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2024/07/11

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧八 女の一念來て夫の身を引そひて取てかへる事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の「引そひて」は、岩波文庫の高田氏の脚注に、『引き削いで。ひっかいて。』とある。されば、「ひつそひて」の読みの方がいいのかとも思ったが、岩波版本文では、『引きそひて』と補正しておられるので、「ひき」と読んでおいた。但し、エンディングの肝心のシーンのそれは、送り仮名は「かいて[やぶちゃん注:ママ。]」なので、快く、「ふつかいて」と読んでおいた。]

 

 㐧八 女の一念、來《きたつ》て、夫(をつと)の身を、引《ひき》そひて、取《とり》てかへる事

○丹刕(たんしう)の田邊に、さる商人(あきびと)あり。

 每年(まいねん)、「えちぜん」の「ふくい[やぶちゃん注:ママ。]」へくだり、半年(はんねん)ばかりづゝ、ゐては、上りけり。

[やぶちゃん注:「丹刕(たんしう)の田邊」高田氏の脚注に、『京都府舞鶴市中心部の古名。』とある。ウィキの「舞鶴市」によれば、『元来』、『この地域は「田辺」と呼ばれていたが、明治時代に山城(現・京田辺市)や紀伊(現・和歌山県田辺市)にある同名の地名との重複を避けるため、田辺城の雅称である「舞鶴城」より「舞鶴」の名称が取られた』。『田辺城が「舞鶴城」の別名を得たのは、城型が南北に長く、東の白鳥峠から眺めるとあたかも鶴が舞っている姿のように見えるからであるとされている』とあった。

『「えちぜん」の「ふくい」』現在の福井県福井市。]

 ある時、「たなべ」にある妻(つま)を、見がぎりすてゝ、「ふく井(ゐ)」に居住(ゐぢう)しける。

 何《いづ》れも、常に遊ぶ、「ちいん」[やぶちゃん注:「知音」。親友。]がた、うちよりて、さる女房を、ひきあはせけり。

 此男(をとこ)、此女に、ほだされ、国元(くにもと)の事を、露(つゆ)もおもひいだす事、なくして、うちすぎぬ。

 しかるに、「たなべ」にありける女房、夫、ひさしく、のぼらず、剩(あまつさへ)、「たより」だにも、なければ、

「とや、し給ふ、かくや、しつらん、」

と、あんじ、わづらふ所に、ある人、來りていふやう、

「其方は、「ふくゐ」のやうすは、いまだ、きゝ給はぬか。すぎつるはるのころ、さるかたより、にあはしき妻(つま)を、もちたれけるよし、ほのかに、きゝつる。しからば、たよりなきこそ、どうり[やぶちゃん注:ママ。]也。」

と申《まうし》ける。

 女房、此のよし、つくづく、きゝ、大きにおどろき、

「かく、あるべきとは、おもひもよらず。『今日(けふ)は、おとづれ[やぶちゃん注:「書信」。]、あらん、あすは、たよりを、きかん。』と、あけくれ、おもひ、くらしける、心のほどの、をろかさ[やぶちゃん注:ママ。]よ。さても、世中《よのなか》に、女の身ほど、はかなき物は、なし。たとい[やぶちゃん注:ママ。]、『ふくゐ』に、とゞまるとも、それは、夫(をつと)のある事也。さりながら、我は、かほどまで、すてられんとは、夢にも、知らず。あら、口おし[やぶちゃん注:ママ。]や、はらたち[やぶちゃん注:「腹立ち」。]や、」

と、おきふし[やぶちゃん注:「起き臥し」。]ごとに、「しんい」[やぶちゃん注:「瞋恚」。怒り怨むこと。]の「ほむら」[やぶちゃん注:「焰(ほむら)」。]をこがしける。

 いちねんの𢙣鬼(あくき)となり、「ふくゐ」へ、ゆき、よなよな、夫を、せめける。

 おそろしといふも、をろか[やぶちゃん注:ママ。]なり。

 かの㚑(れう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])の來らんとては、大きに「やなり」して、いづくともなく、きたつて、夫のまへに、ひざまづき、ちのなみだを、ながし、ひたもの、うらみを、いひては、つく「いき」をみれば、まさしく、ほのほをはきけり。

 夫、せんかたなくて、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、みこ・山ぶすをよびて、いのりするといへども、かつて、其《その》しるし、なし。

 ある「ちしき」のいはく、[やぶちゃん注:「ちしき」。「知識」。善知識。徳の高い僧。]

「さやうに㚑(れう)の來《きた》るには、「きやうかたびら」を、きて、ふし給はゞ、別の「しさい」、あるまじ。とてもの事に、それがし、かきて參らせむ。」

とて、そくじに、あそばし、たびけり。

 日《ひ》、くるれば、かの「かたびら」を取《とり》て、うちかづき、ふしける。

 㚑(れう)、來《きたり》ては、この「かたびら」にをそれ[やぶちゃん注:ママ。]て、ちかづかずして、とをく[やぶちゃん注:ママ。]ひかへて、たゞ、うらめしげに、うちながめて、また、

「はらはら」

と、なきて、かへる。

 

Ikiriyo

[やぶちゃん注:第一参考底本はここ、第二参考底本はここ後者の妻の生霊(いきりょう:彼女は生きている(亡くなったという語りは、どこにもない)から、この「妄㚑」は生霊である)の頭の上に烏帽子のような形があるもの、及び、彼女の持ち物のような太刀・長刀(なぎなた)、吹き出す(垂れるほうではない)血糊は、総て、落書であるので、注意されたい。彼女は、一般に死者を示す例の額の三角の巾、「天冠」(てんかん・てんがん:地方により「頭巾」(ずきん)」「額烏帽子」(ひたいえぼし)「髪隠し」等とも呼ぶ)をつけているが、だからと言って、彼女が死霊(しりょう)であるわけではない。謂わば、生きている彼女が、夫を怨んで、自らの霊を引き出し、夫の元へ、恨みを成就するためには、自ら、生きながら、「天冠」を装着することで、それを行使することが出来ると言えるのだ、と私は思うのである。なお、第二参考底本では、この「天冠」に明確に「シ」の字が書かれてあるのだが、これは、私は落書小僧(実際には、今までの落書の上手さや、書き放題の落書の内容が、相応に本文から離れて、ちょっと憎く――時にはセクシャルな内容かとも思われるものがあった――書けているのを考えると、青年の可能性が高いと考えている)の書いたものと考えている。但し、岩波版でも、中央に有意な「●」があるように見え、第一参考底本のそれでも、「●」はあるように見える。但し、「シ」ではないと思う。そもそも、ここに何かを書くこと自体、まず、私は見たことがない。絵師は、謂わば、この彼女が、実体ではなく、生霊であることを示すためのサーヴィスで、「天冠」を書いてしまったのではないかと思っている。或いは、絵師は出来上がったものを眺めて、死霊に見えてしまうことに気づき、敢えて、中央に「●」を打って差別化したと、解釈出来ようか、とも思われた。

 

 夫、

『うれしき事。』

に、おもひしが、ある時、ゆだんして、ふしたるうへに、そと、置きて[やぶちゃん注:着ずに、ちょっと体にひっかけておいたままで。]、よねんなく、ねけるが、件(くだん)の㚑(れう)、きたつて、「うらみ」、かずかず、いひ、

「あら、にくや、」

といふこゑ、耳に、つきとをり[やぶちゃん注:ママ。]て、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

「はつ。」

と、おもひて、見れば、あたりに、血、ながれけり。

「こは、いかに。」

と、いひて、我身を見れば、ゆんで[やぶちゃん注:左手。]のもゝ[やぶちゃん注:「腿」。]を引《ひつ》かいて、ゆきぬ。

 はじめの程は何(なん)ともなかりしが、次㐧に、いたみ、出《いで》て、いくほどなくして、死(しに)けり。

 『にくし。』と思ふ一念、來(きた)りて、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、をつとを、殺しけり。

「此はなし、僞(いつは)りなき。」

よし、「大せいもん」[やぶちゃん注:「大誓文」。既出既注。]にて、「ふくゐ」の人の、かたりける。

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