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« 「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 蕪荑仁 | トップページ | 平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之五〔一〕きつねに契りし僧の事 »

2024/07/26

平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之四〔六〕私をいたしける手代の事

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を見られたい。この回の底本はここから。ここに挿絵あり。挿絵には、右上方に枠入りで「ゑちぜんの国つるかの町」(「ゑ」と「か」はママ)というロケーション・キャプションが書かれてある。但し、この挿絵は問題があり過ぎる、最低にして最悪の稀有の挿絵である。後で注で詳細を記す。

 

Watakusiwositarutedai

 

因果物語卷之四〔六〕私(わたくし)をいたしける手代(てだい)の事

 

 越前(えちぜん)の國、敦賀(つるが)の町に、米問(《こめ》といや)仁兵衞といふものゝ手代に、作十郞といふもの、年久しき家の子にて、しかも、よろづ、才漢《さいかん》也《なり》ければ、万事、作十郞に、うちまかせて、まかなはせけり。

[やぶちゃん注:「私(わたくし)」岩波文庫で高田氏は、本文中に「わたくし」に脚注され、『私利。店の商いの中に、自分だけの商いを持ちこむこと。』と記されておられる。

「手代」商店で、主人から委任された範囲内で、営業上の代理権をもつ使用人。丁稚の上で、番頭の下。丁稚と異なり、給与を受けていた。ここでは、「米問屋」であるから、番頭がいなかったとは思われないが、或いは、高齢で、名誉職として、事実上の業務は、この「作十郞」が行っていたと考えられ、されば、そこにチェックする人物もおらず、以下の過ちが起こったものであろう。

「家年久しきの子」代々、この「仁兵衞」の「米問屋」に勤め続けてきた一族の「奉公人」の意。

「才漢」「才幹」(物事を成し遂げる知恵や能力・手腕)の誤記か。或いは、「『才』智に富んだ好『漢』(男子)」というつもりか。]

 そのあいだに、わたくしをかまへ、金銀をたくはへ、ひそかに、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]があきなひを、いたし、損(そん)のゆく事、あれば、主(しう)の損(そん)に、かけゝり。

 此者《このもの》、わたくしに、商賣(しやうばい)するよし、「とり沙汰」ありければ、主の仁兵衞、大いに、いましめ、しかりければ、

「ゆめゆめ、さやうの事、侍らず。」

とて、おそろしき起請文(きしやうもん)を書き、血判(ちばん)を、すゑたり。

[やぶちゃん注:「おそろしき起請文(きしやうもん)」高田氏の脚注には、『神仏の罰も恐ろしい誓いの文。そらぞらしい嘘の誓いの文を書いたことをいう。』とある。

「血判(ちばん)」「けつばん」「けつぱん(けっぱん)」等の読みがある。底本自体で「ちばん」と濁点を打っている(左丁二行目下方)。]

 かくて、廿日ばかり過《すぎ》てのちに、作十郞が身に、大なる瘡(かさ)、いできたり。

「身の、あつき事、火にやかるゝがごとく、いたむ事、いふばかりなし。」

とて、うめき、かなしむ。さまざまに、くすりを、あたふれども、しるしなく、七日といふに、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]死(しに)けり。

 かばねの、くさき事、たとへんかた、なし。

 「をしほ」の西福寺(さいふくじ)におくりて、土葬(どさう)にいたし、上に、卵塔(らんとう[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])を、たてたり。

[やぶちゃん注:「かばねの、くさき事、たとへんかた、なし」急激に発症し、短期で死に至っているので、高い確率で、熱性マラリアが強く疑われる。体温が急激に上昇し、多臓器不全で亡くなったものと思われ、夏場であったなら、この時代、腐敗が急速に進行することは容易に起こる。因みに、私は十九年前の七月、親友を熱性マラリアで亡くした

『「をしほ」の西福寺(さいふくじ)』この「をしほ」という地名らしきものは、高田先生同様、位置も漢字も不詳であるが、「西福寺(さいふくじ)」は、現在の福井県敦賀市原(はら)にある浄土宗大原山(おおはらさん)西福寺である。南北朝期の応安元(一三六八)年の開山である。「をしほ」を調べるべく、「ひなたGPS」で戦前の地図まで調べたが、この附近は、元「松原村」であったことが判っただけで、それらしい地名は見当たらなかった。ちょっと、考えたのは、どうも、この山号は後背地の山の名前であることが判ったので、「大原山の山の「尾(を)」の、その先「の穗(ほ)」にある寺――などと妄想してしまった。

「卵塔」(らんたう)は、通常、僧侶の墓に使用されることが殆んどである点で、私は大いに不審である。なお、後の描写から、石製のそれではなく、所謂、木製の卒塔婆であることが判る。卵塔は別名を無縫塔とも呼び、最上部に円柱状でバットのヘッド部分をカットしたような形で、塔頂が僅かに尖った形状の、卵形にやや似た塔身を立てたものである(知らない方のためにグーグル画像検索「無縫塔 卵塔」をリンクさせておく。なお、これは、鎌倉時代に宋から来日した僧侶によって齎されたもので、鎌倉よりも前には卵塔は存在しない)。さても。これまた――またしても――挿絵を描いた絵師は本篇の内容に徹底して――全く合わせて描いていない――ことが判明するのである。このシーンは、ここようり後のシークエンスを切り取ったものと思われるが、それ以前に、そもそもが、彼の変死に際し、彼の生前の嘘だらけの起請文の報いとしての、凄惨な修羅の急病死と死体腐敗のため、葬儀は忌まれて、接触を最小限にした、簡便な埋葬であったのだから、挿絵のような、組み石の土台の上に観音開きの立派な屋根もついた納骨堂(廟)であろう筈が無いのである。土を適当に浅く掘って、ぶち込み、さっさと形ばかりに土をぶっかけ、そこに、卵塔型の卒塔婆を、ぶっ刺して、早々に葬送を終わった(シャレではありません!)に違いないのである。しかもだ! 倒れている塔婆を見ると、卵塔なんどの形ではなく、ごくごく普通の五輪塔の刻みなのである。いやいや! というより、私は卵形に削った卒塔婆なるもの自体、未だ嘗つて、見たことがないのである。

 さて、一七日《ひとなぬか》といふに、かの仁兵衞夫婦(ふうふ)の人、

「永々(ながなが)、なじみたるものを、ふびんなる事かな。」

とて、なみだを、ながし、庵主を、よびて、經を、よませ、それより、西福寺へ、まいり[やぶちゃん注:ママ。]て、墓にまゐりけるに、作十郞が墳(つあか)の卵塔(らんとう)、をびただしく[やぶちゃん注:ママ。]、

「べきべき。」

と、なり侍り。

「『のみの木』の『いた』[やぶちゃん注:「板」。]は、日のてらせば、しめられて、『めきめき』と、なる物なれば、さもあるべし。」

と、いふ人も、あり。

 又、

「けしからず、鳴るは、子細、あるべし。すさまじき事なり。」

と、いふ人も、あり。

 大勢(《おほ》ぜい)、ともなひて、行《ゆき》けるが、一人も、ちかく、立《たち》よりてみるもの、なし。

 しきりに、

「めきめき。」

と、なりけるが、卵塔(らんとう)、うごき出《いで》て、うちたをれ[やぶちゃん注:ママ。]、つか、くづれて、尸骸(しがい)、はね出《いで》つゝ、そりかへりて、ふしたり。人々、きもを、けして、にげまどひけり。

 されども、すておくべき事ならねば、

「火葬(くはさう)に、せよ。」

とて、人を、たのみ、薪(たきゞ)をつみて、やきけるに、火の中より、はね出《いで》、はね出《いで》、二、三度も、かくのごとくいたしけるを、やうやうにして、灰(はい[やぶちゃん注:ママ。])になし、もとの「つか」に、うづみ、ねんごろに、とふらひければ、其のちは、別(べち)の事も、なかりし、となり。

「元和《げんな》年中の事なり。」

 糸や宗貞か(そうてい)、かたりき。

[やぶちゃん注:「のみの木」岩波文庫の補正本文では、『臣(のみ)の木』となっており、脚注で、『モミの木か。「臣の木も生ひつぎにけり」(『萬葉集』三二二)。』とある。『モミ』は「樅」でマツ科モミ属モミ Abies firma 。「万葉集」の歌は、短歌も添えて全歌を示す(前書の「幷」は「ならびに」と読む)。を訓読は中西進氏のそれに従った。

   *

   山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)の
   伊豫の溫-泉(ゆ)に至りて作れる歌一首
   短歌

皇神祖(すめろぎ)の 神の命(みこと)の 敷(し)きいます 國のことごと 湯はしも 多(さは)にあれども 島山(しまやま)の 宣(よろ)しき國と こごしき[やぶちゃん注:嶮しい。] 伊豫の高嶺(たかね)の 射狹庭(いさには)[やぶちゃん注:神を祀るための神聖な「齋庭(いさには)」。]の 岡に立たして うち(しの)ひ 辭(こと)思(しの)ひし み湯の上の 樹群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生(お)ひ繼(つ)ぎにけり 鳴く鳥の 聲も變らず 遠き代(よ)に神さびゆかむ 行幸處(いでましどころ)

   *

「しめられて」乾いて縮んで。

「そりかへりて」高田氏の脚注に、『普通、土葬の棺桶では死者の身体を折りまげて入れる。』とある。所謂、「座棺」である。ここも絵師は才能がない。腐りきった遺体が、反り返っていなきゃダメだッツーの!!! 本篇は、挿絵が原文の凄絶性をすっかり払拭してしまった珍しいケースと言える。

「元和年中」一六一五年~一六二四年。徳川秀忠・徳川家光の治世。]

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