平仮名本「因果物語」(抄) 因果物語卷之六〔六〕石佛のばけたる事 / 平仮名本「因果物語」(抄)~了
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を見られたい。この回の底本はここから。次のコマの右丁に挿絵がある。挿絵には、右上方に枠入りで「京さかもと町」というロケーション・キャプションが書かれてある。また、最後に語られる「水筒桶」も左下方に描かれてある。現在の京都御苑の南直近の中京区坂本町(さかもとちょう:グーグル・マップ・データ)。冒頭、「同じ京の」とするが、これは、前話「因果物語卷之六〔五〕狐產婦の幽㚑に妖たる事」が、同じく京都をロケーションとしていたからである。
なお、本篇を以って、平仮名本「因果物語」(抄)を終わる。]
因果物語卷之六〔六〕石佛(いしぼとけ)のばけたる事
おなじ京の坂本町に、牢人(らうにん)の侍りしが、よそへ、ゆきて、夜《よ》ふけて、かへりしに、雨、すこしふりて、又、はれたり。
からかさを、かたげて、橫町(よこ《まち》)の小門《こもん》をとをり[やぶちゃん注:ママ。]しに、門の上のかもゐ[やぶちゃん注:「鴨居」。但し、この場合は、横町の入り口に設けられた防犯用の大木戸の脇の通用の潜り門の上の横梁を指す。]に、からかさ、
「ひし」
と、とりつきたり。
『ふしぎ。』
に、おもひて、ひけども、ひけども、はなれず。
やうやう、ひきとりて、家にかへりて、みれば、からかさの「かしら」を、つかみまくり侍り。
[やぶちゃん注:「かしら」唐傘の頭頂部の骨の結集部は単に「頭・天」(ともに普通は「あたま」と読む)・「天上」、或いは、それらに「轆轤(ろくろ)」をつけて呼称した。
「つかみまくり侍り」頑丈な「あたま轆轤」が、根こそぎ、剝ぎ取られてれて御座った。]
此のおとこ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、
「くちおしき[やぶちゃん注:ママ。]事かな。『ばけ物に、「からかさ」、とられたり。』と、人にわらはれんも、はづかし。今、一度、行《ゆき》て、ためしに、せん。」
と、おもひ、刀《かたな》・わきざし、よこたへて[やぶちゃん注:しっかりと帯刀して。「家に置いて」ではない。異変にそんな物騒な軽装では行かない。]、ゆきければ、なには[やぶちゃん注:ママ。「なにかは」の脱字であろう。]しらず、長《たけ》九尺ばかり[やぶちゃん注:約二・七三メートル弱。]の、大入道《おほにふだう》、出《いで》て、かいなを、とらへて、ねぢあげ、兩(りう[やぶちゃん注:ママ。])こし[やぶちゃん注:腰に帯刀していた二本差し。]を、もぎとり、つきはなして、かきけすやうに、うせにけり。
このおとこ、兩こしを、とられ、ちからなく、家にかへり、わづらひつきて、卅日《さんじふにち》ばかり、なやみけり。
その夜のあけがた、橫町(よこまち)の水筒桶(すいどうをけ)の上に、「十《じふ》もんじ」にして、のせて有《あり》けり。
其後も、たびたび、あやしき事共《ども》の有《あり》しが、
「水桶(《みづ》をけ)の下に、年久しき『石ぶつ』を、しきて、おきたりし。さだめて。此の、わざにや。」
とて、ほりおこして、「大炊(おほゐ[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「おほひ」が正しい。])の道場(どうぢやう)」へ、おくり侍りし。
「それよりのちは、何事も、なかりし。」
と、嶋(しま)彌左衞門(やざゑもん)、物がたりなり。
[やぶちゃん注:「大炊の道場」岩波の高田先生の脚注に、『中京区大炊町にあった浄土真宗聞名寺をさす』とあった。平凡社「日本歴史地名大系」の「大炊道場跡」「おおいどうじようあと」によれば、京都市中京区の旧銅駝(どうだ)学区の行願寺門前町にあった大炊道場跡は、『寺号を』聞名寺(もんみょうじ)『と称し、時宗遊行派の道場であった。貞享二年(一六八五)刊の「京羽二重」は』『、その場所を「京極ゑひす川」と記す。「山城名勝志」は京極』『東春日(かすが)南とするが、貞享三年の京大絵図は』、『現京都市中京区行願寺門前(ぎようがんじもんぜん)町辺りに描く。大炊道場は、もと大炊御門大路北、室町』『西(現中京区)にあって、今に道場町の町名を残す。この地は光孝天皇の小松』『殿跡と伝え、道場内に光孝天皇の位牌石塔などがあった』とある。現行の同寺は、京都府京都市左京区東大路仁王門上る北門前町のここ(グーグル・マップ・データ)にあり、サイト「京都風光」のこちらに詳しい。
これを以って、私の怪奇談蒐集の道程の半ばを過ぎた感が、今、している。]
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