「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧十二 生ながらうしと成て死事
[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。この話、分量がそれなりにあり、主人公が異形の姿となって伊勢参宮をしようとするというシークエンスが、私の電子化注した怪奇談の中では、かなり異様なオリジナリティを漂わせていて、ここまでの本書の、先行類型が多い中にあっては、かなり印象的な話であると感じている。高田衛先生が「江戸怪談集(上)」で採用されなかったのが、ちょっと疑問でさえあるのである。或いは、単に分量が大きいという編集上の制約があったのかも知れない。]
㐧十二 生(いき)ながら「うし」と成《なり》て死(しする)事
○明曆(めいりやく)[やぶちゃん注:一六五五年~一六五八年。第四代徳川家綱の治世。]の比、大和(やまと)の「山べ」といふ所の近所(きんじよ)に元久(げんきう)と申《まうす》もの、あり。
[やぶちゃん注:『大和(やまと)の「山べ」といふ所』「大和國」の旧郡山辺郡。旧郡域は当該ウィキの解説と地図を見られたい。]
あくまで愚痴(ぐち)にして、むり・ひほう[やぶちゃん注:「無理・非法」。法に外れることを敢えてやること。]のものなり。
しかれば、兄弟・親類・他人は申《まうす》に及《およば》ず、うとみ、ちかづくもの、まれなれば、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、ちなみ[やぶちゃん注:「因み」。親しい交わり。]をなすもの、一人も、なし。
只、「あくぎやく人《にん》」と、いはぬ人は、なし。
朝夕(てうせき)の食物《くひもの》には、「うし」を、ころして、くひけり。
ある時、つま、「くわいにん」しけるが、一度に、子を、三人、うみぬ。
三人の子、おもては、人にて、手足は、みな、「うし」のひづめなり。
「こは、いか成《なる》事やらん。」
と、あきれはて、三人、共に、をし[やぶちゃん注:ママ。「押し」。]ころして、すてぬ。
又、かさねての、さんにんも、同じ子を、うめり。
夫婦、此事を、ふかく、なげきて、佛神へ、きせい、申《まうし》、
「子孫、はんじやう、なさしめ給へ。」
と、いのりけるが、ある夜(よ)の夢に、神明(しんめい)、つげて、の給はく、
「なんぢ、子孫のはんじしやうを、いのる事、をろか[やぶちゃん注:ママ。]なり。其ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]は、おほくの『うし』を、ころし、其むくひによりて、みな、うむ所の子、『うし』のかたちなり。はやく、「あくしん」を、ひるがへし、きうに[やぶちゃん注:「急に」。]、「ゑしんさんげ」の心をもつて、後世(ごせ)ぼだいを、もとむべし。しからずば、死《しし》て、『大ぢごく』に、おちて、『たごう』の間、「かしやく」のせめ、ひま、あるまじ。」[やぶちゃん注:「ゑしんさんげ」「𢌞心懺悔」。邪悪な心を悔い改め、仏の教えのままに従うことを言う。「たごう」「多劫」。「永劫」に同じ。]
と、あらたに、御つげ、ましましたり。
元久、夢、さめ、
『こは、ふしぎの告(つげ)かな。』
と、おもひ、三十日ばかりも、萬《よろづ》、つゝしみ、をそるゝ[やぶちゃん注:ママ。]おもひを、なしけるが、次㐧次㐧、うすく成《なり》て、後(あと)には、猶、つみ、ふかくぞ、なりにけり[やぶちゃん注:係助詞「ぞ」の連体形の結びがないのは、ママ。]。
ある時、元久、いせ參宮を、俄《にはか》に、おもひ立《たち》て、日限(にちげん)をとり、參りけるが、宮川《みやがは》までは、つゝがなかりしが、河、うちこへ[やぶちゃん注:ママ。「打ち越え」。]、二、三町も、ゆくとひとしく、兩眼《りやうがん》に、きり[やぶちゃん注:「霧」。]、ふりかゝり、さりながら、盲目のふぜいなれば、前後(ぜんご)を、さらにわきまへず。
[やぶちゃん注:「宮川」現在の伊勢市街の南西を貫流する宮川(グーグル・マップ・データ)。伊勢神宮の禊川(みそぎがわ)であった。]
「こは。いか成事やらん。」
なげきかなしみて、參るべき「ねん」[やぶちゃん注:「念」。]もなくなりて、しばらく、そこに、とゞまりて、つくづく、おもひけるは、
『いやいや、此ていにて、さんけいは、成《なり》がたし。在所(ざいしよ)へ、とくとく、かへるべし。』
と、思ひさだめ、行(ゆき)きの人に、「大和のかたは、いづくぞ。」と、とはん、とすれども、舌、こはりて[やぶちゃん注:「强(こは)りて」。強張って固くなり。]、物、いはれず。
かしこに、まよひ、立(たち)けるを、さんけいのかたがた、是をみて、
「あら、ふしぎや、是《これ》にやすらふおのこを見れば、かたちは、人にゝて、かしらは、『うし』也。扨も、めづらしきものゝ、ありけるは。」
と、いふほどこそあれ。
さんけいの人〻、かれがまへに、ぐんじゆす。
[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ、第二参考底本はここ。後者には、例の落書があるので注意。右下方に破損もある。]
元久、いよいよ、心、みだれ、かたちは、變ずる、眼(まなこ)は、くらく、いづくを、そこと、しらざるが、されども、
『「やまと」のかたは、そなたぞ。』
と思ひし心を「つえ[やぶちゃん注:ママ。]」として、なくなく、下向しけるに、「すゞかの山」を、うちこへ[やぶちゃん注:ママ。]、「つち山」まで、來りける。
「つち山」と、「みなくち」の間にて、ほのかに、まなこ、見え出《いづ》る。
[やぶちゃん注:『「すゞかの山」を、うちこへ、「つち山」まで』『「つち山」と、「みなくち」の間にて』このグーグル・マップ・データの右下端に、三重県と滋賀県の間の「鈴鹿峠」があり、そこを北に下ると、滋賀県土山町(つつやまちょう)地区に入り(赤ポイント)、さらにそこを西北西に下ると、琵琶湖に注ぐ最長河川である野洲川(やすがわ)にぶつかる辺りが、水口町(みなくちちょう)地区である。]
されども、かたちは、かはらず、されども、在所へかへりて、内へいれば、下部のものをはじめ、妻、大きに、おどろき、さはぎ、
「こは、いか成ものゝ、來りけるぞ。」
と、みな、にげさりて、あたりへ、ちかづくものも、なし。
「元久なり。」
と、こたへければ、
「扨は。さやうにましますか。」
物ごしは、かはらざれば、妻、大きになげき、
「こは、いか成ありさまぞや。」
げんきう、こたへ、宮川にての、ありさま、一〻《いちいち》、かたるに、妻、
『さては、神明の、御ばつ也。』
とぞ、おぼえける。
それより、元久、ほどなく、わづらひ付《つき》、十日ばかりありて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、死《しし》けり。
かなしきかな、一生の間、「ふじやう」[やぶちゃん注:「不淨」。]の身をもち、殊に、𢙣心(あくしん)、ふかくして、神前を、けがさんとすれば、たちまち、神罰、れきぜん也。『げんざいのくわ[やぶちゃん注:「果」。]を見て、過去[やぶちゃん注:「前世」。]・未來[やぶちゃん注:「來世」。]をしる。』といふ事は、かくのごときの事なるべし。つゝしむべし、をそる[やぶちゃん注:ママ。]べし。
「此はなし、いつはり、なき。」
よし、「めうき」といふ「びくに」[やぶちゃん注:「比丘尼」。]の、「せいぐわんじ」にて、かたられける。
[やぶちゃん注:「せいぐわんじ」誓願寺か。奈良県御所(ごせ)市柏原(かしはら)に浄土真宗本願寺派であるが、事績が判らないのと、山辺郡からは、ちょっと南に離れる。奈良に限定しないのであれば、京都市中京区新京極通にある浄土宗西山深草派総本山深草山誓願寺が知られる。同寺の公式サイトのこちらによれば、この寺は、当初、奈良にあったが、鎌倉初期に京都一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移り、その後、天正一九(一五九一)年、豊臣秀吉の寺町整備に際して現在の三条寺町の地に移っており、古くは清少納言・和泉式部、また、秀吉の側室松の丸殿が帰依したことにより、「女人往生の寺」として名高く、また、『源信僧都は当寺にて善財講を修し、一遍上人も念仏賦算を行な』っており、『平安時代後期、法然上人が興福寺の蔵俊僧都より当寺を譲られて以降、浄土宗になり、現在は法然上人の高弟・西山上人善恵房證空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山で』あるとする名刹である。江戸時代の関西系の人々なら、「誓願寺」であるのならば、まず、この浄土宗の聖地である、この寺を第一に想起するであろう。しかし、寺名を漢字表記を示していないから、この寺と安易に比定することは出来ない。]
« 「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 檀 | トップページ | 「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 莢蒾 »