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2024/07/15

「疑殘後覺」(抄) 巻三(第三話目) 人玉の事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]

 

巻三(第八話目)

   人玉《ひとだま》の事

 いかさま[やぶちゃん注:副詞で「全く以って・確かに・本当に・実際」などで、意味があるというよりも、語りの発語として「さてもまた」と言った感じであろう。]、人の一念によつて、「しんい」[やぶちゃん注:「瞋恚」。仏教で三毒十悪の一つとする「自分の心に逆らうものを憎み怒ること」。]のほむらと云《いふ》ものは、有るに儀定たる[やぶちゃん注:ならわしとして確かに存在するものとされていること。]由、僧俗ともに、その說、おほし。

 しかれども、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]目に見たる事のなき内は、うたがひ、おほかりし。「がんぜん」にこれを見しより、後生《ごしやう》を、ふかく、大事に、おもひよりしなり。

 これとひとつ事に思ひしは、人每《ひとごと》に人玉といふものゝ有《ある》よしを、れきれきの人、歷然のやうにの給へども、しかと、うけがたく候ひしか[やぶちゃん注:「確かに存在するとは、受け入れがたく感じている者もあるであろうかとは思われる。」。]。

 北《ほく》こくの人、申されしは、越中の大津の城とやらむを、佐々内藏介《さつさくらのすけ》、せめ申されしに、城にも、つよく、ふせぐといへども、多勢のよせて[やぶちゃん注:「寄せて」ではなく、「寄せて」と私は採る。]、手痛くせめ申さるるゝほどに、城中、弱りて、すでに、はや、

「明日は打死《うちじに》せん。」

と、おゐおゐ[やぶちゃん注:ママ。後半は底本では踊り字「〱」。「追ひ追ひ」。]、「いとまごひ」しければ、女・わらんべ、なきかなしむ事、たぐひなし。まことにあはれに見えはんべりし。

 かゝるほどに、すでに、はや、日もくれかゝりぬれば、城中より「てんもく」[やぶちゃん注:天目茶碗。口径は十一~二十一センチメートルだが、通常は十三センチメートル前後が多い。掌に載る大きさである。]ほどなるひかり玉、いくらといふ、數《かず》かぎりもなく、とびいでけるほどに、よせしゆ[やぶちゃん注:「寄せ衆」。]、これをみて、

「すはや、城中は、「しによういゐ」[やぶちゃん注:ママ。「死に用意」。]しけるぞや。あの人玉のいづる事を、みよ。」

とて、われもわれも、と見物したりけり。

 かゝるによりて、

「『かうさん』して、城をわたし、一命をなだめ候やうに。」

と、さまざま、あつかひをいれられければ[やぶちゃん注:降伏開城についての種々の条件交渉を示してきたので。]、内藏介、此《この》義にどうじて[やぶちゃん注:「同じて」。同意して。]、事、とゝのふたり。

「さては。」

とて、上下《かみしも》、よろこぶ事、かぎりなし。

 かくて、その日も暮れければ、きのふ、とびし人玉、又、ことごとく、いづよりかは、いでけん、城中、さして、とび、もどりけり。

 これをみる人、いく千といふ、かずをしらず。

 ふしぎなることども也。

[やぶちゃん注:「越中の大津の城とやらむを、佐々内藏介《さつさくらのすけ》、せめ申されし」「大津の城」「大津」は「魚津」の誤り。現在の富山県魚津市内にあった平城。「小津城」の別名があったので、それを誤認したか。講談社「日本の城がわかる事典」によれば、建武二(一三三五)年に、『椎名孫八入道によって築城されたと伝えられている。室町時代の越中国守護の畠山氏に仕え、越中の東半分を勢力下に収めた守護代の椎名氏の居城・松倉城の支城となった。戦国時代、椎名康胤は越中国西部を領有する半国守護代の神保氏の攻勢により苦境に立った際、越後の上杉謙信の傘下に入ることで危機を逃れた。その後、康胤は謙信から離反して越中の一向一揆衆と手を結び、甲斐の武田信玄に与した。このため、椎名氏は謙信に攻められて越中から追放され、魚津城には謙信の部将河田長親が城代として入城した。その後、越前と加賀を制圧した織田信長の軍勢が越中に侵攻し』、天正一〇(一五八二)年には、『越後の前線拠点となった魚津城を舞台に』、『柴田勝家率いる織田方の大軍との間に激戦が繰り広げられた』(「魚津城の戦い」)。『攻城戦が始まって間もなく城は落ちたが』「本能寺の変」が『起こり、信長が討ち死にしたことから』、『織田軍は撤退し、上杉勢により』、『奪回された。翌』天正一一(一五八三)年、『魚津城は態勢を立て直した佐々成政』(ここに出る「佐々内藏介」(天文五(一五三六)年~天正一六(一五八八)年:安土桃山時代の武将。尾張出身。織田信長に仕え、朝倉義景攻略や石山本願寺の一向一揆へ攻撃を行い、越中富山を与えられた。しかし「本能寺の変」後は、豊臣秀吉と対抗し、「小牧・長久手の戦い」で降伏した。秀吉の「九州征伐」後、肥後の領主となったが、秀吉に、失政による肥後一揆の責任を咎められ、切腹を命じられた。なお、彼の通称は「内藏介」ではなく、「内藏助」である)『により』、『再び包囲され、須田満親は降伏して開城。上杉氏による魚津城の支配は終わり、富山城を居城とする成政の持ち城となった。その後、成政は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と対立して、秀吉に攻められ、越中における基盤を失い、肥後国(熊本県)に国替えとなった。成政が去った後、魚津城は前田氏の持ち城となり、青山吉次などが城代をつとめたが、元和の一国一城令により廃城となったとみられている。しかし、加賀藩は城を破却することなく、松倉城同様、米蔵や武器庫として利用し、城郭としての機能を存続させた。城跡には、明治の初めごろまでは堀や土塁などが残されていたが、現在、遺構はほとんど失われてしまっている。城跡は大町小学校(本丸跡)や裁判所などの敷地となっている』とある。魚津城跡はここ(グーグル・マップ・データ)。]

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