔毛錯縱如織又如馬騣䰕故字從㚇其毛剝取
[やぶちゃん字注:「㚇」は「本草綱目」では「椶」であるが、これでも問題がないので、そのままとする。]
縷解可織衣帽褥椅之屬毎歳必兩三剝之否則樹死或
[やぶちゃん字注:「兩」は原本では二箇所の「入」が左が(にすい)、右が(にすい)を左右反転した字体だが、こんな異体字はないので、正規の「兩」とした。]
不長也三月於木端莖中出數黄苞苞中有細子成列乃
花之孕也狀如魚腹孕子謂之㯶魚【亦曰㯶笋】漸長出苞則成
花穗黄白色結實纍纍大如豆生黄熟黑甚堅實其皮𮈔
可作繩入水千歲不爛其筍及子花有小毒戟人喉未可
輕食
皮【苦濇】 治腸風下血赤白痢止吐衂及崩中帶下
燒存性佐以他藥與亂髮灰同用更良【年久敗棕入藥用】
一種 小而無𮈔惟葉可作帚
蒲葵 葉與此相似而柔薄可爲扇笠【是此別種也】
夫木朝またき梢斗に音たてゝすろのは過る村時雨哉爲家
△按椶櫚今𠙚𠙚有之薩摩最多剥皮毛爲帚爲繩其葉
亦細割如線而爲帚民間多植有利
一種 唐棕櫚者其葉剪又不㴱不如倭棕櫚婆娑
[やぶちゃん字注:「㴱」は「深」の異体字。]
一種 棕櫚竹似竹而中實葉似棕櫚而短【見于竹類下】
所謂蒲葵笠同團扇白色似菅而𤄃美也本朝未有之
*
しゆろ 栟櫚《へいろ》 棕《しゆ》【俗字。】
【和名、「種魯」。】
椶櫚
「本綱」に曰はく、『椶櫚の樹、最も長《ちやう》じ難《がた》し。初《はじめ》て葉を生ずる時、「白及《はつきゆう》」の葉のごとし。髙さ、二、三尺なる時[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、木の端、數葉《すうえふ》、扇《あふぎ》のごとし。髙さ一、二𠀋≪となれば≫、則ち、葉も亦、大にして、車輪≪の≫、樹≪の≫杪《こずゑ》に萃(あつま)るがごとし。上≪に≫聳(そび)へて、四(《よ》も)に散じ、岐《き》≪に≫裂≪けり≫。其の莖、三《みつ》≪の≫稜《かど》、あり。四時、凋まず、其の幹(ゑだ[やぶちゃん注:ママ。])、正直《せいちよく》にして、枝、無し。葉に近き𠙚に、皮、有りて、之れを褁《つつ》む。毎《つね》≪に≫長≪ずること≫、一層≪づつにして≫、卽ち、≪それ、≫一節《ひとふし》を爲《な》す。幹《みき》≪の≫身、赤黑にして、皆、筯絡《きんらく》[やぶちゃん注:筋状に連なった経絡(けいらく)。人の経絡に擬えた謂い。]あり。宜しく、鍾杵(しゆもく)[やぶちゃん注:鐘を撞く撞木(しゅもく)。]と爲すべし。其の皮、𮈔毛《いとげ》有り、錯縱《さくじゆう》して、織るがごとく、又、馬《むま》の騣-䰕(たてがみ)のごとし。故に、字、「㚇」[やぶちゃん注:この漢字には「集まる」の意がある。]に從ふ。其の毛、剝(は)ぎ取《とりて》、縷-解(ほど)きて、衣《ころも》・帽《ばうし》・褥椅《じよくき》[やぶちゃん注:褥(しとね)を支える寝台、或いは、現在の寝椅子(カウチ)の意であろう。東洋文庫訳では、『(しとねいす)』とする。]の屬に織るべし。毎歳《まいとし》、必ず、兩《ふた》たび、三たび、之れを剝ぐ。否(《し》から)ざれば、則ち、樹(き)、死(かゝ)るか、或いは、長《ちやう》ぜざるなり。三月、木の端≪の≫莖の中に於いて、數≪個の≫黄《き》≪の≫苞《はう》[やぶちゃん注:花の根元に生ずる小形の葉。]を出《いだす》。苞中、細《こまかなる》子《たね》、有りて、列を成す、乃《すなはち》、花の孕《はららご》なり。狀《かたち》、魚の腹《はら》に孕(はら)める子のごとし。之れを「㯶魚《そうぎよ》」と謂ふ【亦、「㯶笋《そうしゆん》」と曰ふ。】。漸《やうや》く、長じて、苞を出だす時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、花穗を成《なす》。黄白色≪にして≫、實を結ぶこと、纍纍《るいるい》として、大いさ、豆のごとし。生《わかき》は黄≪にして≫、熟せば、黑し。甚だ、堅實なり。其の皮𮈔《かはいと》≪にて≫、繩を作るべし。水に入《いりて》、千歲《せんざい》≪までも≫、爛(たゞ)れず。其の筍《たけのこ》[やぶちゃん注:違和感のある方は、シュロは「棕櫚竹」という異名があること、その土から生えた若芽が、事実、筍(たけのこ)に似ていることを、グーグル画像検索「シュロ タケノコ」の幾つかで、事実、タケノコのようだ、と述べているのを見られるがよかろう。]、及び、子《たね》・花、小毒、有り。人の喉を戟(げき)す。未だ輕《かるがる》しく、食ふべからず。』≪と≫。
『皮【苦、濇《しよく》[やぶちゃん注:本邦の略字「渋」、中国語の略字「涩」の異体字で、意味は同じ]。】 腸風[やぶちゃん注:感染性胃腸炎か。]・下血・赤白痢[やぶちゃん注:「没石子」の私の注を参照。]を治す。吐衂《はなぢ》、及び、崩中《ながち》・[やぶちゃん注:女性生殖器からの病的な出血の内、大量出血する症状を指す。]帶下《こしけ》を止《と》む。』≪と≫。
『≪皮を≫燒《やき》て、≪しかも、≫性を存《そんじ》、佐《たすけと》するに、他藥を以《もつてす》。亂髮の灰、同じく用ふれば、更《さらに》良《よし》【年久《としひさしく》敗棕《くされるしゅろ》≪も≫、藥に入れて用ふ。】。』≪と≫。
『一種は、小にして、𮈔(いと)、無く、惟《ただ》、葉≪のみの者、有り≫。帚《はふき》に作るべし。』≪と≫
『蒲葵《ほき》 葉、此《これ》と相《あひ》似て、柔かにして、薄く《✕→薄き者》、扇《あふぎ》・笠《かさ》に爲《つく》るべし【是は、此れ、別種なり。】。』≪と≫。
「夫木」
朝まだき
梢《こずゑ》斗《ばかり》に
音たてゝ
すろのは過ぐる
村時雨(むらしぐれ)哉(かな)爲家
△按ずるに、椶櫚《しゆろ》、今、𠙚𠙚、之れ、有≪れど≫、薩摩、最も多し。皮・毛を剥《はぎ》て、帚と爲《し》、繩に爲《す》る。其の葉も亦、細《こまかに》割(わ)り、線《せん》のごとくにして、帚と爲る。民間、多《おほく》植《うゑ》て、利、有り。
一種は、「唐棕櫚《たうじゆろ》」と云ふ者は[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、其の葉、「剪又(きりまた)」、㴱《ふか》からず、倭《わ》の棕櫚の婆娑《ばさ》たる[やぶちゃん注:「ばっさばっさ」のオノマトペイア。]≪とは≫、しか、ならず。
一種。「棕櫚竹《しゆろちく》」。竹に似て、中實《ちゆうじつ》にして、葉は、棕櫚に似て、短《みじかし》【「竹類」の下を見よ。】。
所謂《いはゆる》、「蒲葵笠《びらうがさ》」・同《どう》「團扇(うちは)」[やぶちゃん注:「蒲葵團扇(びらううちは)」の意。]≪は≫、白色≪にして≫、菅(すげ)に似て、𤄃(ひろ)く、美なり。本朝に、未だ、之れ、有らず。
[やぶちゃん注:これは問題なく、メインは、
単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属シュロ Trachycarpus fortunei 'Wagnerianus'(シノニム:Trachycarpus wagnerianus )
で、別名を「ワジュロ」(和棕櫚)と言う(「維基百科」の上記種のページ「棕櫚」をリンクさせておく。但し、「和」に騙されてはいけない。本種の原産地は実は、明確には判っていない。中国南部から亜熱帯地方のどこか(英文の同種のウィキには、過去の『自然分布を追跡することは困難であ』り、『原産地は中国中部(湖北省以南)・日本南部(九州)・ミャンマー北部南部・インド北部』を挙げている)であり、日本のものは外来種とする説もあり、逆に「ブリタニカ国際大百科事典」では、シュロの項で、ズバり、『九州南部原産』とある)。そして、本文中に一種として記される「唐棕櫚」が、
シュロ属トウジュロ Trachycarpus fortunei 'Wagnerianus'(シノニム:Trachycarpus wagnerianus )
である。植物学上は同種とされるが、造園業者やシュロ加工業者にとっては、価値が、先の「(ワ)ジュロ」とは大きく異なることから、この形で、明白に弁別する呼名となって民間にも浸透している(植物に冥い私でさえ少年期より知っていた)。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『シュロ(棕櫚・棕梠・椶櫚)は、ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus の樹木の総称であ』り、『シュロ属の一種 Trachycarpus fortunei (別名:ワジュロ)の標準和名でもある』。『シュロ属は』五『種以上の種が属する。シュロという名は、狭義には、そのうち』、一『種のワシュロの別名とされることもある。逆に広義には、他の様々なヤシ科植物を意味することもある』。『常緑高木。温暖で、排水良好な土地を好み、乾湿、陰陽の土地条件を選ばず、耐潮性も併せ持つ強健な樹種である。生育は遅く、管理が少なく済むため、手間がかからない』。『植物学上の標準和名はシュロ(学名: Trachycarpus fortunei )で、別名をワジュロ(和棕櫚)とする。中国名は棕櫚。中華人民共和国湖北省からミャンマー北部まで分布する。日本では平安時代、中国大陸の亜熱帯地方から持ち込まれ、九州に定着した外来種である。日本に産するヤシ科の植物の中では最も耐寒性が強いため、本州以南(東北地方まで)の各地で栽培されていて、なかには北海道の石狩平野でも地熱などを利用せずに成木できるものもある。ヤシ科の植物の中でほぼ唯一、日本に自生する。しかし現在では野生のものはないとも言われる』。『地球温暖化で冬の寒さが厳しくなくなり、本州でも屋外で育ちやすくなっている』。東京都港区白金台にある『国立科学博物館附属自然教育園』『では』、一九六五『年に数本だったシュロが』二〇一〇『年に』は実に二千五百八十五『本へ増えた』。『雌雄異株で、稀に雌雄同株も存在する。雌株は』五~六『月に葉の間から花枝を伸ばし、微細な粒状の黄色い花を密集して咲かせる』(雌株は俗に「姫棕櫚」とも呼ばれる)。『果実は』十一~十二『月頃に黒く熟す』。『幹は円柱形で、分岐せずに垂直に伸びる。大きいものでは樹高が』十五『メートル』『ほどになることがあるが、多くは』三~五メートル『ほどである』(私の家の斜面にも五メートルを超えるワジュロの老樹が斜面に聳えている。多分、私とほぼ同じ年齢と推定される)。『幹の先端に扇状に葉柄を広げて数十枚の熊手型の葉をつける。葉柄の基部は幹に接する部分で大きく三角形に広がり、幹を抱くような形になっている。この葉柄基部や葉鞘から下に』三十~五十『センチメートル』『にわたって幹を暗褐色の繊維質が包んでおり、これをシュロ皮という』。『江戸時代後期』の文政一三(一八三〇)『年』『にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本の出島から初めて西洋に移出し、後にイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンに献名された』。『一説によると』、十『年で』一メートル『成長すると考えられており、おおよその樹齢の目安になる』(ここには要出典要請がかけられているが、私は今、六十七歳で、我が相棒の樹高は、まさにそれを無言で示しているものである)。以下、「トウジュロ」の項。『トウジュロ』『はシュロ(ワジュロ)と同種とされるが、造園の世界では価値が大きく異なるので、この系統の呼び名となっている。ワジュロよりも樹高・葉面が小さく、組織が固い。そのため』、『葉の先端が下垂しないのが特徴である。その点が評価され』、『庭園などでの利用はこの方が利用される。元来中国大陸原産の帰化植物で、江戸時代の大名庭園には既に植栽されていたようである。中国南部に分布するシュロは、トウジュロとして区分される。トウジュロは先述の』通り、『葉が下垂しないことから、ワジュロよりも庭木としてよく利用され、かつては鉢植え用の観葉植物として育てられることもあった。現在は鉢植えとしての価値は大幅に減少し、衰退している。造園上では、樹皮の繊維層を地際から全て残した物が良い物とされる』。以下、雑種「アイジュロ」の項。『ワジュロとトウジュロの間には雑種を作ることが可能で、この交雑種はアイジュロ(合い棕櫚)亦はワトウジュロ(和唐棕櫚)と呼ばれている。ワジュロとトウジュロが近くに植えられている場所でよく発生するが、鳥が異種の花粉を運ぶことで、近辺に異株が生えていなくてもアイジュロを生じる事も少なくない。大半のアイジュロは、ワジュロとトウジュロの中間の性質を示すが、葉が垂れるものから、中には一見するとアイジュロとは分からないほどトウジュロに似通った特徴を示すものもいる。大半はワジュロほど長い垂れを生じない。成長の速度や耐寒性なども変わりがなく、あえて作出する者はいないが、野外採集で採られたアイジュロを栽培する場合はある』(そもそもが、現行では学名が同じであるから、学名はないようだ。敢えて言うなら、Trachycarpus fortunei × Trachycarpus fortunei 'Wagnerianus' 'Aijyuro' とでもなろうか(笑))。以下、「ノラジュロ」の項。但し、この項全体に、出典指示要請がかけられてある。『シュロの種子は多く』生じ、『鳥によって運ばれるため』、『かなり広い範囲を移動することが可能である。このため、通常』、『シュロが生えていない場所にシュロの芽や子ジュロが生えている光景をよく目にすることが』ある。『このように、人が故意に植えたわけでないのに』、『芽を出し』、『成長しているシュロのことを俗にノラジュロ又はノジュロという。ノラジュロは人家や公園、森林、墓地などの至る所に発生し、多くは群生する。現在』、『深刻な問題は発生していないが、ノラジュロが増えることによる環境への問題が心配されている。このことから』、『ノラジュロを害樹として指定し』、『積極的に駆除する自治体も存在する。しかし、成長した株は』、『一見』、『小さいように見えても』、『地中深く』、『根を張り』、『幹を太らせているので、駆除には手間を要する』。『通常、シュロは寒さに弱く』、『小さな株は越冬が出来ないと言われてきたが、近年の温暖化による影響で冬が越せる確率が上昇し、子ジュロの生存率が上がったことにより』、『東北地方でもノラジュロの群れを見ることが出来るようになっている』。以下、「利用」の項。『庭園で装飾樹としてよく用いられる。繊維や材を採るために栽培が盛んで、日本各地に植えられているが、和歌山県が最も多く植えられているという。日本人にとってシュロは』、『ソテツ』(裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta )『と並んで』、『異国情緒を感じさせる植栽として愛好され、寺や庭園に植えられたと考えられている。庭園用にはトウジュロが用いられてきたが、ワジュロは実用に栽培されることが多く、両種は似ているので混じって使われている』。『シュロ皮を煮沸し、亜硫酸ガスで燻蒸した後、天日で干したものは「晒葉」』(さらしば)『と呼ばれ、繊維をとるのに用いられる。シュロ皮の繊維は、腐りにくく伸縮性に富むため、縄(棕櫚縄)や敷物(マット)、タワシ、篩の底の材料などの加工品とされる。又、シュロの皮を用いて作られた化粧品も発売されている。葉も』、専ら、『敷物や箒(棕櫚箒)などに使われる。繊維は菰(こも)の材料にもなる』。『樹皮の繊維層は厚く』、『シュロ縄として古くから利用されている。棕櫚縄は園芸用には極めて重要で、水に強くて』、『腐りにくく、細くても切れにくいので重宝がられている。タワシやマットに使われるのも、水に強くて水はけがよい性質によるものである』。『ウレタンフォームの普及以前は、金属ばねなどとの組み合わせで、乗り物用を含む椅子やベッドのクッション材としても一般的であった』。『また、材は仏教寺院の梵鐘をつく撞木に使われたり、床柱に利用され、寺に植えられることも多かった』。『シュロは日本の温帯地域で古来より親しまれた唯一のヤシ科植物であったため、明治以降、海外の著作に見られる』、『本来は』、『シュロとは異なるヤシ科』Arecaceae『植物を「シュロ」と翻訳していることが、しばしば認められる。特にキリスト教圏で聖書に多く記述されるナツメヤシ』(ヤシ目ヤシ科ナツメヤシ属ナツメヤシ(棗椰子)Phoenix dactylifera )『がシュロと翻訳されることが多かった。例えば』、「ヨハネによる福音書」の十二章十三節に『おいて、エルサレムに入城するイエス・キリストを迎える人々が持っていたものは、新共同訳聖書では「なつめやしの枝」になっているが、口語訳聖書では「しゅろの枝」と翻訳し、この日を「棕櫚の主日」と呼ぶ。現在、棕櫚の主日ないし「棕櫚の日曜日」は、復活祭の』一『週間前の日曜日が該当する』とある。
本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十五下」の「木之二」「喬木類」(「漢籍リポジトリ」)の「㯶櫚」(ガイド・ナンバー[086-42a]の以下)のパッチワークである。
「白及《はつきゆう》」単子葉植物綱キジカクシ目ラン科セッコク亜科エビネ連 Coelogyninae 亜連シラン(紫蘭)属シラン Bletillastriata のことか。これ、及び、ラン科 Orchidaceae の一部の種に見られる茎の節間から生じる貯蔵器官である偽球茎(偽鱗茎:英語:pseudobulb)は、漢方生薬「白及」(ハッキュウ)と称し、止血や痛み止め・慢性胃炎に処方される。
「㯶魚《そうぎよ》」「㯶笋《そうしゆん》」グーグル画像検索「シュロの実」を見られたい。まあ、私は納得出来る。「維基文庫」にある、清の汪灝らの撰になる「御定佩文齋廣羣芳譜 卷七十九」の「㯶櫚」の項に(左に送って中央より少し前にある)、「本草綱目」から抜き書きしたかと思われる、
*
三月於木端莖中出數黄苞苞中有細子成列乃花之孕也狀如魚腹孕子謂之㯶魚亦曰㯶筍漸長出苞則成花穗黄白色結實纍纍大如豆生黄熟黒甚堅實
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があった(太字は私が附した)。
「亂髮」これは、髪を梳いたりした、ばらばらになった髪を纏めておいたものを指す。脱線だが、本邦のごく近代や、現代中国では、床屋のカットした髪の毛を集めて、醬油を作ることがあることを、余り、知らない方が多くなった。と言っても、私も知ったのは、二十代の頃、行きつけの床屋の主人から、修行中の若い日に、そう言って集めに来る業者がいた、と教えて貰ったのだが、後に、二十年ほど前、中国の匿名投稿動画で、その加工の一部始終を見た。全く知らない方は、ウィキの「人毛醤油」を見られたい。
「蒲葵《ほき》」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビロウ属ビロウ変種ビロウ Livistona chinensis var. subglobosa 。中文名「蒲葵」で、別名を「扇葉蒲葵」という(「維基百科」の「蒲葵」で確認した。以下の邦文のウィキでは二つの名が逆転している)当該ウィキから少し引用する。『東アジアの亜熱帯の海岸付近に自生する。分布地は中国大陸南部、台湾、日本の南西諸島・小笠原諸島・九州南部・四国南部である。九州での自生地は鹿児島県、宮崎県が主で、次が』、『長崎県の五島列島・阿値賀島(平戸)・田平(九州本島最北自生地』『)。北限は福岡県宗像市の沖ノ島とされるが、福岡県のものは江戸時代以降に平戸から移植されたことが調査で判明している』。本邦の『ビロウの古名「アヂマサ」の文献初出は』「古事記」下巻の「大雀命」(仁徳天皇)の条の『天皇御製歌である』として、そちらに掲げられてある。また、『平安時代の王朝、天皇制においては』、『松竹梅よりも、何よりも神聖視された植物で、公卿(上級貴族)に許された檳榔毛(びろうげ)の車の屋根材にも用いられた。天皇の代替わり式の性質を持つ大嘗祭においては現在でも天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)』(天皇の即位式の前に禊祓(みそぎはらい)のために籠る仮小屋で、檳榔で頂上を覆い、四方に帳をかけ、中に毯(たん)を敷いて大床子(だいしょうじ:天皇が食事や理髪等の際に座る長方形で四脚から成る台椅子)をたてたもの。前後を開いて出入する)『の屋根材として用いられている』。『民俗学者の折口信夫はビロウに扇の原型を見ており、その文化的意味は大きい。扇は風に関する呪具(magic tool)であったとする。民俗学者谷川健一は、奄美・沖縄の御嶽には広くビロウ(クバ)が植えられておりビロウの木の下が拝所である事、ビロウから採取できる資材がかつて南島人の貴重な生活資材となっていた事を指摘している』とあった。
「夫木」「朝まだき梢《こずゑ》斗《ばかり》に音たてゝすろのは過ぐる村時雨(むらしぐれ)哉(かな)」「爲家」「すろ」がシュロである。既出既注の「夫木和歌抄」の一首。「卷二十九 雜十一」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「14080」)。
「棕櫚竹《しゆろちく》」竹(タケ亜科 Bambusoideae イネ科タケ亜科 Bambusoideae )に似ているために名に「竹」が附されただけで、単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科カンノンチク属シュロチク Rhapis humilis 。ウィキの「カンノンチク属」によれば、『原産地は中国南部 - 南西部。カンノンチク』( Rhapis excelsa :原産地は中国南部)『ほどではないが、古典園芸植物として多くの品種がある。葉はシュロ』『に似ている。耐陰性、耐寒性が強くディスプレイ用の観葉植物として人気のある品種。また、古典園芸ではカンノンチクと本種を一纏めにして観棕竹ということがある』とあった。
『「竹類」の下を見よ』ずっと後の「卷第八十五 苞木類」の「㯶竹」。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版で当該部をリンクしておく。
「菅(すげ)」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex に属する種群。ウィキの「スゲ属」によれば、タイプ種は Carex hirta とするものの、『身近なものも多いが、非常に種類が多く、同定が困難なことでも有名である』とあった。但し、『カサスゲ』(スゲ属カサスゲ Carex dispalata )『カンスゲ』(カンスゲ Carex morrowii )『などの大型種の葉は、古くは笠(菅笠)や蓑などに用いられた』。『特にカサスゲはそのために栽培された。現在でも、注連縄』(しめなわ)『など特殊用途のために栽培されている地域もある』とあった(リンクはウィキのそれぞれ)。
「本朝に、未だ、之れ、有らず」九州にビロウは自生しており、直前で良安は「蒲葵團扇(びらううちは)」とルビしているにも拘わらず、不審だが、良安は「古事記」の「アヂマサ」が「蒲葵」(ほき)が「びらう」のことであると理解しておらず、誰かが、九州から持ち込んだ「蒲葵笠《びらうがさ》」「蒲葵團扇」を、良安だけでなく、当時江戸前期の本州人は、それを長崎からの「南蛮渡り」として、誤って理解していたとしか考えられない。則ち、九州にビロウが自生することを、江戸中期の京や江戸の人々は知らなかったのだと考えるしかない。それも、江戸後期には、事実が知られたようで、「重訂本草綱目啓蒙」の第三では、小野蘭山は正しく『蒲葵、ビロウナリ。南國ノ產ナル故、北地ニテハ、生長シ難シ。』と述べており、本邦に植生することが判っていたものと思われる。]