「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷三 㐧五 身をうり母をやしなふ事
[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]
㐧五 身をうり、母を、やしなふ事
○寬永年中(くわんゑいねんぢう)の事か、とよ。
其比(《その》ころ)、世間、きゝんにて、うらうら、さとさとまでも、おほく、うヘ死(じに)けり。
[やぶちゃん注:「寬永年中」「きゝん」となると、寛永一七(一六四〇)年から同二〇(一六四三)年にかけて発生した江戸初期最大の「寛永の大飢饉」である。委しくは、当該ウィキを見られたいが、そこに、寛永十八年の『初夏には畿内、中国、四国地方でも日照りによる旱魃が起こったのに対し、秋には大雨となり、北陸では長雨、冷風などによる被害が出た。その他、大雨、洪水、旱魃、霜、虫害が発生するなど』、『全国的な異常気象となった。東日本では太平洋側より日本海側の被害が大きく、これは後の』「天保の大飢饉」に『似た様相であ』った『という』。『不作はさらに翌』十九『年』『も続き、百姓の逃散や身売など飢饉の影響が顕在化しはじめると、幕府は』、漸く、『対策に着手した。同年』五『月、将軍徳川家光は諸大名に対し、領地へおもむいて飢饉対策をするように指示し、翌』六『月には』、『諸国に対し』、『倹約のほか』、『米作離れを防ぐために煙草の作付禁止や身売りの禁止、酒造統制(新規参入、在地の酒造禁止および都市並びに街道筋での半減)、雑穀を用いるうどん・切麦・そうめん・饅頭・南蛮菓子・そばきりの製造販売禁止、御救小屋の設置など、具体的な飢饉対策を指示する触を出した』。しかし、『寛永』十九『年末から翌』二十『年』『にかけて餓死者は増大し、江戸をはじめ』、『三都への人口流動が発生した。幕府や諸藩は飢人改を行い、身元が判別したものは各藩の代官に引き渡した。また』、『米不足や米価高騰に対応するため、大名の扶持米を江戸へ廻送させ』、三『月には田畑永代売買禁止令を出し』ている。『大飢饉の背景としては』、一六三〇『年代から』一六四〇『年代における東アジア規模での異常気象のほか、江戸時代初期の武士階級の困窮、参勤交代や手伝普請、将軍の上洛や日光社参などのように、武断政治を進めるための幕府や藩の多額の出費、年貢米を換金する市場の不備など』、『様々な要因が挙げられる』。『幕府は武士の没落を』、『驕りや奢侈によるものととらえ』、「武家諸法度」『などで倹約を指示していた』。而して、『武士の困窮は』、『百姓に対するさらなる収奪を招き、大飢饉の下地になったと言われる』とあった。]
みのゝ国[やぶちゃん注:現在の岐阜県南部、及び、愛知県の東北の、ごく一部。]に、まづしき母子、ありけり。
もとより、たよりもなきものどもにてありければ、
『かゝる世にありて、うへ死(じに)、又は、乙食(こちじき)し、心うき事を、みんよりは、身をうりて、母をたすけばや。』
と思ひて、母に、此《この》やうを、ひそかにかたる。
母、聞《きき》て、
「一人、もちける子、也。ことに、かうかう[やぶちゃん注:「孝行」。]の心ざしありければ、片時(へんし[やぶちゃん注:平安後期以降より、あり、のちのちまで、清音であった。])も、かれ[やぶちゃん注:娘を指す語り手の第三人称。]に、はなるゝ事を、かなしめり。
「縱(たとひ)、かつゑ[やぶちゃん注:「餓ゑ」。]、しするとも、なんぢとともに、はつ[やぶちゃん注:「果つ」。]べき。」
と 母、ゆるさねば、ちからなく、しかれども、
『今、一たんのなげきありて、わかるゝ共、命あらば、又も、母にあひもやせん。』
と、おもひさだめ、母には、ふかく、かくし、身をうりしあたい[やぶちゃん注:ママ。]を、母に、わたし、なくなく、わかれ、あづまのかたへぞ、ゆきける。
[やぶちゃん注:「一たん」第一参考底本では、『一だん』であるが(右ページ後ろから二行目上方)、第二参考底本では、『一たん』である(左丁後ろから七行目行頭)。後者の改題本は、かなり、多く、濁点を打っていないものの、ここは、「一段」では、いかにもおかしい。ここは「一旦」であろう。されば、後者を採用して清音とした。]
されども、下野國(しもつけのくに)[やぶちゃん注:現在の栃木県。]のなにがしといふものゝ手へ、買(かい[やぶちゃん注:ママ。])とられ、數日(すじつ)を、をくる[やぶちゃん注:ママ。]ほどに、はや、三、四年ぞ、くらしける。
されば、世の中の人には、おもひ、たへやらず。[やぶちゃん注:この一文、私は、どう訳したらいいか、判らない。識者の御教授を乞うものである。単に、「そんなわけであるから、世間の普通の人々には、想像だに出来ない(辛い)年月であった。」というのなら、「たへやらず」は、私には不適当な気がする。そもそも、この娘、以下を見れば判る通り、所謂、苦界に落ちたのではなく、非常な分限者に、下女として売られたのであるからして、大上段に構えた謂いは、ますます合わないのである。]
此主人と申《まうす》は、國中(くにぢう)に其名を得る「うとく人(じん)」なりといへども、五十にあまるまで、世繼(よつぎ)なく、此事を、心うくおもひ、養子を尋《たづぬ》るに、思ひのまゝならず、有(ある)は、心を、しらず。[やぶちゃん注:「最後の一文は、「或(ある)は、主人が心(の内なる、其の不滿なる)心を、(誰(たれ)も)知らず。」の意であろう。たいそう金持ちの余裕に満ちている主人が、実は、世継ぎのないことを、激しく悩み、苦しんでいるなどとは、思わない、ということであろう。或いは、跡継ぎのないことは、普通に知れるのであるから、『いい気味だ!』と、内心、舌を出している意地悪い連中もゴマンといることは言うまでもない。]
「とやせん、かくや、」
と、あんじ、ふうふ、たがい[やぶちゃん注:ママ。]に心を合せ、かの買(かい[やぶちゃん注:ママ。])とりたる「わつぱ」[やぶちゃん注:「童」(わっぱ)で、「年少の奉公人」のこと。子供を卑称する語からの転。]を、「やうし」に、しける。
其年も暮(くれ)、あくる春にもなれば、母のゆくゑを、たづねんため、下人、せうせう、うちつれ、二たび、古鄕(こきやう)へ、かへり、母のあり所を、たづねもとめ、たいめんし、
「下野へ、ぐして、かへり侍る。」
と申傳(《まうし》つた)ゆなり。
すぢなきものが、かくのごとく成《なる》事は、「親かうかう」の「實(まこと)」、あるいは、「いはれ」なるべし。古今(ここん)にいたるまで、たれか、是を、あらそはん。
[やぶちゃん注:本書の道話的性質上、仕方がないが、この最後の添え書きも、えらく事大主義的な物言いに過ぎ、孤独にタイピングしている私は、逆に、かなりシラケる感じがする。]
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