平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之五〔一〕きつねに契りし僧の事
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を見られたい。この回の底本はここから。ここに挿絵がある。挿絵には、右上方に枠入りで「むさしの国そうせんじ」というロケーション・キャプションが書かれてある(後の注で示すが、寺名は「さうせんじ」の誤りである)。主人公の回想の直接話法部分は、長いので、読み易さを考え、特異的に「――」・「……」を用い、話柄内でも改行・段落を施した。]
因果物語卷之五〔一〕きつねに契りし僧の事
むさしの國、※泉寺(そうせんじ)に、宥伯とて、わかき僧のありけるが、かたち、はなはだ、うるはしかりければ、人みな、めで、まよひけり。
[やぶちゃん注:「※泉寺(そうせんじ)」(「※」=「扌」+「窓」)岩波文庫の高田氏の注に、『淺草橋場にあった曹洞宗妙亀山総泉寺。現在は板橋区小豆沢へ移転。』とあった。東京都板橋区小豆沢(あずさわ)にある曹洞宗妙亀山総泉寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『この寺は当初』、『浅草橋場(現在の台東区橋場)にあり、京都の吉田惟房の子梅若丸』(中世・近世の諸文芸に登場する伝説上の少年。京都北白川吉田少将の子で、人買いに攫われ、武蔵国隅田川畔で病死したとされる。東京都墨田区向島の木母寺(もくぼじ)境内に梅若塚がある。謡曲「隅田川」、浄瑠璃などに作品化されている。以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)『が橋場の地で亡くなり、梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して梅若丸の菩提を弔うため』、『庵を結んだのに始まるという。その後、武蔵千葉氏の帰依を得』、室町時代の『弘治年間』(一五五五年~一五五八年)に『千葉氏によって中興されたとされる。佐竹義宣によって再興され、江戸時代には青松寺・泉岳寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺のひとつであった』。大正一二(一九二三)年の『関東大震災で罹災したため、昭和』三(一九二八)年、『現在地にあった古刹』『大善寺に間借りする形で移転。その後』、『合併して現在に至』っている。『大善寺は』十五『世紀末の開山にして「江戸名所図会」にも載るほどの有名な寺であり、現在境内に残る薬師三尊(清水薬師。伝・聖徳太子作)こそが、元の大善寺の本尊である。八代将軍吉宗が鷹狩りの途中に大善寺に立ち寄り、境内の湧き水(薬師の泉。板橋区小豆沢『三-七』)』(ここ)『が』、『あまりに美味であったので「清水薬師」と命名したと伝わる。同地の地名「清水坂」の謂れとされている。清水坂』(ここ)『には地蔵が安置されており、子育て地蔵として信仰されていた。この地蔵も現在は同寺境内にある』。なお、『台東区橋場』二『丁目の旧寺地には平賀源内の墓が残る』。これは『松平頼寿を中心とした平賀源内先生顕彰会が移転に反対し、総泉寺や東京府に働きかけて、元の位置に再建されたため』で、これによって、本篇の真のロケーションが明確に判る。ここである。]
ある夕暮(《ゆふ》ぐれ)より、わづらひ出《いだ》し、たゞ、うかうかとして[やぶちゃん注:ぼんやりとして。]、物もいはず、おりおり[やぶちゃん注:ママ。]は、すゞりを、とりいだし、物かく躰(てい)なり。みる人あれば、とりかくし侍る。
その文《ふみ》は、ひたすら、艷書(えんしよ)を、とりむかふ躰なり[やぶちゃん注:書き認(したた)める樣子である。]。
「心地は、いかに。」
と、ゝへども、こたへも、せず。
かくて、七日《なぬか》ばかり、すぎて、夜《より》のまに、行《ゆき》がたなく、うせにけり。
人々、方〻《はうばう》に、てわけを、いたし、尋れもとめけるに、さらに、しる人、
なし。
寺僧衆《じそうしゆ》、あまりに、たづねわびて、妙㐂山(めうきさん)に、いのりをかけしかば、そのりやく[やぶちゃん注:「利益」。]にや、うせて、十三日めに、寺の堂(だう)のしたに、うめき、によぶ[やぶちゃん注:「呻吟(によ)ぶ」(単に「吟ぶ」兎も書く)。ここは「叫ぶ」の意。]こゑ、きこえしかば、えんの板(いた)を、はづしてみるに、土より一尺ばかり下に、小袖(こそで)の見ゆるを、引出《ひきいだ》したりければ、宥伯(ゆうはく)也。
[やぶちゃん注:「妙㐂山(めうきさん)」岩波の高田氏に注に、『寺内に祀った妙義山神社のこと。失せ物に効があった。』とある。梅若伝説に基づくものであろう。]
かたち、やせおとろへ、無性(むしやう)に成《なり》て[やぶちゃん注:正気でなくなってしまった状態で。]出《いで》たり。
諸僧、すなはち、陀羅尼(だらに)[やぶちゃん注:真言の短い呪文。]をよみ、さまざま、いのり侍りしかば、やうやうに、人ごゝち出來《いできたり》にけり。
粥(かゆ)など、すゝめて、やうじやう[やぶちゃん注:「養生」。]するに、七日といふに、本復(ほんぷく)いたしけり。
さて、人々、
「此間《このあひだ》の心《ここ》ち、ありさまは、いかやうに、おぼえ侍りけるぞ。」
と問ふに、宥伯(ゆうはく)、こたへて、いはく、
――……われ、かたちのうるはしきを、我ながら、めでたき事におもひけるに、ある夕ぐれに、しかるべき女、一人、來《きた》り、ひそかに、文《ふみ》を、わたしけるを、よみてみれば、大名(《だい》みやう)のむすめのもとより、
『われに思ひかけたる』
よしの、艷書なり。
『これは。うれしき事なり。』
と、うつゝ心《ごころ》になり[やぶちゃん注:夢心地となって。]、さまざま、こと葉を、つくし、返事せしかば、
「夕《ゆふ》さり[やぶちゃん注:夕刻。]、ひそかに、人を、まいら[やぶちゃん注:ママ。]せん。それに、つれて、いらせ給へ。」
と、ありしが、前の女、一人、むかひに來《きた》る。
それに、うちつれて、行《ゆき》ければ、大《おほき》なる屋かたのうら門、ほそく、あきたり。
しのび入《いり》てみれば、あぶら火、かすかに、ともし、人も、すくなく、きれゐ[やぶちゃん注:ママ。「綺麗」或いは「奇麗」。]なる部屋の内に、屛風(べうぶ)、たてまはし、いと、しのびたる躰(てい)にて、うつくしき女房、一人あり。
われを見て、いと、よろこぶ躰(てい)也。
『前の女房は、めのと[やぶちゃん注:「乳母」。この姫に仕える女。]也。』
と、おぼえしが、さかづき、いだして、もてなす。
かくて、もろともに、ふして、此《これ》ほどの心盡(《こころ》づく)し[やぶちゃん注:思いの丈(た)け、そのままに。]、さまざま、なさけふかく、かたらひ、わりなくちぎりて侍りしを、家老(からう)とおぼしきもの、入來《いりきた》る。
むすめは、おそれて、にげうせぬ。
われを、とらへて、しばり、いましむるを、かなしみ、なげく……と……おぼえしが、やうやう、心《ここ》ち、さめたり。――
と、かたる。
「扨《さて》は。『きつね』の『わざ』にこそ。」
とて、かの「あな」を、よく、ほらせたれば、おくふかく、きつね、四つ、五つ、にげ出《いで》て、うせぬ。
その跡は、何も、なし。
宥伯(ゆうはく)が、ねたるあと、ばかり也。
「宥伯には、さんげ[やぶちゃん注:「懺悔」。]を、いたさせければ、其後《そののち》は、別条も、なかりけり。」
と、寺僧の物語《ものがたり》。
元和《げんな》二年の事也。
[やぶちゃん注:「元和二年」一六一六年。家忠の治世。家康は同四月十七日に没している。]
« 平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之四〔六〕私をいたしける手代の事 | トップページ | 「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 蘓方木 »